散歩をする 356 馬淵川下流を歩く

念願のIGRいわて銀河鉄道と青い森鉄道の車窓の散歩が叶い、14時5分に八戸駅に到着しました。

2日目も途中でおにぎりを食べただけでしたから、八戸駅に着いた時にどこからともなく美味しそうなかおりと、郷土料理らしい写真に引き込まれそうになりましたが、日没まであと2時間ほどです。

誘惑を振り払うように、えいと街へと歩き始めました。

 

これから「非常に危険な川」下流域を歩きます。

 

地図を見ると、八戸駅の少し手前からぐいと北東へと流れを変えて、本八戸駅の西側を通って八戸港へとまっすぐな水色の線が描かれています。

おそらく放水路のような役割があるのでしょう。

八戸港では馬淵川の河口より東側、約1.5kmぐらいのところにもう一つの川が流れ込み、その川の一部が運河のように西へと引き込まれて沼館緑地公園があります。

Wikipediaの「馬淵川」の以下の場所です。

かつての河口は八戸大橋付近にあり、河口直前で新井田川と合流していたが、洪水対策のため工事によって両河川の河口は分けられ、かつての馬淵川下流の流域だった場所は現在八戸工業港となっている。

 

なんとも複雑な河口付近です。

航空写真に切り替えても高低差がわかりにくく、その二つの川に挟まれた本八戸駅周辺は平地のように見えます。

どんな場所なのかみてみたいと思い、八戸駅から本八戸駅まで歩いてみる計画です。

直線距離で4~5kmぐらいでしょうか。2日目の最後の力を出せば、なんとか歩けると思いました。

 

*馬淵(まべち)川右岸を歩く*

 

八戸駅を出てしばらく県道20号線沿いに歩くと、馬淵川の河原が右手に見えてきました。道路よりは一段低い場所に水田地帯が広がっています。

橋の手前に白山神社があり、水の神様かと思って立ち寄ってみましたが、地域の氏神様でしょうか。

 

誰も歩く人のいない道ですが交通量は多く、馬淵川の右岸へと橋を渡って歩いている時には大型車の風圧で吹き飛ばされそうになりました。

橋の真ん中に止まって、しばし上流方面と下流方面の流れを眺めましたが、「非常に危険な川」が想像できない穏やかな流れと美しい土手の川でした。

 

ただ、当初の計画を見直して途中からはバスを利用した方が良さそうと思うほど、右岸側は河岸段丘の高低差が大きい地形でした。

 

橋を渡ってから、川沿いにある八戸赤十字病院に向かって歩き、その裏手から馬淵川の堤防沿いを歩く予定です。

八戸赤十字病院は敷地も広く、大きな病院でした。

それでも新生児の異常は越境して岩手医科大NICUへということですから、搬送の判断も、そしてご家族の面会なども大変そうですね。

 

八戸赤十字病院の裏の土手に大きな木と祠があり、緑の土手と遠くの山と、まるで一枚の絵のような美しい風景でした。

「河口から6.4km    堤防は海抜9.3m」の表示がありました。

土手はちょうど工事中で、残念ながら水面を見ながら川のそば歩くことはできませんでした。

 

馬淵川と並行して通っている国道104号線へのわずか200mほどの道は、地図からは想像できないような上り坂でした。

空腹にこたえましたが、ここまで歩いたら歩くしかありません。

 

次の目的地は、国道104号線とゆりのき通りの交差点のそばにある根城跡(ねじょうあと)で、きっと馬淵川の流れがよく見えるだろうと向かいました。

少し高台になった場所が樹木に囲まれた城跡で、その周囲の低い場所にぐるりと道が整備されています。

静かでこの美しい風景を独占と喜んでいたら、前から後ろから結構車が通ります。公園内の駐車場へと皆さん車で向かっていて、歩く人は皆無でした。

 

しだいに日が傾きかけてきました。もしいけたら敷地内の八戸博物館もと思っていたのですが、その公園の入り口にもたどり着かないうちに、これは引き返して本八戸に向かわないと真っ暗になりそうです。

 

本八戸駅方面へのバス停へと向かいましたが、なんと河岸段丘の坂道を登った上でした。

ここで力が尽きて、ただただバスを待ちました。

 

本当はここから根城水道公園、羽仁もと子記念館とその近くの小さな川、そして長根公園とそばの「左水門下」「右水門下」という気になる地名の場所を歩く計画でしたが、無謀でした。

 

地図を眺めていると鳥の目になったかのように自由にあちこちに行けそうな気分になるので、時々こういう無理な計画になるのでした。

 

でも、美しく静かな馬淵川下流の風景と周囲の街の雰囲気がわかったので大満足でした。

 

 

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散歩をする 355 IGRいわて銀河鉄道と青い森鉄道で八戸へ

私が住んでいる地域では低気圧や台風が通過する時間帯はだいたい朝方で、朝の通勤時間帯には過ぎていることが多いのですが、そこから東北を抜けるとお昼頃になるのですね。

散歩の二日目の朝は雨脚が強くなりましたが、二戸駅を出発する頃にはすっかり雨が止みました。

 

