水のあれこれ 133 プールの水を維持する

3月上旬に泳いだのが最後で、かれこれ2ヶ月ほど泳げていません。

たぶん、1年とか2年泳げない時が続いても大丈夫、と自分に言い聞かせていますと書いたのは2月20日で、まだこの時には1週間後に休校などの大変化が始まるとは思っていなかった時期でした。

なんとか、プールは閉鎖されないだろうと信じたかったのでしょうね。

 

泳ぎ始めて30年、2ヶ月も泳いでいないのは初めてのことになりました。

ただ案外それほどイライラすることもなく、この状況を静かに受け止めている感じです。

 

2ヶ月泳げない状況はもちろん私だけでなく世界中の水泳好きの人たちも同じで、どんな思いで過ごしているのかなと思っていました。

 

そしてプールは今、どんな状況なのだろうと気になっていたところ、4月29日付のNHK NEWS   WEBに「スポーツクラブの休止相次ぐ 経営や選手育成に懸念も」という記事があり、プールの維持管理について書かれていました。

それでも25メートルの長さがあり、6つのコースを持つ室内プールには水を張り、水温を一定に保っています。一度、水を抜いてしまうと、再び水をためて水温をあげるのに時間や費用がかかることや設備がさびるのを防ぐことが理由ですが、維持するのにも大変な費用が掛かります。

 

支配人の清水桂さんは「固定の維持費は年間でおよそ1000万円になるほか、60人いる従業員の給料を払うことを考えると、休業期間が3ヶ月を超えると経営は難しいです。スイミングクラブはどこも同じくらいの厳しい状況だと思います」と話しました。

 

私の場合はクラブではなくて公共のプールを利用していますが、それでも、使わずにプールを維持することが大変なんて今まで考えたこともなかったのでした。

 

 

5月になったら泳ぎに行けるかなと楽しみにしていたのが、また遠ざかってしまいましたが、それよりも何よりもプールがなくなってしまうことを心配する状況の方がつらいものがありますね。

各地で泳ぐことを学ぶ場所ができて、そしていつの間にか老若男女、泳ぐから歩く、踊るまで水の中で楽しむ時代になった、そんなプールの歴史の重みです。

 

 

 

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小金がまわる 21 非常時と消費税

消費税が10%になって、ますます物を買わなくなりました。

少しきちんとした服でも買ったら、2日分の食費ぐらいが飛んでいきますからね。あまり服が売れないのかわかりませんが、よく利用していたデパートのお店もずっとバーゲンをしていました。そしてこの自粛ですから、ほんと、みなさん小売業の方々はどうなるのでしょうか。

 

経済に疎い私ですが、ずっと思い込みでいたことに別の視点があることに気づかされるこの頃です。

「消費税は消費に対するペナルティ」、まさにそうですね。

ものを買うだけでなく、電気光熱・水道、通信費にももれなくついてきます。

消費税は年末調整とは無関係の2倍近い所得税ですからね。

 

*実質の給与減額ではないか*

 

「新しい生活様式」の中で、「テレワークやローテション勤務」も勧められていましたが、いわゆる在宅での仕事でしょうか。

私自身は出勤しなければ仕事にならない職種なので、想像でしかないのですが、家で仕事をする場合の、光熱費、水道費、通信費というのは自己負担になっているのでしょうか。

これにも消費税がかかっていると思うのですが、会社からそうした経費は支払われるようになっているのでしょうか?

あるいは確定申告で、経費として取り戻せるのでしょうか。

大学などではオンライン授業に対して、学生に補助を出すところもあるニュースがありました。

 

今までは、日中は会社や学校に分散されていたこうした生活インフラへの消費税が、家庭への負担になってくると思うのですが、全体でどれくらいの額になるのでしょうか。

 

災害時や、現在のように生業を続けられるかどうか全く見通しが立たない人がたくさんいる時期に消費税は本当に負担が大きいですよね。

 

そうそう、国債は国の借金ではないという話も、目から鱗でしたね。

本当に、経済に疎いことを痛感。

 

これからの復興期に誰を経済の専門家とするか、今までの30年間の過ちを繰り返さないように目を覚ましていなければと思いますね。

イデオロギーにかたよった人ではなく、情勢に合わせて公共性を標準化できる人を選ぼうと。

 

