散歩をする 262 東舞鶴から西舞鶴へ

念願の小浜の景色も見ることができ、いよいよ北陸道の散歩も終盤です。

 

1日に2万歩以上歩くだけでなく、列車に乗っている時も歩いている時も瞬きを惜しんで風景を見るので、散歩も終わりの頃になると、一瞬、気を失うように眠ってしまうことがあります。

でも、今回はもう一つ気合を入れなければならないことが残っています。

小浜線東舞鶴駅に到着したら、一瞬たりとも気を抜かずに3分の乗り継ぎ時間を逃さないようにすることでした。

あらかじめ駅構内の地図も確認し、どの階段を使えば最短で改札口に出られるかも予習してあります。

目指すのは、北口から出発する京都交通和田線のバス停です。あれだけ確認していたのに、改札を出るときに方向感覚を失い、なぜか反対の南口に出そうになって慌てて引き返し、無事にバスに乗ったのでした。

ここが散歩2日目の計画の、最大の難所でした。

 

 

*東舞鶴から西舞鶴へ*

 

舞鶴市というと周産期医療の話題で2004年ごろからしばしば耳にしていましたが、海上保安学校のドキュメンタリーではなんだか懐かしく感じたのでした。最近では海上自衛隊のニュースでも耳にしますが、私はもう少し前、子どもの頃から旧軍港があったことで記憶にありました。

 

いつか行って見たいと思っていたのですが、今回、計画を立てるときに驚いたのが東舞鶴と西舞鶴の関係でした。

まず、JRの路線が違うことです。東舞鶴駅小浜線は終わり、ここからは舞鶴線になるのですが、東舞鶴と西舞鶴間の列車の本数がぐんと少なくなります。

1時間に2本の時間帯もあるのですが、そのうち1本は特急で、でも普通列車に乗っても西舞鶴・東舞鶴間は同じ6分という不思議な区間でした。

 

そして地図を見ると、東舞鶴も西舞鶴も同じように川に沿って海岸まで街ができています。「舞鶴」というのは一つの街ではなさそうでした。では、どちらを歩くかとずっと地図を眺めていて、閃きました。

どうやら東舞鶴から西舞鶴まで、小さな岬のような場所の海岸線を通るバスがあります。

これに乗るためには、ちょっと疲れた体にムチ打って、列車から降りたらバス停に走るように向かう必要がありました。

 

*和田線で海岸沿いを走る*

 

14時23分に東舞鶴を出発し、25分ほどのバスの旅です。大きな灰色の艦船が間近に見える風景から一旦海を離れ、山の中の道を走ります。

しばらくするとまた海沿いに出て、ここからは海岸線を走るのですが、ここも舞鶴湾内なのでまるで湖の岸を走っているかのようです。

皇帝ダリアがみごとに満開になっている庭がありました。いつ頃、誰がどのような思いで植え、この辺りに皇帝ダリアが広がったのでしょうね。

 

漁港が見え始め、東舞鶴とはまた違う西舞鶴の海岸部が見えてきました。

 

「東吉原」バス停で下車し、ここから駅まで歩きます。

ここで下車した理由は、地図で見つけた水無月神社でした。

 六月の別名を水無月と言います。陰暦六月三十日は「名越し(夏越し)大祓い」といって、茅の輪をくぐったり人形(ひとかた)を川に流したりして半年の汚れを清めます。

 吉原漁民は、昔、竹屋の川尻に住んでいましたが、享保十二年(1728年)の大火によって今のところに移住させられました。ヨシの生い茂る低湿地のため悪疫の流行が絶えず、厄払いのためには、「川下に水無月神社(祭神は月夜児命(つきよみのみこと)をまつって、名越しのお祓いをしたらよい」ということから、寛保三年(1743年)に創祀したのがこの水無月神社です。

さまざまな水の神様の歴史がありますね。

 

伊佐津川という運河沿いの静かな街がある中洲、そこは「魚屋」という住所です。

西側の山に沿って流れる高野川と、そこから別れる水路に沿って昔からの商店街を通り、西舞鶴駅まで歩きました。

舞鶴とは雰囲気が全く異なる街でした。

 

