散歩をする 303 古石場川親水公園

6月初旬、重い腰を上げて出かけたのは、江東区でした。

気持ちが沈んでいる時には、葛西臨海公園で海をぼーっと眺めるのもいいかなと思って、なんとなく地図を眺めていました。

そして京葉線に乗って、辰巳国際水泳場と東京アクアティクスセンターを見たら、オリンピックの件のモヤモヤはあるけれど、競泳観戦の記憶から元気が出そうです。

散歩を始めた頃に歩いた、あちこちの運河も懐かしいですね。

 

越中島のそばに、くの字に水路が曲がって公園になっている場所とその水路が木場駅の方まで東へまっすぐ続いて「古石場川親水公園」とありました。

今までこの辺りの地図も何度も眺めていたのに、初めて気づきました。そして「古石場」という住所にも。

「木場」と「石場」どんな関係でしょう。散歩の計画ができました。

 

越中島から古石場へ*

 

辰巳に行くと決めたらなんだか元気が出てきて、その前にまずは近所のプールでひと泳ぎしました。

気持ちって他愛ないものですね。

 

葛西臨海公園まで行くと時間がなさそうなので、新木場駅のホームから東京湾を少しだけ見てから京葉線に乗りました。

カーブでぐんとあの白い辰巳国際水泳場に近づきます。本当に美しい建物だと思いますね。

そばにはアクアティクスセンターが見え、今度チケットを買って競泳観戦できる日はいつかなと思っていると、あっという間に電車は地下へと入って行きました。

 

越中島駅に降りて北側の路地を歩いて行くと、一段高い場所に公園がありました。

調練橋公園で、地図では東端まで運河が通っているようです。

もう少し歩くと、道路から2~3mぐらい高くアーチ型に架けられている橋で対岸が見えないような、運河がある地域の独特の高低差の場所が見えてきました。

そこが、地図に載っていた水路で、元々の運河を埋め立てて公園と遊歩道にしているようです。

 

 

古石場川親水公園*

 

たくさんの子どもたちが遊び、水路沿いを散歩している人もけっこういました。

水路からは、ちょっと海の香りがしてきます。

片方はコンクリートの遊歩道、もう片方は土が残されていて蛇行した遊歩道に竹の柵が作られて植物が植えられていて、よく手入れされていました。

途中、説明板がありました。

牡丹一丁目から古石場二丁目までを流れる古石場川、約750mの水路を整備して作られた古石場川親水公園。水路の両岸には、牡丹町の名にちなんで開かれた牡丹園、子供たちの歓声が響くジャブジャブ池、そしてかつての古石場の面影にちなみ様々な自然石を配置した石の広場などが続きます。護岸ギラリーやサイクリングロードも設置さて、人々の憩いの場として親しまれています。

 

石の広場

江戸城を築城した時に石置き場として使われた古石場。その歴史を裏付けるように、かつての石置場の面影を残して、たくさんの石の姿が見られます。

 

Wikipedia古石場によると、江戸幕府の石置き場が置かれたことが地名の由来で、この辺りは江戸時代の埋立地のようです。

 

水路には大横川からの水が通されて、東へと流れていました。

途中で、こんな表示もありました。

この河川の下には、下記のように埋蔵物があります。

埋蔵物の種類  下水管

 

 

江戸時代に埋め立てられ、1950年代から60年代のこの地域の激しい地盤沈下が問題になった時代から水から守られ、こうして遊歩道も下水道も整備されながら運河が生活の中にあることが、これまた魔法のような時代ですね。

 

散歩に来てよかったと思いました。

 

 

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気持ちの問題 65 ネジバナに元気をもらう

まだまだ絶賛絶対に都県境を超えない散歩を実施中で、行きたいところも次々とあるのですが、先日、私にしては珍しくちょっとエネルギー切れのようになった日がありました。

 

パソコンに向かってもなんだか文章が出てこない、外出のための身支度をしようと思ってもなんだか気が向かない、そんな日がありますね。

さらに、気持ちが向かないだけでなく、なんだか心がざわついてくる日がたまにあります。

 

何が原因なのかなと思い返してみましたが、このところの社会の様子がほんと出エジプト記の様相だなあと感じるからかもしれません。

ちょうど1年前にも現代の出エジプト記を書いていました。

不満や批判を言うことが問題なのではなく、あったことをなかったかのように思い込み、未曾有の事態に向かってそこから民を解放しようと責任をおった人たちの背中を後から撃つ。

そんな雰囲気に気が滅入り続けていて、ちょっと耐えきれなくなったのかもしれません。

 

