散歩をする 497 高座渋谷から40年ほどの記憶の空白を感じながら歩く

昨年10月下旬にJR相模原線倉見駅から新幹線の線路沿いに歩き始めた散歩ですが、年内に武蔵小杉から倉見までの区間を歩き切りたくなりました。

多摩川から相模川のあいだですね。無謀なようですが、何回かに分ければなんとか歩けそうです。

 

小さな川でつくられた渓谷のような斜面にぎっしりと住宅が立ち並ぶ場所が何度か続き、そのあとは急に人里離れたような畑地や森林になり、しばらくすると平地に水田や工場、そして自動車道の高架橋が見えてあっという間に相模川を渡ります。のぞみに乗ると次の停車駅は名古屋ですから、目にも止まらぬはやさで風景が後方へと流れていく感じです。

 

で、いよいよ最後の区間高座渋谷から鶴ヶ峰駅のあたりまでです。

 

2019年に境川遊水池を訪ねたので境川小田急江ノ島線の沿線の風景の記憶がなんとなくありますが、高座渋谷駅倉見駅から歩いたときに途中時間切れでバスに乗って到着してそのまま小田急線に乗ったので、駅周辺を歩いたことがありません。

小田急線と東海道新幹線が交差する場所ですが、そういえば高架橋がなかったような。

曖昧な記憶が気になり、ここを散歩のスタートとすることにしました。

 

境川も新幹線の車窓から見えているはずなのに、どの川なのか記憶がありません。

よく見ると、団地が川沿いに続いています。あの1960年代ごろからコンクリートの防水堤のような役割を持った団地でしょうか。

 

 

*ここがあの定住のための最初の団地だった*

 

 

新幹線がすぐそばを通るのであればむしろ水害の心配は少ないかもしれないと思いながら地図を拡大してそのあたりを眺めていて、あっと気づきました。

 

パッと見ただけで二つもベトナム料理店があります。

 

1975年に初めて日本に難民が「上陸」して長崎の大村難民レセプションセンターに「収容」されたあと、ようやく1980年に定住のための施設がつくられたのですが、そのうちのひとつ「大和」はここだったのだ、と。

 

1980年代初めにインドシナ難民問題に関心が出て、80年代半ばにはフィリピンにあるインドシナ難民キャンプで2年間ほど働いたというのに、恥ずかしながら日本に定住した方々が住んでいる「大和」はどこなのか正確に知らないまま過ぎてしまいました。

小田急線の大和駅はもう少し北側なので、そのどこかという程度でした。

 

1980年以来、どれだけの新幹線がこの団地の間を通過していったのだろう。

日本に初めて難民として定住した方々が生活しているそばを、私自身40年ほど気づかずに何度も通過していたことに忸怩たる思いが募ってきました。

 

そういう意味でも、ここを散歩のスタートとすることにしました。

日が短い12月下旬ですから歩ききれないかもしれませんが、相鉄線二俣川駅まで相模原台地多摩丘陵を流れる小さな川がつくりだす場所を歩いてみることにしましょう。

 

40年前に定住するためにここに住んだ方は、どんな風景の変化を見てこられたのでしょうか。

 

 

 

「散歩をする」まとめはこちら

新幹線の車窓から見えた場所を歩いた記録のまとめはこちら

あわせて難民についてのあれこれもどうぞ。

 

生活のあれこれ 40 言い得て妙「トナラー」

最近、なんだかグイグイと近づかれることが増えたと感じています。

 

スーパーでレジを待っている間にも背中のすぐそばまで気配があるほど列の間を狭められたり、二人で使うぐらいの幅の替え台でも他の人が終わるまで待てずに間にぐいっと入られることもしばしば。

プールの更衣室もガラガラなのに、なぜかすぐ隣のロッカーを使い始める人がまたちょっと増えた感じです。

あるいは電車内に数人しかいないのに、私ともう一人の間にあえて座ってくるのはなんなのだろうと。

 

で、だいたいそういう人は物や体がぶつかっても無言なので、温厚な私(!)でもその無神経さにちょっとイライラしてしまいます。

 

少し前までは人との距離を自然とあけるようになって、大変だった未曾有の感染症の中でもこれは良い習慣になって、社会のマナーとして定着しそうと喜んだのも束の間という感じですね。

 

最近、こういう人を「トナラー」と呼ぶことを初めて知ったのですが、最近のなんでも名前をつけて分類してしまう風潮もなんなのですが、これは言い得て妙だし結構ほかの人も感じていたのだとわかりました。

 

 

まだ一応、足元のマークやロッカーも注意書きが残っているのに、まるでそれどころかコロナでさえないことになってしまったかのか、あるいは反動の開放感から来るのかと思っていました。

ところが検索すると新型コロナの最盛期とでもいうのでしょうか、その頃からすでにその話題があって定義まであったのですね。

トナラー

人のすぐ隣(となり)に位置取る人。たとえば駐車場や、電車や映画館やサウナの座席、などで、他の場所がいくらでも空いているのに、わざわざ人のすぐ隣に来る人。「トナラー」という表現はもっぱら隣に来られる側(先客)の立場から「不快、苛立つ、迷惑だ」という意味・ニュアンスを込めて用いられる。

