散歩をする 218 瀬田川から信楽へ

岡山から広島の散歩から帰って数日後、3月初めの頃にみどりの窓口でチケットを購入しました。普段なら少なくとも数人ぐらいは待つのに、誰もいません。さらに京都駅での飲み物の引き換え券までいただきました。ひっそりした京都の様子が、ニュースでも伝えられていた時期でした。

 

6時23分品川発ののぞみ3号に乗りました。いつもだと窓側はほとんど人が座っている時刻なのですが、自由席もガラガラ、指定席は1車両に数人でした。

京都で降りて、そこから琵琶湖線滋賀県の石山に戻ります。1月に泊まった大津に今夜も泊まる予定にしていたのですが、新幹線でその大津をすぎ、そしてまた京都から同じ道を戻るように大津の前を通過して石山に向いました。やはり大津というのは京都に近いのですね。

 

瀬田川沿いに大石まで*

 

石山駅からじきに瀬田川沿いに出て、バスは河畔沿いを走ります。晴天でキラキラと輝く水面に白の水鳥の姿が映え、そして大学生のレガッタのチームが練習をしていました。この辺りはまだ水の流れもゆったりとしています。

南郷洗堰を過ぎ、大戸川との合流点をすぎると、両側の山が近づき渓谷の様相になりました。

大きな岩肌が見え、河床の岩が露出した場所を、先ほどまでと同じ水とは思えない川の流れになり、大石に到着しました。この風景が、「大石」の地名の由来だったのでしょうか。

左岸から信楽川がこの大石で合流しています。

 

瀬田川の川沿いを歩き、近くの佐久奈度神社を訪ねてみました。渓谷のような場所から少しひらけて、ちょうど信楽川との合流付近の少し高い場所に建っていますから、このふたつの水がぶつかり合うのを治める水の神様かと思いました。「天智天皇8年(669年)勅願により」とさらりと書いてあり、歴史の長い神社のようです。

ところが、神社のHPを読むと、天ヶ瀬ダム建設により現在の場所に移転したようです。

現境内地は昭和39年に下流天ヶ瀬ダム建設に伴い、旧境内地が水没し移転したもの 

 ここから7~8km下流天ヶ瀬ダムがあります。

 

瀬田川とはどこまでを指すのだろうか*

 

1月に琵琶湖とその流出河川である瀬田川を訪ねたことで、この川についての知識が増えました。淀川水系についてもだいぶ頭の中で思い浮かべられるようになりました。

 

ところが、琵琶湖から始まる瀬田川はどこまでで、どこからが宇治川なのだろうと地図を眺めていると、案外わからないものです。

この大石から3kmぐらい下流に行くと、川の真ん中に府県境が敷かれている区間が3kmほど続いています。

左岸側の川の半分は瀬田川で、右岸側は宇治川と呼ぶのでしょうか?

川の中の境界線が気になっています。

 

信楽川沿いに信楽駅へ*

 

瀬田川を中心にした大石ですが、山間部の小さな町かと思ったら、スポーツセンターがあってテニスをする人たちで賑わっていました。

 

大石小学校前の停留所から甲賀市のコミュニテイバスに乗り、信楽駅へ向かいました。

地図で見ると20kmぐらい離れている場所をつないでいるバスです。

バスに乗った頃から、それまで晴天だったのがポツリポツリと雨が落ちてきて、しばらくすると本降りになりました。山が近いと天候が変わりやすいですね。

信楽川に沿って山の方へと入っていきます。途中、朝宮茶の看板が立っていて、お茶が栽培されていました。この辺りが分水嶺のようです。

 

信楽川といっても、信楽駅のあるまちの中心部には向かわず、瀬田川の方へと流れているようです。分水嶺を超えると、途中からまた川のそばをバスが走るようになりましたが、この川は北部の山あいを迂回するように流れて、あの大戸川に合流して瀬田川へと流れるようです。

琵琶湖周辺の河川の流れは単純ではないですね。

 

しだいに道路沿いに狸の置物が増えて、観光客らしき人の姿も増えてきました。50分ほど、300円のコミュニテイバスの旅でしたが、瀬田川の支流を見ることができました。

陶芸のお店はちょっと素通りして、信楽駅周辺の川を眺めてから信楽線に乗りました。

 

 

同じ頃、ブラタモリ甲賀市について放送していました。偶然にうれしくなりながら、録画しておいたものを帰宅してから見たのでした。そういう視点があったのかと、いつも勉強になる番組です。

 