 

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つじつまのあれこれ 20 「新しい生活様式」

寝入りばなで久しぶりの地震速報で飛び起きました。幸いにほとんど揺れもなかったのですが、眠れなくなりテレビを見ていました。

 

昨日(5月4日)、緊急事態措置が5月31日まで延長され、それ自体はそうなるだろうなという受け止めでした。「入院数や人工呼吸器/ICU」の数は増えていますから、まだまだ気を抜いてはいけないと、日々データーを記録しています。

ちょうどつけたテレビで「新しい生活様式」として事例が説明されていて、以下の文章に目が止まりました。

・家に帰ったらまず手や顔を洗う できるだけすぐに着替える、シャワーを浴びる

 

新しい感染症で、どのように生活をしたらよいのか手探り状態ですから、何が間違いだとか批判するつもりもありません。

ただ、ちょっとこの唐突感に不意打ちされた感じで、ますます眠れなくなってしまいました。

 

 

*それをした場合としなかった場合*

 

私自身は、この感染症の前からも帰宅したらすぐに顔と足を洗い服を着替えていましたから、自宅に戻ってからの生活習慣の変化はそれほど影響はありませんでした。

 

今までずっと新型コロナウイルス感染症の情報を追ってきましたが、「帰宅したらすぐにシャワーを浴びなかった」場合に感染者が多いといった情報を見かけた記憶がありません。

なのに、なぜ、今この一文が追加されたのか、そして「帰宅してシャワーを浴びれば、感染予防になる」ということはどのように検証されたのでしょうか。

 

それをした場合としなかった場合を慎重に検討すること、その段階を飛ばして「これはいいよ」と人に勧めてしまうと、社会の中に混乱が起こることはたくさんありますからね。

 

*生活行動ひとつにもさまざまな管理がある*

 

「帰ったらすぐにシャワーを浴びる」

ホテルだったらいいのですけれど、自宅という生活の場では、こんな一つの生活行動にもさまざまな習慣と管理があります。

 

今まで夜、お風呂を沸かして入浴していた家庭では、それぞれがそれぞれの帰宅時間に入るようになり、私のように朝シャワーに入る習慣の場合は、1日に2回以上シャワーを入ることになるのでしょうか。

風呂場を使用すれば、カビが生えないように清掃したり乾燥させることが必要ですし、洗濯もいつ、どの段階でするか変えざるを得なくなります。

家庭の状況によっては光熱、水道費も増えますから、生計にも大きな影響があります。

 

生活を変えるといっても、たかがシャワーされどシャワーですからね。

でも、本当にそれが感染防止になると言われればしなければならなくなります。

 

小さなことなのですが、効果があることと、「気休め的に意味があること」が混同されているのではないかと思うことが気になってしまうのです。

信じ込むと生活や生き方が大きく変わってしまいますからね。

 

 

そろそろ医学の専門会議とは別に、中期・長期の視点で、経済や生活に関する専門家会議が必要ではないかと思えるのですが。

 

 

ひっそりとシャッターが降りている商店街ですが、毎日、誰かがきれいに清掃をしてくださっています。

そうした街の重苦しい雰囲気という現実と、「シャワーを浴びよう」がどうしてもつながらない。そんな葛藤でした。

 

 

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10年ひとむかし 64 とうとうお気に入りのお店が閉店

私が気に入っていた服屋さんがとうとう閉店してしまいました。

 

3月に買いに行った時に、この街でお店を開いてから40年経ったとおっしゃっていて、このお店の服がとても気に入っているのでぜひぜひ長く続けてくださいねとお話したばかりでした。その1ヶ月後に突然、閉店のお知らせが貼ってありました。

自粛モードになってもお店を開けてくださっていたので、この季節が変化する時にも服を買うことができて助かっていました。

 

やはり新型コロナウイルスの影響で、こうした小売店の先行きが見えなくなってしまったのでしょうか。

閉店の間際になって、初めて店主さんとゆっくりお話をしました。

ちょうど賃貸の更新時期とも重なっていたので、もう一回更新しようか悩んでいたけれど、この自粛に後押しされたかもしれないとおっしゃっていました。

私より少し上の世代の方ですが、1980年代のDCブランドやさまざまなおしゃれな服が広がった時代に、大手の服飾メーカーで働かれていたようで、しばらく服飾の歴史に花が咲きました。