(「weblio辞典」「実用日本語表現辞典、2021年8月17日更新」)

 

「人のそばにいると安心」とか、たしかに「距離を空けられると、なんだか避けられているようで嫌だ」と感じていた人も身近にいるので、なかなか気持ちは難しいですね。

 

「人の嫌がることをしたい」「他人のことが見えていない」という人もいるらしいので、その場合は相手を変えようとしても無理なので、そっとこちらが引くしかないですね。

 

ということで先日、さっそくガラガラの電車内で隣に座られたので、そっと移動しました。

これを「瞬間移動」というらしいですけれど。

 

この30〜40年ほど人の行動や心理についてさまざまな言説が出てくるけれど、行き過ぎた「自分は大事」「自分はすばらしい」から、他人の存在を感じていないような大人が増えた失敗を繰り返さないようにするあたりが根本的な原因ではないか、これも「失われた30年」だと漠然と感じますね。

 

 

「生活のあれこれ」まとめはこちら

新型コロナ感染拡大についての記事のまとめはこちら

 

 

水のあれこれ 347 帷子川分水路

神奈川県内の川というと多摩川鶴見川境川相模川、酒匂川そして早川と思い浮かぶ大きな川がある中で、帷子川はさてどこだろうと思われるかもしれませんね。

 

久しぶりにこの川の名前を見ると、まず読み方を忘れていました。「かたびらがわ」で、二級河川でありながらこんな重要な場所に流れ込むのかと驚いたのが、2019年に横浜水道記念館を訪ね、日本初の水道道沿いに歩いたときでした。

西横浜駅のそばを線路に並行して流れ、横浜駅のそばで海に出ます。

小さな川ですが溢れたら河口周辺の横浜中心部が大変だろうな、という印象でした。

 

 

*「もともとは蛇行の激しい暴れ川」*

 

あの時にWikipediaの「帷子川」を読んでいたのですが、今回はあの時の上星川駅より一駅しか違わないのに西谷駅の周辺を歩いて「治水」の説明がよくわかりました。

 

もともとは蛇行の激しい暴れ川で水害の多い川であったが、大戦以前は耕地の灌漑等を目的に利用されており、治水事業としては本格的な改修は行われていなかったが、水害を機に、川の直線化や護岸工事など大規模な改修が進められ、西谷から横浜駅付近に流す約7.5kmにわたる地下分水路や、鶴ヶ峰付近の帷子川親水緑道などの親水公園、川辺公園などが造られた。

 

「水害を機に」、いつのどんな水害だったのか。脚注にリンクされている「帷子川水系の紹介」(神奈川県横浜川崎治水事務所)に書かれていました。

 

昭和20年代まで帷子川は、耕地のかんがい等を目的に利用されており、治水事業として、本格的な改修は行われていませんでした。帷子川は、昭和33年の台風22号で床上浸水2,851戸、床下浸水1,803戸の大きな被害を受けたことを契機に、堤防を高くしたり、川底を低くしたり、護岸の補強等を行うことによって、本格的な河川の改修工事を行ってきました。

「昭和33年の台風22号」とはあの狩野川(かのがわ)台風のことでした。

 

*帷子川分水路*

 

新幹線の高架橋から上流に250mほどにある水門と堰は「1982年度(昭和56年度)〜1996年度(平成8年度):地下トンネルと帷子川分水路が整備される」(Wikipedia)によるものだったようで、「帷子川水系の紹介」に詳細がありました。

 

抜本的な治水対策ー帷子川分水路ー

 

流域の急速な市街化に伴い、雨水の浸透量が低下し、短時間のうちに雨水が集中して河川に流出するようになり、沿川の住宅地や商店街等は幾度となく水害に見舞われました。

しかし、治水対策を講じていくために、川を拡幅することは、沿川の密集状況からも非常に困難です。そこで、河川の途中から新たな河道を掘削して、洪水の一部を直接海に放流する「分水路」を整備することになりました。

 

分水路の名称は帷子川分水路といい、横浜市との協調事業として建設し、平成9年に完成しました。

帷子川分水路のルートは、帷子川中流部の横浜市旭区白根一丁目から地下トンネルを経て、横浜駅北側の旧派新田間川を利用し、横浜港までです。

地上からトンネルまでの深さは、最深部で約60m、平均約30mとなっています。これは、トンネルが通る丘陵地帯の標高が30mから70mと高低差があるためです。

 

あの水門は、横浜駅近くまで続くトンネルだったようです。

それでも、2004年(平成16年)の台風22号では横浜駅西口駅付近で帷子川の水が溢れて周囲が浸水したようですから、治水の対策には終わりがないですね。

 

分水路の水が流れ込むWikipediaの新田間川(あらたまがわ)を読むと、その名の通り「江戸時代に新田の開発が行われた際に、石橋川とともに用水路として整備された」と書かれています。

興味が尽きないですね。

 

新田開発の用水路が現代では治水のための分水路に使われ、安全な市街地と安全な鉄道や交通網を守っているのですから、驚異的な変化にまた気が遠くなるのでした。

 

