散歩をする 494 S字カーブの先のかつての田んぼを歩く

散歩の出だしからまた歩きたい場所ができてしまったのですが、この日はJR武蔵小杉駅から東急新横浜線新綱吉駅まで歩く計画です。

県道2号線をまっすぐに歩くと4.9kmほどのようですが、東海道新幹線の東側を下末吉台地の端っこを蛇行しながら歩くので、だいぶ遠回りになりそうです。

 

多摩川の沖積低地の高架橋*

 

新幹線の車窓から見えるNECの高層ビルは、しばらく見ないうちにまた増えているような気がしました。

ここから新幹線の西側をしばらく高架橋沿いに歩きます。周囲がビルだらけなので、上を向くことが多くちょっと首が痛くなってきました。マンションの合間に時々東海道新幹線がほとんど音もなく通過していきます。一日中、新幹線を見放題なんて羨ましいですね。

中丸子まるっこ公園のあたりで、ビル群の地域から普通の住宅地へと変わりました。

 

ここから高架橋の真下に近づくと、高架橋の下が「新幹線中丸子公園」として利用されていました。

多摩川を渡って線路がS字になって一旦武蔵小杉駅のあたりで東へ曲がり、その後西側へ弯曲しながら横須賀線湘南新宿ラインと離れていくあたりです。

さらにその先には、保育園も新幹線の高架橋の下にありました。

公園や保育園の上を走っていたのですね。新幹線の高架橋の真下というのは、走行音がそれほど聞こえないものですね。子どもたちの生活を妨げることもなさそうです。

 

線路が西へ曲がるにつれて、それまでの低地から微妙に高低差のある道になりました。

昔からの住宅地が多い地域のようで、高架橋の下もコインパーキングやゴミ置き場として利用されています。屋根ギリギリを新幹線が通過していくのですが、気にならない音量でしょうか。

 

このあたりは区画を対角線状に高架橋が突っ切っているので、線路の東側から西側へ、そしてまた東側へとジグザグに歩きます。

しばらく歩くと「昭和橋人道橋」という不思議な名前の橋があり、小さな水路沿いは遊歩道になっていました。次回は車窓から見逃さないようにしたいものです。

 

「苅宿」の地域で、武蔵小杉よりは高い場所だろうと感じたのに「想定浸水深1.6m」と表示がありました。こんな低地を新幹線は通過しているのですね。

住宅が入り組み、苅宿小学校の校庭も複雑な形です。

 

おそらくその地名からもかつては二ヶ領用水によって潤されていた水田地帯で、少しだけ高い場所に集落ができていたのではないか、そんなことを想像しながらまた高架橋の西側へと出ると、そこには古い八幡宮のお社がありました。

E席に座ったら見逃さないようにしなければ。

 

ここから直線距離だと150mほどで、あのA席から見える広大な空き地のような場所ですが、ジグザグと住宅地を歩いて西加瀬の交差点へと出ました。

 

*広大な空き地の西側を歩く*

 

あの空き地の反対側の風景は記憶にありません。どんな場所なのだろうと歩き始めると、比較的新しい公社住宅がありそのすぐ横に小さな祠がありました。

新幹線の高架橋に向かって歩くと、住宅地の中に林や畑が残っています。東側とは雰囲気が違いますね。

 

高架橋のそばまで来ると「ダイワハウス巨大物流倉庫計画中止を」という幟が立っていて、初めて何ができるのかわかりました。

南道側には朝日プリンテック川崎工場と三菱ふそうトラック・バス川崎製作所第2敷地があったが、三菱ふそうトラック・バス川崎製作所第2敷地については2017年1月に大和ハウス工業に売却され、大型物流施設を含む複合施設が建設される予定であった。また、かつては荏原製作所川崎工場(1941-1985年)であった。

Wikipedia「西加瀬」「地理」)

一時期、白い真新しいトラックが整然と並んでいた風景を記憶しているのですが、何年ごろだったのでしょうか。

 

残念ながらだだっ広い空き地は工事現場で立ち入り禁止です。そこに立って新幹線を眺めることは諦めて、高架橋の西側を歩くと水量の多いきれいな川にぶつかりました。

川に沿って新幹線の高架橋手前にある石神橋(しゃくじんばし)を渡り、高架橋の東側へ出ると高架橋のすぐ下に祠がありました。

石神宮由来

祭神 石凝姥神(いしこりどめのかみ)