舞鶴と西舞鶴、どんな歴史があったのでしょうか。

そして舞鶴湾の内側を全て歩き尽くしてみたい。名残惜しいまま、京都行きの特急に乗り、今回の散歩が終わりました。

 

 

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散歩をする 261 小浜線に乗る

敦賀を航空写真で見ると、敦賀湾から若狭湾を眺めながら左手の半島の海岸線をまわってみたいのですが、残念ながら今回は先を急ぎます。

 

敦賀駅から小浜線に乗り、今回の散歩の目的のひとつでもある小浜へ向かいました。

敦賀駅を出てすぐに小さな川を渡ります。なんの変哲もない川と思って車窓からのぞき込んだら、駅のそばだというのに清流で、木の芽川という美しい名前だったのでメモしたのでした。

こうした小さな水の流れが、あちこちから敦賀湾へと流れ込んでいるようです。歩いて見たいですね。

 

しばらくすると、電車はぐんと高い場所、しかも海や街を見下ろすような場所のぎりぎりのところを走りながら山間部へと入りました。

再来年には小浜線は開通100年になることが、駅に書かれていました。

小浜線の歴史を読むと、1887年(明治20)には早々に鉄道会社ができて仮免状まであったのに失効、1922年(大正11)に全線開通したことが書かれています。当時の人にとって、この海岸線をつなぐ鉄道にはなみなみならぬ思いがあったのでしょうか。

 

山の中からふと視界が開け、また真っ青な海が途切れ途切れに見えるようになり、美浜を過ぎると三方五湖が見え始めました。

航空写真で見ると、小さな干拓地と思われる水田もあります。歩いて見たいものです。

藤井駅のあたりは水田地帯が広がり、また少し山に囲まれた場所に入ると、大鳥羽あたりから落ち着いた街並みが沿線に見えます。

もう1ヶ月ほど過ぎてしまったので、記憶が怪しくなっているのですが、「若狭有田、美しい」とメモしていました。

 

山からの川が合わさった北川を右手に、新平野駅をすぎるとその名のようにまた水田が広がり、堤防が次第に高くなって、遠くに大きな水門が見えました。

東小浜駅の手前に「遠敷川(おにゅうがわ)」と書かれた川を渡り、もうふたつ川を超えて小浜駅に到着しました。

 

計画では、その北川、南川そしてもう2本の川が合流した河口付近まで歩く予定でした。

小浜といえばあの幻想的な海岸だけが記憶にあるのですが、こんなに複雑に川が流れ込んだ場所に小浜城址があり、右岸側には水取という地名もあります。

この場所を見てみたいと思い、歩き始めました。

 

駅から数分のところに杉田玄白記念公立小浜病院あります。病院の前に銅像があり、杉田玄白が1733年(享保18)に小浜藩で生まれ、幼少期を小浜で過ごしたことが書かれていました。

地図で見つけて気になっていた場所だったので、満足して河口へと向かいました。

ところが歩けど歩けど、なかなか橋に近づきません。海岸でぼっと海を眺める時間が少なくなりそうだったので、急遽計画を変更して漁港のそばを曲がり、海岸へと歩きました。

 

 

二十数年前に来たときに、たしかこの漁港にある市場で干物を買った記憶があります。

この先にある若狭フィッシャーマンズワーフだったか、いやもっと鄙びた市場だったようなと記憶があいまいです。

でも、あの時の海沿いなのに湖のような、そして真っ青な空と海と紅葉の幻想的な風景は同じでした。

地図で見ると、この海岸から小浜湾が広く見渡せるように見えるのですが、実際には小さな岬が折り重なるように見えるので、まるで小さな潟の内側にいるかのようです。

ここだけは記憶が間違っていなかったと、満ち足りた思いで海岸をあとにしたのでした。

 

 

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散歩をする 260 金沢から敦賀へ

2日目は北陸道の海岸線を見る散歩です。

 

