散歩をする 120 シーズンオフ 

急に春めいてきました。

待ち遠しい春ですが、今年はちょっと違う想いがあります。それは干拓地や用水路を見て歩くシーズンが終わりに近づいたという感じです。

生物にとってはさまざまな始まりの季節なのですけれど。

 

玉川上水から川へ関心が広がり、そして用水路も探し歩くようになったのですが、稲の刈り入れが終わった9月10月以降の方が用水路と水田を一望できることに気づいたのが、印旛沼を歩いた時でした。それから倉敷干潟と歩いてみました。

夏にも見沼代用水と武蔵水路を見に行きました。水田の風景は美しいのですが、水路の全体を見渡すには稲穂の背が高いのでした。

秋になって印旛沼を訪ねた時、車窓から遠くまで水路を見渡すことができたので、秋と冬は用水路や干拓地を回ってみようと思いつきました。

 

これからは田んぼは少しずつ変化し、稲の香りがし始めると、あっという間に緑一面の風景になりますね。

用水路の存在が隠れるこれからの季節、どこを歩きましょうか。

 

 

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記録のあれこれ  32 福田歴史民俗資料館

昨年、 倉敷を回った時に、2日目のスタートは福田歴史民俗資料館でした。

 

行く前に地図を眺めていたら、私の祖父の田んぼがあった地域よりも離れた場所にも干拓地らしき場所があることに気づきました。水島工業地帯に近いので、比較的新しい干拓地なのだろうかと思いながら、地図を拡大していくと、そこに倉敷市の資料館があるのを見つけました。

倉敷市福田歴史民俗資料館を読むと、予想に反して、江戸時代に干拓が始まった場所でした。現住所の「古新田」からして、たしかに歴史がありそうですね。

 

福田古新田は、現在の倉敷市福田古新田に当たります。江戸時代はじめの頃のこのあたりは、高梁川の運んできた土砂が堆積して広い附洲を形成していました。享保元年(1716)、この附洲を干拓する計画が持ち上がりました。このとき、「高梁川下流に広い干拓地をつくると水はけが悪くなり、上流の村は困る」として、上流の村と5年にわたる争いがありました。その後、幕府の政策変更によって干拓が許可され、享保8年(1723)に着工、同9年(1724)に完成しました。同11年(1726)には検地を受けており、面積は200ヘクタールでした。工事の最終段階の汐止め作業では、二人の人柱がたてられたといわれています。樋の輪の地蔵様を刻んだ碑は、人柱になった人を供養したものです。

 

「二人の人柱」、その記録だけでも感情がかき乱されそうになりましたが、干拓の歴史を知るために行ってみようと思いました。

 

*記録になるまでにも時間が必要*

 

倉敷駅からバスで20数分ぐらいかかったでしょうか。市内をぐるぐると回っているうちに、海側へ向かっているのに両側には山が見えたり、想像していたより高低差があるので、少し方向感覚を失いそうでした。航空写真で確認すると、干拓前は島と島の間だったと思われる地域を抜けていたようです。

それが、もしかしたら「上流の水はけが悪くなる」という理由のひとつだったのかもしれないと、地図を見ながら想像しました。

 

バス停の目の前に資料館がありました。

中には、写真や資料、そして明治から昭和初期にかけて使われていた農機具などが展示されています。

 

私はもう少し詳細な年表や地図を期待していたのですが、それらしき展示はありませんでした。

ただ、その地域の一世紀ほどの写真集があったので、ゆっくりと見せていただき、この地域の変遷を少しイメージすることができました。

 

その資料館は70代前後でしょうか、女性がおひとりで対応されていらっしゃるようでした。

帰り際に、「毎日ホコリが積もらないようにお掃除したり、それだけなのですけれど、なんだかそれでいいのかしらと思うときもあって」とぼそりと話されました。

来館名簿を見ると、2〜3ヶ月も誰も来訪者が書かれていない時期もあるようです。

いつ来るかわからない人を待ち、この資料館に意味があるのか逡巡されていらっしゃったのでしょうか。

 

祖父の田んぼを思い出しているうちに、急に干拓地に関心が出てきたこと、干拓に関する資料や展示がどの地域でも少ないので、とても助かったことを伝えました。

 

後世の人がイメージで年表や展示物を作り出した場合、来訪者にはわかりやすくて良いかもしれませんが、それは本当にその時代のことだったかと後々検証しようとした時につじつまが合わないことにもなってしまうことでしょう。