秋の深まった風景と雨も、しんみりとしていてそれはそれで好きですね。

特に、こういう山あいは雨上がりもまた美しいと、高校生まで過ごした地域のことが懐かしくなりました。

 

13時19分発の列車に乗りました。再び車窓の旅です。

次は斗米駅で、「米」がつくから水田地帯かと思ったら、りんごの果樹園が見え始めました。

しばらくすると水田地帯もありました。

この斗米駅の近くに、二戸歴史民俗資料館があるようです。馬淵川の歴史や川と暮らしなど、立ち寄って見たかったのですが、今回は時間がありませんでした。

 

沿線に菊が咲いています。

園芸品種の菊というより、子どもの頃から身近にあった野菊です。美しい晩秋の風景に見入っているうちに金田一温泉駅に到着しました。

ここで6分間の停車時間があるのは、JR貨物列車の通過まちでした。

長い長い貨物列車を見送っていると、80年代の山手線は貨物列車がそばを通っていたことを思い出して懐かしいですね。

 

そしてこの金田一温泉駅岩手県最北の駅で、その次は青森県目時駅になり、同じ列車にそのまま乗っていても鉄道名は「青い森鉄道」になります。

国鉄からJRへという今考えると歴史的にも大きな変化の時期を生きていながら、知らないことばかりですね。

それにしても第三セクターの路線をJRの貨物が走るのですから、乗車券も一筆書きにできたらお得になるだけでなく、連続切符であちこちに行き、ふらりと途中下車して訪ねる楽しみが増えるのですけれど。

 

馬淵川が蛇行しながら、線路と離れたり近づいたりしながら青森県に入りました。

県境を越えると、さすが青森県と思うほど沿線にりんご畑が増えて、さまざまなりんごが実っているのが見えました。

この風景を見たためか、例年春先まで柿を食べるのに、今年はりんごばかり食べています。

 

水田とりんご園とが馬淵川沿いに広がり、剣吉駅の手前あたりから次第に水田地帯が増えてきました。

稲穂の実る夏の風景を見てみたいものです。

地図で気になっていた、馬淵川の旧河道がぐんと近づき、そして離れていきました。

 

苫米地(とまべち)駅を通過しました。「米地」のついている通り水田が広がり、どっしりとした家が見えました。

稲刈りが終わったあとの水田の土を起こして、次に何か植えるようです。

苫米地駅は1961年(昭和36年)に国鉄東北本線の旅客駅として開業したそうなので、比較的新しい駅なのかもしれません。

東北で安定して米づくりができるようになった歴史はどんな感じでしょうか。

 

水が過不足なく供給され、災害からも守られて、そして気候に適した品種を育て、安定して収入を得る。

 

私が子どもの頃はまだ夢のような世界だったのだろうなと思っているうちに、また新幹線の高架橋と並走しながら八戸駅に到着しました。

 

 

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散歩をする 354 馬淵川公園まで歩く

馬淵(まべち)川のそばを歩くのに、一戸にしようか、二戸にしようかと計画の段階で悩みました。

どちらも馬淵川が蛇行し、そのそばに街が長細くあります。どちらも歩いてみたかったのですが、川べりにある馬淵川公園に目がとまりました。

対岸には岩屋観音堂、呑香観音堂、大作神社そして九戸城跡などがあり、そこをぐるりと回って時間があれば馬仙峡の近くまでいけそうと計画しました。

 

11時24分にIGRいわて銀河鉄道二戸駅に到着して、13時19分の列車まで2時間弱あります。

お昼ご飯も食べられそうな余裕の計画、のはずでした。

 

 

*二戸駅から馬淵川公園へ*

 

地図だけで決めた場所でしたが、計画の段階ではなぜか川だけを追っていたので、到着して初めて新幹線駅だったことに気づきました。散歩をしながら通過する新幹線を見ることができそうです。

 

二戸駅に到着した時には、ぱらつく程度の雨になっていました。

少し離れた対岸の馬仙峡が見えました。

馬淵川の方向をみると、深い淵のような場所を川が流れているようで、対岸の街がまるで地つづきのようによく見えます。

 

駅から左手に曲がって、しばらく道なりに歩きます。

まっすぐな道に沿って周囲の家や建物は新しく、対岸をみると昔の家が多いように見えます。

まるで「世界ふれあい街歩き」の新市街と旧市街のようです。

 

まっすぐな道は車の交通量も多く、対岸の曲がった道の方を歩けば良かったかなと思いましたが、時々そばを通過する新幹線に励まされて歩きました。

途中、かつては分娩を取り扱っていらっしゃったのだろうと思う産婦人科医院がありました。対岸にも産婦人科医院があるようです。

県北部の産婦人科医療の歴史はどんな感じだったのでしょう。

 

ところどころ畑があり、やはりここも真っ黒な土でした。全国、田畑と言っても本当に色々な土の色がありますね。そこから同じように美味しい野菜ができるのですから不思議です。

 

地図では馬淵公園まで徒歩15分ぐらいだと思ったのですが、案外時間がかかりました。

 