8時48分に金沢を出る特急しらさぎ56号に乗り、最初は敦賀まで車窓の旅です。

金沢は4回も通過した仙台と同じく、これで通過すること3回です。

1日目の夜にホテルでテレビを観ていたら、金沢周辺の興味深い番組が2つありました。観光ブームにするという感じではなく、その地域の地形や生活に密着した、なんとも地に足ついた内容でした。こういう番組を全国どこからも観られるといいですね。

ということで、次回は通過することなく散歩をする計画ができました。

 

*潟の下見*

 

金沢駅を出るとじきに犀川を渡り、しばらく住宅地が続いたあと水田地帯が広がります。一面、黄緑色のひこばえと、真っ青な空を映して水路が縦横無尽に通っています。

美川駅が近づくと向こうに海が見えました。

そして美川を渡り、小松市に近づきました。いよいよ潟が集まっている場所を通過します。

 

小松駅の手前の川に梯川が流れていて、「はしごがわ」かと思ったらかけはしがわでした。

寛永17年(1640年)に既にあった船橋をより強固な橋に架け替えた。この橋は川の増水の時に橋板を増し、平水の時には橋板を減らし、洪水を予見した時には橋板を外して舟の流出を防ぐ仕組みを取っていたため、「かけ橋」(梯)と名付けられた。

ああ、本当に舟橋という地名は大事に通じますね。この歴史を読んだだけで、ここも歩いてみたいと思いました。

 

梯川を過ぎると、下流で梯川に合流する前川を越えます。これが木場潟からの流出河川のようです。

潟よりも線路側の方が少し高い場所を通過すると、今度は柴山潟に向かって緩やかな下り坂になっています。

周辺には田畑が整然とあって、潟へと流れ込む小さないくつかの川には遊歩道があり、地元の方がのんびりと散歩をしている様子が見えました。

いつか、あそこを歩いてみたいものです。

 

それにしても石川県内には、大きな河川がありませんね。隣り合う富山や福井とはまた違う、水との歴史があったのだろうと、またまた興味が広がりました。

 

 

*北国街道沿いに敦賀へ*

 

柴山潟を過ぎて大聖寺駅のあたりは赤い瓦の屋根の家が多かったのですが、また真っ黒な瓦の集落になり、ところどころに石造りの小さなダムのようなため池が見えました。

ここまでは平野に北陸新幹線の高架が建設されていましたが、ここからは福井県との県境の山になるので、あちこちでトンネル工事が進められていました。

熊から守られますように、そしてこれから寒さと雪の季節の中での工事が無事に進められますようにと思いながら、新幹線の建設現場を眺めました。

 

また開けた風景になりました。懐かしい九頭竜川がつくりだした福井の風景です。

蕎麦を植えている水田が多くなりました。周囲を四角く稲のひこばえを残している水田がありましたが、あれは何をしているのでしょう。知らないことばかりです。

 

懐かしい鯖江の美しい風景を過ぎると、日野川にそって国道と鉄道が山間部へと入っていきます。

そこに北国街道という文字が見えました。「きたぐに」かと思ったら、「ほっこく」と読むのですね。日本語は本当に難しいですね。

北国街道(近江)ー中山道鳥居本宿(とりいもとじゅく)(滋賀県彦根市)のはずれ、中山道・北国街道追分(滋賀県彦根市下矢倉町)から琵琶湖の北東岸を北上し、長浜、木之元をへて福井県今庄で北陸道と合流し福井へと通じる街道。また、中山道・北国街道追分(彦根市下矢倉)から北国街道追分(新潟県上越市本町)に至る街道全体を北陸道と考え、この北陸道を近江では北国街道と読んだとする考え方もある。

 

ちょうど晩秋の紅葉の山々と真っ青な空のもと、山あいへと列車が入っていきました。

今庄駅の手前に国鉄慰霊碑が見えました。

今庄の街は、それまでの真っ黒な瓦ではなく灰色の瓦の家々で、まるで時代劇の撮影現場かと思うような美しい集落が続いていました。

 

なんだかかなわないなあと沿線の風景に圧倒されていたら、敦賀に到着しました。

北陸新幹線開業に向けて、真新しい駅舎でした。

乗り継ぎ時間は30分しかなかったので、敦賀の街や敦賀湾は見ることができず残念でしたが、また次回ということにしましょう。

 