つい、こちらもすぐに全体像がわかるような資料や展示を求めてしまいがちなのですが、年表という正確な記録を作り上げるのにも時間が必要なのだと思いました。

 

こうした資料館があり、長い年月をかけてその地域の歴史を正確に記録していくことが大事なのですね。

たとえ、来館者が途切れたとしても。

 

 

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10年ひとむかし 47 木材

母のところへ面会へ行く途中に、大きな材木屋さんがあります。私がその地域に引っ越した頃、半世紀以上前からずっとあります。広い敷地の倉庫に、見上げるような木材が立て掛けてあって、その前を通ると、深呼吸をして木の香りを吸い込むのでした。

たしか私が高校生の頃には、県道を挟んで反対側にもうひとつ大きな倉庫がありました。

いつの間にかそこは更地になり、スーパーや住宅街へと変わっていました。

残っているもう一方の材木置き場は、子どもの頃からと同じ大きさで、それなりに活気があるように見えました。

 

先日、前を通ったら、そこがすっかり更地になっていました。

駅に近い場所なので、どこかへ移転したのかもしれません。

 

ただ、子どもの頃にはその材木屋さんだけでなく、私が中学生の頃に火事になった製材所のように住宅街にもまだあったのですが、最近はほんとうに見かけなくなりました。

 

家を建てるにに木を使わなくなったのかというと、建築中の場所をみるとまだまだ木造建築が多いですし、材木屋さん(正式名称はなんでしょうか)は需要がありそうなのですが。

 

*新宮の木造の体育館*

 

2月に杉・檜の名産地である南紀を回った時に、新宮の神倉神社の近くの小学校のそばを通りました。

小学校の周囲が杉か檜の板でできた囲いが続いていて、木でできたフェンスが周囲の山と遊歩道と風景の一部になっていて、とてもすてきでした。おそらく、災害の記憶が受け継がれている地域なので、木材を利用するのにも防災の視点があるのではないかと想像しました。

さすが林業の盛んな地域だと、ふと、小学校の中を見てさらに驚きました。

校舎はふつうのコンクリート製なのですが、がっしりと大きな体育館が、濃い焦げ茶色の木材で組み立てられていました。

 

1960年代後半に私が通った山の中にある小学校は、今ではナニコレ珍百景に出てきそうな木造の平屋建ての校舎でした。

長い廊下はもちろん木の床で、児童が一年に一回はたわしで床を磨き、ワックスを塗ってピカピカにしていました。

6年生のときに街の中の小学校に転校したときには、「憧れの3階建ての鉄筋コンクリートの校舎」でした。しかも屋外プールもありました。

あの頃、これからの時代は木材では大きな建物は造れない、コンクリートの時代だと子ども心に思ったのかもしれません。

 

半世紀たって、あちこち散歩をしていると、木で造られた古い建物がさらに年月を重ねて存在感を強めています。

それだけでなく、駅舎とかベンチに積極的に木を取り入れて、よそとは違う魅力を感じさせる場所もあります。

 

ああ、やはり反動から反動へというのは半世紀ぐらいなのかもしれない。

木材に対しても、そんなことを感じるこの頃です。

 

 

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行間を読む 77 言葉にならないものが言葉になるまで

記憶があいまいですが、以前はニュースというとただ「いつ、どこで、誰が、何を、なぜ、どのように」と淡々と報道していたような印象があります。

いつ頃からか「ニュース番組」になって、誰かが「すぐに詳しく説明する」ことが加えられ、さらにコメンテーター的な人があれこれとその件について語ることが多くなりました。

わからない状態に耐えることよりも、はやく「なぜ」を知りたいのがヒトの習性なのでしょうか。

 

その流れとは反対に、医療関係では1990年代からリスクマネージメントが浸透し始めましたから、原因究明とか対策というのはそんなに早く簡単に言えるものではないのに、と思うようになりました。

 

もうひとつニュースで変化したと感じるのが、一般の人の「気持ち」をニュースに組み込む場面が定型化されたことです。

事件があれば、近所の人あるいはそれこそ通りすがりの人にコメントを求めて、「〇〇ですね」と感想を引き出してニュースに入れることです。

街頭インタビューにおじけづくことなく応えている人が増えたことに驚くとともに、言葉にはならないものを無理に言わせて印象操作しているように見えてしまうのです。

 