 

*おまけ*

 

帷子川の読み方はすぐ忘れてしまうのですが、初めてこの川沿いを歩いた日のことはイートインでの消費税が10%になった日だと思い出すのですから、恨みは根深いものですね。

それでもまだ政治家の世界のカラクリや闇がよく見えていない頃でした。

 

 

 

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散歩をする 496 羽沢から分水嶺を越えて帷子川へ

新幹線の高架橋をくぐるといよいよ羽沢(はざわ)で、地図ではきれいな半円形の地域です。

車窓から見た記憶がある脳神経外科病院が見えました。その前に中華料理屋さんがあり、むしょうにお腹が空いてきてふらりと入ってしまいました。窓側の席に座ったところ新幹線が通過していくのが見えて、新幹線をながめながら食べることと「ランチする」という二つの夢がかないました。

 

美味しいご飯に満足して歩き始めましたが、12月下旬で日が暮れるのが早いですから先を急ぎましょう。残念ですが、羽沢地区の半円形の内側に見える鳥山川の水源のあたりを見届ける時間がなくなりました。

 

また新幹線の高架橋をくぐると、「見よ右左」と「新大阪 東京」と矢印が書かれた標識がありました。作業をする方々にとっては大事な方向なのですね、きっと。

 

*山を越えて、帷子川の流れる地域へ*

 

しばらく小高い場所を新幹線の高架橋に沿って歩くと、途中、高齢者施設があってその先でトンネルになりました。上に温室があります。そのトンネルの上のあたりを歩くと、両側が谷のようになって街があるのが見えました。北西が「西谷」駅のある地域で、南東が羽沢や保土ヶ谷でしょうか。

尾根のような場所にも住宅が建ち並んでいて、谷の反対側の斜面もぎっしりと家が建っています。

 

西谷の方向に川が見えます。そこまで急な下り坂を降りていく途中で富士山がくっきりと見えました。

小さな流れは帷子川(かたびらがわ)の支流で、まるで渓谷のような急峻な地形で川に近づくまで急な石段を降りる必要がありました。もう膝がガクガクですが、駅の方から買い物を終えて家に帰るために登っていく人とすれ違いました。

すごいですね。車窓から見えた崖っぷちに立つような住宅地では、毎日こうして上り下りしている生活なのですね。

 

ようやく谷の底のわずかな平地に出て相鉄線の踏切を渡り、商店街を抜けて帷子川に出ました。右岸側はまたすぐに崖です。

蛇行する川に沿って歩くと、また新幹線の走行音が聞こえてきました。

先ほどのトンネルから出てきた新幹線は、この先の帷子川を通過していきます。その高架橋の手前に右岸からの小さな支流が合流していましたが、ここもまた渓谷の趣です。

 

高架橋をくぐって北側へと出ると、少し開けた感じになって右手に公園が見えてきました。

田原橋公園に東屋があるので、そのベンチに腰掛けるとちょうどいい具合に新幹線の高架橋が見える場所です。その真下に赤い鳥居があるのも見えました。

しばらく何本か新幹線をながめました。E席に座ったらこの東屋とベンチを見逃さないようにしたいものです。

 

*帷子川の旧河道から放水路と水門へ*

 

田原橋公園には小さな池と水路があって、山に沿って遊歩道やベンチが整備されていました。

地図で見つけた時に、帷子川の旧河道を利用したのだろうと想像した通りです。

高架橋を超えた時に「開けた場所に出た」という感じも、このあたりがかつては帷子川が蛇行しながら広がった土地だったからかもしれません。

そんなことを考えながら相鉄線の高架橋を超えて帷子川ぞいにしばらく歩くと、地図で気になっていた堰のように幅が広く水色で描かれた場所が見えてきました。

 

周囲は遊歩道やベンチが整備されていて、北側には地図ではわからなかった大きな水門があります。

横浜治水事務所の表示はあるのですが、どのような機能があるのかはわかりませんでした。

新幹線の高架橋から上流へ250mほどのところです。

 

このあたりからまた渓谷のような場所の両岸に、家が建っています。

右岸がわを歩いていると山側へとまた公園の入り口があり、林の中の小さな流れに沿った遊歩道が鶴ヶ峰駅まで帷子川親水公園が整備されていました。

 

現在の帷子川はこの旧河道よりもかなり低い場所に流れがあるのですが、かつては一旦洪水が起きれば被害が大きかったのでしょうか。

もう少し上流まで歩いてみたかったのですが、ここで日が暮れてしまったので今回はあきらめました。

 

帷子川親水公園から鶴ヶ峰駅までは、両側がまるで要塞のようにコンクリートで固められた住宅地の間の勾配のきつい坂道を登りました。

かつては帷子川の流れがぶつかりながら渓谷へと削っていった跡かのような場所でした。

 

 

羽沢地区の鳥山川は西から東へ流れて鶴見川へと合流するのですが、わずか数百メートル西側では水の流れは帷子川へと流れこむので、あのあたりが分水嶺になるようです。

鶴見川の氾濫原から帷子川の渓谷のような流れを、一気に新幹線が通過していくのですからなんだか圧倒されますね。

 