 

そういえば過去のブログで敦賀について何か書いたような記憶があると思ったら、敦賀市営のサンゴヤが1970年代まであったことでした。

私が高校生の頃ですから、この40年ほどの驚異的な変化に「現代」とはいつのことをいうのだろうと混乱したのでした。

 

 

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散歩をする 259 和倉温泉から金沢へ

今回の遠出は3つの計画のどれにするか最後の最後まで決まっていなかったので、どの計画にも都合が良さそうな場所を宿泊先に決めました。

和倉温泉です。

 

1日目にのと鉄道の中で、海岸線をバスで行く計画に決めた時点で、今回は残念ながら和倉温泉の街を歩く時間はなくなりました。

能登町から戻った時はすでに日が沈み、暗くなった中、ホテルに向かいました。駅からまっすぐの道を歩くと、大きな工場があります。その煙突から夜中ももくもくと水蒸気のような煙があがっているのが、ホテルの窓から見えました。

 

翌朝、7時1分発の特急のとかがり火2号に乗るために、日の出の頃にホテルを出ました。

昨夜は暗くてわからなかったのですが、新建材で建てられた家も真っ黒の屋根に統一されているかのようで、北陸の落ち着いた街でした。

工場はイソライトの工場で、工場内にイソライト珪藻土記念館という資料館があるようでした。「珪藻土」、また知らない世界がひとつできました。中をみてみたかったと後ろ髪をひかれながら、駅へと向かいました。

 

ホームで列車を待っていると、反対側のホームに「七尾電化記念」の石碑がありました。

高度経済成長期に入ると能登半島方面に観光ブームが沸き起こり、その後七尾線の電化に伴い特急乗り入れが開始し、急速に宿泊客が増加した。 

 和倉温泉まで電化されたのが1989年(平成元)ですから、私が修学旅行で能登半島を訪れた1970年代後半は、このあたりはまだまだひなびた風景だったのでしょうか。

 

2007年(平成19)3月に発生した能登半島地震では大半の旅館が被災し、ほとんどの旅館が営業停止となったが、大部分の旅館は同年4月1日までに営業を再開した。 

そうでした。瓦屋根や灯籠が崩れ落ちた映像が記憶にあります。前日から回った場所は、能登半島地震で大きな被害を受けた地域でした。

 

朝陽が昇り始めて、邑知潟のあたりを通過する頃には、水田地帯の上に朝靄が低い位置にたなびいていて、幻想的な風景でした。

 

復路は反対側の風景が見える席で準備万端でしたが、河北潟との間に津幡バイパスが通っているのでこの辺りの風景は途切れ途切れにしか見えませんでした。

でも、邑知潟や能登半島の海岸線の風景を思い出すだけで、まだ夢から冷めていないかのような不思議な満足感です。

 

なんだかちょっとのぼせたような、そんな気分のまま金沢駅に到着しました。

 

いつか、数日ぐらいかけて能登半島をぐるりとバスでまわろう。

新たな計画ができました。

 

 

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行間を読む 97 「潮流が穏やかになっている」

遠出の散歩のあとにブログを書きながら記録していくと、思わぬ知識に出会って興味が尽きなくなります。

 

瀬戸の意味を知りたくてWikipediaをまず検索したのですが、頼みの綱のWikipediaにはその地形の成り立ちのような説明はなく、全国の瀬戸の一覧があるだけでした。

その一番最初の「狭い海峡の一覧」に速吸門があり、なんとなく開いてみました。

 

初めて見たその用語はまったく読めないのですが、「はやすいのと」「はやすいど」だそうです。

その2番目の説明にこう書かれていました。

吉備国の児島湾口の古称(『古事記』)。古くは早水の戸と呼ばれ、潮流が速く阿波の鳴戸にも劣らないほどとされた。現在は、児島が児島半島になったことや、児島締切堤防などにより、潮流は穏やかになっている。

 

一昨年訪れたあの児島湾締切堤防ですが、潮流を変える影響もあったのですね。

 