 

ここ10年ほどで、デパートや商店街にあるこうした小さくてもそれぞれの個性がある服飾店がどんどんとなくなってしまいました。

店主さんも、「最近は制服のように同じ服になって、ちょっと寂しいですね」と。

あちこちに大型のショッピングモールができて、たくさんのお店が入っているけれど何か違うと素通りするのは、そうそう「制服のようなファッション」なのだと合点がいきました。

 

デパートも長期休業中なので、その中に出店していたお気に入りの服飾メーカーさんもどうしているだろうと心配です。

 

自分が着て落ち着く服を探すのが、だんだんと大変になってきました。

また80年代くらいから90年代くらいの、商店街に服を扱う店がたくさんあって活気があった時代にならないかなと思いますね。

 

そのためにはお金が回ることが大事なのだと、改めて思うこの頃です。

それは贅沢とは違って、一人一人が生まれ持ってきた能力を活かせる社会なのではないかと。

 

 

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散歩をする 214 笠岡湾干拓地

広島から呉線で三原に到着するのが14時42分でしたから、この日はまだまだ時間に余裕があります。2月下旬ともなると17時半ごろまでまだ明るいので、計画の段階でもいくつか候補がありました。

尾道を歩くのもいいし、三原も駅前に三原城址があって堀と思われる水色の部分が地図に描かれています。福山はあの塩町からの福塩線が通っていて、周辺には複雑な水路や川の流れがあって興味が湧きます。

どこに立ち寄ろうかと悩んでいた時に、福山の隣町の笠岡市に目がいきました。

 

「神島」という地名があり、その内陸部には干拓地のように水路が張り巡らされています。

検索したところ、笠岡湾干拓地だということを知りました。

 岡山の干拓地は広いですね。

ここを訪ねることにしました。

 

*コミュニテイバスで干拓地を回る*

 

地図で見ると、干拓地らしき区域内にはほとんど人家もありません。どうやったらここに行けるのだろうと探していたら、干拓地の外側を走り、神島の瀬戸内海側にある街をつないでいるコミュニテイバスがあることがわかりました。

ちょうど1時間ほどで、ぐるりと駅まで一周できそうです。

 

バスに乗ると、山側にあるわずかの平地からぐるぐると市内を走り、少し小高い場所へ向かった後、橋を渡って干拓地へと入りました。

おそらく神島だった頃の海岸沿いの街と思われる民家の多いあたりを抜けると、右手に広々とした畑地が広がっています。少し離れたところに、福山市の工業地帯が見えます。

しばらくいくと排水機場があり、バスは山道を登り始めて、神島の瀬戸内海側へと出ました。

たくさんの島が見え、静かな漁村のような風景です。

バスは私だけになることもなく、時々住民らしき人たちが乗り降りしていました。

また橋を渡って、駅へと戻りました。

 

*笠岡湾干拓地*

 

Wikipedia笠岡湾干拓地を読むと、市街地の平地部分は「国営事業として昭和22年から開始された同市市街地西方の現在番町と呼ばれる」もので、橋を渡ったところに広がっていたのは「昭和41年より開始された本土から神島にわたるもの」が笠岡湾干拓地と呼ばれているようです。

 

笠岡市の概要を読むと、この辺りも江戸時代から干拓が行われていたようです。

市域には丘陵地が多く平坦な土地が少ないため、農地を確保するために古くは江戸時代より備後福山藩などによって古浜・大島地区など大規模な干拓が行われる。戦後、市の南東部(富岡湾干拓)や南西部(笠岡湾干拓)も行われる。特に国営事業として1966年から岡山県日本鋼管福山製鉄所(現、JFEスチール福山地区)によって行われた笠岡湾干拓地事業では笠岡諸島の一番本土よりであった神島までの笠岡湾を大規模に干拓し1989年に完成した。 

 1989年に完成したとありますが、当時は干拓地に関心もなかったので全く記憶にないのが残念です。

 