そしておそらく1960年代は家と畑がまばらにある地域だったと思われるのに、今は山肌にぎっしりと家が立ち並ぶ風景でたくさんの人が生活をしているのですから、浦島太郎の気分になるのも仕方がないですね。

 

気になっていた新横浜駅から西谷駅のあたりまでの車窓の風景を、少しだけ歩くことができました。

 

 

*おまけ*

 

今回の散歩のもう一つの目的に、相鉄線が乗り入れているJR湘南新宿ラインに乗ってみることがありました。

 

西谷駅を出るとすぐに地下へ入り、羽沢のJR貨物ターミナルのあたりで一旦地上に出るとまた地下に入りました。

GPSも追いつかないのでだいぶ深い場所を通っているようです。生麦駅の手前で地上に出たあと鶴見駅新川崎駅など主要な駅も通過して大きく迂回しながら武蔵小杉駅まで約17分間も止まらないことも初めて知りました。

 

武蔵小杉駅の手前で新幹線の高架橋が近づき武蔵小杉駅で停車、並走する区間に入って夕闇迫る多摩川を渡って散歩が終わりました。

なんだかすごいですね。

 

 

 

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水のあれこれ 346 鳥山川沿いに水源の羽沢へ

川と関わり合いの深い「羽」の地名ですが、横浜市の羽沢(はざわ)のあたりは湾曲した地形の北側に細い水色の線が描かれています。たどると途中でいくつか川合があり、しだいに川幅が広がって最後は新横浜駅の北側を流れて鶴見川に合流しています。

ところが、MaciPhoneの地図では川の名前がありません。まずは新横浜駅から新幹線を眺めながら、この水色の線をたどることにしました。

 

横浜駅まで新横浜ラインができたので、乗ってみることにしました。日吉までは東急東横線と同じなので見慣れた風景ですが、日吉の先から地下に入ると鶴見川の下を深く潜るのか耳の閉塞感が出て、GPSも追いつかなくなりました。

横浜駅直前でGPSが追いつき、下車すると地下4階でした。

 

いつか歩いてみたいと思っていた新幹線の車窓から見える新横浜駅南側の崖線(がいせん)が目の前に見えますが、線路の反対側の鶴見川の氾濫原にできた新しい都市とはまったく違う風景です。

そして崖っぷちに立つ家が、20年ほど前に比べてだいぶ増えました。

 

 

*鳥山川からの水路*

 

横浜駅の篠原口に出ると、ホームに次々と新幹線が入ってくるのが見えます。広島行きのアナウンスが流れていました。乗ってしまいたくなるのをこらえて歩き始めました。

 

車窓からも見えていた竹藪と崖のそばに来ました。

12月下旬、真っ青な冬空に竹の緑とサワサワという音がなんとも美しい場所です。手前に小さな水路があるようです。のぞき込むときれいな水が流れ、芹のような水草が青々と生えていました。

水の流れは西から東へ向かっていますから、かつてはこのあたりに田んぼがあったのでしょうか。

 

水路を眺めながら歩くと新幹線の高架橋にはさまれた場所にずっと続いていて、その崖側の細い敷地に家や陶芸のお店やお蕎麦屋さんがありました。そばの桜の木が令和6年に伐採されることになったという案内が貼ってありました。

真上を新幹線が通過していく近さなので、走行音しか聞こえません。きっとこの街並みは車窓からも見えないことでしょう。

高架橋のところどころ途切れたところで見える反対側は、マンションやビルが立ち並んだまっすぐの区画で別世界のようです。

 

コンクリート三面張りの水路ですが、美しい水に惹きつけられながら歩いていると暗渠になり住宅地が広がりました。静かに何本も新幹線が通過していきます。おそらく新幹線が通ってしばらくして開発された地域ですね。

その先の切り通しの県道12号線を渡ると先ほどの水路が開渠になって、山に沿うように高架橋の下を反対側へとつながっています。切り通しの山の上には墓地がありました。

その先に橋があり国土交通省の「とりやま川」という表示板があり、地図ではわからなかった川名です。

 

鳥山川

神奈川県横浜市神奈川区羽沢付近に源を発し北東に流れる。横浜市港北区新横浜付近、新横浜公園東側を流れて大豆戸町鶴見川に合流する。途中で砂田川(すなだかわ)が合流する。

Wikipedia、「鳥山川」「地理」)

 

この川から新横浜駅の崖の近くまでの水路に取水されていたようです。

距離にすると新横浜駅からちょうど1kmで、新幹線があっという間に加速して過ぎてしまうあたりでしょうか。

 

*鳥山川沿いに羽沢へ*

 

先ほどの橋は砂田橋で、県道13号と新横浜通りが合流して大きな鳥山東交差点があります。その先にこの鳥山川に西の鴨居町の方からもう一本川が合流するのが砂田川でしょうか。

「砂田」、どんな経緯でつけられた川の名前でしょう。

水がどんどん染み込んでしまう地質だったのでしょうか。

 

