「授乳・離乳の支援ガイド」のあれこれ 4 新生児期を分けて考える

「授乳・離乳の支援ガイド改訂版」が正式に出されたようです。

授乳の定義とともに、こう書かれていました。

乳児は、出生後に「口から初めての乳汁摂取」を行うことになるが、新生児期、乳児期前半の乳児は、身体の諸機能は発達の途上にあり、消化・吸収機能も不十分である。そのため、この時期の乳児は、未熟な消化や吸収、排泄などの機能に負担をかけずに栄養等を摂ることのできる乳汁栄養で育つ。

 

新生児期から乳児期前半の「授乳の支援」の難しさが明確に記されるようになったことは、とても前進だと思いました。

ほんと、生まれた直後からの新生児に授乳をするというのは、簡単なことではないのです。そして、その難しさも日々新生児に接している私たちでさえうまく表現できないし、なぜ難しいのかという理由はまだまだ「わからない」としか言いようがない段階です。

 

「母乳育児」のためには出生直後から例えば1日に8回以上とか10回以上といった数値で、頻繁に吸わせることを勧められますが、実際の出生直後からの新生児というのは頑として口さえ開けなかったり、しょっちゅう吐いたりして、生後24時間以内に1〜2回の授乳もできないこともあります。

 

赤ちゃんは3日分のお弁当と水筒を持って生まれてくるから、あまり飲まなくても大丈夫なんてことはなくて、生後数時間ぐらいでも低血糖を起こし始めることがあるので、なんとか飲みそうなときに少しずつでも授乳を試して見るうちに、ゲボゲボしている新生児なのに飲みたそうな瞬間があります。あるいは、だんだんとゲボゲボと吐かなくなるタイミングがあるようで。

ああ、この変化を待っていたのか、これを伝えたくて泣いたりぐずったりしていたのかとパターンが繋がって見えてきて新生児の哺乳行動とは、消化吸収排泄までの統合的な複雑なしくみなのだということが見えてきたのでした。

だいたい、胎便が2〜3回ぐらい出ると、少し哺乳意欲が出てくるようです。

 

ようやく、哺乳意欲が出てきたと安心していると、ミルクを足していても体重が7〜8%ぐらいまで減少する時期に入ります。

なるべくミルクは足さずにと頻回授乳で頑張っていたお母さんが焦り、不安が大きくなる時期です。

さらに黄疸が強くなると、それまで頻繁に吸っていた新生児が再び吸わなくなって眠りがちになってしまうこともあります。

 

なんとかその黄疸の時期も超えて、少しずつ体重も増え始めて退院した後、「赤ちゃんはよく吸ってくれて、おしっこもうんちもよく出ていたのに」、2週間後とか1ヶ月健診で、ほとんど体重が増えていないこともあります。

頑張れば母乳で育てられると思っていたお母さんが、赤ちゃんにかわいそうなことをしたと自分の判断に自信をなくしてしまうことでしょう。

 

「母乳が足りている目安」としてよく耳にする、「オムツがずっしりするほどのウンチ、オシッコの回数」もあてにならないことがあります。

産院のスタッフの、「母乳の飲ませかた」の技術的なものや熱意が足りなかったのでしょうか?

 

そうではなく、新生児期というのは授乳にだけに気を取られずに、もっと複雑な「消化・吸収の発達途上」であることに注意してみていくことが必要だということなのだと思います。

 

24時間、医療の専門職によって新生児が観察されるようになってたかだが半世紀なのだと、冒頭で紹介した箇所がようやく言語化されたのだと思いました。

生後1ヶ月ごろまでは、生き延びさせることが難しい時期だからこそ「新生児」とあえて時期が括られているのだろうと、切実に感じるようになりました。

ほんとうに栄養を与えていれば育つというわけではないので。

 

 

次の改訂版では、新生児期の授乳の全体像がもう少し明らかになって、「新生児期の授乳」という独立した章ができるといいですね。

 

 

「授乳・離乳の支援ガイド」のあれこれまとめはこちら

新生児の「吸う」ことや「哺乳瓶」に関する記事のまとめはこちら

 