笠岡湾干拓地は広大な平地であるが減反政策により水田が作られなかった。また完成後には土壌の塩類化が発生したため塩類耐性の比較的高い蔬菜類や牧草の栽培が多い。近年では広大な平地を利用し植物工場など高度な技術を用いた先進的な農業生産が行われる。 

 

行く前に地図で見ていた時に、干拓地のそばに通常ある大きな河川が笠岡には全くないことに気づきませんでした。

市内の河川は吉田川系を除きいずれも平均流水位が0.2m~0.3m、川幅も5m内外であって、降雨時以外はほとんど流水のない矮小なもので水不足に悩まされた歴史を持ち水源確保のための溜池が多く作られた。 

 

水の少ない場所に干拓地をどうして計画したのか、「笠岡湾干拓地」の概要に書かれていました。

なお用水に関しては、沿線各市町村の工業用水・水道用水と合わせて、同水源となっている 高梁川から延長24kmの導水路を建設して確保された。

 

なんと倉敷周辺の東西用水だけでなく、この笠岡まであの高梁川の水が送られていたとは。

 

瀬戸内海沿岸の干拓地といっても、歴史はそれぞれですね。

 

地図で見つけてふらりと立ち寄った笠岡市ですが、ここもまた落ち着いた街の印象でした。いつかは笠岡諸島を巡ってみたいものです。

 

 

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行間を読む 91 経験は静かに歴史に埋もれていく

「行間を読む」というタイトルは、30年以上前の周産期感染症の授業で書き留めた一言から来ています。

そしてその先生は、一つの感染症を制御しても、また新たな感染症が出てくる。私たちにわかっているのは、何百万も存在する細菌やウイルスの本の一部に過ぎないというようなことをおっしゃられたのでした。

 

あの頃の私は、いわゆる開発途上国と言われる国での感染症予防接種をほんの少しだけ経験していたので、この先生の言葉が記憶に残ったのだと思います。当時の日本は「清潔な国」で重大な感染症は話題になりませんでしかたら、日本で暮らしていただけではこの先生の言葉は素通りしていたかもしれません。

 

90年代に入ると、「清潔」だけでは対応しきれないほどさまざまな感染症の存在がわかるようになりました。胎児と新生児の感染症も次々と検査から治療方法まで確立されていく時代になり、ほんの数年前までは知らないまま対応していたのかと、愕然としたものです。

そのたびに、あの授業が蘇ってきたのでした。

 

*ポリオの流行を思い返す*

 

半年前にはまだなかったCOVID-19が世界中を混乱させているようすに、私自身の生まれた頃がこんな感じだったのかもしれないと、今までポリオの説明を読んで知っていたつもりが実はわかっていなかったと、その行間を恐怖感を持って読んでいます。

 

「疫学と各国の状況」の「日本」にはこう書かれています。

日本におけるポリオは、1940年代ごろから全国各地で流行がみられ、1951年1月から6月には、半年で1500名の患者が出た。このことから厚生省は同年中に、法廷伝染病に指定している。この時点では、死亡率は約二割とされている。

1960年には北海道を中心に5,000名以上の患者が発生する大流行となった。そのため1961年にソビエト連邦からOPVを緊急輸入し、一斉に投与することによって流行は急速に終息した。引き続いて日本産OPVが認可され、1963年からは日本産OPVの2回投与による定期接種が行われていた。1981年以降野生株のポリオ発生がみられず、2000年にWHOに対しポリオの根絶を報告した。 

 

私の茶色く変色して紙もボロボロになりはじめた1960年代の母子手帳ですが、当時はまだポリオに対する予防接種の項目はありません。

余白に、「急性灰白髄炎接種1.0cc」が3回、「急性灰白髄炎1.0cc皮下接種」が1回記載されています。

「IPV(皮下接種)/OPV(経口接種)併用方法」のようですが、国産のOPVが始まる前ですから、ソ連からの輸入のおかげで予防接種を受けられたのでした。

 

 *ポリオの大流行に当時の社会はどう対応していたのだろう*

 