この交差点から鳥山川本流に沿って羽沢まで歩くために、いったん新横浜通りへ曲がり新幹線の線路から離れました。

途中の「山王森公園」へと急な上り坂を下を向いて歩くと、そこからは道路の反対側のなだらかな斜面にぎっしりと家が立ち並ぶ様子が見えました。

こちら側は県営団地の小高い場所のゆったりとした敷地で、てっぺんにすり鉢状に公園が造られています。

この山裾に沿って鳥山川が流れていて、そこへ降りる石段がありました。

目の前をまた新幹線が通過していきます。次に乗ったら、この石段を見逃さないようにしたいものです。

 

膝がガクガクする勾配の石段を降りて、鳥山川沿いに出ました。

水音と時々新幹線の走行音が聞こえるのどかな川沿いの道を歩くと、しだいに左手は崖のように高くなり、その間を蛇行しながら流れる場所になりました。

右手は平地で住宅が建ち、その向こうに新幹線が通過していきます。

尾根のような斜面に家が立ち並ぶ風景に圧倒されていましたが、その裾野にはこんな急な流れがあってそのそばを安全に新幹線が通っていたことに初めて思い至りました。

 

このあたりまでくると新幹線も相当加速されるのか、そばでは通過する速さを目で追えないくらいです。

 

蛇行した鳥山川に沿って高架橋の下を反対側に出ると「八反橋」があり、その先に新幹線の高架橋のさらに上を県道13号の高架橋が交差する、近未来的な場所がありました。

「八反橋」、どんな名前の由来や歴史があるのだろうと思いながら歩いていると、いつも車窓から見て気になっていた建物が見えました。

 

日本味噌株式会社というのですね。1885年(明治18)創業だそうですが、ここに工場ができたのが1961年(昭和36)のようですから、目の前の新幹線の高架橋ができ始めていたころでしょうか。

 

ようやくそばを歩くことができたと満足しながら、鳥山川に沿って歩くとJRの羽沢貨物ターミナルの敷地が見えてきました。

三枚町の交差点の手前で鳥山川は暗渠になり、親水公園がありました。

 

その先に新幹線の高架橋、相鉄線の高架橋、そして県道13号と入り乱れた交差点があり、いよいよ反対側が羽沢です。

新幹線高架橋の真下に赤い小さな鳥居がありましたが、これはさすがに車窓からは見えない風景ですね。

 

新横浜から鳥山川に沿って歩き、いよいよその水源の羽沢に入りました。

 

 

 

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散歩をする 495 多摩丘陵のへりの羽とか谷とか峰を歩く

都内から神奈県の鶴見川まで、新幹線の車窓から見えた場所をだいぶ歩きました。

 

次はいつか神奈川県内の新幹線沿いを制覇しようと目論んでいるのですが、西部にはトンネルばかりの難所がありますからね。どうなることでしょう。

 

 

*羽沢はどんな場所なのだろう*

 

今回歩いてみようという場所が気になったのは、2019年に「タモリ倶楽部」で、相鉄線がJR乗り入れを可能したのは羽沢駅に貨物ターミナルがあるからということを知ったのがきっかけでした。

地図で見ると、たしかにその近くに小さな川が西から東へと緩やかに蛇行している場所に羽のような場所がありました。一見、水とは無関係そうな「羽」という漢字に川沿いに出っ張った地域を表すという意味があることを知ってから、「羽」がつく地名には惹きつけられています。

 

新幹線の北側に見える羽のような場所はどんなところでしょう。

羽沢(はざわ)から新幹線と相鉄線が交差する西谷駅までは、地図では少し小高い場所を歩くように見えます。

そして帷子川(かたびらがわ)に沿ってほそながく西谷の街が続き、西谷駅の北側には帷子川の旧河道らしき場所と堰のような場所が描かれています。

 

そして帷子川の右岸側はまた小高くなっているようで、そこに相鉄線鶴ヶ峰駅があります。

新幹線の車窓から見えたあのあたりかなと想像したのですが、自信はありません。

一瞬で過ぎますからね。

 

 

おおよその地形の凹凸は想像できましたが、そこは地理や地形ではなんと表現するのでしょうか。

ジオテック株式会社の「神奈川県の地形・地盤」を見ると、多摩丘陵の南に境川の平地がぐいっと食い込んだような場所の台地のへりのような場所でしょうか。

 

 

とりあえず歩けそうな場所から攻めていくことにしようと、12月中旬に出かけました。

昨年の散歩の記録が4ヶ月遅れになり、今年1月から3月までの遠出の記録がどんどんと溜まっていますから、こちらも急がなければ。

 

 

 

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新幹線の車窓から見えた場所を歩いた記事のまとめはこちら

生活のあれこれ 39 見かけだけを取り繕ったものに生活が影響される

とある政治家が話題になったのはその態度についてだったのですが、最近は政治家に対する社会の目が厳しくなったことの一つぐらいで読み飛ばすところでした。

 

ここまで批判されるのはどんな人でどんな生き方をしてきたのだろうとそのWikipediaを読んで、あの祭りとつながりました。

ニュースではこの時期恒例のという感じで毎年見かけますが、やはり地元ではさまざまな感情があることを知りました。

 