 

 古来 各村々には神様を祀って、厄病が入らないよう、又村内の安泰を祈るため道祖神を祀り、石神宮もその一柱であります。

 御神体には神霊が宿りその超能力により信奉する人々の願いごとが叶えられるとして篤く侵攻され村の守り神です。

 石神宮は嘉永年間に建てられて三百余年を経て昔を偲ぶ町内唯一の史跡、文化財であります。

 今日祠堂を再建し、石神宮を心のよりどころとして 一家の安泰と繁栄を願い町の発展を祈願するものであります。

神前に立てば祝詞が奏上されます。

 

未曾有の災害や感染症だけでなく政治の腐敗と国家の病の時代に身につまされますね。

こうした守り神の上を新幹線が通過していたようです。

 

ここから300ほど先でこの川は西から流れる矢上川に合流しますが、そこがあの慶應大学日吉キャンパスの下へと新幹線がトンネルに入る場所です。

 

帰宅してから石神橋を流れる川はどこから来るのだろうと確認すると、南武線の南側で二ヶ領用水から分かれる水路でした。

西加瀬もまたかつては水田地帯だったのでしょうか。

 

 

*おまけ*

ここまでが多摩川右岸の沖積低地だろうと想像がついたのですが、何の資料かよくわからないのですが国土交通省から公開されている「1.流域の自然状況」では、さらに詳細がありました。

 沖積低地をさらに細かく見ると、二子玉川ー溝口(18K)付近より上流は扇状地性平野、二子玉川ー溝口付近以東から六郷ー川崎付近(5k)にかけての地域は自然堤防帯平野、さらにそれより下流域は氾濫平野(三角洲・デルタ)に分けられる。

 

多摩川を越えてS字カーブで走行するあたりは、「自然堤防帯平野」というらしいです。

 

 

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新幹線の車窓から見えた場所を歩いた記録はこちら

記録のあれこれ 171 武蔵小杉駅前の散策マップ

昨年11月中旬、お昼頃にJR武蔵小杉駅で下車しました。東海道新幹線が並走している場所だというのになんと一本も通過しません。

まあ、これから新幹線の高架橋沿いに見放題ですからね。気を取り直して改札を出ました。

 

散歩で立ち寄る駅前の地図は必ず写真を撮るようにしています。「ムサコの高層マンション」がアピールされた案内図だろうと想像していたら違いました。

「なかはら歴史と緑の散策マップ案内板」には、二ヶ領用水やかつてのその分水路でしょうか、緑道として整備されている場所が描かれています。

 

水辺と緑の散策 二ヶ領用水・渋川コース

緑と水の豊かな二ヶ領用水では、桃の花が美しく咲き、住吉桜が満開の頃には多くの人がその風情を楽しみに訪れます。かるがもの里としても知られる憩いの散策コースです。

 

そうでした、あの平瀬川がトンネルをくぐって二ヶ領用水に合流した水が久地円筒分水で分けらて潤された地域が、多摩川を渡って新幹線がS字にぐいっとカーブするその先にまずあったのでした。

 

多摩川散策と等々力緑地コース

多摩川緑地周辺ののどかな自然景観と、かつてのあばれ多摩川の足跡という自然重視の両局面を偲ぶことができます。

コース沿いには歴史、文化遺産も数多くあります。

 

「等々力」というと多摩川左岸の世田谷の等々力しか知らなかったのですが、2018年に洪水によって袂を分かち、川崎側にもあることを知りました。

「あばれ多摩川」だった時代はそんなに遠くない昔だったことも。

 

中丸子・緑道をつなく花と緑の散策コース

中丸子地区周辺の廃路散策と水田の用水路・堀を暗渠にし整備した緑道です。季節を通じて樹木や草花を楽しむことができます。

 

ここからJR南武線平間駅のあたりまでの緑道は、「水田の用水路・堀を暗渠にした緑道」だそうです。

地図を眺めただけではわからないのに、この一文で二ヶ領用水の先の水田地帯、そしてそこから工業地帯へと変化した歴史がつながっていきますね。

 

あ、もう一つ案内板の下の方に書かれているコースを見落とすところでした。

歴史の道探訪・中原街道コース

中原街道は「相洲街道」、「お酢街道」とも呼ばれていました。街道沿いでは、旧家や地名、商家、石仏、石碑などで織りなされてきた歴史を偲ぶことができます。

道に歴史ありですね。

 