 

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散歩をする  217 琵琶湖と瀬田川と琵琶湖疏水を見に

1月中旬にただひたすら湖と川を見に出かけましたが、そのあと地図を眺めていたらやり残した宿題がたくさん出てきました。

 

瀬田川流域を回る*

まず琵琶湖からの唯一の流出河川である瀬田川をながめていたら、その流域を見てまわりたいと思い始めました。

ただ、公共交通機関が途中までしかないので、天ヶ瀬ダムのあたりまで川沿いに行くのは不可能そうです。

 

途中の大石小学校前というあたりまで行き、そのあとバスを乗り継ぐと信楽駅までのバスがあるようです。瀬田川の支流である信楽川沿いに山あいの町を通過し、分水嶺を超えると今度は、信楽線と並走する大戸川は途中から北へと流れを変え、この川も瀬田川へ合流します。

さらに信楽線でまた別の分水嶺を超えると杣川が流れ、この川は琵琶湖へ流入する野洲(やす)川の支流です。

琵琶湖からわずか10km四方ぐらいの地域なのに、琵琶湖に流入したり、瀬田川の支流だったりと、水の流れを追うだけでも瀬田川改修の歴史をもう少し見て見たい、また訪ねてみたいと思いました。

 

瀬田川から宇治川へ、宇治川から淀川へ*

 

瀬田川をせき止める天ヶ瀬ダムのわずか1.5kmほど下流に、宇治平等院があります。

中学の修学旅行で京都・奈良を訪ねたときに、宇治平等院も行きました。周囲にあまり建物がなくて、宇治平等院を映し出す池と近くの川、そして水田地帯を見たようなかすかな記憶があります。

あの川が宇治川で、その近くに大きなダムがあったとは。もう一度、この目で見てみたいと思いました。

 

宇治川を地図でたどると、木津川との合流するあたりに用水路が広がっている地域が目に入りました。「新田」とついた地名もあります。干拓地に違いない、もしかすると記憶にある水田地帯はこの辺りだったのだろうか、ここを歩いてみたいと思いました。

宇治市歴史資料館のHPを読んで、ここが巨椋池(おぐらいけ)という広大な池であったことを知りました。

 

その近くには木津川、宇治川桂川が合流し淀川になる場所があります。

そこも歩いてみたいと思いました。

 

琵琶湖疏水

 

1月に訪ねたときには、琵琶湖疏水取水口から山科のトンネルまでを見たのですが、いつか琵琶湖疏水記念館のあたりを歩いてみたいと思って帰ってきました。

 

地図を眺めているうちに、一泊二日で、この瀬田川流域から巨椋池、そして琵琶湖疏水を回るコースが出来上がりました。

 

でも1月も遠出をしたし、2月も2泊3日の遠出を計画していましたから、さすがに数ヶ月後ぐらいかなと思っていたのですが、岡山・広島から戻って数日後にはチケットを購入。10日後の3月に入ってから出発しました。

今を逃したら、おそらく半年とか1年で旅行もできないかもしれない。

そんな情勢になってきました。

 

ということで、しばらくまた不定期にこの記録が続きます。

 

 

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水の神様を訪ねる 6 氷川台から氷川町へ

2月中旬、マスクが店頭から無くなり始めていましたが、まだこれから日本国内に感染が広がっていくのか大丈夫なのかと先が読めないままニュースを追っていた時期でしたが、休日にはまだあちこちへ出かけていました。

 

梅が咲き、日も長くなってきた2月中旬に水の神様を訪ねましたが、その記録がまだでした。

地図で氷川神社を探していた時に、ここは是非とも訪ねなければと思っていたのが、その名も「氷川台」です。

有楽町線の駅名で知っていたのに、まだ降り立ったことがない場所でした。

近くを石神井川が流れています。今回はその石神井川に沿って、板橋区の氷川町まで歩いてみました。

 

水の神様と関わりが深そうな地名がつながりました。

 

石神井川左岸側を歩く*

 

石神井駅を出て右側へと歩き始めると、最初の信号の向こうが河岸段丘で高くなっているのがわかりました。

そこを左へ入ると、一つ目の氷川神社です。石神井川から200mほどのところにあるのですが、高台にありました。

境内には大きな木があり古くからある神社のようですが、由来が書かれたものは見つけられませんでした。境内では梅が満開になり始めていて、猫がいました。

 

神社を出て、河岸段丘を上るように歩き城北公園の方を目指しました。地図ではわかりにくいのですが、氷川神社に近い道路は城北公園通りよりもさらに一段高いところにあり、案外複雑な地形です。