90年代に初めてそのイベントが始まった頃、まず原宿の竹の子族を思い出してなんだか気恥ずかしさが先に立ったのでした。

日常と非日常をきっちりと区切りをつけてなりきっていた竹の子族だったし、「目立ちたがり屋」と呼ばれる人は社会の中ではごく少数だったのですが、他人と同じことをすることを避けて個の世界へと変わっていったように見えた80年代から90年代に、集団で同じ衣装や動作で踊ることに惹きつけられる人が多いという矛盾に驚きました。

 

さらにいつの間にか仮装のような格好で歩く人が増え、街全体が「仮想の空間」にまでなっていく時代と同じく、毎年その「祭り」に参加するグループが増えているニュースが聞こえてきました。

 

ただ、そこに住む人たちに受け入れられて根付いていくのであれば、外野が何かいうことでもないですからね。

 

 

*「祭り」と似ているようで違う*

 

「共同体のつながりが薄くなった現代の反動で祭りを求める気持ちが復活した」というあたりなのだろうか思いつつ、なんだかあの「YOSAKOI」しかもローマ字、に違和感があるのはなんだろうと気になっていました。

 

子どもの頃の「盆踊り」以来、私自身は「お祭り」とは縁遠い生活ですが、昨年阿南市のケーブルテレビで地域の阿波おどりに惹きつけられました。

生活の中でずっと引き継がれて楽しんできたのがわかる雰囲気でした。

 

 

YOSAKOIソーラン祭り」はたしか学生が発案したものだったという記憶がありましたが、30年の時を経てその経緯を知ることとなりました。

由来は高知県高知市で開催されるよさこい祭り北海道では、6月上旬のこの時期は「さっぽろ雪まつり」のような北海道外からの観光客を呼び込む大きなイベントや観光材料が少ない一方で、本州以南では梅雨入りにあたるため避暑地を求め北海道に来る人々がいる。6月上旬にYOSAKOIソーラン祭りを開催することにより、さらに観光客を呼び込み、観光収入が増加するなど一定の経済効果を生んでいる。その反面、一部参加者や観客のマナーの悪さ、大通り公園をはじめとした札幌市内の交通規制、騒音などに対する札幌市民の苦情も少なからず存在する。

WikipediaYOSAKOIソーラン祭り」「概要」、強調は引用者による)

 

1980年代初め、6月に北海道を旅行したことがありますが、当時はまさに「北海道は梅雨も台風もなく、素晴らしい景色を楽しむことができる」シーズンでした。

 

札幌市内の広々とした美しい通りやまるで外国のような広い田園地帯に街が点在する車窓からの雄大な風景、そしてアイヌの人たちと開拓民の歴史と葛藤を感じることにも大きな意味がありました。

その生活の一部を見て回ることこそ、夜行列車と青函連絡船を乗り継いではるばる北海道へ出かける魅力と醍醐味でした。

 

その12年ほどあとに、この祭りが始まったようです。

1992年6月に「街は舞台だ!日本は変わる」を合言葉に、道内16大学の実行委員会150名で第1回YOSAKOIソーラン祭りを開催。

 

「さらに観光客を呼び込み、観光収入が増加する」、学園祭の延長のような始まりの錬金術になっている。それがなんだか気になっていた正体だったのかもしれません。

 

生活の中から生まれて続けられている祭りとも違い「祭りのようなイベント」が生活にどのような影響を与えたのか把握することもないし、責任をとる体制もないままなのだろうなと。

あの渋谷のハロウインと似ていますね。

それに対する住民の方々の思いが噴出するきっかけになっているのかもしれないと想像したのですが、事実はどうなのでしょう。

 

 

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失敗とかリスクについての記事のまとめはこちら

横文字のあれこれ 5 「スタートアップ」と「起業家」

一時期、渋谷の駅をつなぐ通路に「スタートアップは渋谷から」だったと思うのですが、そんなポスターが貼ってありました。

 

「スタートアップ」って起業のことかなと想像したのですが、具体的にどんな仕事なのか思い浮かばない心もとなさを感じました。

坂道沿いに小さなそれでいて魅力的なお店がつくられていった1970年代から80年代ごろの渋谷が、ちょっと冷たく壊れそうな街に変化していく雰囲気と重なりました。

 

 

ベンチャーとも違う、起業とも違う?*

 

なぜ突然、「スタートアップ」を思い出したのかというと、最近ちょっと話題になった参議院議員Wikipediaを読んだら「政治家、起業家」とあったからでした。

 

起業家って何か専門性があるのだろうか。私の感覚からいくと起業(創業)したその仕事が何か、どんな専門性なのかの方が重要に感じるのですが、なんだかケムに巻かれたようだなと思って頼みの綱を検索してみました。

 

「スタートアップ」で検索するとWikipediadでは「ベンチャー」にまとめられるようです。

ベンチャーとは、企業として新規の事業へ取り組むことをいう。このような事業をベンチャービジネスという。事業は新規に起業したベンチャー起業によって行われるものを指すことが多いが、既存の企業が新たに事業に取り組む場合も含む。

 