 

 

こうした案内地図にその地域の歴史を重層的に重ねて記録したのはどんな方々なのだろう。

 

それぞれの地域の生活の歴史をさまざまな視点から正確に記録し残そうというたくさんの無名の市井の人の地道な仕事がこの国をかたちづくってきたのではないか、そう思うようになってきました。

 

 

「記録のあれこれ」まとめはこちら

地図に関する記事のまとめはこちら

 

 

 

存在する 36 S字カーブの先の下末吉台地

大崎のあたりのS字カーブを歩いた2週間後、今度は武蔵小杉駅のSカーブの先を歩いてみたくなりました。

 

武蔵小杉駅を過ぎると、あっという間にまた工場の跡地のような広大な場所が現れます。それでも2019年ごろから少しずつ変化して何かができるようです。

あの視界を遮るもののなさそうな場所から通過していく新幹線を見てみたい。

品川駅を出て10分ほどで次の新横浜に到着するのですが、その途中でいきなりトンネルをくぐり、また平地になって鶴見川を越えます。

 

ここが慶應大学日吉キャンパスを突っ切る場所だというのは、1980年代ごろから頻繁に東急東横線を利用していた時に知りました。そしていつ頃だったか、このあたりもかつては海だったらしいと聞いたことがあります。「かつて」というのは途方もなく大昔のことのようですが、こんな内陸なのにかつては海軍の施設があったことと何か関係があるのだろうかと気になっていたのですが、そのままになっていました。

 

多摩川左岸は川を越えている時にもはっきりと国分寺崖線がわかるのですが、対して川崎側の右岸はどちらかというとなだらかな丘陵地帯に見えます。

東海道新幹線は、この丘陵地帯の海側を通過しているように見えるのですが、いったいこの地域の名前はなんだろう。

そんな疑問もそのままになっていました。

 

*神奈川県の台地*

 

多摩川右岸、台地」で検索したら、「神奈川県の地形・地盤」(ジオテック株式会社)にわかりやすい地図がありました。

 

多摩川から鶴見川までが「下末吉台地」、鶴見川から境川までが「多摩丘陵」とその先の「三浦丘陵」と「三浦台地」、境川から相模川までが「相模原台地」そして相模川から酒匂川までが「伊勢原台地」「秦野台地」そして海側に「大磯丘陵」となっていました。

 

神奈川県は川でかなり明瞭に地形の境界線があるのでしょうか。

 

そうそう、そのいきなりトンネルに入るあたりは下末吉台地だとわかりました。

「下末吉」という地名はどこかで聞いたことがあると地図で確認したら、なんと鶴見川右岸側ですから多摩丘陵の先の低地のあたりです。

なぜ、ここに鶴見川左岸の台地の名前がついたのでしょう。

わかったと思ったら、またまたわからないことが増えました。

 

とりあえず、今度は下末吉台地の末端を感じながら東海道新幹線沿いに歩くことにしてみましょう。

 

相変わらず冬眠しない熊のニュースが全国から聞こえてきたので、これは集中して東海道新幹線のそばを歩こうと昨年の11月中旬に出かけました。

 

 

 

*おまけ*

 

目久尻川から高座渋谷まで歩いた時に、「相模川左岸の土は黒っぽい」と感じたのは勘違いだったのかと自信がなくなりかけていました。

 

この「神奈川県の地形・地盤」にこんなことが書かれています。

台地

 砂礫や泥流堆積物により形成された地形面(洪積台地・段丘面など)の上位に、火山灰質の関東ローム層が厚く分布する。ロームの層厚は、被覆している下位地形面の形成年代や地質構造によって、大きく異なる。

 住宅基盤としては良好と考えられるが、ロームの分布地域では地表付近を黒ボク土(有機質土)が厚く被覆する場合もあるため、注意を要する。

(強調は引用者による)

専門的なことは全くわからないのですが、黒っぽい土に覆われた場所もあるということでしょうか。

 

線路沿いにはさまざまな物事が存在していますね。

 

 

 

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新幹線の車窓から見えた場所を歩いた記録のまとめはこちら

 10年ひとむかし 93 武蔵小杉のS字カーブのあたりの変遷

地図で線路を眺めていると、新幹線は気持ちが良いくらいにまっすぐですね。

 