10年ひとむかし 48 観光

日帰りや一泊であちこちに出かけているのですが、訪れた場所にはだいたい観光協会の事務所があることに驚いています。

地図を見ても、大きな駅のそばには必ずといってよいほど事務所があります。

 

私は事前にだいたいのルートは決めて行くものの、行き当たりばったりも好きなので、ふらりと立ち寄って地図をもらうこともしばしばあります。

この地図がまた、その地域の特色がわかるようなものがあって見るだけでも楽しいものです。

また、最近では目的別の散歩コースを示した地図が増えて、歩くために役立っていますし、ネットやガイドブックでは知ることができなかったような情報もあって、地元ならではの細やかさだと感心しています。

 

最近では、ジオパーク的な情報もあったり、「観光」というよりはその地域の総合学習的なものもあって、訪れる目的もいろいろなのかもしれませんね。

そして外国からの旅行者にも、多言語で対応しているところもあります。

 

 

ただ、私自身はあちこちを訪れても、それ自体は「観光」というものではなくて、どちらかというと「見学」に近い感じです。

あるいはこちらの記事に「貧困・人権問題あるいは開発・環境問題を他の国の人に知ってもらうために、exposureという方法がありました」と書いたのですが、その「触れる、身をさらす」というニュアンスが、私の散歩には今だにどこか残っています。

 

 

*観光という言葉の変化*

 

観光の「日本における『観光』」を読むと、大正時代にtourismの訳語として定着したが定義は定まらないまま昭和初期に国際観光局が設置され、そして今に至っているのかもしれません。

政府の観光政策審議会の「今後の観光政策の基本的な方向について」(答申第39号、1995年6月2日)では、観光の定義を「余暇時間の中で、日常生活圏を離れて行うさまざまな活動であって、触れ合い、学び、遊ぶということを目的とするもの」とし、「時間」、「場所・空間」、「目的」の3つの面から規定している。 

 

たしかに日常生活圏を離れることが多いけれど、私の中ではふだん歩いている場所を別の道を通ってみることも同じくらい楽しく意味がありますから、観光と散歩の境界はとても曖昧です。

 

観光と一口では言い表わせないほど、楽しみ方や目的がひとそれぞれの時代になったのかもしれないと、観光協会の事務所を見るたびに思うのです。

 

 

「10年ひとむかし」まとめはこちら

食べるということ 37 ママカリ

少し前のことになりますが2月の晴れた暖かい日に、ふらりと葛西臨海公園へ行きました。

併設されている水族園には結構行くのですが、なかなか時間がなくて公園内を散歩するのは久しぶりでした。

 

葛西水族園には2つの人工干潟が作られていて、東なぎさはヒトの立ち入りは禁止されているのですが、西なぎさは水辺を歩くこともできます。

風もなく穏やかな天気に誘われて、しばらく海辺を歩きました。

寄せて返す波の音を聞いているだけで幸せな気分です。

 

以前からこのなぎさ付近に生息する生物の写真と説明書きの掲示板があったのですが、あまりよく読んでいなかったのか、初めて気づいたことがありました。

「ママカリ」がいるのだ、と。

 

「ママカリ」というのは食べ物の名前なのですが、正しくはサッパだそうです。

その説明に、こう書いてありました。

サッパ 

体は木の葉のように左右に平たく背中より腹が下に出ています。群れを作って生息し、「ママカリ」とも呼ばれています。

 

Wikipediaの「別名」にママカリの由来が書かれています。

 ママカリは「飯借り」と書き、「飯が進み、家で炊いた分を食べきってしまってもまだ足らず隣の家から飯を借りてこなければならないほど旨い」に由来する呼称である。ハラカタは腹部の鱗が硬く発達していることに由来する。ママカリ料理(酢漬け、ママカリ寿司など)は岡山県の郷土料理となっている。

 

ママカリは母の大好物で、 私も子どもの頃からこの名前の由来を何十回と聞かされていました。暗示にかかったように私も好きなのですが、関東ではなかなか手に入らない魚でした。

ここ10年ほどでしょうか。近くのスーパーで時々、千葉県産の「ママカリの酢漬け」を扱っていることがあって、ちょっと塩分を気にしながらも誘惑に負けて購入してしまうのでした。