昔ながらの魚屋さんとか、武蔵野の面影のある大きな農家の住宅があり、半世紀前の風景の記憶が感じられる場所です。

東京少年鑑別所があり、道路をはさんで広がる城北中央公園は、石神井川河岸段丘を利用した傾斜地になっていました。東京少年鑑別所が開設されたのは1949年(昭和24)とありますが、その当時はこの辺りはまだ農地と雑木林しか無くて、石神井川がしばしば氾濫していた頃でしょうか。

 

公園内を抜けて、石神井川左岸の遊歩道に沿って歩きました。公園の対岸はあまり高い場所はなく浸水しやすかったのでしょうか、貯水施設の工事中でした。

しばらく歩くと今度は右岸側の方が少し小高い場所になり、こちら側には雑木林が残された児童公園が広がっていました。その下は、災害時のための貯水タンクがあるそうです。

 

ホトケノザやピンクのカタバミなど早春の花が咲いていました。

半世紀ほど前にはドブ川で、浸水の多かった石神井川が、こんなにのどかに蘇っているのかとちょっと感無量です。

 

板橋区内の石神井川氷川神社

 

公園から200mほど歩くと上り坂になり、その上に板橋区東新町氷川神社がありました。

静かな住宅地に、やはり大きな木が鬱蒼とした境内がありました。鮮やかな紅梅が咲いていて、ここにも猫がいました。挨拶をして神社をあとにしました。

 

昔の参道だったのでしょうか、小さな商店街を抜けて石神井川の遊歩道に戻りました。

残念ながら環七のところでその遊歩道は寸断されていて、歩行者はちょっと迂回を余儀無くされました。

 

しばらくはコンクリートで護岸された石神井川に沿って、両岸とも平地の比較的まっすぐな遊歩道を歩きました。

ずっと歩いたのでちょっと疲れたところ、上板橋第一中学校の校庭のそばに遊歩道の椅子がありひと休み。放課後の校庭で、賑やかにサッカーをしている声が聞こえました。

あの頃は、まさか2週間後に休校になるなんて誰も思っていない時期でした。

 

一息ついて、今度は石神井側の右岸側の遊歩道を歩きました。東武東上線の線路下をくぐると、桜の並木が遊歩道沿いにあります。桜はまだ固い蕾でしたが、沈丁花の香りが漂っています。

意匠を凝らした橋がいくつかあって、その橋の通りごとに商店街が伸びていました。

あとで地図で見ると、環七と中山道の交差点に近い場所でした。きっと、昔から賑やかに栄えていたのかもしれませんね。

 

しばらく両岸ともに平地でしたが、次第に傾斜が出てきて、最後の目的地の氷川町の氷川神社が近づいてきました。

地図では手前に水色の部分が描かれているのですが、おそらく氷川神社の建つ少し高い場所から小さな谷津のように湧き水が出て、石神井川に流れていたのだろうと思える場所です。

現在は釣り堀があり、公園として区が管理しているようでした。

 

氷川町の氷川神社は、中山道に面していました。

国道17号線の大きな道路の上は首都高速が通り、地下は都営三田線が通って交通量の多い場所です。。

石神井川の流れが、この高台に挟まれた部分にぶつかる様子を想像すると、昔は中山道のこの箇所を渡るのは大変だったのかもしれないと想像しながら、池袋までバスに乗って戻りました。

 

 

左岸の環七沿いにももうひとつ氷川神社があるのですが、今回は時間が足りなかったのでまた次回ということになりました。

 

 

 

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数字のあれこれ 64 8.7mmと35g

そろそろ4年になる私の三代目のiPhoneでした。いつ壊れるのか、こんな感染症の大変な時に壊れたら面倒だな、でも春には待ちに待ったSEが発売されるかもしれないしと、ドキドキしながら使っていました。

あっさり4月には予約開始になり、すぐにオンラインで購入。先日、手元にiPhone SE(第二世代)が届きました。

うれしい!