馬淵川のすぐそばまで、河畔には広くて美しく整備された公園がありました。

Wikipedia馬淵川では「危険な川」と書かれていたので、どんな激しい流れだろうと思っていたのですが、むしろその写真のようにゆったりと二戸では流れていました。

 

馬淵川沿いの遊歩道を歩く*

 

計画では橋を渡って右岸側を歩く予定でしたが、お腹も空いたしお昼ご飯の時間を考えると引き返した方が良さそうです。

河岸は公園よりも高い場所で、そこに市街地が広がっています。

その崖のような場所のぎりぎりのところに、遊歩道が整備されていることに気づきました。

 

紅葉の中、馬淵川の静かな流れを眺めながら遊歩道を独り占めして歩きました。

途中、「中曽根遺跡」の説明板があり、縄文時代からこの辺りで人が暮らしていたことが書かれていました。

 

新幹線駅もあるので二戸駅は真新しく、レストランもあったのですがちょうどお昼時で満員。

 

それなら空腹にも負けずに対岸を歩けばよかったとちょっと後悔しながら、物産店で岩手県のお漬物を購入して新幹線を眺めながら列車を待ちました。

 

馬淵川は美しい流れで、二戸も落ち着いた美しい街でした。

10月下旬、寒さもそれほどでもないと思いましたが、極寒期にはマイナス6度ぐらいになるようですね。

馬淵川のそばには氷柱ができるようです。

 

 

 

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産科診療所から 19 IGR地域医療ライン

IGRいわて銀河鉄道に乗るために、盛岡駅のホームで待っていたところ、「医療〇〇」と書かれたのぼりを手にした方が、盛岡駅に到着する乗客を待っていました。

 

「〇〇」の部分を失念したのですが、二戸駅でわかりました。IGRいわて銀河鉄道のホームページに、「盛岡の病院にらくらく通院 IGR地域医療ライン」の説明がありますが、そのことだったようです。

県北地域から盛岡方面へ通院されるお客様が安心してご利用いただけるよう、サポートする総合通院サービスです。

アテンダントが電車に乗車し、お客さまをサポートします!

・列車の後方車両(全座席)を優先席としています。

・無料駐車場を設け、ご利用しやすい環境を整備しています!

・お得な「あんしん通院きっぷ」を発売しています!

 

ちなみに最北の金田一温泉駅から盛岡駅までは片道2420円ですが、この往復割引を利用すると2日間利用可能で3200円になり、また二人用だと二人で5300円だそうです。

ああ、すごく安くなると思ったのですが、よくよく考えたら、列車を利用した一回にこれだけの通院費がかかること自体が生活費への大きな負担になりますね。

 

それでも1980年代の国鉄からJRへ変化した頃の状況を思い出すと、鉄道と医療が結びつく日が来るなんて考えたこともありませんでした。

ここ数年あちこちの鉄道に乗るようになりましたが、これは初めてで、画期的だと印象に残りました。

 

 

*「IGR HUG(ハグ) PASS」*

 

遠出から戻ってちょうど1ヶ月、「妊婦を支援半額乗車券」というニュースがありました。

 IGRいわて銀河鉄道盛岡市)と県交通(局)は12月から妊婦が通常運賃の半額で購入できる企画乗車券「IGR HUG(ハグ)PASS」の販売を始める。分娩を取り扱う医療機関が少ない沿線自治体の妊婦を交通面で支援するのが狙い。

 対象は母子健康手帳の交付を受けてから出産するまでの妊婦。パス1枚につき、IGRの各駅から盛岡駅の間と県交通バスの盛岡駅から運賃160円区間が計5日間、乗り放題になる。発売額は盛岡駅に一番近い青山駅で1900円、最も遠い目時駅で1万2900円。

 沿線自治体に住む妊婦から「県北地域は出産できる病院が少なくて困っている」との声を受けたIGRが企画した。同社の担当者は「一人で車を運転して病院にいく妊婦も多い。体調に合わせて電車やバスも選んでほしい」と話している。

 IGRの小繋(こつなぎ)駅、斗米以外の各駅で購入でき、母子健康手帳の定時が必要。有効期間は購入から1年間。

 

「県北地域は出産できる病院が少なくて困っている」

いつも遠出をする時には、その地域の周産期医療をイメージしながら歩いているのですが、確かに計画の段階でほとんど分娩施設が沿線になかった印象です。

 

あらためて地図を見直してみました。

まず盛岡市内に岩手医科大付属病院があり、ここに岩手県総合周産期母子医療センターがあるようです。ドクターヘリも整備されているようです。

JR山田線の上盛岡駅のそばに岩手県立中央病院があり「30週以降の新生児管理」のできる周産期センターがありました。

 

IRGいわて銀河鉄道に沿って北へと地図を見ていくと、二戸に産婦人科医院がありますが分娩施設ではないようです。

結局、県境までいくつかの総合病院がありましたが、産科どころか婦人科さえ診療科にありませんでした。

県境を越えて青い森鉄道の沿線から八戸まで見ていくと、八戸市に八戸赤十字病院がありますが、新生児の異常は岩手医科大NICUへ搬送と書かれていました。

 