1年前にはmRNAワクチンが開発されるなんて考えたこともなかったのに、実現しただけでなく予防効果が高いことも実証されました。

今までのようにいつまで耐えたらよいのかわからない見通しのたたない暗闇から、このワクチンが社会全体に行き渡るまでの辛抱でなんとかなるという、希望の光に照らされたような劇的な変化でした。

 

ですから、「何月までに国民の大半のワクチン接種が完了します」「それまでは、感染拡大となることは避けましょう」「その間、休業しなければならないとか減収したり失業する人には補償します」と明確になるだろうと思っていました。

ワクチン関連の情報を追っていけば、おのずとその見通しがたつのですけれど。

 

それなのに相変わらず、これまでよく乗り切ってきたことよりは不安やうまくいかない点ばかりをあげつらうとか、ワクチンへの忌避感をもたらすような反応とか、オリンピックの混乱とか、まるで十の災いを投げ合っている様相に、出エジプト記というのはいつの時代にも起こるのだと思いました。いえ、まだまだ漠然としかこの真意はわからないのですけれど。

あの東日本大震災の後の混乱にも、同じような気持ちになったことを思い出しました。

 

 

社会というのは、こういう不自由なものを手放したくない反応が必ずおこる。

何が、そういう反応を起こさせるのでしょう。

その闇の存在に、このところ気が滅入っていたのだと思います。

 

さて、タイトルのネジバナの季節です。

重い腰を上げて、ちょっと元気になりそうな場所へ出かけた帰りに見ました。

草地があるとネジバナがないか探したのですが、見つかりません。残念ですね。

バスが自宅に近づいて交差点で停止していたときに、ふとコンクリートの間から一本、すくっと咲いているのを見つけました。

おかげさまで遠いところまでまだよく見えるので、花の付き方が右巻きであることも見えました。

 

 今年初めてのネジバナです。

全然見つからなくてあきらめていたら、近くにこんな幸せがありました。

 

 

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新型コロナウイルス関連の記事のまとめはこちら

聖書に言及した記事のまとめはこちら。 

 

 

 

行間を読む 112 地の塩のような文章

散歩をするようになって、歩きながらいろいろと考えています。

その中でも、小名野ケ谷の歴史を書き残そうとされている文章などに、ああこれもまた地の塩というのだろうなと思うようになりました。

 

深大寺用水東堀を訪ねて歩いた最後は、吉祥寺病院の脇に出ました。吉祥寺病院という名前は以前から知っていたのですが、その病院の歴史も知りたくなり検索したら、なんと深大寺用水につながりました。

 

ここが深大寺用水東堀だろうと見当を付けて歩いた道は、現在の東八道路と吉祥寺病院の北側の道の間にあったのですが、よく見ると吉祥寺病院の方が一段下がっています。昔はどんな感じだったのだろうと思いながら歩いた場所の説明がありました。

吉祥寺病院の広報誌「じんだい」の第30号(2017年10月)に、「深大寺道をゆく〜その⑤〜」というエッセイがあり、その中にこのあたりの深大寺用水について書かれていました。

 

 (前略)そうです。吉祥寺病院の前の細道は、古道「深大寺道」の今の姿だったのです。古道だけに、道端にはこんな昔の石仏がいらしたのです。

深大寺道の一方の起点=)深大寺城が湧き水溢れる地にあったことと、深沙大王や青渭大神の御縁なのか、我が吉祥寺病院は、今でも旧深大寺村の「水晶水」を(病院敷地内の井戸水として)使わせて頂いています。

 前にお話ししたように、深大寺道は、室町時代から戦国時代にかけて小田原の北条氏と関東の覇権を争った扇谷上杉(おうぎがやつうえすぎ)氏が、本拠の河越城と北条氏に対峙した出城としての深大寺城を結ぶべく開いた軍道です。

 

池ノ上神社から三鷹通りをバスで通ると、諏訪神社の手前で、北へと別れる道があります。それが深大寺道のようで、その道の歴史とともに周辺地域の歴史や生活、そして川や湧き水などについても8回に分けて書かれています。

 

そして深大寺用水東堀跡をたどって見つけた、「東京都水道局・野崎一号水源」についても書かれていました。

 ここで、四つ角の右前方(北西側)に注目してください。道沿いの所がドンキホーテとは別の区画になっていて、近寄ってみると「東京都水道局・野崎一号水源」というプレートが。