このまっすぐにするためには、江戸時代なら雨が降れば数日ぐらいは渡ることができなかった大井川などをものともせず渡る橋や高架橋の技術や、安全にトンネルを造る技術で山をあっという間に越えることができたのだと、乗るたびに圧倒されます。もちろん在来線も同じような場所を超えていくのですが、新幹線の場合は最短距離を高速で走るのですからできるだけまっすぐにと設計されているのでしょうか。

 

そうなると武蔵小杉のS字カーブとか大崎のあたりのS字カーブのように、まっすぐでない場所がかえって気になってしまいます。

 

多摩川の堤防のあたりから武蔵小杉駅の近くまで歩いた時には、その理由が地形なのかなんなのか結局よくわかりませんでしたが、このあたりの風景の記憶をたどっていたら年表にヒントがあるような気がしてきました。

 

 

*まだ武蔵小杉駅がひとつだった頃*

 

いつの間にか、地図の中では「武蔵小杉駅」が2つになっています。その南よりの駅に並走して東海道新幹線が通っています。

 

私にとって「武蔵小杉駅」というのは、東急東横線南武線が交差したところにある武蔵小杉駅しかなくて、いつだったか「離れているのにこちらも武蔵小杉駅なのか」と混乱しながら驚いたのですが、それがいつ頃の記憶だったのかも定かではありません。

 

現在は高層マンションが立ち並ぶ中にある南側の武蔵小杉駅には横須賀線湘南新宿ラインが走っているのですが、その湘南新宿ラインそのものに気づいたのが2000年代に入ってからで、そこは貨物が通っていた線路ではないかと浦島太郎の気分になったのですが、武蔵小杉のあたりとはまだ頭の中でつながっていませんでした。

 

2000年代に入るころは東横線をよく利用していて、まだだだっ広い空き地にポツンと高層マンションができた頃で工場の跡地がこれからどんな場所になるのだろうと思った記憶があります。それからほどなくして、まさに「雨後の筍」のように街が出来上がりました。

 

Wikipediaの「武蔵小杉駅」の年表を読むと、この記憶もそれほどずれてはいなさそうです。

 

1945年(昭和20年)6月16日:南武線との交点に東急の武蔵小杉駅が開業。

1953年(昭和28年)3月31日:東急の武蔵小杉駅工業都市駅との中間地点に移転し、工業都市駅を廃止する。

1964年(昭和39年)10月1日:国鉄東海道新幹線開業。本駅付近では品鶴線の西側、同線に並行して建設。駅は設置されず。

1980年(昭和55年)10月1日:東京駅ー大船駅間で東海道本線横須賀線の運転が分離され(SM分離)、品鶴線が旅客化されて横須賀線電車が運転開始。川崎市内では新川崎駅が設置。ただしこの時点では横須賀線武蔵小杉駅は設けられず。

 

工業都市駅」「品鶴線」なんてあったのですね。

1980年代から2000年代によく利用した東急東横線のこの辺りは、たしかにその雰囲気がまだまだありました。

 

新川崎駅」という名前も浦島太郎の気分になる駅名ですが、1980年代後半の東海道本線の川崎駅前も人里離れたような工場の跡地しかなかった記憶です。

 

それなのに、いつのまにあの高層マンション群の間のS字カーブを新幹線が通過し、その風景を横須賀線湘南新宿ラインの駅から眺めるようになったのでしょう。

 

年表を追って驚きました。つい最近ですね。

2010年(平成22年)3月13日:横須賀線の駅が開業し、同線と新宿湘南ライン・特急「成田エクスプレス」、特急「スーパービュー踊り子」の停車駅となる。

 

この風景になるまでにまず東急東横線複々線化、そして高架橋化していった90年代から2000年代の変化の記憶があります。

東急東横線武蔵小杉駅のあたりは、線路に商店街や住宅が接している風景の記憶です。

当時は今ほど鉄道の歴史に関心がなかったこともありますが、高架橋ではなかったので新幹線が近くを通過していることも見えなかったのかもしれません。

 