みなさん、どのような生活をされ、どのように出産をされているのでしょう。

本当に知らないことばかりです。

 

1960~70年代、岩手県内ではまだまだ無介助分娩が多かった地域もあった時代から、産科診療所や病院など医師がいる場所での出産になり、そして今度は集約化で分娩する場所が今までの時代には考えられないほど遠方になりました。

 

「死亡率の改善という努力の代償はあまりにも過酷すぎた」を書かれた産科医の先生は八戸の方でした。

 

 

 

これからの周産期医療はどこへ向かうのでしょう

 

 

 

*2022年1月3日追記*

 

二戸には県立二戸病院があり周産期センターのようです。こちらの記事に書きました。

 

 

「産科診療所から」まとめはこちら

 

 

水のあれこれ 202 馬淵川

2年ほど前に北上川の水源を地図でたどった時には、まだその先に川があることは見えていませんでした。

しだいに分水嶺が気になるようになり、水源地の先のまた別の川の始まりを地図で探すようになりました。

 

北上川の始まりの先をしばらくたどると小さな川がまた始まり、東側からの川に合流して馬淵川になり、八戸市で太平洋へと流れ込んでいます。

馬淵川」初めて知った川を見てみたくなりました。

計画を立ててから、馬淵(まべち)川と読むことを知りました。

 

岩手県葛巻町東部の北上高地袖山付近に源を発し南へ流れたのち北西に転じる。

青森県に入り北東へ向きを変え、八戸市市街地を流れ八戸市大字河原木で太平洋に注ぐ。最下流部に八太郎大橋が架かり、河口付近に八戸港が位置する。かつての河口は八戸大橋付近にあり、河口直前で新井田川と合流していたが、洪水対策のため工事によって両河川の河口は分けられ、かつての馬淵川下流の流域だった場所は現在、八戸工業港となっている。

 

IGRいわて銀河鉄道青い森鉄道八戸駅まで、この馬淵川のそばを走っています。

八戸駅から本八戸駅の間は、この馬淵川の河岸に街が広がっているようです。河口付近には馬淵大堰があります。

馬淵川、どんな川だろう。八戸と馬淵川、どのような歴史があったのだろう。

 

Wikipediaの説明ではこんなことも書かれています。

流れが速いため、釣り客の溺死が多く非常に危険な川である。

 

今まであちこちの川のWikipediaを読みましたが、初めて目にする説明でした。

 

馬淵川、どんな流れなのだろう。

俄然、興味が湧き、中流域を歩き、河口付近で一泊することにしました。

 

 

「水のあれこれ」まとめはこちら

 

 

 

散歩をする 353 IGRいわて銀河鉄道で北上川の始まりを見に

2年ほど前、北上川の美しい流れに魅かれて、水源はどこだろうと流れをたどっていたときに、北上川に並走する鉄道に気がつきました。

IGRいわて銀河鉄道」で、途中県境を越えて青森県に入ると「青い森鉄道」になりますが、どちらもなんともロマンチックな名前です。

 

鉄道の歴史もど素人ですが、元は東北本線東北新幹線ができてからは第三セクターになった区間だと想像がつきました。

あの40年前に、北海道へ行く時に青函連絡船を利用していた時代に、青森港へ向かう夜行列車で通過した区間です。

 

地図で北上川を辿ると、途中で支流の方が太い水色の線になって分かれるのですが、どんどんとさらに細い水色の線になり、IGRいわて銀河鉄道御堂駅の先でさらに細くなって忽然と消えます。

航空写真に切り替えると、その先には細長い谷津で水田がある方向のようで、車窓からも見ることができそうな場所でした。

「ここを見たい」、そのためだけにIGRいわて銀河鉄道に乗ろうという計画を2年前に立てました。

 

ただし第三セクターの鉄道なので、JRの一筆書き乗車券にできず、また東京ー盛岡間は535kmなので新幹線の往復割引の適応にもならず、チケット代を安くする方法を逡巡していました。

年に3回ほどの週末や連休に発売されるJR北海道JR東日本共催の周遊パスだと、IGRいわて銀河鉄道青い森鉄道、そして三陸鉄道など東北の第三セクターも含まれたフリーパスがあることを知りましたが、なかなか休みのタイミングが合わずにいました。

 

昨年と今年は、チケット代を安くすることよりも行けるタイミングを逃す方が大事、ということで今回の計画ができました。

ただ、もしかしたらえちごトキめき鉄道のように一筆書きに含めることが可能なこともあるので、少しばかり期待してみどりの窓口に行きましたが、あっけなく却下されたのでした。

 

でも初日から2日目の朝まであちこちの美しい風景を見た満足感で、すっかりチケット代のことはどうでもよくなりました。

 

IGRいわて銀河鉄道北上川の水源地へ*

 

盛岡駅を10時13分に出発する、IGRいわて銀河鉄道金田一温泉行き」に乗りました。真新しい車両で、通勤用のロングシート席でした。出発する頃には座席は満席になりました。

北上川を見るのに、左右の車窓を行ったり来たりするのはちょっとはばかられる雰囲気です。

 