 夏の日(前回のこと)に調布市の水源地の脇を辿りましたが、ここでは三鷹市の水道水も河川水より地下水の方が多く(約60%)なっています。もっともここの深井戸は深大寺用水とは無関係で、昭和の世に掘られたものです。

 深大寺用水は、吉祥寺病院の案内板の立つこの辻でT字形に東西に分かれていました。「野崎一号水源」側、真っすぐ武蔵境通りに向かう方が深大寺用水西堀、背後の吉祥寺病院の方は東堀で、このT字形の場所を、深大寺用水の「水分かれ」といいます。

 

  深大寺辺りが大昔から湧き水の豊かな里だったことは、これまでにお話ししました。この辺りの農民は、深沙大王を始めとする水神様の神通力を賜ってか、後世にも亘って農業用水に苦しむことを知らずに暮らしていました。ところが1855年安政の大地震入間川(いりまがわ)の水源が涸れ、深大寺村の水田地だった「野ケ谷田んぼ」(現在の深大寺東町4~6丁目辺り)の耕作ができなくなってしまいました。江戸時代はそれでも税を減免されていましたが、明治政府は休耕田に対しても課税したので、困り果てた村民たちは、何とか耕作を再開しようと、1871年5月、僅か11日の間に「深大寺小学校発祥の地」の碑にもお名前があり後に(神代村初代)村長となった富沢松之助を先頭に、なんと村人(成人男子)全員の手で野崎村(の玉川上水梶野新田分水)から金子村(の野川)までを掘り進み、玉川上水の分水として「深大寺用水」を拓いたそうす。ですから深大寺用水の流れには、深大寺村の村人全員の心意気が溢れていたことでしょうね。そしてその皆さんの心意気は、2年後の1873年、弘道学舎(現・深大寺小学校)の開校へとつながってゆくのです。

 

水や道をたどると、こうしたその地域の歴史や生活を知る手がかりになる記録に出会います。

もちろん、正確な記録かどうかは慎重に見極める必要があるのですが、 その地域の変遷を記憶されていたり実際に歩いて書かれたものであると、ただ「知っている」とは違う文章の奥深さを感じるようになりました。

 

こんどは「深大寺道」を歩いてみたくなりました。

 

 

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水のあれこれ 176 深大寺用水

深大寺用水と検索すると、すぐに歴史がわかると思ったのですが、頼みの綱のWikipediaもありませんでした。

でも、多くの人がこの深大寺用水跡を探しながら歩いている記録があります。

 

調布市の「キッズページ」の「明治時代」にこんなことが書かれていました。

調布町と神代村が 誕生

 

明治維新の後、調布を含む周辺の地域は品川県、入間県、神奈川県になるなど目まぐるしく変わり、東京府にぞくするようになったのは、明治26(1893)年のことでした。

この間、明治22(1889)年には、調布町(まち)と神代村が生まれました。

明治8(1875)年には深大寺村名主、富沢松之助が自分の財産を使って深大寺用水を完成させました。砂川用水から梶野新田までの14キロメートルに及ぶ水路の改修と市内13キロメートル掘り広げたこの用水は、昭和27(1952)年ごろまで大切に利用されました。

 

「砂川用水」で検索すると、砂川分水の「流域・ルート」に、深大寺用水と思われる説明がありました。

1653年(承応3年)の開削当初の取水口は現在の稲荷橋上手(東京都立川市一番町4丁目3番地)にあったが、1871年(明治3年)に一番町2丁目の松中橋上手に移動した。天王橋より五日市街道に沿う農家の庭先を延々と流下し関野橋より南下し水路の上を横断し、小金井の畑地を通り中央本線を境変電所付近で横断し、小金井市三鷹市を通り、三鷹市野崎より調布市深大寺、金子の水田の灌漑用水として引水される

 

玉川上水の分水路として開削された砂川分水の説明を読むと、一部はあの武蔵境の遊歩道のあたりと重なるように読めますが、現代の地図でその跡をたどりたくてもほとんどわかりませんね。

 

また調布市社会福祉協議会のわいわいサロン、「深大寺用水はなぜ開削されたのか」(2011年9月24日)には、以下のまとめが書かれていました。

安政2年の江戸直下大地震深大寺村野ケ谷の湧水が崩壊、野ケ谷たんぼが全滅したが、徳川幕府は壊滅した水田から年貢を取り立てることもなかったので、農民たちは稲作を放置していました。地震から13年後、明治政府の品川県知事古賀一平は、新鋭「社倉取建令」を発し、耕作面積に応じて水田からは米を、畑地からは金を、さらに過去に水田であったという理由で休耕田からも米を納めるように命じた。明治4年、新鋭に苦悶した深大寺村の名主富沢松之助と村民たちは、金子村、佐須村、大町村の協力を得て、水田を復活させ税を収めるべく、自費で約200mの隧道を含む全長13kmの用水路を、約20日間で完成させました。