倉敷周辺の子どもの頃から耳にしていた「島」のつく地名は江戸時代からの干拓で地続きになった名残ですが、江戸時代の干拓前から比べると、「瀬戸」内海の潮流はどんなに変化したのでしょうか。

そして児島湾締切堤防が完成したのが1959年(昭和34)ですが、その数年後、私は児島の海で海水浴をした記憶があります。

当時、あの地域で暮らしていた親戚は、あの地域の海の変化を何か感じていたのでしょうか。

幼児の頃の記憶は、児島湾の潮流が驚異的に変化する時代の風景だったのかもしれません。

 

誰が、何からそれに気づき、そして誰がどのように観察をしているのでしょう。

 

散歩をすると、知らなかったことがどんどんと増えて、興味がまた広がります。

この速吸門の歴史に、またきっとどこかで出会うと思うと楽しみですね。

 

 

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水のあれこれ 157 瀬戸

遠出をして帰宅してから地図を眺めると、「ああ、なんでいく前に気づかなかったのだろう」と思うことを発見することもしばしばです。

 

穴水からのバス路線を地図でもう一度たどっていたら、「大口瀬戸」「小口瀬戸」と海に記載されているのを見つけました。

 

「瀬戸」

私が海を初めて意識したのが瀬戸内海でした。

ところが、それから半世紀以上過ぎるまで、この言葉が示す地形を考えたことがありませんでした。

 

地図では、七尾湾に浮かぶ能登島の北側に大口瀬戸、南側に小口瀬戸と表示されています。

湾内は能登島を軸に北湾・西湾・南湾に別れており南湾には七尾港、西湾には和倉温泉がある。

この北湾と日本海をつなぐところが大口瀬戸、南湾側が小口瀬戸で、大口瀬戸の方が幅が広いようです。

 

*瀬戸とは*

 

検索すると、地形の詳細の説明はなくて、「goo辞書」ぐらいでした。

相対した陸地の間の、特に幅の狭い海峡。潮汐(ちょうせき)の干満により激しい潮流が生じる。 

そこから転じて、「瀬戸際」「死ぬか生きるか」に使われるようです。

最近、「医療体制が瀬戸際」で使われるようになりましたが。

 

私にとって「瀬戸内海」というのは、波もほとんどないおだやかな海として意識されてきたのですが、確かに鳴門海峡のように渦潮でも有名でした。

この事故でも「現場では潮の流れが早く」と書かれています。

 

この大口瀬戸、小口瀬戸と呼ばれる海は、その地域の生活とどんな関係があったのでしょう。

車窓からは おだやかな内湾に見えたのですが、海を相手に仕事をされている方々には違うものが見えているのですね、きっと。

 

 

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つじつまのあれこれ 29 感染症と医療と経済

駅のトイレにあるハンドドライヤーがまだ使用されていた時期のこと、朝、そこで若い女性が長い髪をそのくぼみに入れて乾かしていました。

・・・と書いても、すぐに状況が思い浮かべられないほど、想定外の使い方ではないかと思います。

 

なぜ、その時間に、駅のハンドドライヤーで髪の毛を乾かすのか。

その状況にはのっぴきらなない事情があったのかもしれませんが。

 

以前から、ハンドドライヤーの是非についての議論は目にしていましたからたまに使う程度でしたが、この場面を見てから私は不特定多数が使用する場所では使わないようになりました。

そしてじきに新型コロナウイルス感染拡大で、ハンドドライヤーは使用中止になりました。

 

 

*ハンドドライヤーと経団連

 

3週間ほど前、「ハンドドライヤー『使用しない』経団連 ガイドライン見直しへ」(NHK NEWS WEB  2020年11月22日)というニュースがありました。

経団連はことし5月に企業向けに公表した感染予防対策ガイドラインで「ハンドドライヤーは利用をやめ、共通のタオルを禁止し、ペーパータオルを設置するか従業員に個人用タオルを持参してもらう」と定めています。

各地で感染対策が進む中、経団連にはメーカー各社から商品の安定性を訴える意見が寄せられているほか、ドライヤーを使っている事務所からもいつまで使用をやめればいいのかという問い合わせが増えているということです。