 

で、開けてみたら、ちょっと大きいですね。

iPhone7や8と同じとのことで、保護フィルムやケースも兼用だそうです。

今までのSEだと123.8×58.6×7.6mmで、新しいものは138.4×67.3×7.3mmなので薄くなっているのですが全体に大きくなっています。特に幅の8.7mmの差、そこが旧SEの良さでもあったのですが、まあ、慣れるしかないですね。

 

重さも35g違うようです。普段の生活だと全く気にしない重さですが、持ち比べてみるとやはり重たく感じました。

幅が広がり、重さも少し重くなると、こんなに手への負担が変わるのかとちょっと驚きです。

 

でも、ホームボタンとタッチIDも復活したし、カメラもひとつだし、やはりこのiPhone SEのデザインが好きですね。

 

iPhoneを最初に使ったのがiPhone 4ですが、115.2×58.6×9.3mmで137gだったそうですから、旧iPhone SEと幅は同じでも24gも重かったのですね。

 

時々、写真やら記録が宇宙の果てに行ってしまうのですが(それは私の知識のなさゆえ)、データーが空の上に管理されたり、こんな手の中に収まる小さな機械で電話やパソコンと同じ機能を使いこなせる時代になるとは、10年ちょっと前には考えたこともなかったのでした。

 

特にiPhone4を使い始めた直後に起きた東日本大震災では、情報を得るのに本当に助けられました。

今では災害時に欠かせないインフラの一つですね。

 

今年はまたこんな状況で、新しいiPhoneを手にすることができて、最初に手にした頃の気持ちが戻ってきました。

 

 

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10年ひとむかし 66 医療機関と引き戸

高校生ごろに重厚な開き戸に憧れていたのですが、看護学生になってすぐに現実のものになりました。

学生寮も学校も、あるいは病院もあちこちが開き戸でした。まあ、北欧調ではなかったですけれど。

 

1980年代の病院はまだ大部屋が基本で、個室はVIPか重症、急変、感染症あるいは終末期の方に限られていたのですが、その個室には必ず重い開き戸がつけられていました。

大部屋の入り口はどうだったかというと、ちょっと曖昧な記憶になっているのですが、ドアはなくてカーテンだったような。

 

ドアがついている個室を巡視する時には、音を立てないようにそっと開けなければ患者さんを起こしてしまうので、ちょっと面倒な扉になりました。

 

*90年代に入ると引き戸が導入されるようになった*

 

90年代に入ると、あちこちで病院の建て替えの時期になりました。

新しい病院には、まず個室が増えました。希望で個室を選択できるようになったからです。

大部屋にも洗面台がついたり、ラウンジができてそこで食事や面会ができるようになったり、入院中の環境に「快適性」が加わりました。

 

その中で私にとって印象的なことは、引き戸が増えたことでした。

開き戸というのは、外側に開けるにしても内側に開けるにしても、向こうに人や物があるとぶつかりやすく、思わぬ事故になります。

また、ストレッチャーや車椅子での移動の時に、必ずドアストッパーを用意しておかなければ閉まってしまうという不便さがありました。

また、ドアノブを回すという動作ができにくい人もいます。

バリアフリーという意味で、引き戸を取り入れることになったのでした。

 

また開き戸に比べて、引き戸の方が音がせずに軽く開閉できますから、巡視の際のストレスも少なくなりました。

 

そして、同じ頃に院内感染標準予防策の考え方が導入され、「一手技一手洗い」や入り口のアルコール消毒などが広がりました。

引き戸の広がりもまた、それが影響していたのではないかと思い返しています。

 

今回の新型コロナウイルス感染症対策で、あの頃に引き戸にした病院施設は、もしかするとその効果を実感されたかもしれませんね。

ドアノブを掴んでドアを開けるというのは、感染症に対応するにはいろいろな意味でリスクと無駄がありますからね。

 

ただ、引き戸を導入するためには引き戸の収納部分の余裕が必要ですから、メリットは大きくても現実には狭い土地に建てるために諦めた施設もあるかもしれません。

90年代に病院設備に引き戸を取り入れた頃、どのような動きがあったのでしょうか。

歴史を知りたくなりました。

 

 

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10年ひとむかし  65 引き戸

あちこちを散歩していると、真っ黒な瓦と黒や白のはっきりした壁の家々茶色を基調にした家、あるいは木肌に黒い炭で模様をつけたような壁などに、思わず惹きつけられています。

 

この季節の、新緑に田植えの始まった水田とそうした家々が重なり合う風景は息をのむほど美しく、そしてどの季節の変化にも合って落ち着いた風景です。

 

また意外だった秋田郊外の北欧調の鮮やかな明るい色の壁も、案外と日本の風景に溶け込むものですね。

1970年代に憧れていたインテリア雑誌の中の北欧調の街並みが、半世紀ほど後の日本の各地でみることになるとは想像もしていませんでした。

 

 