 

 

安政2年(1855年)の大地震湧水地帯であったこのあたりの地域の生活を一変させ、その土地にも課税されたことがきっかけだったのですね。

 

「自分の財産を使って深大寺用水を完成させた」という一文の意味も、財力、権力、社会的地位の保持には責任が伴うともまた違う過酷な状況だったのかもしれませんね。

20日間で水路を完成させた。

どんな時代だったのでしょう。

 

 

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水の神様を訪ねる 37 小名野ケ谷の鎮守様

今回歩いた深大寺用水東堀の途中で、諏訪神社に立ち寄って見ました。

社殿の壁に、本を切り取ったような紙が3枚、ビニールのカバーに入れられて貼ってありました。雨風で、ところどころ字が読めなくなっています。

この諏訪神社の歴史についてまとめられたものでした。

現在の神代地区にはかつて深大寺村と呼ばれた地域があり、この村の小名にはそれぞれ鎮守様が祀られております。

今回は小名野ケ谷の鎮守様について略記させて頂きます。

 

「小名」は「こな」と読み、小字(こあざ)の意味のようです。

歩いた深大寺用水東堀の跡に並行するように野ケ谷通りが南から北へと、深大寺東町の中を通っていますが、このあたりが小名野ケ谷でしょうか。

 

野ケ谷という小名は風土記稿では「村の東より北へかけてを云う」と記されとりますが、地名の由来については触れておりません。想像ですが地形からみて大部分が平坦な耕地で東北よりに窪地があり入間川の源泉となる釜(カマ)と言われる豊富な湧水のある谷戸田がひらけていたことに由来するものかとも思われます。 

この小名の鎮守様がこの諏訪神社だということのようです。

 

湧水谷戸田という言葉に引かれて、帰宅したら読んでみようと写真を撮らせていただきました。

 

 

 *水の守護神 諏訪神社

 

お社のご祭神は「建御名方命」で、配神の神は「倉稲魂命」と「大己貴命」とされております。またこのお社には男神の立像も祀られているそうでこの像は木造一本造で像高六.七cm、衣冠をつける彩色の像で江戸後期の作と言われております。

主祭神建御名方命は神社誌などによりますと大国主命御子神古事記の出雲譲國のとき譲國に抵抗を試み力及ばず信州に逃れここを鎮座地と定めたとあり、御名の「タケ」はこの神の威烈を示し「ミナ」は「水の」の意「カタ」は水の州、浅瀬で諏訪湖の州を守る名で諏訪湖の水の守護神でありそのため諏訪の神は古くは農耕上の水の守護神、生活の根源神として崇敬をされ、中世以降は威烈のある神として信濃氏の武家の地方進出によって全国に信仰が広がったものと解説されております。

今までの散歩でも、途中、諏訪神社をよく見かけたのですが、諏訪湖に関係した神社だと漠然と思っていただけでした。

農耕上の水の守護神であり、「生活の根源神」というとらえ方もあるのですね。

 

 

当地のお社の鎮座地は諏訪久保と言われる谷戸田をひかえ、入間川の源となる湧水地帯で水にかかわりのあるご祭神として纏ったのが創建ではないかと市史民族編では推論をしております。

 

そして続いて、「この地から湧き出る水が 人々の生活を潤していたー境内の木々が伝えるかつての田園風景」として、境内の詳しい説明が書かれていました。

その中に、神社のそばに「用水」が流れていたことが記されています。これが深大寺用水のことでしょうか。

 

そして野ケ谷通りもまた、「川」であったことが書かれています。

付記いたしますとこのお社のやや北を東西に流れていた大川(入間川)に架けられていた(現=深大寺東町6~24先)石橋の材(巾35cm、長2m、厚24cm)四枚が市郷土博物館に保存され「元文四年己未十一月吉日(1739)」の刻銘があります。この年代はその頃この辺りが開発された時期ともいわれております(市説明文)。現在川は「野ケ谷通り」と呼ばれる住宅街の幹線道路と変わっておりますが、昔は「野ケ谷田圃(たんぼ)」といわれた田園地帯であったようすを偲ぶ記念物のひとつと思われます。

 

ふらりと立ち寄った諏訪神社でしたが、思わぬ歴史の勉強になりました。

 

 