 

東京湾にもいたのですね。

「サッパ」もなんだか英語か何かの学術名のように聞こえますが、Wikipediaの説明では「淡白でさっぱりしている味に由来する」と書かれています。

なんだか、ヒトに食べられるためだけに分類されているようで申し訳ないですね。

 

昨年、岡山へ行った時も、まずはこれを食べたのでした。

東京湾でたくさん育って、身近な食べ物になると嬉しいですねえ。

 

 

 

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散歩をする  123 焼津漁港

天竜川をみた後は、浜松から東海道本線に乗って三島まで海岸沿いの風景を見ようと計画を立てましたが、日が長くなったのでどこか途中下車できそうです。

それなら、かつてから行ってみたいと思っていた焼津漁港に立ち寄って見ようと思いました。

 

なんとなく静岡市の近くという記憶はあったのですが、地図でパッと見つけられませんでした。

というのも、今までけっこうあちこちの漁港を歩いた経験からいくと、漁港がある地形というのは少し湾になったようなところでした。その先入観から探していたので、比較的まっすぐな海岸線にあった焼津港が見つからなかったようです。

子どもの頃からの遠洋漁業の中心地というイメージと、その地形が違いました。

 

地図を見ると、駅から徒歩数分の距離ですし、なんと漁業資料館もあるようです。

 

私が漁業や漁港に少しばかり関心があるのは、1980年代から90年代に東南アジアの漁村で過ごしたことがきっかけでした。「遠洋とはよその国の沿岸・沖合である」という水産関係の資料の一言で、ずっと魚を採りすぎて来たのではないかという思いがありました。

当時のままの考え方であれば、焼津漁港を見てみたいという気持ちも、遠洋漁業へただ批判的な見方を持ち続けていたかもしれません。

その後、歴史を行きつ戻りつ考えていくうちに「タンパク質が足りないよ」という時代を支えたのも漁業でしたし、その第5福竜丸も焼津漁港の船だったことなど、時代の背景やその地域の歴史への関心がひろがったことで、安易に拙速に物事を批判的に見ていた自分を省みるようになりました。

 

ということで、今回は、なぜこのまっすぐな海岸線に大きな遠洋漁業の港ができたのか、それを知りたくなったのでした。

なんだかブラタモリみたいですね。

 

 

*浜辺だった焼津*

 

焼津駅から数分で、焼津漁業資料館につきました。

たくさんの漁具と、漁船の一部まで展示してあって、「どうぞ自由に触ってください」とスタッフの方が声をかけてくださいました。

 

地図や写真が展示してある一角で、ヒントが見つかりました。

江戸時代からカツオ漁の盛んだった焼津は、瀬戸川の河口に広がる浜辺だったようです。

 

砂浜に直接水揚げしている昭和初期の写真があり、こう説明書きがありました。

艀(はしけ)で荒浜へ水揚げ

焼津の海は、急深で容易に港が作れないところであったため、艀を用いて砂利の浜へ水揚げをした。

 

焼津市の歴史を読むと、明治時代から漁業組合が作られ、「1941年(昭和16)8月:漁船の徴用で焼津の遠洋漁船のほとんどが消滅」とあるように、戦前にはすでに遠洋漁業の基地になっていたようです。

 

ところが、戦後の1948年(昭和23)の「"くりばえ”で鮪の水揚げ」という写真では、まだ浜辺まで、ロープに鮪をくくりつけて水揚げしている様子が写っています。

そして同じ年に、アイオン台風の高波によって浜通りの民家にまで堤防を越えて石や岩が波によって打ち付けられている写真があるのですが、写っているのは砂浜でした。

 

ちなみに、Wikipedia第五福竜丸の「当時の第五福竜丸」では、コンクリートの護岸に停泊している写真がありますが、ここが焼津漁港であるとすれば、1951年(昭和26)に焼津漁港が完成した後に写したものということになります。

 それ以前は、あの荒浜まで少し離れた海に停泊している漁船から水揚げしていたのでした。

1980年代から90年代に、東南アジアのあちこちの漁村で見た風景のように。

 