世界的には、WHO=世界保健機関はハンドドライヤーを使用するだけでは新型コロナウイルスの感染を防ぐ効果はないとしながらも、「頻繁に手を洗いペーパータオルやハンドドライヤーで十分に乾かすべきだ」としています。

また経団連が各国の状況を調べたところ、イギリス政府やアメリカCDC=疾病対策センターガイドラインでも手洗いの後にハンドドライヤーで手を乾かすよう定めているほか、シンガポールや香港も同様だということです。

こうした状況を踏まえ、経団連は、専門家の意見も踏まえながら「ハンドドライヤーを使わない」とした記載を見直すことにしています。

 

「企業向けのガイドライン」がどのような範囲に影響を与えるのかわからないのですが、見直されたら駅や商業施設などでもハンドドライヤーが復活するのでしょうか。

 

それに対して厚生労働省の見解が書かれています。

ハンドドライヤーの使用について厚生労働省は、「洗い残ったウイルスが飛沫と一緒に飛散するという専門家からの指摘はあるが、十分な手洗いをすることで感染のリスクを下げることはできる」としています。

ちょっと目を疑いました。「時期尚早」と止めるものだと思っていました。

 

ハンドドライヤーにもさまざまあって、場所によっては洗面台の内側に取り付けられたタイプもあります。

不特定多数が手を洗ったり、うがいをしたり、時には吐いたりするあの洗面ボールの内側のどんな雑菌をドライヤーで吹き飛ばしているのだろうと、ちょっと驚く構造です。

 

このニュースでは「吸引するタイプの製品に注目」と書かれていますが、感染症の拡大の今の時期に使用できることをどのように実証したのか、冒頭のような「まさかそんなことが起こるとは」という失敗から学ぶリスクマネージメントの視点は、この製品開発にあるのでしょうか。

 

ハンドドライヤーの再開よりは、全ての洗面所に石鹸を、そしてできれば和式トイレから洋式トイレへ、そして全てのトイレに便座クリーナー設置 などをこの機会に進めてくださると良いのに。

次の50年に一度とか100年に一度の感染症拡大に備えた、大改革の良い機会だと思うのですけれど。

 

 

なんだかだいそれた今日のテーマですが、いまだに経済は苦手で生活の範囲でしか理解できないのですが、この30年ほどなんとなく感じていたことが最近、やはりそうだったのかと確信に近くなっています。

 

それは「学」とついても経済学というのは理論化のための方法論のない、仮説をそのまま社会に実験してくもので、さらに失敗が社会に対して与えたことに対して責任をどうやってとるかという仕組みがないのではないか、この経団連のつじつまの合わない発表に感じたのでした。

 

 

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正しさより正確性を 23 非常時の正確な情報の伝え方

渋谷駅の工事現場ですが、ある時基礎のコンクリート製の壁が線路脇に置かれて、そこに「路盤天端」「砕石天」と手書きで書かれたテープが何か所も貼られているのが見えました。

 

「路盤天端」「砕石天」なんのことだろう、きっと「ダム天端」と同じように「上」の意味があるのだろうということぐらいは想像できました。

しばらくして、砕石天と貼られたテープの下まで砕いた砂利が敷かれました。

ああ、そういう意味だったのかと、ちょっと満足。

 

わずか3~4文字ですが、言葉の意味を知っているだけでなく、ここからあらゆるリスクまで思い浮かべられるのが専門性なのだろうなと思いながら、その場所を通過しています。

 

 

*現在わかっていることをそのまま伝える*

 

1週間ぐらい前でしょうか、夜勤の出勤前につけた午後のワイドショーで、マスクについて話題にしていました。

不織布のマスク>布マスク>マウスシールドといった効果についてと、食事中には喋らないといったあたりです。

未だに唾を飛ばさないとかマスクの基本的な知識が世の中には理解されないので、こうしたことを繰り返し繰り返し放送する必要があるのですね。

放送内容としては真っ当なものでした。

 

ところが、ご意見番のような人たちが、「でも本当にマスクに効果があるんですかね」とか、「不織布のマスクは布ではないから、燃えるゴミに出してはいけないのではないか」といった、自分の考えを喋り始めて、正確な情報があさっての方向に行ってしまいました。