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散歩をする 302 つつじヶ丘から深大寺用水東堀を歩く

中仙川遊歩道から池ノ上神社まで歩いて満足したのですが、中仙川遊歩道の二手に分かれたもう一つの道が日に日に気になり始めました。

 

地図では、ところどころ遊歩道らしい住宅と住宅の間の空間があり、航空写真に切り替えると木が続いていてやはり遊歩道のようです。たどっていくと、東八道路あたりまで繋がります。

もしかするとこれが深大寺用水東堀の跡かもしれないと、散歩の先人の方々のブログや地図と付き合わせて見ました。

 

数日後にはやり残した宿題の気分で、もう一度つつじヶ丘駅に降りました。

 

今回は綿密な計画はあまりなくて、遊歩道を道なりに歩き、さらに直線の道ではなく蛇行した道を選ぶといういい加減な方法です。でもこれまでの経験から、これで昔の水路沿いを歩くことができそうです。

 

 

*つつじヶ丘から中央自動車道まで*

 

甲州街道を渡って金剛寺の横の道に入ったとたん、そこには畑があり、竹やぶがありと何だか半世紀ぐらい時間を巻き戻した気分になりました。

 

そこから北へと閑静な住宅街の道を歩くと、小さな交差点があり、右手の公園は窪地のような場所にありました。「調布市つつじヶ丘公園」で、傾斜を利用して途中に東屋があり、水はなかったのですが水路と池の跡があります。しばらくこの東屋で休憩しました。

 

この東側には、先日歩いた中仙川遊歩道があるのですが、そこへいくには上り坂を超えていく必要があるようで、こんなに狭い範囲にまるでミニチュアの舌状台地のように高低差のある場所が集まっています。

 

反対側にも公園があり、ここから西へと遊歩道があります。ここがおそらく深大寺用水東堀の跡でしょう。

住宅の間に残る遊歩道は砂利道で、少しずつ北へ向かって上り坂のように感じました。

数分も歩くと忽然と遊歩道は終わり、神代植物公園通りに出ましたが、その歩道は片側が広めでおそらく暗渠を利用していると思われます。道なりに進んでいくと、上野原五差路の先に、農園と果樹園が残っていました。

 

その先に中央自動車道があり、先日の入間川空堀です。

 

*中原第二公園から諏訪神社まで*

 

地図では野ケ谷通りの近くの住宅街の間に遊歩道があるように見えます。どこから入れるのかわからず、いきあたりばったりで歩いていたら、駐車場の先に段差があり、遊歩道が見えました。

遊歩道というより、住宅の間の水路をコンクリートで蓋をした場所でしたが、家々の草花が楽しめました。

しばらくすると、また車道に出て、目の前にはビニールハウスの敷地があります。

さて、ここからはどこを歩いたら良いかとふと、先に目をやるとコンクリートで蓋をされた歩道が見えました。

 

そこを道なりに歩くと、ずっと左手の家の方が一段高くなっています。

左手(西側)は神代植物園が広がる場所で、右手(東側)は消防大学校杏林大学、そして宇宙航空研究所機構などがある地域です。

 

バスで通るときには、調布から三鷹までのこの辺りは平坦な場所に感じていたのですが、神代植物園側の方が高く、そしてその際に深大寺用水東堀を通したのでしょうか。

 

三鷹通りにぶつかるまで、左手の家の方が少し高い場所が続きました。

 

諏訪神社から吉祥寺病院まで*

 

ここで今まで頼りにしていた暗渠のコンクリートがなくなりました。

一か八か、目の前にある諏訪神社に立ち寄ってみました。

その境内が少し高くなっていて、左手にその境内を見ながら歩いていくと、歩道の一部にコンクリートの壁が飛び出したようなものが目に入りました。

水路をそのまま埋め立てて、歩道にしたもののようです。

 

また道なりに歩くと、東八道路の少し手前で忽然とその歩道が終わりました。

今日はここまでかと諦めかけたところ、東八道路に面したお店の裏側に細い砂利道が続いています。

 

そこからまた道なりに歩くと、吉祥寺病院の裏手の道に続き、調布北高校の前に水路らしき場所が残っていました。

そして目の前に「野崎一号水源」と表示された、水道局の施設がありました。

 

今日はだいぶ適当な散歩だったのですが、ほぼ深大寺用水東堀を歩いたようです。

 

 