もはやそれは、何が起きたかという事実からはかけ離れてしまっているのではないか、と。 

 

*災害と戦争と、言葉になるまで数十年* 

 

少し、前置きが長くなりましたが、昨日の記事で紹介した熊野誌の地震特集を読んでいて、災害の記録だけでなく戦争の記憶でもあったのだと思う記事がありました。

 

「東南海・南海地震を体験して」(田中弘倫氏)に、こんな箇所がありました。

また、那智勝浦町天満の故丹野幸吉氏は、自らは神戸にいたため直接津波の体験がなかったが、昭和41年、体験者の記録を「東海大地震津波の記録」(「東南海」か)としてまとめ、自費出版をしている。これも貴重な記録である。その中で特記すべきことをあげてみると、

「丁度大東亜戦争で空襲が激しいときで・・津波だと各所で叫ぶ声が、空襲・空襲の声と聞き誤り、あわてて、防空壕に逃げ込んだ者もあったようだ」そして壕の中にいた子どもが津波のために溺死した、と述べている。

(強調は引用者による)

 

そして当時子どもであった筆者が見た状況と、何十年もの間、その経験を思い返しながら今後の対応をどうしたらよいかという客観的な内容が書かれていますが、一箇所、ご本人の気持ちが書き綴られたと思われる部分がありました。

私はここから三輪崎国民学校まで歩いて通っていた。いまのJR の線路脇に江戸時代の末、水野忠央が奨励して植えたといわれるハゼの木が立ち並んでいて、このハゼにかぶれるとお袋が栗の木の皮を煎じて塗ってくれた。このハゼの木のそばを集団で、上級生の指示のもと黙々と学校を目指した。勝手気ままは許されなかった。昭和18年入学した頃から戦争は段々と悪化をたどりはじめていたが、そんなことは勿論知るよしもなく、「鬼畜米英打倒」というスローガンのもとただ戦争に勝つと信じ込まされていた時代であった。それだけに食べものがなくても着るものがなくても文句など言えなかったし、いま思えば「辛い」というよりもこれが「当たり前」と思っていたのかもしれない。よく、歯を食いしばって我慢していたと言われるが、世の中のことなど分かっていなかった私にとっては普通の生活と思い込んでいたのだろう。むしろ多少とも物心がついた戦後の方が苦しかったと思っている。

(強調は引用者による)

 

戦争と災害と、その記憶を行きつ戻りつしながら、鵺のようななにかを言葉にするまでには時間がかかったのだろうと思いました。

 

 

 

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「授乳・離乳の支援ガイド」のあれこれ 3 災害という視点が明記された

「授乳・離乳の支援ガイド」の改訂版(案)を読んで、その行間に12年間の変化をいろいろと感じましたが、新たに明文化されたものがありました。

 

「授乳および離乳に関する動向」の中に「災害時における妊産婦および乳幼児等に対する支援の現状」(p.4)です。

我が国は、諸外国に比べて台風、大雨、大雪、洪水、土砂災害、地震津波、火山噴火などの自然災害が発生しやすい国である。 

厚生労働省においては、災害が発生した場合、保健師助産師、管理栄養士等の専門職が、避難所等で生活している妊産婦及び乳幼児を支援する際のポイントを整理して自治体に周知を行っている。

災害時の授乳及び離乳に関する支援については、発災時のみでなく、災害が起こる前の取組として母子保健事業等の機会を活用し、妊産婦及び乳幼児のいる家庭に対し、災害に備え、備蓄の用意に関する周知が重要である。

(強調は引用者による)

 

「避難所等で生活している妊産婦及び乳幼児等を支援する際のポイント」として以下の項目が挙げられていました。

①妊産婦、乳幼児の所在を把握する。

② 要援助者として生活環境の確保、情報伝達、食料、水の配布等に配慮する。

③健康と生活への支援

④妊婦健診や出産予定施設の把握をし、必要に応じて調整をする。

⑤乳幼児の保健・医療サービス利用状況の把握と支援。

⑥気をつけたい症状

⑦災害による生活の変化と対策について

⑧その他

 

*同じような災害でも、被害の状況はさまざま *

 

「我が国は、諸外国に比べて台風、大雨、大雪、洪水、土砂災害、地震津波、火山噴火などの自然災害が発生しやすい国である」

そして、災害の種類によるだけでなく、地域によっても同じ災害でも被害は多岐多様に現れることがあることを、これまでの災害の記録を読むことで学ぶことが多々あります。

 