ベンチャー」とか「起業」はいつ頃から耳にするようになったのか記憶が曖昧ですが、こんなことが書かれていました。

ベンチャービジネス」という言葉は、元法政大学総長で日本ベンチャー学会特別顧問の清成忠男らによって概念が作り出された和製英語である。

日本ベンチャー学会は1997年に設立されたようですが、「ベンチャービジネス」が和製英語だったとは。

そして「ベンチャーとスタートアップを区別する場合もあるが、日本ではその差は明確にされないことが多い」とも書かれていて、「スタートアップ」も定義があいまいなのでしょうか。

 

和製英語とか定義があいまいな用語ははどこまでデジタルで表現できるのか、そちらの方が気になりますね。

 

*「問題解決」より先に「自分のやりたいことを見つける」*

 

ここ最近、時々「高校生がこんなことを始めた」というニュースを目にしますが、教育の中にすでに「起業」が組み込まれているのですね。

 

「起業家教育事例集〜中小企業庁「学びと社会の連携促進事業(起業家教育)〜」(平成31年)という資料がありました。

「地域の課題をどう解決するか?高校生と地域住民が一緒に取り組む」という研修が書かれているのですが、その順番を見ると「価値観を言語化する」→「ターゲットのペルソナを掘り下げる」→「問題を発見・解決する」→「最終発表、プレゼンと表彰」になっています。

 

問題を解決するためにはまず観察があり、それを共有するために言語化があり、そして仮説をたてていく、という仕事のための段階を学ぶのではなく、「自分のやりたいこと」を見つけることが目的のようです。

「学ぶ」ではなく「学び」という言葉を使う方向性だということがわかりますね。

 

そして高校生への教育であれば、まずは歴史から学ぶとか失敗から学ぶことも大事だと思うのですが、その地域の歴史を学ぶとか起業の失敗からの再発防止のような内容はなさそうでした。

 

 

*「鉱物の見かけだけを取り繕う」*

 

「起業」と「スタートアップ」、日本語でも定義やその違いが理解できないのですが、すでに専門の大臣までいるそうです。

スタートアップ担当大臣

2022年8月1日に、成長戦略の1つである新興企業(スタートアップ)支援の司令塔となる「スタートアップ担当大臣」を岸田内閣の下に新設した。

 

ふと「錬金術」を思い出したら、こんな一行が目に入りました。

錬金術鉱物の見かけだけを取り繕うものであると考え、さらに、錬金術は通貨の価値の暴落をもたらすことによって、神により創造された世界の秩序を壊しかねないとして錬金術を非難した。

(Wikiepdia「錬金術」「中世アラビア語圏における錬金術」、強調は引用者による)

錬金術の歴史を知らないまま、その言葉だけ覚えていたことに気づきました。

錬金術」もう少し知る必要がありそうです。

 

最近、政治家の皆さんの煮え切らない説明や失敗を認めない態度が国民の求めている社会と大きくずれてきたのは、もしかするとこのあたりかもしれませんね。

 

 

それにしても最近の高校生は、「ペルソナ」とかなんだかゾワゾワする横文字が多いことを学んでいると知りました。

 

 

 

 

「横文字のあれこれ」まとめはこちら

あの日(2022年7月8日)から考えたことのまとめはこちら

デジタルと生活について考えたことのまとめはこちら

「専門性とは」「仕事とは何か」も合わせてどうぞ。

専門性とは 11 専門性を認めず労働価値を貶める

「なぜレジ打ちという仕事まで私がするのだろう」ともやもやしているうちに、セルフレジはすでに「社会的失敗」という見方があるらしいことがわかりさもありなんと思いました。

 

 

いろいろなコメントを読んでいると、「なぜレジを打つ労働を購入者にさせているのか、その分安くしても良いのでは」という考え方もありました。

「その分安くしても」はちょっと違うような気がしていたら、どの記事に書き込まれたものか記録していなかったのですがこんなコメントを見つけました。

 

昔スーパーのアルバイトとしてレジ打ちもしていたが、レジ打ちになるために講習を受けてクレジットカードなどの扱いを学び、試験に合格して認定証を受け取らないとできなかった。時給もレジ打ちしない人よりも高額だった。どうしてインチキしないか店員に見張られながら客がひとつずつスキャンしなければならないのか。

 

私自身はレジの経験はないのですが、まさにお金や商品を扱う最前線ですからさまざまな知識が必要で、アルバイトであってもこうしてきちんと系統だった講習と認定制度があったのかと初めて知りました。

 

ただバーコードをスキャンするだけではないもっと知識と経験が必要なはずなのに、「誰にでもできる」「同じことの繰り返しである」だから専門性が高くないと思わせられてきた仕事がこの世の中にはたくさんあるのではないかと。

 

ああ、これがまさにもやもやの正体だったと思いました。

 

本当は「人手不足」ではなくて、時給を上げると社会保険の支払いが増えて手取りが少なくなるというトラップがあるので、自分の労働価値を低い時給のままにして非正規雇用の枠から出ないようにせざるおえない人たちを確保しておきたいからではないか。

 

 