近代漁港が完成する前年、1951年の「素掘りの港」という写真には、こんな説明書きがありました。

ー当時を知る漁業者の回想ー

素掘りながらも港も出来て、棒杭にモヤイ網をとって、泥んこの所へ飛び下りた時には、本当に「ああ港ができて便利になっていいなあ」と涙が出るほど嬉しかった。

 

戦前から東南アジアの海まで出かけてたくさん魚を採り、大きな近代漁港へ水揚げしていた遠洋漁業の中心地の焼津港という私のイメージは、間違いであったことがわかりました。

 

焼津の資料館に行って見て、本当によかった。

ただの思い込みで、遠洋漁業へ携わった人たちへ勝手に反発した感情を持っていたことに気づけたのでした。

 

さて、「なぜ砂浜だった焼津港は遠洋漁業の中心地になったのか」の答えですが、おそらく、「焼津の海は、急深」だったからではないかと思います。

大型漁船が入るには水深が深い場所が必要なことは、ODA(政府開発援助)で世界各地に漁港が建設されていた時期の資料で知りました。

そして、その地形と、外からの資本が結びついて発展した。

そんな感じでしょうか。

 

資料館から出てすぐの港では、これから出航する漁船に食糧などを大勢で積み込んでいました。

漁港って、いいなあ。

 

 

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散歩をする  122 遠州から駿河へ

掛川城と逆川を中心にして、きっと一日中歩き回っても面白い地形だろうと思いましたが、せっかく遠出をするので欲張って川や海も回ってみたいしと、あれこれ悩みました。

その日は掛川から天浜線に乗り、天竜川の大きく蛇行した部分を見て浜松へ出て、それから東海道本線に乗ることにしました。

 

東海道新幹線ができる前、まだ幼児だった1960年代半ばごろに、祖父母のいる倉敷へ行くために東海道本線を乗り継いで行った記憶があります。

静岡県内の東海道本線と新幹線のルートは一部重なり合っているのですが、清水あたりから三島までは、東海道本線は新幹線とは離れて、ずっと海沿いを走ります。これで海ももゆっくり見ることができそうです。新幹線だと、ほんと瞬きもできない早さで通過してしまうので。

 

静岡県というと「駿河」なのですが、掛川に行ってみて、そうだ、駿河だけでなく遠州もあったと、たぶん中学生の頃に習った歴史が思い出されました。

地図を見ても城跡があちこちにあって、天浜線のあたりはどんな風景なのだろうと興味が湧きました。

 

平日のお昼頃でしたが、掛川駅を出発した天竜浜名湖線は地元のかたや高校生、観光客が次々と乗り込んでいっぱいになっていました。

車窓から見る風景は、早春の草花が咲き始めたこともあって、ちょっと桃源郷のようです。

それほど急峻ではない山々と扇状地が次々とあらわれて、広い田畑を中心に町があり、祖父母の地域と重なるような風景です。

木材の産地だけあって、天浜線無人駅にも素敵な木のベンチが並んでいました。

 

 

天竜川を渡る*

 

天竜二俣駅で列車を乗り換えると、じきに天竜川の鉄橋に差し掛かります。

鉄橋が近づいてきたので写真を撮ろうと構えていると、あっという間に対岸につきそうな距離でした。

あわてて山側を見ると、下流とは全く違う細く蛇行した川の風景でした。あの熊野川の河口のようです。

 

天竜川といえば佐久間ダム、というのが子どもの頃からの知識でした。

当時は高度成長期でしたから、洪水対策というよりも電源開発のためのダムとして覚えたのでした。

 

今回、行く前に地図を眺めていて、改めて天竜川の流れ方に驚きました。ちょうど天浜線の鉄橋がある部分から河口へはまっすぐ広い河道が遠州灘に向かって描かれています。

鉄橋があるあたりの大きく蛇行したところから上流へは、何度も何度も細い川が蛇行しています。急峻な山の合間を流れていることが想像できます。

水源はどこだったかと辿っていくと、なんと諏訪湖でした。

 

帰宅してから改めてWikipediaの説明を読み、治水の歴史に圧倒されています。

東海道新幹線東海道本線で通過する天竜川の風景からは、想像ができないものでした。

地図で大きく蛇行するところに惹きつけられるように天浜線に乗ってみたのですが、いつかこの遠州の治水の歴史も辿ってみたいと、新たな課題ができました。

 