ちょうど 今、もう一冊の熊野誌を読んでいます。

「第五十三号 地震特集」です。

 昭和19年12月7日午後1時36分ごろ、東南海大地震 (推定M8.0)が発生し、津波熊野灘各地に襲来、大きな被害を出しました。2年後の昭和21年12月21日午前4時20分ごろ、今度は南海道地震(M8.1)が起こり前回被害のあまりなかった新宮市の中心部が大火災で消失し、沿岸各地にまたも津波が押し寄せました。

 

同じ程度の地震ですが、最初の地震では浮島の森のあたりは液状化現象で水浸しになったところが多かったようです。そして2年後の地震の時には火災が発生し、当時は延焼を防ぐためにあえて建物を爆破させたりしていたようで、それがかえって火災をひろげたような話が書かれていました。そしてその火災と、やはり液状化現象で浮島のあたりの住宅地は広い池ができたようになっていたそうです。

 

また、あの南紀地方の複雑な地形で、津波の被害が大きかったところもあれば、同じような川筋の街でも津波もなく地震の被害がそれほど大きくなかった地域もあるようです。

当時、情報を伝える手段が限られていた状況で、ほかの地域で津波があったことを知らなかった方もいたようです。

 

こうした災害の記録を読むと、同じような災害でも、被害やその後の復興までは同じ状況というのは一つもないと改めて思います。

 

*平時の信念は脇に置いて、ありのままを記録する*

 

こうした災害の時に、妊産婦さんや乳幼児はどうしていたのだろう。

なかなかそういう事実を見つけることができないままです。

きっと、必死でなんとかやりくりして生き延びるしかない状況で、当事者がそれを記録に残すというのはよほどなことがないとしないことなのかもしれません。

 

今後は、災害時の「授乳・離乳の支援」についても、状況をありのままに記録していく訓練を受けた人たちによって問題が把握され、それに基づいた支援になるといいですね。信念に基づいた支援になってしまわないように。

 

今回、明文化されたのはその一歩になるのではないかと期待しています。

 

 

「授乳・離乳の支援ガイド」のあれこれのまとめはこちら

「災害時の分娩施設での対応を考える」まとめはこちら

 

記録のあれこれ 31 「地図で確認 先人が伝える災害の教訓」

昨日の災害の記録の下書きを書いていた3月15日に、国土地理院のホームページに「地図で確認 先人が伝える災害の教訓」というニュースが出ました。

なんという奇跡のようなタイミングとちょっと鳥肌がたったのですが、まあ偶然なのですけれど。

 

  地図で確認 先人が伝える災害の教訓

 〜新たに地図記号「災害伝承碑」を制定し災害訓練の周知・普及に取り組みます〜

 

国土地理院では、2019年度から「自然災害伝承碑」※の情報を地方公共団体と連携して収集を開始します。集めた情報は、国土地理院のウエブ地図 「地理院地図」や2万五千分1地形図に掲載します。当院では本取り組みを通じて「災害への『備え』を支援してまいります。

※自然災害伝承碑:過去に起きた災害自然の規模や被害の情報を伝える石碑やモニュメント

 

その表示イメージを読むと、「表示」をクリックするとその災害碑の説明を読むことができるそうです。たとえば、こんな感じです。

明治40年(1907)7月15日、数日降り続いた豪雨により天地川総頭川で土石流が発生した。この未曾有の大災害により、小屋浦地区では43戸の家屋が潰れ、44名の命が奪われた。 

 

 

二十数年前までの平面の地図しかなかった時代から、こんなに立体的に情報が組み込まれた地図へと変化するなんて想像もできませんでした。

 

 

熊野誌のような各地の郷土資料館で購入した本を読んでいる時に難しいのが、どの地域の話なのか地図を合わせながら読んでも見つからないことが多いことです。

小さな集落だと地図には載っていなかったり、あるいは地名が変わってしまった場所もあることでしょう。

 

その点、地図に歴史が書き込まれれば、そのあたりの地形まで合わせてイメージすることができますね。

 

そして、今まで地道に災害の記録を集め続けてこられた方々の軌跡も記録された地図でもあることでしょう。

 

災害の記録方法が、劇的に変化する年になるのかもしれませんね。

 

 

 

「記録のあれこれ」まとめはこちら

地図に関する記事のまとめはこちら

 