岩手県といえば、昨年、新型コロナウイルス感染の都道府県別感染者数が発表されるようになってからも、7月半ばまでずっとゼロの県でした。

その後も低い感染者数だった印象で、この前日もゼロの発表でしたが、すれ違う人みなマスク着用でした。

 

列車が出発するこ頃には、本降りの雨になりました。

青山、おしゃれな住宅街

厨川(くりやがわ)駅、北上川がぐんと近づく

ここからしばらく北上川の水面を見ることができるかと予想していたのですが、北上川との間は森に遮られ、その向こうには四十四ダムがあるようです。

しばらく右手は森になり、岩手県立大学盛岡大学のある滝沢駅のあたりからは切り通しになりました。

ここで大学生や住民が下車し、乗客は少なくなりました。

 

好摩駅の手前、水田地帯、姫神山、北上川

好摩駅花輪線

姫神米の表示、鳥肌が立つような美しい水田地帯

手宮内駅の手前、北上川が小川のようになる

山と畑、サイロのような家

土が真っ黒、紅葉

 

美しい水田地帯を、小さな流れになった北上川が蛇行していました。

手宮内駅の次がいよいよ御堂駅で、そのそばを流れる美しい小川のような北上川から目を離さずに、左右の車窓を行ったり来たりしているうちに、左手の林の手前を流れながら水田の向こうへと消えていきました。

大満足!

 

ちなみに岩手河口駅から御堂駅、そして奥中山温泉駅の手前まで、沿線には「地割」で表示された場所になっています。

車窓からでは、数字で表記された場所と地名のついた場所の違いはよくわかりませんでした。

 

 

馬淵川へ*

 

次の奥中山温泉駅のあたりまでしばらく森の中の高台のような場所を走り、小繋駅の手前から地図には載っていない小さな川が鉄道と並走し始めました。

小繋駅の前から小さな川

水田地帯、河合

一戸、川美しい、段丘の丘、坂道

水田美しい

小繋川で、しばらくすると右手の平糠川と合流し、小鳥谷(こずや)駅の向こうで馬淵川に合流するようです。

 

そして馬淵川に沿って一戸、二戸という駅名になり、そして目時駅からは青い森鉄道に入り、三戸、そして八戸になります。

小学生の頃から「戸」がつく地名は印象に残っていて、この辺りもいつかは歩いてみたいと思っていました。

 

どの「戸」で途中下車しようかと、何度も地図を眺めているうちに、二戸駅の近くに馬淵川公園を見つけて決めました。

 

 

11時24分に二戸駅に到着した頃には、雨もぱらつく程度になっていました。

 

 

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記録のあれこれ 111 「鮭が遡上する清流・北上川を守ります」

予想以上に市内の美しい湧水や川の風景に、もっと時間をかけて盛岡市内を見てみたいと思いました。

 

名残惜しい気持ちを抑えて駅に向かう途中、北上川の大きな橋を渡りました。

この橋がトラス橋だとすぐにわかったのも、散歩のおかげです。

たもとに「開運橋(かいうんばし)の歴史」という説明がありました。

 初代の開運橋は、盛岡駅開業に伴い当時の岩手県知事石井省一郎が中心となり、私費を投じて長さ50間(90m)、幅27尺(8.3m)の木橋を約45日間の短期間で建設したものです。

 当時の橋は有料で通行料1銭を徴収されたと言われ、関西の翌年に無料となり、その後1900年に県に編入されました。

 

わずか一世紀ほど前は橋を造るにも私費だった時代から、社会へ富を還元するということが公共事業という言葉や概念に変わったのはいつ頃からだったのでしょう。

 

 初代の開運橋が洪水のたびに被害を受け通行が途絶えたことも多かったことから、近代洋式の永久橋(2径間プラットトラス橋)に架け替えられました。

 橋の長さは82.4m、幅は13mで、本県発の本格的な銅橋で注目を集めたと言われています。

 橋の正面には大きな橋銘板が掲げられ、橋の袂には瀬戸物製の油壺付きランプが灯されるなど装飾美が自慢の橋梁でした。

  現代の開運橋は、急激な交通量の増加による損傷に対応するため、剛性の強い「鋼単純下路式ランガートラス+2径間鉄筋コンクリートT桁橋」に架け替えられました。橋の長さは82.5m、幅は18.2m(4単線)に広がりました。

 外観はアーチ型で、岩手山北上川の眺望に調和した美しい線形となっています。

朝、歩き始めた時にはまだぱらつく雨の中に見えていた岩手山に、北上川そしてこのトラス橋が映えていました。

 

「盛岡へ転勤してきた人が開運橋を渡りながら、遠く離れた所まで来てしまったと涙を流し、再び命を受けて盛岡を離れる頃には、今度は去り難くて開運橋の袂から岩手山を見上げて涙を流す」という、「二度泣き橋」と呼ばれていることが書かれていました。

 

 

*「よみがえった北上川」*

 

その開運橋のそばに、「鮭が遡上する清流・北上川を守ります」という説明板もありました。

 