 

西鹿島遠州鉄道に乗り換え、浜松から東海道本線駿河の国へ向かいました。

もう少し続きます。

 

 

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散歩をする 121 逆川

またしばらくは急な呼び出しもなさそうな日常になりそうなので、行ける時に散歩をしようと地図を眺めました。

 

前回、紀伊半島へ向かう途中、名古屋までいくつの川を渡るのか車窓の風景に目を凝らしていたのですが、静岡県というのはこんなに山が多い地形だったのかと少し驚きました。

早朝なので、朝日が眩しくないようにとE席側に座ったのですが、静岡市を抜けると窓の外はずっと山が続いています。

駿河湾に沿って、平坦な場所が広がっているイメージでした。

航空写真で確認すると、A席側であれば牧之原台地のお茶畑になりそして浜名湖へと平地側の風景になるのですが、E席側だと結構山が近いようです。

 

帰宅してから、その気になったあたりを見ていると掛川市が目に入りました。

ハシビロコウがいる掛川花鳥園があることでいつか行ってみたいと思ってはいたのですが、地図を眺めていると不思議なことがありました。

静岡県には安倍川富士川、大井川、天竜川と大きな川がいくつも流れていますが、北側の山の方から南の海へと流れています。

 

ところが掛川市を流れる川は、東から西へと流れているようです。

そして川の北側には、細い川が何本もあるのに対して、南側はほとんど川がなく、溜池か沼か、水色の場所が点在しています。

 

逆川

Wikipedia地名の由来を読むと、地図で感じたことがまさに掛川の由来であることが書かれていました。

中心部を流れる逆川の流れが、切り立った崖のように見える点から「缺けた川」と呼ばれ、次第に略されて「懸川」となり、「掛川」と改名された。

 

逆川」というのは、 玉川上水の導水路河川改修の年表の「1641年 逆川(関宿)を開削する」でもみた用語ですが、Wikipediaの説明を再掲します。

・潮位の上昇や合流先河川の増水などによって、水が逆流することがある河川

・地形などの影響で周辺の他の河川とは逆の向きに流れている河川

・潮流の変化により流れが変わる運河

 

掛川の中心部を流れるのは、2番目の意味でしょうか。

この場所を見て見たい!

ちょうどいい機会だから、ハシビロコウにも会ってこようとこだまに乗りました。

 

牧之原台地からの湧水だろうか*

 

掛川駅で降りて、まずは南側にある掛川花鳥園に向かいました。

ハシビロコウに会えて、大満足。そのあと、花鳥園の屋外に出てみて、地図の水色の意味がわかりました。

丘陵地が裏手に迫っていて、そこに大きな池があります。花鳥園ではその池を利用して、白鳥やペリカン、カモ類がいます。

地形から見て谷津で、他の水色の部分は時間がなくていけなかったのですが、おそらく湧き水が豊富な場所なのではないかと思えました。

 

花鳥園から掛川城へ向かう道は、河岸段丘であることがわかる傾斜が続いています。

花鳥園側と、逆川を挟んで対岸にある掛川城側は、なるほど「切り立った崖」に見えそうです。

 東海道五十三次の宿場町として名前は知っていたけれど、地形まで考えたことがなかったのでした。

 

それにしても、川を中心に静かで落ち着いた町で、今度またゆっくり歩いて見たいと思いました。

 

 

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気持ちの問題  56 自分であることの支えが必要な人

先日、母と一緒に地図をながめていると、地図に書き込まれた場所以外にも、「ここも行った」「そこも通った」と驚くほどあちこちに行っていることがわかりました。

そして「あなたも行けるときに行けばいい」と。

よし!その一言もらった、と母の人生を見守りつつ私も私の人生を過ごすからねと背中を押されたのでした。

 

というのもその面会の直前、母から「私は生きている意味がない」といった内容の手紙が来たので、慌てて面会に行ったのでした。

年をとるというのは、ひとつまたひとつとさまざまなものを失っていくことなのですが、それに直面すると時々、母はこういう行動をとってきました。

ときには、自殺未遂にちかいことまで。

昔から 感情の波が大きい人で、自分の感情を理解してもらうために実力行使のようなことをする激しさがありました。

以前も、とるものもとりあえず駈けつけると「〇〇さんが冷たかったから」と、それからはケロッとしているのでした。

 