記録のあれこれ  30 災害の記録

「あの日から何年」という日に流される災害の映像は、ついついチャンネルを替えてしまいます。

「語り継ぐ」ことが大事だとわかっていても、涙ながらに語る人の姿の映像はそのお気持ちを想像するだけでなく、なんだかわからないけれど申し訳なさのような怒涛の感情が湧き上がってきて、気持ちの整理の方に時間がかかってしまいます。

 

最近は誰もが簡単に動画を撮りそれを世界中に見せることができて、災害の状況を把握し救助するために、少し前までは考えつくこともなかった得難い情報源だと最近の変化に驚いています。

 

ただ、それをリアルタイムに観てしまうと、画面の向こう側の決死の状況を観客的に観ているような感覚が怖く感じます。

あの津波に車が飲み込まれていく映像をみてしまった時に、気持ちが揺り戻されそうになるのです。

そしてそれをニュースで何度も何度も放送されると、どこか自分の心や感覚が麻痺していくのではないかという漠然とした不安があります。

それでもその場で撮った映像というのは、のちにとても貴重な資料になることでしょう。

 

災害が発生した時には、状況を把握するためにそうした動画を含めてニュースをつけぱなしにすることが多いのですが、「あれから何年」という番組はほとんど観ることがなくなりました。

おそらくそうした視覚的な刺激が、私には強すぎて辛いのかもしれないと思っています。

 

私にはむしろ、文章や写真の方が災害について知り考えるにはちょうど良い資料になります。

 

ここ数年、災害の歴史を意識することが多くなりましたが、案外、正確な災害の記録を残せるようになったのはここ1世紀ほどなのかもしれないと思っています。

 

*記憶を残す方法*

あちこちの郷土資料館でも災害の歴史の展示に関心を持ってみているのですが、江戸時代あたりになると、文字と図あるいは絵で記録が残されているものもありますが、全体の災害からみればごくごく一部でしかありません。何の記録も残せなかった災害の方が多いことでしょう。

 

明治時代に入ると、写真で残っているものが増えてきます。

そして千葉県立関宿博物館に展示してあった「明治四十三年の洪水絵はがき」「大正六年の洪水絵はがき」のように、絵はがきにしていた時代があったことを初めて知り驚いたのですが、これは記録を残しかつ広く社会に状況を伝えるという意味があったのかもしれません。

 

佐倉にある国立歴史民族博物館で、「特別展 諸国洪水川々満水 カスリーン台風の教訓」という本を購入しました。

2007年に葛飾区郷土と天文の博物館が開いた特別展を本にまとめたもののようです。

本展示では、いずれも利根川の決壊によって東京低地にもたらされた1742(寛保2)年の寛保の水害とカスリーン台風を取り上げ、被害の実態を検証しました。また、現在にまで継承されている河川工法の変遷を取り上げ、川を守る人間と水の攻防を追跡しました。 

 

その中で、江戸時代の洪水の図が何枚か掲載されています。

たとえば「権現堂村の堤が150間(270m)切れ、家数60軒のうち4軒を残してすべて流失したようすが生々しく描かれている」(1802年)洪水の図は、川と道が描かれている簡単な地図に文字で何かが記録されている程度のものです。

 

明治29年水害になると、水に流されて助けを求めている人たちや避難する人たちの写実的な絵が残されていて、明治40年に出された「風俗画報 増刊 各地水害絵図」ではさらに精度が増した絵で記録が残っていました。

 

明治30年代後半から40年代(20世紀初頭)になると、利根川の堤防工事の風景や洪水の写真が残っているようです。

1923(大正12)年の関東大震災になると、堤防が破壊された写真が何枚も残されているようです。さらに1947(昭和22)年のカスリーン台風になると、水没した地域や線路上に避難している人たちなどの写真がたくさん掲載されています。まだモノクロ写真で、「GHQ東京撮影」というものもありました。

 

こうした時代の変化を見ると、災害の記憶を絵に描く方法から、写真でリアルタイムにそのまま記録する時代へと変化した一世紀といえるのでしょうか。

そして新聞の写真や洪水絵はがきで伝える時代から、動画で瞬時に世界中へ伝える手段を多くの人が持った時代へと変化したのですが、膨大な災害の記録の何が残っていくのかちょっと想像がつかないですね。

 

 

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「授乳・離乳の支援ガイド」のあれこれ 2 新生児について知らなさすぎた