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水の神様を訪ねる 36 深大寺と池ノ上神社

入間川の上流部を確認できて満足し、そこから、いつか歩いてみようと思っていた場所へ向かいました。

年間パスポートを購入して神代植物公園に行くようになったのが2017年ですが、この崖線の上にある植物園から坂を下ると、崖の途中に深大寺があり、そして神代水生植物園があり、鬱蒼とした森と湧き水と、ほんとうに美しい場所です。

 

その神代水生植物園の向かい側の森は東京都立農業高校神代農場で、地図ではその敷地内に湧き水のような場所が描かれ、中央自動車道の下を通って南側の深大寺自然広場・野草園が続いています。

神代植物園と水生植物園だけでも広大な敷地で美しい場所なのに、さらに南側へと水がつくりだした公園があるようです。

今回はここを目指すことにしました。

 

 

行く前に地図を眺めていると、「池ノ上神社」を見つけました。「いけのかみ」と読むようです。

今まで何で気づかなかったのでしょう。「池ノ上」ですから、きっと水の神様に違いありません。

 

 

深大寺自然広場へ*

 

中央自動車道の下を一旦、南側の道へ回り、再び自動車道の陸橋を渡ると、そこには大きな昔からの農家と雑木林がありました。その森に沿って歩くと、深大寺自然広場への入口があります。

崖下を見下ろすような高低差です。

雑木林の中を下って行くと、水の音が聞こえてきました。

右手の金網の向こうが農業高校の神代農場の敷地で、そこにある湧き水からの水路の音でした。

 

ああ懐かしい、沢の風景 です。

平日でしたが、小さなお子さんを連れた家族が水のそばで遊んでいました。

沢の流れを見ているだけで、大人も子どもも無心に遊べる場所ですね。

 

 

*池ノ上神社*

 

地図には載っていない、雑木林沿いの踏み固められた道を上ると、広い畑と果樹園のそばに出ました。

地図では「池ノ上神社」の敷地として描かれているように見えた場所は、私有地の農場のようでもあり、歩いてよいものかちょっと悩みました。

農作業をされている方々がいらっしゃったのですが、私の方を見ることもなく仕事をされています。

 

ちょっと会釈だけして、通らせてもらうことにしました。

道路を隔てた場所は、神代植物公園水生園です。

 

さっきの湧き水の上にあるから「池ノ上」なのか、それとも水生園の周辺にある池の上にあるから「池ノ上」なのだろうか、由来を探してみましたがわかりませんでした。

検索しても、1904年(明治40年)ごろに部落内にあった稲荷神社を合祀したらしいということぐらいしかわかりません。

 

池ノ上神社の後ろには中央自動車道が走っています。

山を切り通した というよりは、崖線の端に道を通した感じです。

 

 

池ノ上神社を後にして、南北に通る三鷹通りに出てバスに乗るつもりでした。

畑が終わるあたりにはちょっと足がすくむような急な石段があって、それを降りると三鷹通りでした。三鷹通りもまた崖線を切り開いてつくられた道路で、地蔵川の賀茂神社のように池ノ上神社もまた道路建設のために移転をしたのだろうかと気になりましたが、よくわかりませんでした。

 

それでも、この国分寺崖線からの豊かな水を見守ってこられた水の神様ですね、きっと。

 

 

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散歩をする 301 中仙川遊歩道を歩く

5月の散歩の記録が追いついていかないのですが、5月初旬に出かけた絶対に都県境を越えない散歩です。

 

昨年夏に、実篤公園と入間川を散歩したのですが、10月に入って「東京外郭環状道路の地下ルート上にある市道が陥没」したニュースがありました。地名を聞いて、あのあたりだとすぐにわかりました。

その時に地図を見直したのですが、甲州街道の北側では暗渠になっている入間川の上流が気になって、いつか歩いてみようと思っていました。

 

なんとなく暗渠のような遊歩道のような場所が、途中、開渠部分を挟んで中央高速道路のあたりまでつながりそうです。

ここを歩くことにしました。

つつじヶ丘駅について、その遊歩道らしき場所には「中仙川遊歩道」と名づけられていました。ただ、途中で二手になっていて、そのどちらも遊歩道になっています。どちらを歩こうか悩んでいたら、急に冷たい風が吹き始め、雨がポツリと落ちて雷鳴が聞こえ始めました。

その日は、残念ながら駅に引き返して、散歩は中止しました。

 

*中仙川遊歩道から中原へ*

 

3日ほどして、前回のリベンジで再びつつじヶ丘を訪ねました。

最初は住宅地の間の細い遊歩道でしたが、道なりに歩くと、右手は小高い場所になっています。おそらく崖下にあった実篤公園の地形の続きだとわかりました。甲州街道がこの辺りで、上り坂になっていた理由も同じですね。