こころの内側にため込んだ何かが膨らみ、爆発させないと感情を落ち着かせられない何かがあるのでしょうか。

正直なところ私には、「それぞれの事情があるのだからそんなことで思いつめなくても」と理解できないようなことが、母には自身の存在をないがしろにされたと映るようです。

 

そんな母が50代から70代にかけて、ツアー旅行に参加してあちこちを見てまわった記憶が、自分であることを支えているかのように良いものになっているようです。

たくさん、そういうものがあって本当に良かったと思います。

 

ただ、やはり私とは何かを考えることを避けてきたのではないか、そこが父との違いではないかとみえるのですが、やはり母には母にもわからない何かに突き動かされているのでしょう。

 

 

母といえども、いえ、母だからこそ理解しがたい距離があるのかもしれませんね。

 

 

 

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母乳育児という言葉を問い直す 29 「富士登山は完全母乳育児」

今日のタイトルは、「ペリネイタルケア」2016年3月号の、「特集Dr.水野に学ぶエビデンスに基づいた母乳育児〜母乳育児は山登りと同じ〜」という記事に書かれていた言葉です。

その冒頭はこんな内容から始まっています。

2015年7月に世間を騒がせた、ウエブサイトで売買された"偽母乳"事件を発端に、母乳育児そのものが、ゆがんだ誤解を 与えているように思います。哺乳動物であるヒトが、出産したお母さんの母乳で育つのは普通のことなのに、母乳育児を支援することが、あたかも悪いことであるかのように報道されることもあります。

(強調は引用者による)

 

見方は人それぞれですが、日々接するお母さんたちは2015年以前から、「赤ちゃんを無事に育てるための授乳方法を知りたい」という雰囲気でした。

たぶん、社会の現実のニーズと母乳授乳に熱心な周産期関係者とは温度差が広がっていったのではないかと思います。

 

 

さて、「母乳育児は山登り」という記事を、記録のために残しておこうと思います。

「母乳育児は山登りと同じ」といえるでしょう。

最近、山ガールが増えています。土曜や日曜の早朝に電車に乗ると、リュックを担いだ女性のグループに出くわします。「富士山に登ってみたい」ーー日本人として生まれたなら一度は思うこと。もちろん、高尾山で充分満足という人もいるでしょうし、高尾山を足掛かりに富士山までステップを踏んでいく人もいるでしょう。

どんな山でもそうですが、一人で黙々と登るのはきっとつらいことでしょう。道に迷ってしまうかもしれません。途中でつらくなって、「ムリ、ムリ」と早々に諦めてしまうかもしれません。そこで、山をよく知っている専門家、すなわち"登山ガイド(登山のエキスパート)" と一緒に登ったらどうでしょう。同じ志を持つ仲間も一緒であれば、なおさら頼もしい限りです。一歩一歩の山道の登り方、登山に欠かせない行動食のこと、休みを入れるタイミングを教えてくれて、もちろん道に迷うこともなくあなたのペースに合わせて登ってくれます。登山道の脇に咲く、高山植物の話もしてくれて、山登りのつらさを感じた登山者の心を癒してくれるかもしれません。途中で滑ったり、こけたりするかもしれませんが、登り切って頂上から見る眺めは素晴らしく、そこで頬張るおにぎりは格段においしいことでしょう。

 

富士登山は、「少しずつ山登りに慣れ体調管理をしていれば、誰でも登れる」ーーしばしばそのように言われます。しかし、予期せず天候が悪くなったり体調を崩したりしたために、断念せざるを得なかったということはあり得ます。その時に、無理せずに引き戻す決断を下す。しかも、山登りに挑んでいた人たちが納得して戻れるようにするのも登山ガイドの重要な仕事です。