ちょうど液状乳児用ミルクが発売されたこともあって、いろいろな意見を目にするこの1週間でした。

 

その中で、液状乳児用ミルクのパッケージに「母乳は赤ちゃんにとって最良の栄養です」と書かれていることへの意見がありました。

書く必要がないのではないかという意見に対し、「1981年にWHOが採択した国際規約の中で明示するように決められている」といった内容を目にしました。

実際には1981年代から「母乳は赤ちゃんにとって最良の栄養」という表現を使っていたのは母乳推進団体などで、WHOも最初は母乳のメリット・人工乳のデメリットもわかるようにというニュアンスだったのが、しだいに先鋭化された感じでしょうか。

たとえば2007年、ベネズエラ母乳育児が法律で強制する動きのような。

 

 

*新生児について知らなさすぎた*

 

さて、1981年のWHOの決議の政治的背景はともかくとして、とりわけ1990年代から劇的に新生児についてデーターが揃い出したので、周産期医療関係者にとってはそのスローガンと現実が乖離している葛藤があったのではないかと思います。

 

私自身、80年代終わり頃に学んだ新生児についての内容では全く太刀打ちできないほど、新生児についての知識が劇的に増えたのが1990年代でした。

それは、ベビー用体重計、電子体温計、黄疸計あるいは血糖測定器といった、現在では新生児の客観的なデーターの基本になる医療機器が、ひろくどの施設でも使われるようになったのがこの頃です。

 

まず、ベビースケールが発売されたのが1974年で、当時はまだ10g単位までは測定できないアナログのタイプでした。

それを考えると、生理的体重減少を正確に把握できるようになったのは、1980年代以降です。

「赤ちゃんが欲しがる時に欲しがるだけ」母乳を頑張って吸わせていたら体重減少が10%ぐらいまでになって慌てたり、減少の実態がデーターとしてわかるようになったのは80年代から90年代でした。

 

新生児、特に生まれた直後から生後2〜3日までは、低体温を起こしやすいことがデーターとして出てきたのも簡単に測定できる電子体温計が80年代後半に実用化されたことが大きいものでした。

昔は低体温に気づかずに、後述する低血糖、哺乳力不良など、その後の発達にも影響があった赤ちゃんたちもいたかもしれません。

 

また、日本人は比較的高くなりやすい生理的黄疸の検査も、初めて1980年に経皮黄疸計が開発されてからその機械が使われるまで時間が必要でした。とても高価だったからです。

生理的黄疸が強くなると哺乳力が弱くなりますが、早めに黄疸へ対応することが可能になりました。

そういう赤ちゃんは、母乳に吸い付く力も一時的に弱くなる傾向がありますから、ミルクが必要な場合がほとんどです。

 

そして、活気がないとか哺乳力が弱い場合、低血糖を起こしていないかチェックできるようになったのも、新生児用の血糖測定が可能になったここ20年ほどのことです。

血糖値が低ければためらわずにミルクを補足し、それでも低ければ治療が開始されます。

 

90年代初頭、「母乳育児成功のための10か条 」を先駆的に取り入れていた施設で働きましたが、その頃はまだ私も赤ちゃんは3日分のお弁当と水筒を持っているから母乳だけで大丈夫という聞きかじった言葉を使って、産後すぐからの頻回授乳をお母さんたちに勧めていました。

こうした新生児に関する出生直後の変化やデーターが揃い始めた90年代に、1980年代の「母乳は赤ちゃんにとって最良の栄養」というのはそういう場合もあるし、そうでない場合もあることが明確になリつつある時代だったのだと思い返しています。

 

 出生直後の新生児は元気そうに見えて、こんなことが起きるのかと。

 

1981年ごろなら「母乳は赤ちゃんにとって最良の栄養です」というおおまかなスローガンでも良かったかもしれませんが、90年代に入り、新生児についてそれまでとは比べものにならないほどさまざまなことがわかってきたのに、なぜか母乳育児推進運動ではそのあたりの知識やヒヤリとした経験が浸透していかなかった印象です。

 

 

WHO/UNICEFもそろそろ「母乳育児成功」という表現を見直して、「授乳の支援」にしたほうが良いのではないかと思いながら、日本の「授乳・離乳の支援ガイド」を読みました。

 

 

 

 

 

「授乳・離乳の支援ガイド」のあれこれのまとめはこちら。 

 

 

 