*扉への気持ちの変化*

 

北欧調の家に憧れていたもうひとつの理由が、ドアでした。

それまで住んでいた家は、60年代前半に2年ほど住んだ真新しい集合住宅の官舎をのぞいて、すべての家の玄関が木の引き戸、部屋もふすまの引き戸でした。

高校生の時に両親が初めて建てた一戸建てに移った時も、私の部屋はドアノブがついた開き戸だったのですが、玄関は相変わらずの引き戸式だったことで、実はとてもがっかりしていました。

 

重い木の開き戸で、ドアノブについた鍵をカチャリと閉めることに憧れていたのでした。

 

今は当たり前のように毎日、あの憧れていた開き戸を開け閉めしてガチャリと鍵を閉めていますが、そうなるとほんと勝手なもので、今は引き戸に憧れています。

 

ふらりと散歩をした街で昔からの引き戸、特に格子戸が残っていると、ああこんな家に住みたいと思うのです。

 

半世紀もすると、人の気持ちというのはこんなにも揺れるものなのか と、扉ひとつにも感じています。

 

 

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散歩をする 216 牛窓へ

玉島の干拓地を見て倉敷に戻るのが正午ごろですから、岡山から広島の散歩の最終日はまだまだ時間があります。

計画の段階でどこへ行こうか何度も地図をみました。

 

新幹線で岡山県に入るとまず一本めの大きな川を渡るのですが、それが吉井川です。

この川を見ると、「ああ!岡山県だ!」とまるで自分の故郷に戻ってきたような気持ちになります。今回は断念した津山は上流にあり、いつかこの川の流域も訪ねてみたいものです。

新幹線の車窓からは山の合間から美しい川が見えるのですが、幾度となく大水害に見舞われてきたというWikipediaの説明が信じられない穏やかな川に見えます。

 

この吉井川、そして岡山市内を流れる旭川下流を見ると、そこも干拓地が広がっています。航空写真で見てもまだまだ水田地帯が残っているようです。

吉井川の左岸の河口付近に「水門町」「水門湾」と見つけ、この辺りを見てみたいと思いました。

ただ、交通手段がないので、残念ながら干拓地の北側を走るバスで遠目にみるしかなさそうです。

 

そのバス路線をたどっていくと、牛窓に行くようです。

子どもの頃から耳にしていた地名です。ただ、療養所のある地域はもっと遠く、別のバス路線でした。

 

散歩の最後はこの牛窓で瀬戸内海をぼっと眺めよう、と決まりました。

 

干拓地を抜けて牛窓へ*

 

午前中は少し歩くと汗ばむような暖かさでしたが、午後になると晴れているのに、冷たい風に変わりました。

岡山駅赤穂線を待つ間も、ちょっと凍えそうです。海沿いはもっと寒そうなので気持ちが揺らぎましたが、引き返すのはもったいないと決行です。

 

西大寺駅に降りて牛窓行きのバスに乗りました。吉井川を渡ると水田地帯が広がります。バスの左手は山肌に沿って集落があり、右手は広大な干拓地です。

しばらくすると上り坂になり、ため池や大きなお寺そして竹やぶと山あいの村の風景に変わりました。わずかな水田も見えました。どこから水を引いてくるのでしょうか。

 

しばらくすると下り坂になり、また海が見えはじめました。

小さな湾に沿って牛窓の街がありました。

 

行き当りばったりで歩いてみると、江戸時代からの街並みが残っている路地がありました。

牛窓港のあたりで、島が浮かぶ瀬戸内海を眺めているうちに、晴れていたと思ったら冷たい小雨も降り出して寒さも限界です。

予定より1本早いバスに乗って戻ることにしました。

 

コトバンク」の牛窓の解説を読むと、古くから港町として栄えていたのですね。

中心集落の牛窓神功皇后の征韓にちなむ伝説をもち、『万葉集』などにもみられる古い港町。西国航路の潮待ち港、風待ち港として発展。近世には岡山藩の重要港となり、一文字の波止がつくられた。寛永13(1636)年以来、朝鮮からの使節の停泊港。丘陵上の畑地では備前かぼちゃなどの野菜を産し、広大なオリーブ園もある。漁業も盛んで、近世は岡山藩の水主浦(かこうら)であった。

(ブリタニカ国際大百科事典)

 

東北側の錦海湾(きんかいわん)は1956年に約340ヘクタールの日本最大の塩田となったが1971年に廃された。(日本大百科全書(ニッポニカ))

 