Wikipediaの「徴候と症状」を読むと、病型は異なっても、こうした感染症の大流行の怖さが今回と重なり合います。

正常な免疫系を持ったヒトではポリオウイルス感染はその約90-95%が不顕性である。稀にポリオウイルスの感染が上部気道感染症咽頭痛、発熱など)、消化器障害(吐き気、嘔吐、腹痛、便秘、稀に下痢)、感冒様症状などの軽微な症状を引き起こす。 

症状がほとんど出ないか、出ても小児が日常的によく訴えるものがほとんどのようです。 

ウイルスが中枢神経系に侵入するのは感染者内の1%程度である。CNSの感染を伴う場合、多くの患者が頭痛、首痛、背部痛、腹痛、末端痛、発熱、嘔吐、脱力、神経過敏(irritablitity)を伴う非麻痺型髄膜炎に発展する。 1000人の患者の内、1から5人が麻痺型の疾患へと進行し、筋力が低下、自立困難になり、最終的に急性弛緩性麻痺として知られる完全な麻痺症状に陥る

 

どこから感染するかわかならい怖さ、感染していないと思った元気そうな子どもがある日突然、筋力低下を起こし始める。

当時の社会はどのような状況だったのでしょうか。

 

私の母もその時代の生き証人ということになるのですが、今まで尋ねたこともありませんでした。

今、母の施設も面会制限中なのでいつ会えるかわかならいのですが、次に面会に行ったら話を聞かなければと思っています。

 

感染症にも100年に一度とか50年に一度という視点が必要なのかもしれませんね。

 

 

 

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食べるということ 54 とり天

今回の岡山から広島の散歩では何を食べようかと楽しみにしていたのですが、結局、名物らしい料理は岡山駅で買った祭り寿司だけでした。

列車の時間の関係で開いているお店に入れないことが多く、コンビニのお世話になりっぱなしでした。

 

唯一、お店で食べたといえば、広島駅で呉線に乗る前に食べた駅そばでした。

なんと「とり天」のお蕎麦があり、迷わずにそれにしました。衣もさっくりしていたし、お蕎麦も美味しかったです。

 

*初めてとり天を食べたのはいつか*

 

初めてとり天を食べたのは10年ちょっと前でしょうか。近くのスーパーの惣菜売り場で見つけました。唐揚げともまた違う美味しさで、やみつきになったのですが、しばらくすると店頭から消えました。

やはり唐揚げの方が根強い支持があるのかと、残念でした。

数年前の少し寒い時期に、井の頭公園から三鷹まで玉川上水沿いに歩いた後、冷えた体で駅に向かったところ、駅北口で立ち食いそば屋さんのとり天そばが目に入りました。

とり天とそばと、絶妙な美味しさでした。

三鷹に行く機会があったらまた是非と思っていたら、駅ビルの改築で無くなってしまっていました。

 

とり天、ありそうでなかなかお目にかからない食べ物です。

 

*とり天と鳥唐揚げ*

 

今では日常的な食べ物の鳥唐揚げですが、1960年代はほとんど食べた記憶がありません。70年代ぐらいになって小学生の頃には、クリスマスに骨つきの鳥もも肉を揚げたご馳走が家庭でも作られるようになったような記憶です。

 

今のような唐揚げを頻繁に食べるようになったのは、80年代ごろのような気がするのですが、どうだったのでしょうか。あくまでも私の家の話ですが、70年代になると食用油も廉価になって、トンカツや海老フライも家庭で揚げるようになったのですが、揚げ物は「ハレの日の食事」という感覚は残っていました。

 

ということでWikipediaから揚げを参考にしてみました。

「歴史」の最後の部分に、ああやはりと、記憶が蘇ってきました。

戦前から先述の外食レストラン初の三笠会館の「若鶏の唐揚」はあったが、一般料理として外食店や家庭に広く普及したのは戦後からで、戦後の食糧難に対応するため九州等で養鶏場が作られアメリカのブロイラー技術が輸入されて増産されてからである。食肉用ブロイラーが生産されるようになると、ローストチキンやフライドチキン、唐揚げなどに調理され、高度成長期以降の1970年代からは、アメリカのケンタッキーフライドチキンが日本にも紹介されて普及し、香辛料の効いたフライドチキンも外食メニューの1つになっていき、醤油味をベースにした唐揚げ販売店も人気となっていった。 