 

「授乳・離乳の支援ガイド」のあれこれ 1 授乳の支援とは

2007年に出された「授乳・離乳の支援ガイド」の改訂のニュースがありました。

検索すると2018年11月17日に日本医事新報社が、改訂のための研究会開催について報道していました。

「授乳・離乳の支援ガイド」改訂の検討に着手ー厚労省研究会

 

厚生労働省の「『授乳・離乳の支援ガイド』改訂に関する研究会」(座長=五十嵐隆:国立成育医療センター理事長)の初会合が開かれ、妊産婦や子どもに関わる医療従事者向けの支援ガイドについて、2007年に策定された現行版からの見直し作業を開始した。同省は年度内をメドに議論を取りまとめ、自治体と医療機関に周知する方針。五十嵐座長は、医療的ケアを要する人の増加や若年層の経済的貧困率の高まりなどを指摘し、新たなガイドに反映する必要があるとの考えを示した。

 

会合では、乳幼児の栄養管理に関する厚生労働省研究班の代表者を務めた楠田聡氏(杏林大学客員教授)が、最新の知見に基づき、ガイド改訂への提言を行なった

 

母乳栄養によるアレルギー疾患の予防効果については「明確なエビデンスはない」とし、乳蛋白質調製粉乳やペプチドミルクがアレルギーを予防するといった指導は「避けなければならない」とした。妊産婦や授乳婦が児のアレルギー予防のために食事を変更しなければならないとの説に対しても「証拠はない」と断じた。

 

また、母乳の利点を啓発することは「肝要である」としつつ、母乳の良さを強調するあまり養育者を追い詰めることのないよう配慮を求めた。

 

 

また同社の2019年3月16日の「『授乳・離乳の支援ガイド』改定案が大筋了承ー食物アレルギー予防の記述が充実」の中では、「母乳栄養児と混合栄養児の間に肥満発症の差はなく」という点や乳児用液体ミルクについても言及されていました。

 

 *授乳とは何か*

 

厚生労働省の研究会の議事録と改訂版(案)を読んでみました。

「授乳の支援に関する基本的考え方」(p.15)には、まず「授乳」の定義が書かれています。

授乳とは、乳汁(母乳又は乳児用調製粉乳及び乳児用調整液状乳、(以下「育児用ミルク」という))を子どもに与えることである。

 

ダナ・ラファエル氏が1970年代から急速に進んだ母乳主義とも言える動きを危惧し、世界各国の授乳の実情をフィールドワークした結論が、母乳哺育とは母乳以外に何も与えないで育てることとは違うということでした。

「私たちは母親がどう育てているか知らなさ過ぎる」

「途上国の実情を知らなさすぎる」

「一般の人々は第三世界の女性や子どもの状態について何の知識もないまま簡単に世間に流布している説を受け入れてしまいました」

それが調整乳反対キャンペーンと母乳推進運動を加速させました。

 

あれからおよそ40年、日本でも「乳児のための授乳の支援」という普遍的な言葉にたどり着くまで、なんと遠回りをしたことでしょうか。

 

もう一度2007年(平成19年)の「授乳・離乳の支援ガイド」を読み直してみたら、大事なことが書かれていました。

「策定のねらい」には、以下のように書かれていました。

そこで、「授乳・離乳の支援ガイド」の策定にあたっては、授乳・離乳への支援が、①授乳・離乳を通して、母子の健康の維持とともに、親子の関わりが健やかに形成されることが重要視される支援、②乳汁や離乳食といった「もの」にのみ目が向けられるのではなく、一人一人の子どもの成長・発達が尊重される支援を基本とするとともに、③妊産婦や子どもに関わる保健医療従事者において、望ましい支援のあり方に関する基本的事項の共有化が図られ、④授乳・離乳への支援が、健やかな親子関係の形成や子どもの健やかな成長・発達への支援としてより多くの場で展開されることをねらいとした。

 

そうなのです。

授乳の話は、どこかで「母乳かミルクか」の方向になりやすいのですが、目の前の新生児や乳児にあるいは親や家族にとっても、今必要な授乳方法は何か、観察に基づいたニーズを標準化してくのが私たちの役目なのですね。

 

12年前といえば、WHO/UNICEFの方針でExclusive breastfeeding(完全母乳)という厳格な定義を日本へと取り入れようとする動きが活発になっていた時代でした。

 