この崖のような場所に沿って、小さな流れがあったようです。

 

地図で水色に描かれていた場所は、実際には暗渠で遊歩道が続いていました。

その流れが西から北へと大きく蛇行する辺りでは、今度は左手が小高くなっています。

地図では想像ができないほど高低差があり、上ったり下ったり、遊歩道がなければ完全に道に迷ったことでしょう。

道路面も水平ではなく、地形そのままに道を造った時代のものと思われるような斜めの箇所も多く、歩くのもちょっと不安定です。バリアフリーなんて言葉のなかった時代に、道がまず必要とされたのですね。

 

帰宅してから地図を見直しても、どこを通ったのかよくわからなくなるほどの迷路っぷりでしたが、住宅地の真ん中に忽然として広い畑が広がり、そこに水が流れていました。

 

中央高速道路の下に続いているのですが、暗渠になる手前では水路内に草は生えているのですが、水の流れはありません。

中央高速道路下の100mほどの開渠部分のどこからか水がで始めて、先ほどの畑の辺りではけっこうな水量になっているという、手品のような水路でした。

 

「みたか環境ひろば」(2010年10月、みたか環境活動推進会議)に中仙川遊歩道の説明がありました。

 中仙川遊歩道は、三鷹市中原の西側を北から南に向けて近幸橋辺りでカーブし西から南に、甲州街道まで住宅街の間を縫うように通っている遊歩道です。 

 この道は、中仙川を、昭和51年から、中原4丁目17番地から甲州街道に至るまでを、順次暗渠(あんきょ)にし、その上を遊歩道にしたものです。遊歩道に沿っては、花壇が作られ、季節ごとの植物が植えられています。

 中原4丁目17番地から始まり住宅街を通り、中仙川通りを横断すると、つつじヶ丘京王住宅の住宅街に入ります。そこは、南側が高い崖になり、その下がこの道になっているせいか、夏は涼しく、つつじヶ丘の駅に向かう人が多く通る道になっています。

 この地域の住民は、道をきれいにしたいと、有志で花壇に花を植えたり、掃き掃除をする人がいます。

 このような地域の人びとの思いで、中仙道遊歩道は、気持ちよく通れる道になっています。

 

「中仙川遊歩道」で検索すると、散歩をして文章に残している先人の方々の記録がいくつもあります。

その中でも「東京の水2009 fragment」というブログは、私のような雑な歩き方ではなくて、都内の川を網羅するように正確に歩かれていて、この中仙川遊歩道と入間川についても地図付きで記事がありました。

それによると、深大寺用水と仙川用水も途中、この中仙川に合流していたようです。 

 

1976年(昭和51年)に遊歩道が整備されたようですが、当時はこの辺りは複雑な地形に農地があり、いくつも水路があったのではないかと想像しています。

それが合流して入間川になり、実篤公園のあたりにまだ斜面に梨園が残る風景になっているのでしょう。当時は相当の水量があった場所だったのではないかと想像します。

 

 

1970年代終わり頃に、京王線に乗ってつつじヶ丘付近に来たことがあるのですが、当時はまだまだ畑が広がっている郊外の風景だったような記憶がかすかにあります。

沿線の風景の変化がわかるような写真集を探してみようと思います。

 

 

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10年ひとむかし  80 労働の対価としての適正な価格

ちょっと小難しいタイトルですが、経済とか数字が苦手な私の素朴な疑問ぐらいの話です。

 

すでに4月下旬ごろには夏のように気温が上がって半袖の服が欲しかったのですが、緊急事態宣言中でお店が開いていません。

通販だと写真と実物の差が大きいので、服や靴はできるだけ実物を見て購入するようにしていますから困ったものです。

5月半ばになって、ようやく駅ビルのショッピングエリアが営業再開しました。

 

駅ビル内のファッション関係のお店は比較的年代の若い人を対象にしているので、私はどちらかというとデパートや個人商店などで探すことが多かったのですが、昨年から次々にお気に入りのお店が閉店してしまいました。

さらに今回の緊急事態宣言では、デパートはなぜか「高級衣料を扱うお店」にされて休業要請継続という判断です。この1年ほどデパートはいつ行っても人が少なく感じたのですけれど。ようやく6月1日からは平日のみ営業ということで、わけがわかりませんね。

 