 

あ〜あ、こうしてせっかく今わかっていることを伝えようとしても、権威に対して物申すという芸風を変えられない人たちの何気無い発言が、観ている人の心に疑いの気持ちを忍ばせてしまうのでしょうね。

 

「マスクなんて知っている」と思っているのでしょうか。

そこからリスクマネージメントまで思い浮かぶ人のことは、想像できないのかもしれませんね。

 

 

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散歩をする  258 能登半島の海岸線をまわる

いつも遠出の散歩をする時には、分単位でのスケジュールを立てて出発します。列車とバス、そして歩くことが主な手段なのでどこかで乗り遅れると家に帰れなくなりますから、移動の手段と時刻はけっこうしっかりと調整しています。

 

ところが、今回の北陸道をまわる散歩は、最後の最後まで3つの計画の候補から決まらずにいたという、初めてのことでした。

3つの候補というのは、のと鉄道で穴水まで行ったあとどうするか、でした。

修学旅行で行った記憶を確認しに輪島へ向かうか、能登半島の東端へ向かってバスで行けるとこまで行くか、あるいは能登島のあたりをぐるりとまわるか、の3つの選択です。

 

当日朝になっても決められず、とりあえず穴水に行ってからその時の気分で決めることにしました。

 

のと鉄道の沿線の風景を見ていたら、能登半島の東端へ向かって行けるところまでバスで海岸線をまわるという案に決めました。

実は、これが本命だったのです、ただただ川と海を見る散歩ですから。

 

 

*穴水から能登町まで海岸線を見る*

 

計画の段階では距離感がないので、穴水からバスを乗り継いで能登半島の先端をまわって輪島まで行けそうな気がしました。

ところがバスの乗り継ぎを見ていくと半日でまわることは不可能そうで、せめて珠洲市あたりまでいけるかと期待したのですが、珠洲市行きのバスはちょうどあってもその日のうちに穴水まで戻るバスがなさそうです。

能登町役場前まで往復する路線バスが、ずっと海岸線を走るようでした。

 

穴水駅を12時29分に出発する「穴水宇出津B」のバスに乗りました。宇出津は「うしつ」と読むようです。

高校生や地元の人がけっこう乗って出発しました。

しばらく山道を走り、10分ぐらいした頃でしょうか、中居南口からは海岸のすぐそばを走りました。防風林や自然堤防もなく、ずっと海がすぐそばに見えます。

 

小さなUの字のような湾が、何度も何度も繰り返しあらわれます。

東岩車というあたりでは、それまで凪のように静かだった海が波立ち始めました。そろそろ外洋に出るのかと思ったら、そこもまだ七尾湾の内側でした。

50分ぐらい走ってもまだ穴水町で、曽良(そら)というバス停あたりで、外洋が見え始めました。

対岸は見えないのですが、富山の方向です。

 

バスの車窓からでも海底が見える海のすぐそばを、バスが走ります。

山側には見事な棚田があり、ほとんど川がなさそうなのに、集落ごとに水路が整然とつくられていました。どこに水源があるのでしょうか。

 

どの集落も、どっしりした真っ黒の屋根と黒っぽい壁に統一された家々が並び、小さな畑や小さな港、息をのむような美しい風景が続きます。

 

バスに乗って1時間ほど、最初から一緒に乗っていた高校生の最後の1人が下車しました。

1時間のバス通学なんて大変そうですが、この風景を毎日見ることができるなんてうらやましい限りです。

 

沖波とか前波という地名のあたりから海岸線がまっすぐになり、遠くに宇出津新港が見え始めました。

1時間27分のバスの旅が、もう少しで終点です。

 

能登町役場前で降りた後、海へ向かって歩きました。

小さな湾に漁港があり、その近くの公園には海を眺めて座れるようにベンチがありました。

地元の方がふらりと散歩をしては、このベンチに座って海を眺めていました。

なんて落ち着いた街なのでしょう。

 

 

穴水まで、同じルートの路線バスに乗って戻りました。

あきることもなく、光の加減が違った風景はまた、それはそれは美しいものでした。

 