そういえば、瀬戸内海の大きな塩田は教科書でも習った記憶がありますし、1960年代、子どものころに、親戚からも聞いたことがありました。

 

江戸時代からの新田開発や歴史が、少しずつ私の中で年表になってきました。

 

 

帰りのバスの車窓から、午前中に見た記憶のある水島工業地帯のような場所が遠くに見えました。

直線距離にして20数キロメートルですが、遮るものもなく見えたのでした。

そこで、方向感覚がおかしくなった理由がわかりました。

児島の親戚の家から水島工業地帯が左手に見えたのは、島と島の間で遮るものがなかったからだったのだと。

 

岡山はやはり島をつないだ干拓地によってできた土地なのだと、改めて感じた散歩でした。

今回の岡山から広島をまわった記録はここまでですが、思い返しているうちにまたまた行きたい場所が増えてしまいました。

困ったものです。

 

 

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散歩をする 215 玉島地区と干拓地

2月下旬の岡山・広島の散歩の記録の続きです。

笠岡から山陽本線で倉敷に到着しました。何度来ても、子どもの頃の楽しい気分が蘇ってくる、祖父母の街です。

 

まだ日没まで時間があったので、母の記憶を歩くことにしました。

倉敷駅から数分のところ、倉敷美観地区へ向かう左手に少し小高い場所があります。それが鶴形山です。子どもの頃からそのそばを通って祖父母の家に行っていたはずなのに、地形が頭に入っていなかったのか、私にはあまり記憶にないのです。

「あの鶴形山の上は見晴らしも良くて、美しい場所だった」とのことで、今回は訪ねてみようと思いました。

急な坂道を登っていくと阿智神社があり、境内の案内にこの周辺が安土桃山時代からの干拓によることが書かれていました。

 

倉敷のホテルから朝、いつものように暗いうちから街を眺めていました。

窓からは北側の山が見えたのですが、倉敷というのはこんなに山に近いところだったのだとちょっと不思議な感覚に陥りました。

あ、もしかして「岡山」というのはほとんど海岸沿いの岡や山しかなかったからではないかと、まるで鶴形山から海に浮かぶたくさんの小島を見たような気がしましたが、どうなのでしょう。

 

*玉島地域の干拓

 

最終日3日目は山陽本線で倉敷から新倉敷駅へ向かい、そこから玉島地区を歩きます。

計画の段階で、あの山陽新幹線の車窓から見えた水田地帯の四方から水が流れ込む玉島中央町に目が釘付けになりました。

干拓の歴史がわかりそうなここを歩いてみたい、そう思ってさらに地図で見ていくと、倉敷玉島歴史民族海洋資料館を見つけました。大まかな計画ができました。

 

新倉敷駅からバスに乗り、玉商グランド前で降りると、それまでは干拓地だったのだろうと思われる平地でしたが、目の前に水路がありその向こうは小高い場所で「玉島柏島」という地名です。その水路を上流へと向かうと、水田地帯からの何本もの用水路が合流した場所がありました。

 

そこから玉島中央町を東へと向かって歩くと、地図では大きな溜池のような場所があります。その近くにある玉島市民交流センターの中に、歴史民族海洋資料館がありました。

2月下旬で施設の休館や催し物が中止になりはじめていた時期でしたが、資料館には入ることができました。

Wikipedia玉島地域の年表を見ると、最初に見た「柏島」は「1183年(寿永2年)-乙島・柏島源平合戦・水島の戦い」があった場所のようなので、やはり海だったのでしょうか。

 

1624年(寛永元年)-  岡山藩により、七島や道越の新田開発が始まる。

1642年(寛永19年)-  水谷氏が備中松山藩藩主になり玉島東南部を支配に収め、長尾・船穂・玉島などの新田開発を始める。

1670年(寛文10年)-  阿賀崎新田が完成、その後、港の整備と街の形成が進み北前船の寄港地になる。 

 

いくつもの水路が合流していた場所の西側が「阿賀崎」で、その合流した水路の先が玉島港だということがつながりました。

そして現在は、玉島乙島の先に水島工業地帯があります。

 

資料室から大きな溜池沿いに歩いてみました。高速道路やショッピングセンター、住宅街が広がっていましたが、おそらく半世紀前には広大な水田地帯だったのだろうと思われる平坦な道を歩いて、駅の方へと戻りました。

 

高梁川河口近くをみる*

 

地図を見ていたら、玉島から高梁川を渡って対岸へ行くバスがありました。倉敷芸術科学大学行きのバスに乗ると、高梁川を渡ることができました。上流・中流にもまして水量の多い河口付近です。