はじめに、「母乳育児は山登りと同じ」だと言いました、「妊娠したらおっぱいだけで育てたい」ーー多くの妊婦さんがそう考えています。日本人の多くが「一度は富士山に登りたい」と考えているようなものです。ですので、この特集では富士登山は完全母乳育児に、高尾山登山は人工乳も使いながら母乳育児をすることの比喩表現として使っています。 そして登山ガイドは助産婦さん:看護師さん、小児科医・産科医を、一般に登る仲間は母乳育児をしているママ友を、登山の伴奏者は赤ちゃんを、天候不順のときに引き返すことは、母乳だけで育てることが赤ちゃんにリスクがあり人工乳を補足することを意味します。

 

登山ガイドに知識がないと、天候を読み違えて、これから天候は回復するころなのに「無理せずに引き返そう」と決断するかもしれません。これではガイド失格ですね。ガイドに求められるのは、十分な知識に加えて、山を登り切るために必要な心の栄養を提供できることでしょう。登山に疲れてきた様子の人がいたら、そばによって声を掛けたり、ジョークの一つも行ったりする。それによって、もう一頑張りできて山頂を極められるかもしれません。ですからエキスパートはエキスパートとなるための知識、判断力、そして寄り添う心が必要となります。登山の経験だけでなく、天候を把握する能力を持ち、高山植物の魅力を伝え、グループの統制を取りグループ内に「体調不良?」という人がいたら登山を中止することを納得してもらえるだけの説得力があること、そして最後にエキスパートに求められるのは、登山者との信頼関係を構築することでしょうね。

おっと、ついつい登山について語りすぎてしまいました。母乳育児に話を戻しましょう。以下に、各特集のエッセンスを記します。お母さんと赤ちゃんが満足のいく楽しい母乳育児を行えるように、皆さんの知識をup-to-dateしましょう。

 

「赤ちゃんは伴走者」

たぶん、ここが「授乳の支援方法」を求めている人と「母乳育児」支援との視点の差かもしれません。

 

 

「母乳育児」というのは富士山級から高尾山級とゴールにも差があるようです。

だから「母乳を一滴でも飲ませれば、それは母乳育児です」という言葉が広がったのかと、改めてこの記事を読み直しています。

 

 

それを求めている人もいるのかもしれないけれど、少なくとも新生児や乳児ではないし、日々接するお母さんたちの悩みともなんだか違うのですけれど。

 

 

それにしてもこうした気持ちを鼓舞される記事を読んで、また人一倍授乳に熱心なスタッフが繰り返し出現して、失敗が生かされずに、同じ過ちを繰り返していくのではないかと不安になってしまいます。

 

 

 

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存在する 18 完璧な地図はないけれど

インターネットの地図は、いろいろな可能性が広がるとともに、ある日忽然と存在していたものがなくなることがあることを実感しているこの数日です。

グーグルマップに不具合 ゼンリンとの契約変更か

2019/03/23  日本経済新聞

 

米グーグルの地図アプリ「グーグルマップ」上で、道路が消えるなどの不具合が発生している。これまで地図情報を提供していたゼンリンとの契約が生じたとの見方が強い。両社は具体的なコメントを避けているが、不具合の収束に時間がかかる可能性もある。

 

 

数日前、福田歴史民族資料館について書こうと地図を見ていたら、つい最近までは地図上のマークをクリックすると資料館についての情報が表れるようになっていたはずなのですが、マークがなくなり、資料館の名前も気持ち、小さく薄い字体に変わっているように見えました。

試しに、油壺験潮所をみてみたら、地図からその存在さえ消えていました。

 

どうしたのだろうと思っているうちに、冒頭のニュースを知ったのですが、私がいつもみているのはアップル社のマップです。

どうやらゼンリンとは関係がなさそうなのですが、この変化は単に偶然ということなのでしょうか。

 

地図をながめることが好きで、例えば地図上で見つけた1本の用水路から知識が広がるように、最近の私は地図からいろいろなことを知るきっかけになっています。

油壺験潮所も偶然、地図で見つけて、そこからまた測量の世界を少し学ぶことができました。

 

私がとても便利だと思っていたアップル社のマップについてWikipediaを読むと、2012年ごろにはたくさん批判されていたようですから、やはり完璧な地図はないということですね。

アップル社のマップもかなり詳細で助かるのですが、実際に歩いてみると歩く人の視線ではないこともしばしばあります。

 