 

私が中学・高校生の頃、井の頭線に乗って新宿へ出かけた帰りには、高井戸にあるケンタッキーフライドチキンを買って帰っていました。1970年代は、唐揚げよりはケンタッキーフライドチキンの方が先になじんだという感じです。

 

十数年前に初めてとり天を食べたときに、大分の郷土料理と知ったのですが、いつでもとり天が食べられるなんてうらやましいですねえ。

 

同じ鶏肉なのに、料理によってほんと美味しさもいろいろですね。

次はいつ、とり天に出会えるのでしょうか。

 

 

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記録のあれこれ 69 換気が呼びかけられるようになったのはいつか

広島駅からけっこう乗客が乗っていた呉線も、広駅をすぎるあたりから乗る人も少なくなりました。ちょうど海や島々が見える風光明媚な区間は一車両に2人しかいなくて、なんだ、広島駅で並んでまで海側の席を取らなくてもよかったですね。

 

途中で、地元の方と思われる女性二人が乗ってきました。

乗車するなり、窓を開けました。瀬戸内海の温暖な気候とはいえ2月下旬ですし、電車内は暖房が効いています。

その時に「(寒いのに、なぜわざわざ窓を開けるのだろう)」と思いました。

乗客同士十分に間隔を開けられる人数でしたし、空気感染ではないですしね。むしろ、その女性同士がずっとおしゃべりをしている方が私には気になってしまいました。

 

ところが、それから数日もしないうちに、たしか3月に入ってから都内の電車では窓を開けるようになりました。

 

2月の下旬はまだ広島では感染者も出ていない時期でしたが、あの女性たちはどこからか「電車内での換気」を思いついたのだろうかと、ずっと気になっています。

 

いつから「換気」が対応策としてつけ加えられたのだろうと、時系列を追ってみようと思いましたが、状況も対策も刻々と変化するのでわずか2ヶ月前のことなのに、私の中ではもう事実があやふやになってしまいました。

「電車の窓を開けるようになった」と、気づいた時にカレンダーにでも記録しておけばよかったと後悔しています。

 

ただこの記憶から、私自身が換気の必要性を認識したのは3月に入ってからだったという点を記録しておこうと思いました。

 

厚生労働省の資料を読み返してみると、3月1日付で「ご家族に新型コロナウイルス感染が疑われる場合 家庭内でご注意いただきたいこと〜8つのポイント〜」(日本環境感染学会取りまとめを一部改変)が公開されていて、その中に「換気をしましょう」があります。

◆定期的に換気してください。共有スペースや他の部屋も窓を開け放しにするなど換気しましょう。 

 

このあたりからの変化だったのかもしれません。

 

 

こういう刻々と変化する状況で何を書き留めておくか、それに気づくための情報の取捨選択というのは簡単そうで難しいものがありますね。

時々、振り返って自分の記憶と資料とで時系列を合わせていく必要がありそうです。

 

 

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散歩をする 213 呉線で瀬戸内海をみる

太田川放水路をみて広島駅に戻りました。

午後は、12時30分のJR呉線快速安芸路ライナーで、ぐるりと瀬戸内海沿いをみる予定です。

 

呉線はずっとずっと乗ってみたかった鉄道のひとつでした。

私にとっておそらく、海を初めて意識したのが瀬戸内海の記憶で、幼児の頃に岡山県の海沿いに住んでいた親戚の家に夏に遊びに行った時に、瀬戸内海を見ました。

穏やかな波と、目の前には島が重なり合って見える風景。

それが私にとっての「海」でした。

 

ですから地図を眺めては、この瀬戸内海の沿岸を通ってみたいと思っていたのです。

 

少し早めにホームに並んで、海側の席を確保しました。

いよいよ呉線の旅です。本当は各駅停車で、気ままに駅に降りたって歩いて見たかったのですが、先を急ぐために今回は快速で車窓の旅です。

 

 

江田島と呉、そして呉線

 

広島市街地を抜けてしばらくすると、右手にずっと海が見え始めます。

まず大きな島が見え始めて、江田島です。

 