昔はこのあたりは干潟が広がっていて、母は祖父や叔父と潮干狩りにきたことがあるそうです。ただ、本当はとってはいけない場所だったらしいと反省していましたが。

今は河口ぎりぎりまで水が流れていて、ちょっと想像がつかないものでした。

 

倉敷芸術科学大学は、歩くのは大変そうな小高い場所の上にありましたが、ここが「連島(つらしま)」です。やはり子どもの頃から時々耳にしていた地名で、ようやくつながりました。

 

このあたりでバスを乗り換えて、今度は水島工業地帯の近くを通って、倉敷駅へと戻りました。

子どもの頃の公害の記憶とは違って空もきれいで、街中をバスで走っていてもたまに大きな煙突が遠くに見えるくらいでした。

 

とここで、突然あの方向感覚を失う感じになりました。

たしか、子どもの頃に児島の親戚の家から見た水島工業地帯は、海に対して左側にあるように見えました。ということは新倉敷の方向ではなく岡山よりにあるように見えたことになります。

ところが、実際には正反対の方向に工業地帯があることに混乱したのです。

 

その謎が、最後の目的地の牛窓へ行ったときにわかったのでした。

 

 

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米のあれこれ 17 倉敷周辺の島々と干拓地

笠岡からは山陽本線に乗り、今日の宿泊地である倉敷へ向かいました。

しばらく山の間を走ると、平地が広がります。左手に新幹線の高架が見えて、新倉敷駅周辺の水田地帯をしばらく並走しています。

旅の最終日の午前中は、この辺りを歩く予定です。車窓からは、懐かしい半世紀前の祖父の家の集落のような家並みがあちこちに残っていて、倉敷よりはよほど倉敷の風情が残っていることに心が踊ったのでした。

 

*倉敷の島々と干拓地*

 

こちらの記事で下記の箇所を引用しました。

市内には児島、亀島山、玉島、連島など『島』のつく地帯が多く、それらの地域が地続きになって今の市域が形成されている。(『島』の付く地名は、かつて付近一帶が干拓される以前は島だった名残である)

 

たしかに、親戚の人たちが「〇〇島の誰々」と言った会話をしているのを子どもの頃からよく耳にしていたのですが、地形まで連想することはありませんでした。

祖父の田んぼが干拓地だと知ったときに、謎がとけた感じです。

 

一昨年はその干拓地の中でも、児島湾干拓地江戸時代からの干拓地周辺を歩いてみたのですが、知れば知るほど倉敷周辺は広大な干拓によってできた地域だということがわかりました。

 

今回はもっと倉敷の干拓地を歩いてみたいということと、その島々の間を埋め立てて広大な水田地帯にするためにかかせなかった高梁川下流域も歩いてみたいという課題がありました。

 

新倉敷と玉島*

 

一昨年、倉敷周辺の地図を頻繁に眺めるようになって、新倉敷駅の近くが「玉島」であることがはじめて繋がりました。そして、水島工業地帯が近いことも。

 

1975年に山陽新幹線が開通した時に「新倉敷駅」ができたのですが、倉敷の祖父母の家には岡山駅で下車して山陽本線に乗り換えて倉敷駅に行くことになるので不便でした。なんで新倉敷駅倉敷駅に造らなかったのだろうという長年の漠然とした疑問をそのままにしていました。

 

2月下旬に再び倉敷周辺を訪ねるその直前に、「新幹線EX 」という雑誌を購入したのですが、「「新」な駅を訪ねる」という記事が偶然にも「新倉敷駅」でした。

駅の観光案内に「倉敷」という文字がないことについて、その記事に説明がありました。

ここは新倉敷駅のはずだが、「倉敷」の2文字がまったくもって出てこない。なぜか。

答えは歴史を見ればわかる。新倉敷駅が開業したのは1891(明治24)年 で、当時は玉島駅という名称だった。1967(昭和42)年に倉敷市と合併するまでは玉島市。

 

子どもの頃の記憶では「玉島市」がまったくなくて、大人の会話から推察すると、当時の大人にすると「倉敷市」になった行政的な感覚よりは、やはり瀬戸内海に浮かぶ島が地名で、その間が次第に干拓地となっていくのが地理感覚として強く日常的でもあったのではないかと思うのですが、どうなのでしょうか。

 

ということで旅の最終日は、昔の島と島からできた干拓地を歩く計画です。

 