柳津で北上川を案内してもらったタクシーの運転手さんが、「北上川には鮭も上ってくる」と言われたことを思い出しました。

 全長249kmと東北随一の大河・北上川は、岩手県の豊かな自然環境の象徴であり、秋になると鮭が遠く太平洋から遡上し、盛岡の秋の風物詩として親しまれる清流を誇っています。

 しかしながら、この北上川がかつて旧松尾鉱山から流れた強酸性水によって濁り、魚が住めない時代があったという事実をご存知でしょうか。

 当時の県民の悲願であった清らかな流れは、関係者のたゆまざる努力により取り戻されたものです。

 ここでは、当時から現在まで休むことなく続いている「北上川の清流を守る取組」についてご紹介します。

よみがえった北上川

 松尾鉱山は、岩手県の八幡平の中腹に位置し、硫黄や硫化鉄鉱を生産することで、一時は「雲の上の楽園」と呼ばれるほど隆盛を極めましたが、昭和40年代になって経営が悪化し閉山しました。

 この鉱山活動の影響で大量の強酸性が流入し赤褐色に濁った北上川は、当時、大きな社会問題となりました。

 この問題に対応するため、旧松尾鉱山に新中和処理施設を建設し、強酸性水を中和することで北上川は清らかな流れを取り戻し、「母なる川」としてよみがえりました。

365日・24時間休むことのない取組

 旧松尾鉱山には鉱石が多く残っており、坑道に地下水や雨水が流れ込むことによって強酸性水が生成されるので、現在も新中和処理建設に置いて365日・24時間休むことなく中和処理を行い、北上川の清らかな流れは保たれています。

 これからもこうした取組を通じて、鮭が遡上する清流・北上川を守り、岩手県の豊かな自然環境を次代に引き継いでいきます。

 

この説明板を見た時、明治以降の近代化や戦後の工業国化への変化の中での公害かと思って読んでいたのですが、今回の遠出の記録を書くにあたって過去の記事を読み直していたら、北上川本流は鉱毒によって汚染されているためという「江戸時代以前の開発状況」の一文につながりました。

 

1970年代終わり頃、私が看護学生だった頃にもまだ妊娠・出産時に休養をとることさえできず、妊娠中毒症の発症率も高いのに、医療を受けることもなく無介助での分娩をせざるおえないような経済的に困窮していた地域がこの北上川流域にもあり、同じ頃、鉱山が閉鎖されて北上川の清流を守るための取り組みが始まったことになります。

 

当時、日本が求めていた経済的な豊かさが、その二つの改善を可能にしたと言えるでしょうか。

このあたりの生活はどのように変化したのでしょう。

 

 

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水の神様を訪ねる 52 盛岡城と湧水

朝の2時間ほどの盛岡市内の散策は、北上川公園を訪ねて、北上川と中津川そして雫石川が合流するところを見ること以外は何も計画していませんでしたが、時間があれば盛岡城跡を訪ねてみようと思っていました。

 

水のことが気になりだしてからは、水田の水源なぜそこに城を建て、その堀の水はどこから来たのかなども気になり始めました。

 

盛岡周辺の地図を眺めていると、なぜ盛岡城はあえて川合のそばにあるのか、そして主流の北上川のそばではなく中津川のそばなのかと気になりました。

 

まあ、ちょっと歩くだけですから答えには行き着かないだろうとは思いましたが、あと1時間ほどあるので盛岡城跡を訪ねることにしました。

 

*「賢治清水」*

 

中津川治水の石碑の前で横断歩道を渡ると、目の前に小さな広場があるのでふと立ち寄りました。「宮沢賢治が使用した共同井戸」という表示があります。

雨の中、「宮沢賢治ゆかりの地」の説明を読んでいると、もう一人若い女性が近づいてきました。

根強い賢治ファンがいるのだと思っていたら、そばの水音がする方へ行って水を汲んでいました。

 

「賢治清水のいわれ」という説明板のそばに、水が湧き出ていました。

この賢治清水は、宮沢賢治の大正六年より盛岡高等農林学校(現岩手大学農学部)在学中に、弟清六と二人で大沢川原一丁目の玉井家に下宿していた当時宮沢賢治が使用していた共同井戸が前方下駐車場に現存されています。

この井戸の水脈を十メートル程ボーリング致し、大変良い清水に恵まれ左記のような水質検査と相成り「ちゃんがちゃうまこ」の詩碑建立とあわせて是れを記念して「賢治清水」と命名致しました。

 

街の真ん中で湧水を見ることができるとは思っていませんでした。

 

盛岡城跡を歩く*

 

その湧水の反対側から盛岡城跡になるのですが、森でよく見えなかったので平地に立てられているのかと思ったところ、敷地内に入ると目の前に高い石積みの城壁がそびえるように続いていました。

雨の中、紅葉の始まった美しい城址を歩く人は私ひとりでした。

北側では雨の中、城壁の修復工事が行われていました。

 

下り坂を降りて、お城の北側にある櫻山神社に立ち寄りました。

北上川の水の神様かと想像したのですが、「江戸時代中期の寛延二年(一七四九) 盛岡八代藩主南部利視公が初代信直公のご遺徳を偲び奉るため」建立された神社のようでした。