5月半ば、いつも購入するデパートがまだ開いていないため、暑さに負けて、若者向けのお店に立ち寄って見ました。

ちょっとステキなブラウスが、なんと2000円です。消費税を入れて、2200円ですけれどね。

今までは「安かろう悪かろう」という先入観が強かったのですが、よくよく見ると生地も縫製もとてもしっかりしていて、なぜこのブラウスが2000円なのか信じられません。1万円ぐらいでも大丈夫な質です。

申し訳ないような気持ちで買いました。

 

最近、2000円ぐらいの服を扱っているお店がとても増えたことが気になっていました。

材料費とか流通にかかるコストを差し引いたら、この1枚の服を消費者の元に届けるまでに関わる全ての人の労働への対価はいくらになってしまうのだろうと。

 

1980年代にDCブランドにはまったころは独身貴族でしたから、2〜3万円の服も買いました。

あれから40年たって、同じブランドのお店を覗くと当時とあまり変わらない値段です。

反面、当時はなかったような「安いけれど質の良い服」がいつでもたくさん出回っています。

先日購入したブラウスだって、1980年代でも数千円はしたと思います。

 

 

そしてそんな価格帯へのしかかるような消費税のバランスの悪さも、何だか変ですね。

200円と言ったら、日勤のお昼に購入するサンドイッチの値段とあまり変わりありませんから。

 

 

いつ頃から、「デパートで扱うのは高級衣料」という感覚にまで変化してしまったのでしょうか。

 つまりは社会が安いものを「得した」と求め続けると、どこかで給料が抑えられていくのではないか。そしてさらに安いものを求め続けるようになる。

経済に疎い私でも、さすがにこれはないよなというバランスの悪さを感じる価格が多いですね。

このままで大丈夫でしょうか。

 

 

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水の神様を訪ねる 35 御嶽神社と「杜の霊神水」

東急池上線の御嶽山駅の近くに、涼しげな鎮守の森が見えます。

4月下旬、急に夏日になりそうな日で、駅に降りて少し歩いただけでふらりとしそうでしたから、引き寄せられるようにその神社を訪ねました。

賑やかな商店街のすぐそばにあります。

 

御嶽神社の由来を読むと、古い神社のようです。

御嶽神社の創祀は嶺村(現嶺町地区)ができた天文4年(1535年)頃と謂われる。当時は小社であり祠に近いものであったと推察されるが、後の天保年間(江戸時代後期)に木曽御岳山で修行をされた一山行者が来社して以来信者が激増し、天保2年(1831年)に現在の大きな社殿を建立し、御霊を遷座した。信者の中には江戸の豪商なども多くあり、かなりの寄進がされたようである。関東一円から木曽御嶽山を進行する信者たちが数多く訪れ、その勢いは江戸、明治、大正、昭和へと続く。(ホームページより)

 

 

*「杜(もり)の霊神水(れいじんすい)」*

 

静かな境内を歩くと、奥まった場所に小さな説明板がありました。

元来ここは一山行者(いっさんぎょうじゃ)が水行をしていたと謂われる古井戸でしたが、長く参拝者から顧みられない状態が続き、年月だけが過ぎて行きました。そこで東京嶺一山講(いっさんこう)・講元(長久保純一氏)を始め氏子総代の協力により、平成二十年七月『杜の霊神水』として新たに甦りました。

神社の杜から生まれ、神社の杜を守る霊神の水。一山霊神の「みたま」の力により、人と自然が一つに流れる場所。それが『杜の霊神水』です。 

 

近代になってこの辺りのような小高い場所にも水道が敷設され、井戸が顧みられることがなくなったのでしょうか。

 

それにしても、一見、深く掘った井戸ではなさそうでしたが、どうやって水をそこに見つけたのでしょう。

武蔵野台地の「東部の舌状台地群と、その上に広がる都市市街」にこんなことが書かれています。

武蔵野台地は、その成因から、水を通さない海成の粘土質層の上に水を通しやすい礫層が互層しており、この層面から地下水が湧き出し、台地状の中小河川の源流となっていることが多い。 台地状にみられる池の多くがこのような成因である。

 

台地の上に湧き出る水は、ほんとうにそこに水の神様がいるように見えたかもしれませんね。

 

1831年に今の社殿になり、1923年(大正12年)には池上電気鉄道御嶽山前駅ができ、その41年後の1964年(昭和39年)には池上線の下を掘り進めて東海道新幹線が造られたのですから、すごい変化ですね。

 

風が涼しく吹き抜ける静かな鎮守の森の中にいると、二世紀ほど時間がたったことを忘れそうです。

そしてここでもまた、平日の日中に、参拝する地元の若い方がいらっしゃいました。

 

 

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