2007年度版とその議事録を読み返すと、そういう雰囲気を感じます。

それでもその圧力とは一線を引いて、あくまでも「授乳方法の支援」であると明確に立場を表明していたのかもしれません。

  

 

しばらく、不定期にですが、この「授乳・離乳の支援ガイド」と議事録を読んで考えたことが続きます。

 

 「授乳・離乳の支援ガイド」のあれこれ、まとめ。

2.   新生児について知らなさすぎた

3.   災害という現実が明記された

4.   新生児期を分けて考える

 

10年ひとむかし 46 杉と花粉症

毎年のように、「今年は花粉症から解放されたかもしれない」とかすかな期待を抱くのですが、やっぱりシーズンが来ました。

昨年もやはりちょっと期待していたのに、3月下旬になってヒノキで一気に悪化したのでした。今年も早めに、私の場合1月に入ると杉の花粉を感じるので1月に受診したところ、「予防的に飲まなくても、症状が出てからで大丈夫です」と言われました。以前は、症状が出る前、1〜2週間前から内服開始を勧められていたのですが、花粉症治療のガイドラインが変わったのでしょうか。

 

今年はさらに2月に杉の名産地に乗り込むという無謀なことを実行したので、出発前には薬も準備し、戦々恐々として出かけたのでした。

ところが全く平気だったので、今年こそはもう大丈夫かもしれないと思ったら、この日曜日から発症しました。月曜日は耳鼻科がとても混んでいて、先生曰く、「雨の後で飛散量が一気に多くなったのでしょう」とのこと。

 

*花粉症という言葉が広がったのはいつ頃か*

こちらの記事に書いたように、1970年代から80年代初頭は医療従事者でもまだアレルギーについてはわずかな知識しかない時代だったと思い返しています。

花粉症という言葉も教科書で使われていたかどうか。

 

私はむしろ、英語の「hey fever」を先に覚えた記憶があります。というのも、難民キャンプで一緒に働いていたニュージーランド出身の医師からその言葉を聞いたのでした。

「hey fever」、日本だったら何になるのだろうと、当時の辞書を引いたら「白樺などに反応する」とあって、じゃあ北海道とか寒冷地の病気なのかなと思っていました。

まさか、その10年後には自分の身に起こるとは。

でもしばらくは花粉症だとは認めたくなくて、あれこれと民間療法的なものでなんとかしようとしていました。知人が受診して劇的に楽になったという話を聞いても、認めたくなかったのですね、花粉症になったという事実を。

 

それと、当時から杉花粉症は大気汚染などの複合的な要因で発症することは言われていましたが、なぜむしろ公害などが改善されて来た80年代から90年代の方が患者数が増えたのだろうと疑問に思っていました。

あるいは杉や檜の植林地では患者数が多いのだろうかと疑問を感じつつ、そのままにしていました。

 

紀伊半島から戻って来て検索したら、2011年に林野庁から出された「スギの花粉の生産量」という資料が公開されていました。

その「スギの花粉の生産量」では、以下のように説明されています。

スギが本格的に花粉を作るのは、早い場合で25年生前後、通常は30年生程度から。 

 

Wikipediaスギ花粉症では「日本で1960年頃からスギ花粉症が急増した原因としては、農林水産省が推奨して来た大規模スギ植林が主に挙げられている」と書かれていますが、実際には1960年代から急増したのではなくて、花粉の生産量が増える樹齢に達した1980年代から90年代頃に花粉症が急増するというタイムラグがあったのではないかと、私自身の記憶を辿っているのですがどうなのでしょうか。

 

林野庁のその資料では「花粉症の有病率は29.8%」とありますが、私が発症した1990年代はまだ数十人にひとりくらいの感じでした。

また「有病率は、特に都市部において高くなる傾向」とあるので、スギ花粉が原因ではあるけれど「スギ憎し」「スギをなくせ」だけでもなさそうですね。

 

もうひとつ林野庁から出されていた「平成25年度森林および林業の傾向」(2013年)の「我が国の森林整備を巡る歴史」を読むと、やはり荒廃した山による洪水に対応するために早く成長するスギやヒノキが選択されたことなどが書かれていました。

 

現在の私たちの生活が半世紀後、一世紀後にさまざまな影響を与えるということを花粉症の歴史から学ぶことができると思うのですが、ではいったい何をどうしたら良いかとなると難しいですね。

10年後でさえも、想像がつきません。

 

 

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