 

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陸にあがった河童の過ごし方

昨日、3月上旬に泳いだのが最後で、かれこれ2ヶ月ほど泳いでいませんと書いたあとで、記録を読み直したら最後に泳いだのは3月27日なので、正確には「6週間ほど泳いでいない」でした。

いやはや、記憶というのはいい加減ですね。まあ、こういう自分の失敗を記録するブログでもあるのでお許しください。

 

都内の公共プールが閉鎖になった時期は区によっても差があって、早いところでは3月から休場のところもありましたが、私が通っているプールはまだ開けてくれていました。「どうぞこのまま4月も泳げますように」と祈っていたのですが、3月25日の都の会見があった後、28日からの休場が決まったのでした。あの頃の感染者数の増加を考えれば、当然の対応だとあきらめました。

 

 

3月に入ると休校になった小中学生が、平日の日中にもたくさん泳ぎに来ていました。

ただ、夏場の混雑のカオスとも違っていました。

 

圧倒的に上手な、おそらくスイミングクラブで練習していたり、選手コースと思われるような小中学生が泳ぐので、2コースぐらいはそうした数人だけの独占状態になり、ほかの大半の人は混雑したコースで順番を待ちながら地味に泳ぐといった2極状態になっていました。

小中学生ですから「速い」といってもそれなりなのですが、4泳法のフォームがしっかりできていて、スポーツクラブの練習のぺースで泳ぐので、なんとなく周囲の大人の方が引いてそのコースは避けているという感じです。

 

公共のプールはいろいろな人がそれぞれのペースで泳いでいるのだからもう少し周囲を見ることができたらいいのにと、正直なところ最初は感じていました。でも学校が突然休校したり、目標にしていた大会が無くなったりと、私でも経験したことがない子どもたちの混乱の中で、むしろ譲ってあげるのは大人の方かなと思い直していました。

ところがその公共のプールも休場。

 

あの河童たちはどこで何をしているのでしょうね。

 

先日、「日刊スポーツ」にあの古賀選手の記事がありました。

リオ五輪代表古賀淳也「食べる感じ」背泳ぎ呼吸コツ

(2020/05/02)

16年リオデジャネイロ五輪代表の古賀淳也(32)が2日、インスタグラムのライブ配信に登場した。事前アンケートで集めた質問に対して約1時間、答えた。

 

9年世界選手権男子100m背泳ぎ金メダリストは、バサロについて「足を蹴り上げるだけではなく、体を揺らす感じ」と、鉛筆を親指と人さし指で挟んで上下に揺らす動作を見せて説明した。また背泳ぎで呼吸するタイミングについて「腕が入水する直前に、ぱくっと浅く呼吸してます。食べる感じ」と解説した。

 

古賀は18年にドーピング検査で陽性反応が出て資格停止となった。摂取していたサプリメントに成分表に記載がない禁止物質が混入(汚染製品)していたことが原因だった。米国の検査機関などに分析を依頼して禁止薬物の摂取が意図的でないことを証明し、停止期間は4年から2年に短縮されている。今月中旬には資格停止期間は終了する。

 

古賀は泳げない間、いろんなことに目を向けたという。アクセサリーを作ったり、舞台の台本を読むことなどにチャレンジした。また以前から興味があった3Dプリンターの使い方を学んで、購入した。そして水泳の練習道具も自作した。2本の指の間につけて、水の抵抗を感じることができる装着具(パドル)で「(指を)入水した時に(水の抵抗で)深く潜らずに、浅いところで水をかける」という。「以前から考えていたけど、自分で作るいい期間だったと思う」とした。

 

ライブ配信は、北島康介氏が主宰する会員線の水泳教室で10年目に突入した「KITAJIMAQUATICS(キタジマアクアティクス)」が企画したもので、古賀はゲストとして出演した。現在は新型コロナウイルス感染拡大で全国のプールは軒並み閉鎖。古賀は「泳げないからとフラストレーションをためず、できることに目を留めるシチュエーションだと思います。水泳以外に興味があることをひと通りかじってみるのもいい。小さなことを意識していくと、その小さな変化がポジティブなことにつながると思います」と話していた。

 

6月に予定されていたJAPAN OPENが復帰レースになるかなと楽しみにしていたのですが、それも中止。

新型コロナウイルスの影響で今後の競技会の目処も立たない状況で、古賀選手はどんな思いになっているのかと心配していました。

やはり気持ちを切り替えることをいつも教えてくれる選手です。

 

 

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