堀を渡り参道への入り口に小さな灯篭のようなものがあり、そこに「水神」と掘られた石碑がありました。

 

西へとさらに150mほど堀が続き、途中に盛岡城跡の説明がありました。

 盛岡城は、三戸から不来方(こずかた)に居城の移転を決定した南部信道(盛岡藩初代藩主)が、慶長2年(1597)に嫡子利直(2代藩主)を総奉行として築城を始めたと伝えられ、翌慶長3年(1598)の正式許可の後、築城工事が本格的に進められました。

 城の縄張りは豊富家重臣浅野長政の助言によるものといわれ、北上川と中津川の合流地点に突き出した丘陵に本丸・二の丸・腰曲輪(こしくるわ)などを配し、それぞれに雄大な石垣を構築して内曲輪(御場内)としています。

 さらに、内曲輪の北側は起伏の激しかった現在の内丸地域を平坦にして、堀で囲み、南部氏一族や藩の家臣たちの屋敷を配置して外曲輪としました。また、外曲輪の中津川対岸の城下を堀で囲み、武士や町人たちの屋敷街である遠曲輪(とおくるわ、総構え)が配置されています。

 築城工事は、北上川や中津川の洪水に見舞われながらも続けられ、築城開始から36年後の寛永10年(1633)に南部重直(3代藩主)が入城して以来、藩政時代を通じて盛岡南部氏の居城となりました。

 盛岡城は、廃藩置県の後明治5年(1872)に陸軍省所轄隣、明治7年(1874)には内曲輪(御城内)の建物の大半が取り壊され、城内は荒廃しましたが、明治39年(1906)に近代公園の先駆者である長岡安平の設計により岩手公園として整備され、市民の憩いの場として親しまれています。

 平成18年(2006)には開園100周年を記念し、「盛岡城跡(もりおかじょうあと)公園」と愛称をつけました。

 

平地ではなく、北上川と中津川の合流地点の丘陵地だったようです。

そばにあった「盛岡城城下町全体図」を見ると、「北上川古川」として盛岡駅のあたりから盛岡城方面へと蛇行して流れていたようです。

 

それにしても公園という考え方ができなければ、どれだけのことを失っていたことでしょう。

 

 

*御田屋清水*

 

盛岡城跡の北側は、県庁がある方へ向かって上り坂になり、河岸段丘だったことがわかりました。

堀が終わったあたりの交差点で、その段丘を眺めていたら、横断歩道の反対側にまた小さな公園のようなものがあるのに気づいたので渡って見ました。

 

「御田屋清水」と書かれていて、紅葉した庭木の中、数段階段を降りた先に湧水がありました。

 

しばらく水が湧き出る音に聴き入りました。

 

川のそばを歩いただけでこんなに歴史と湧水に出会えるなんて、盛岡市はどこもかしこも水の神様がいるような街でした。

 

 

「水の神様を訪ねる」まとめはこちら

 

 

水のあれこれ 201 水の溢れる北上川と中津川

遠出の2日目、朝5時過ぎから窓の外を眺めはじめました。

盛岡駅の新幹線ホームもまださすがに真っ暗ですが、新幹線がすでに待機しているのが見えました。6時10分始発のはやぶさのようです。

5時27分ごろからうっすらと東の空が明るくなり始め、5時37分ごろに岩手山が見え始めました。富士山に似たようなすっとした姿です。5時48分、だいぶ明るくなって岩手山山頂に雪がうっすらと積もっているのが見えました。盛岡市内の街路樹の紅葉もきれいです。

 

テレビをつけたら、「ヨーロッパ大横断、川の旅」という船が運河と閘門を越えていく番組を放送していました。川を越える、六世紀ごろからの悲願だったという説明が記憶に残りました。

これから川のそばを歩くのになんとふさわしい朝でしょう、としみじみと観入っていたら、ニュース番組になりました。

ポーランドなどのワクチン拒否とかスーダンのクーデターとかアフガニスタンの人身売買が伝えられていました。現実の方がなんだか非現実的なヒトの世界ですね。

 

北上川遊歩道と北上川公園*

 

朝8時にホテルを出た時には、小雨がぱらつくぐらいでした。今回は4日前に行くことを決めてチケットを購入したのですが、その頃からこの2日目の天気は荒れ模様の予報でした。

あちこち訪ねるのには晴天の方が歩きやすいですが、川の周辺を訪ねる時には雨の日の様子を知ることができるのもよいものです。

 

10時13分のIGRいわて銀河鉄道に乗るまでの2時間ほど、盛岡市内を歩くことにしました。

 

昨夜、盛岡市に到着して夜の北上川を歩いた時には気づかなかったのですが、川のすぐそばまで歩けるように遊歩道が整備されていました。

さっそく階段をおりて河岸を歩きました。

対岸に新幹線高架が見えて、上下2本の新幹線が通過していきました。

ほとんど誰も歩いていない遊歩道ですが、通勤路にしているような方々時々とすれ違いました。

北上川は静かに流れていて、中洲にカワウがいました。

 