ただ、そういうことはこれから技術的なもので改善できる可能性があるのですが、「そこに存在しているものを存在していないことにする」となると、地図にはやはり「あるところにはある」という世界があるのかなと思いました。

 

 

「存在する」まとめは こちら

地図に関する記事のまとめはこちら

 

イメージのあれこれ 25  新田

昨年から今年にかけて、今までのイメージからもう少し具体的に理解できてきた言葉があります。

「新田」です。

 

地図で、青い用水路がまっすぐに張り巡らされて碁盤の目のように道が通っているところを拡大すると、だいたい必ずといってよいほど、「〇〇新田」という地名が見つかります。

用水路をたどると、結構な確率で新川があり、排水機場がみつかります。

それを見つけると、散歩コースの候補地になっていますが、実際に訪ねてみると見渡す限り住宅地に変わっているところもあります。

 

「新田」とか「新田開発」という言葉はいつの間にか知っていたのですが、何を指しているのだろうと改めて考えてみたところ、ほとんど私には理解できていない言葉だったのでした。

 

まずはWikipediaで検索してみると、新田という項があり、定義が書かれています。

新田(しんでん)とは、新たに田や畑などとするため開墾してできた農地のことである。また、その地名。 

水田だけでなく畑の開墾も、新田に含まれるようです。

 

「江戸期の人口増加と食料増産」の説明を読むと、これまで散歩をしてきた地域のこととつながっていくようです。利根川東遷事業のような川の付け替えとか、玉川上水から通水した都内での地域ぐるみで水を盗まずを得なかった状況とか。

 

どうやら江戸時代以降に「新田」という言葉が使われ始めたらしいということが見えてきました。

ただ、もう少し詳しい説明を期待していました。

誰が新田を開墾したのか、その当時の状況はどんなだったのか、そのあたりです。

 

倉敷の干拓の歴史資料を探しても、干拓事業を始めた人や会社の名前は見つけられるのですが、そこに入植した人たちは誰なのか、どういう人たちなのかはなかなか見つけられません。

どうやら、私の曽祖父が倉敷の新田へと移ったらしいのですが、なぜなのかどういう状況だったのかを知りたくても、すでに母の代ではわからないようです。

 

 *「東京新田」*

 

昨年11月に印旛沼へいく時に立ち寄った国立歴史民俗博物館の書籍コーナーで、真っ先に目に入った本がありました。

「「東京新田」を歩く 東京窮民の下総開墾」

青木更吉氏、崙書房出版、2011年

 

パラパラとめくったところ、目に入ってきたのが以下の箇所です。

広辞苑』によれば新田とは、「新たに開墾した田地。特に江戸時代のものをいい、中世以前は墾田という」としている。それなら、明治以降の新田は何と呼ぶか、それは新田ではなく開墾や開拓だろう。 これはほぼ定説に近いようだが、私は明治維新の下総牧跡の開墾でもあえて東京新田と呼びたい。

 

なるほど、福田古新田も江戸時代でした。

 

この本では、江戸時代に印西、野田、流山付近で活発におこなわれた新田開発も、江戸後期に入ると進まなくなり、そして明治2年、再び下総の開墾が活発になったことが書かれています。

 

では、なぜ「東京新田」なのかというと、その開墾地が東京府直轄地で東京在住の資産家たちの開墾会社による、東京の窮民授産が目的であったという点が描かれていました。

明治2年3月の「下総牧々 開墾大意」が出て、6月には「窮民授産開墾規制」が発表された。それらによると、窮民の3年間の生活は保障するというもの。衣食住そのほかの諸経費は会社で負担し、後年その費用を償還すれば3町歩までの地主になれるというもの。

 

ただ、窮民救済という理想を掲げた構想と、東京の治安のための棄民政策のあたりの現実、真面目に鍬一本で開墾する人もあれば、生活を保障されたことで昼間から酒に溺れてしまう人もありといった話に、私の「新田」 のイメージがまた変わったのでした。

 

「新田」という言葉になぜ私が惹かれているのか、何を知りたいのか。

それさえもまだ霞の中であることを、この本で突きつけられた感じです。

 

 

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