バスから降りた時には、なんだかふらふらとしました。

同じ日本のどこかにこんな風景があるなんて、幻想の世界から戻った、そんな感じでした。

 

 

 

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散歩をする 257 七尾から穴水へ

あいだが空きましたが、七尾線能登半島へ行った話の続きです。

 

邑智潟を過ぎて、能登部駅あたりからは緩やかな段々畑の風景が増えて来ました。両側を山に挟まれながらも地溝が続いている場所です。その山々も手入れされている様子がわかり、美しい竹藪や湿地、そして立派な墓地など落ち着いた街並みが続きます。

あっという間に七尾線の旅が終わり、七尾駅に到着しました。ここで穴水行きののと鉄道に乗り換えるためにいったん改札を出ました。

 

乗り継ぎに40分ほどあったので、歩いて数分ほどの海を目指しました。

駅前に流れている御成川は、煉瓦で護岸された小さな運河のようです。ゆったりした歩道を歩いていると、目の前に能登島の対岸が見えて来ました。真っ青な空と海、静かな海岸です。

道の駅とマリンパークによってみたかったのですが、時間が足りなくなりそうでしたから、駅に向かいました。一本違う路地に入ると石畳のような道路になり、小さなお店が続く商店街でした。

いつも、駆け足のように通り過ぎる一泊二日の遠出ですが、こういう街に数日ぐらい泊まって、あちこちをのんびり歩いてみたいものです。

 

のと鉄道で穴水まで*

 

ここからはのと鉄道で穴水まで、約50分の能登半島の海岸線の列車の旅です。

七尾駅ののと線は改札らしい場所もなく、ホームに保育園の子どもたちがお散歩で入っていて、列車が出発するときには元気な声で見送ってくれたのでした。

 

七尾駅を出発すると、線路は山を切り崩したような場所を通過します。もしかすると、ここが地溝帯の端の方だったのでしょうか。

そこからは海岸線を走ります。自然堤防や防風林でさえぎられることもなく、ただただ海が見えます。

 

あらかじめ地図で見逃さないようにと思っていた場所が3箇所ありました。七尾駅を出て数分くらいで見える赤潟、和倉温泉駅のあと海沿いにある潟のような場所、そして笠師保駅の手前にも潟のような場所があります。潟をめぐる散歩ですからね。

どの場所も、小規模な干拓地のようで水田が広がっていました。とりわけ笠師保駅の手前には、小さな締め切り堤防のような設備も見えました。

この辺りの水田の歴史を知りたい、実際に歩いてみたいと思う風景でした。

 

しだいにあの黒い瓦のどっしりとした家々と、風景を妨げるものの全くない落ち着いた街並みになっていきました。

深い湾に囲まれた静かな海辺に漁村があり、水田や畑があり、紅葉の山々が繰り返し繰り返し続きます。

のと鉄道はどの駅舎も周囲の風景にあっていて、ホームの植え込みも丁寧に手入れされていました。

私は今どこにいるのだろうと困惑するぐらい、息をのむ風景が続きました。

終点の穴水駅では、いつのまにか乗客は2人になっていました。

 

*穴水を歩く*

 

ここがのと鉄道の終点ということもありましたが、地名に「水」がついている由来はなんだろうと気になったので、ここで少し歩く時間をとっていました。

 

この街には山王川が流れていて、駅よりも北側でその川が二手に分かれて中洲のようになった場所があります。ここを渡って、対岸にある穴水町歴史民族資料館を目指しました。

駅を出てすぐ、「伊能忠敬投宿の地」という案内図を発見。これはみてみなければと、そこを目指したつもりが道に迷い、見つけられませんでした。

 

静かに流れる川を渡り、しばらく歩くと山沿いにある大きな神社の隣に歴史民族資料館がありました。

残念ながら穴水の由来はわかりませんでしたが、目の前に広がる静かな静かな海と静かな街並みに、ここまで来てよかったと思ったのでした。

 

ここまでののと鉄道沿線の風景だけでも圧倒されたのですが、ここから先、まだまだ息をのむ風景が続きました。

能登半島の海岸をただただ見てまわる散歩が続きます。

 

 

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