遊歩道の先は、あの北上川へ雫石川と中津川が合流する場所です。

その川合は木々と芝の広々とした北上川公園として整備されていましたが、小雨のためか誰もいなくて、しばし広大な美しく静かな公園を独占したのでした。

 

そばには、窓から新幹線とこの北上川を眺められる集合住宅がありました。この風景を見て過ごし、北上川を通勤路にできるなんて羨ましいですね。

しだいに雨脚が強くなり、岩手山もすっかりと姿を隠しました。

北上川と中津川の合流点を眺め、いったん、北上川左岸沿いに馬場町のあたりまで行くと雫石川との合流点が見えました。

 

この川の交わるところの水の歴史には、どんなことがあったのでしょう。

 

*中津川沿いに盛岡城跡公園へ*

 

中津川の流れもまた美しく、そのそばを歩くとところどころに石川啄木金田一京助などの説明がありました。

 

盛岡城跡公園の近くに木製の欄干の「しものはし」が残っていました。渡って対岸に行くと大きな「中津川治水」と掘られた石碑があり、そばにその下ノ橋の「青銅擬宝珠(ぎぼし)」についての説明がありました。

 

 慶長三年(一五九八)、豊臣秀吉から盛岡城の築城を正式認可された南部信直は、築城普請とともに市街整備の一歩として城下のほぼ中央を流れる中津川に三橋を架設した。

 慶長十四年(一六〇九)に上ノ橋、同十六年(一六一一)に中ノ橋、翌十七年(一六一二)には下ノ橋が完成し、上ノ橋と中ノ橋に利直在銘の青銅擬宝珠が取り付けられた。

 橋は、その後幾度か大洪水のために落橋し修復架橋されたが、その時に流失した擬宝珠もあり、寛文(一六六一〜一六七三)と享保(一七一六〜一七三六)年間にそれぞれ復元されたと推定されている。なお、現在の下ノ橋の擬宝珠は、明治四十三年(一九一〇)の大洪水後、中ノ橋から移されたもので、上ノ橋の擬宝珠と同様藩政期の文化を象徴するものである。

 南部家所伝によると、南部家第十二代当主遠江守政行が京都在番中に勅許を得て、加茂川三条大橋の擬宝珠を写し、これを領国三戸城下の熊原川の橋につけ黄金(きがね)橋と称したという。慶長年中の城下建設にあたって、この擬宝珠を鋳直して中津川の上ノ橋・中ノ橋二橋に取り付けたものである。

 

橋の飾りひとつとっても、そこには洪水の歴史があるようです。

 

ふと近くを見たら、「盛岡市指定 雪置場」の表示がありました。ついつい「溶ければ水になるもの」の存在を忘れてしまうのですが、国土の51%は豪雪地帯だったのでした。

 

 

「水のあれこれ」まとめはこちら

 

散歩をする 352 念願の盛岡市に一泊

盛岡駅に到着したのが18時34分、10月下旬は日が短いですね。夏ならまだ風景を見ることができたのでしょうが、夜の川の風景を見てみようと北上川沿いを歩きました。

 

2019年に八郎潟を訪ねた時に、両側を山に囲まれているけれど広々と広がる盛岡市が印象的で、そして秋田新幹線が西へと分かれていきました。

いつかここに泊まって歩いてみようと思っていました。

 

盛岡という地名が意識に残ったのは、1970年代終わり頃に看護学校に入学した時でした。全国から集まる同級生の中に、盛岡出身の人がいました。当時はまだ夜行の東北本線青函連絡船で北海道へ行く時代でしたから、盛岡は本当に遠く感じられたのでした。

佐賀に誘ってくれた同級生と同じく、今は名前も思い出せないくらいなのに、盛岡と聞くといつも彼女の顔を思い出しています。

 

八郎潟へ行く途中、一ノ関あたりからその名も北上市そしてこの盛岡まで、北上川がなんども車窓から見えたので、どこを流れているのか気になるようになりました。

地図をたどっていくと、この盛岡でぐいと西側へ大きな流れがあります。それが北上川だと思ったら、あの北上市内と同じく、それは支流の雫石川で、盛岡駅の手前で細く描かれている2本の川と合流していて、その真ん中が北上川でした。

この川合を見たい、そう思って地図を眺めていたら、「北上川公園」を見つけました。

 

ホテルの窓から盛岡駅の新幹線ホームが見えて、こまちが入線してくるのが見えました。

テレビをつけたら、沖縄で養殖されているグルクマ軽石を飲んで死亡していると伝えていました。火山の国に生きてきたのに、噴火後の軽石が海流に乗ってさまざまな影響を与えることを、今年になって初めて知りました。

ほんとうにさまざまな災害史がありますね。

 

早朝からの長い長い車窓の風景と、災害の記憶、友人の記憶、いろいろなことが頭の中を巡っているうちに眠りに落ちました。

 

いよいよ明日は、盛岡市内を歩きます。

天気予報では午前中から雨でしたが、雨の北上川の様子を見ることができそうです。

 

 

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