子どもの頃から広島というと江田島や呉といった元日本軍の軍港、そして戦後は海上自衛隊の部隊があることを耳にしていたので、江田島や呉がどんな場所なのかも見てみたいと思っていました。

今よくよく考えると、幼児の頃にその地名を聞いたのは第二次世界大戦が終わって20年ぐらいの時期で、戦争の話は大昔のような気持ちでした。半世紀以上経った今は、「戦争が終わってまだ20年しか経っていなかったのか」と不思議な感覚になります。

 

Wikipedia呉線の「歴史」を読むと、呉線1903年(明治36)に開業しているようです。

軍都広島と軍港呉を結ぶ必要から呉駅ー海田市駅間は官設(呉線)で1903年に開業している。開業当時は呉駅ー広島駅間を6往復、呉駅ー海田市駅間を3往復の計9往復が運転された。

「軍都広島」と呼ばれていた時代もあったのですね。

 

戦前の1939年には、輸送力増強のため海田市駅、呉駅間の複線化が計画され、1941年3月に着工された。しかし、太平洋戦争中の資材不足から工事が遅れ、輸送力増強は省営バス安芸線の運行を開始することで代えられ、1945年に複線化は中止された。4分の3が完成していたトンネル・路線は放置されていたが、電化に際して従来の低規格のトンネルを放棄し、戦中に掘削した新トンネルに切り替えられている。

 

呉を過ぎると、ひとつ山を越えるとまた街と海が見える風景が続きました。

あれが「戦中に掘削し」放置されていたトンネルだったのでしょうか。

本当に、一世紀というのは不思議な長さですね。

 

*島が折り重なる幻想的な風景*

 

瞬きも惜しんでずっと瀬戸内海を眺めていたので、ほとんどメモがないのですが、「仁方(にがた)、灰色のかわら鴟尾を見つけた」と残していました。

広島駅を出てからは、民家の屋根の魚の形をした鴟尾(しび)にも注目していたのですが、見かけませんでした。飛び地のようにこの仁方から安浦のあたりで、見つけました。

 

風早には牡蠣の養殖地が広がっていました。

目の間には大小さまざまな島があって、近づいたり離れたり、折り重なるように瀬戸内海にまるで浮かんでいるかのような風景です。

ああ、これが私の記憶にある「海の原風景」です。

 

まったく人を寄せつけないような海岸線もあれば、発電所があったり造船所があったり、海に沿ってさまざまな暮らしや産業が見える風景でした。

 

 

海だけを眺めているうちに、2時間ほどの旅はあっという間に終わりました。

そういえば車窓の反対の山側の風景はどんな感じだったのだろうと、また行きたくなりますね。いつか各駅停車で、もう一度呉線に乗ってみたいものです。

そしてあの島々を船で訪ねてみたい。そうだ、東南アジアの島々を船で回る夢もまだ実現していませんね。

 

海を見ていると気持ちが壮大になっていくのでした。

 

 

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水のあれこれ 132 「明治以降の放水路」

太田川放水路三大放水路と呼ばれていたと書かれていた文献はどれだったのか、残念ながら見つけられずにいます。

 

荒川放水路のヨシ再生で引用した「荒川放水路変遷誌」の、「コラム 明治以降の放水路」に以下の放水路が挙げられていました。

新淀川  明治30〜43年

大河津分水路  明治40〜大正11年

荒川放水路 明治44〜昭和5年

新北上川  明治44〜昭和8年

江戸川放水路  大正5〜昭和5年

雄物川  大正6年昭和13年

太田川放水路  昭和7年〜昭和42年

豊川放水路  昭和13〜昭和40年

関屋分水路  昭和39〜昭和47年 

 

なんと、この中でまだ行ったことがないのは新淀川と新雄物川だけです。

地図で見つけた気になる水色の部分を訪ねているうちに、いつの間にかあちこちの放水路を歩いていました。 

首都圏外郭放水路

三郷放水路

印旛放水路

狩野川放水路

斐伊川放水路

大津放水路

 そうそう、工事中だった五反田放水路も完成していました。

 

放水路といっても年代や地域によってさまざまな構造や目的があるようですね。

次は、どのような放水路の歴史と出会うでしょうか。

 

 

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