レジを打つ仕事も、この40年ほどを思い返しても機械やシステムが驚異的に変化した時代でしたから、その仕事内容の変化と歴史を実感としてわかる人はとてもすごい経験量と専門性だと思いますね。

ところがその仕事をしてみたいと思っても、一生を賭ける価値があるのかと思いとどまらせてしまう社会の雰囲気がある。

「誰にでもできる」と思わせて。

 

人が仕事をできる期間というのはたかだか30年とか40年ぐらいだから、その間の社会の変化にも対応しつつ長い期間をかけてみる価値がどの仕事にもあると思えるようになりました。

 

ところが、まさか「お客さんがスキャンするのを見張る仕事」になってしまったのは、ほんとうに心をくじきそうですね。

 

このところそのハリボテぶりが明らかになった一部の政治家や経営者の皆さんの専門性の無さぶりに、こういう人たちによって労働価値が貶められてきたのだと思えてきました。

 

 

 

「専門性とは」まとめはこちら

「仕事とは何か」あの日(2022年7月8日)から考えたことも合わせてどうぞ。

 

 

 

水のあれこれ 345 下末吉台地の端を流れる矢上川

かつての二ヶ領用水が潤した田んぼだろうと思われる平地を、その水路ぞいに歩きました。

通常は下流に向かって水量が増えるのに、その先の矢上川に合流する手前のあたりで急に水量が減りました。

 

堰のような場所があったので、そこからどこかへと水が分けられたのでしょうか。これもかつての分水堰だったのでしょうか。そして現代の住宅が密集した低地に水を溢れさせないためのマジックを見ているような気分ですね。

 

矢上川との合流部の目の前は日吉キャンパスのある高台で、合流部から西へ少し矢上川を遡ると新幹線の高架橋があります。

さっそく上りの東海道新幹線がキャンパスの下のトンネルから出てきました。そして下りの新幹線がトンネルへと吸い込まれるように消えていきました。

いつも車窓から見ていたこの高台とそばを流れる川に立って新幹線を眺める計画を達成できました。

何本見ても飽きない風景ですが、11月中旬、日没が早いので急がなければなりません。

 

遊歩道には花壇が整備されていて、いろとりどりの花が咲き、枇杷の花の甘い香りが漂っています。もうじき冬ですね。

ここから矢上川は高台に沿ってぐいっと南へと大きく向きを変え、その先には高台の下に住宅地がありました。

上小学校のそばから上り坂になり、途中カントリークラブが高台の斜面に造られていて、そこを過ぎると、トンネルから出てきた新幹線が通過していくのが見えましたがすぐにまたトンネルに入ります。現れては吸い込まれる新幹線をまた見続けたい誘惑に駆られながら、先を急ぎました。

 

右手の急斜面に建てられた家へと見上げるような階段があります。斜面の住宅地が途切れると森へと変わりふもとは農家の住宅と畑になりました。皇帝ダリアがみごとで、大根や里芋そしてブロッコリーが植っています。

地図ではこの高台の上は慶應義塾高校の野球場やらアメリカンフットボール場で、その下を新幹線が通過しているようですが、ここから見るとその気配はありません。

 

高台が終わる頃、切り崩した斜面の住宅地になりその屋根越しに新幹線が現れました。シュールですね。

ここからは高架橋になり、鶴見川左岸の平地をおそらく20秒もかからないで通過している場所です。どこまでも平らな道を、少しずつ新幹線の高架橋から離れながら新綱島駅へと30分ほどかけて歩きました。

 

2023年3月にできたばかりの駅ですが、周囲はまだ工事中で駅舎らしいものもありません。鶴見川の下を通っているためでしょう、地下へ通りていくエレベーターで深いところにホームがありました。

 

 

*矢上台と矢上川*

 

まさに下末吉台地の端っこを歩いた散歩になったのですが、Wikipedia矢上川の地理にその場所の説明がありました。

(前略)以降、下末吉台地北縁を南東に流れ、川崎市幸区矢上で、慶應義塾大学理工学部(矢上キャンパス)の載る矢上台の縁を回り込むように90度近く向きを南に変え、矢上台と加瀬山の間を抜けて、鷹野大橋で鶴見川に合流する。加瀬山より南側の川崎市幸区南加瀬付近から鷹野大橋までは、矢上川の全工程中最も屈曲(蛇行)が激しかったことが、明治時代や大正時代の地形図で明らかであり、三日月湖の存在も見て取れる。最終氷期最寒冷期に河川は深く下刻したが、この時の矢上川(古矢上川)は、ボーリング地質調査などから、子母口で古多摩川と合流していたと推定される。従って、現在のように、矢上で多摩川低地を離れ、鶴見川支流となったのは、地質年代では比較的最近の、縄文海進が海退に入り陸化した縄文後期以降のこととされる。

 

新幹線の車窓から見える日吉の高台とその手前を曲がりながら流れる川のそばを歩いてみたいと出かけましたが、気が遠くなるような地面の歴史によるものだったようです。

こんな「比較的最近の縄文期」と突き止めていることも、こうした地形を踏まえた上で新幹線が安全に通っていることもすごいものですね。

 

 

 

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新幹線の車窓から見えた場所を歩いた記録のまとめはこちら