東海道新幹線によく乗るようになった2018年から19年頃、新横浜駅を過ぎていつの間にか増えた高層マンション群の間に入り、横須賀線湘南新宿ライン武蔵小杉駅に並ぶたくさんの乗客の列を斜めになりながら眺めて抜けると、川面に夜景が映る多摩川が見えて「無事に家に戻ってきた」気持ちになったのでした。

 

あの武蔵小杉駅のあたりの風景はできてまだわずか8年ほどだったのだと、今ようやく頭の中が整理されました。

 

 

 

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つじつまのあれこれ 47 「本人でもない印鑑」からカードに変わっただけ

このところ、日本の政治とはハリボテのような人たちによって牛耳られていたことが少しずつ見えてきました。

その混乱の中で鳴りをひそめているかのようなマイナンバーカードの行方ですが、あまりの杜撰なシステムに当然見直されることになるだろうと思っていると、時々実弾のようなものが飛んできますね。

 

 

*まだ根本から問題を見直さず押し通そうとするのか*

 

2024年3月19日付でこんなニュースがありました。

マイナカードと運転免許証の一体化「2024年度中、なるべく早期に開始」ー河野大臣が表明

 デジタル大臣を務める河野太郎氏は3月19日、マイナンバーカードと運転免許証の一体化を2024年度中に開始するとX(旧Twitter)に投稿した。「なるべく早く始められるように調整しており、正確な時期は追って発表する」とも投稿した。

 政府はこれまでも、運転免許証とマイナンバーカードを2024年度末までに一体化させる方針を示していた。また、工程表によれば、一体化以降、マイナンバーカード機能を搭載したスマートフォンを運転免許証がわりにする「モバイル運転免許証」の運用も極力早期に開始することになっている。

CNET Japan

 

このニュースを読んでまず感じたのは、なぜ政府の方針をなぜ一私企業のSNSで伝えてしまうのか、それは公的な発表なのか、であれば総務省警察庁が発表すべき内容ではないかという疑問でした。

 

最近、任意だったものが強制されたり時間をかけて築いてきた社会の制度が前首相の一声で変えられたり、あの1980年台の東南アジアの国々で目の当たりにした独裁政権下のような手法が目につきますからね。

 

 

*「デジタル資格書」って何?*

 

長い時間をかけて試行錯誤してきた「自由」と「民主」とはほど遠い国になってしまったという絶望感で、このニュースの後半を読み飛ばすところでした。

 

32の国家資格や免許をデジタル化

 また河野氏は、運転免許証とは別に、2024年6月から税・社会保障関係を中心とした32の国家資格や免許を順次デジタル化すると発表。マイナポータルからデジタル資格証を閲覧可能になるほか、資格の新規取得や住所変更、申請に必要な支払いがオンラインで可能になり、その際の住民票などの書類添付も省略できるとした。

 対象となる資格や免許は「医師、歯科医師、薬剤師、看護師、准看護師保健師助産師、理学療法士作業療法士視能訓練士、臨床工学技士、義肢装具士言語聴覚士臨床検査技師診療放射線技師、歯科技工士、歯科衛生士、あん摩マッサージ指圧師、はり師、きゅう師、柔道整復師、救命救急士、介護福祉士、精神保健衛生士、公認心理師、管理栄養士、栄養士、保育士、介護支援専門員、社会保険労務士、税理士」。

(強調は引用者による)

 

デジタル資格証ってどんなものなのだろう。

まさかあのいち私企業が管理している電子印鑑のようなものではないですよね。

 

それまで国と自分との免許証だったはずなのに、IT企業や関連機器会社が介在する別の資格証ができるというのは意味が全く違うものになるのではないかともやもやしています。

 

そしてさらりと「住民票など」と書かれていますが、現在の国家資格の免許の変更に必要なのはまず戸籍謄本で、そのために死亡したときの原録原簿抹消がややこしく、本人は死んでもその免許は存在し続けるという不思議なことが起きるようです。

 

印鑑が自分を証明するとか住んでもいない場所を本籍とするシステムが国民に番号を振ることで解決すると期待したのですが、ただデジタル印鑑になりデジタル証明書に置き換わっただけですね。

 

デジタルとかまびすしくなるにつれ、「屋上屋を重ねる」というか何か別物になっているような印象がますます強くなるこのごろです。

 

 

*おまけ*

 

ところで、弁護士とか公認会計士とかも国家資格なのに、デジタル資格書の対象になっていないのはなぜでしょう。

32の資格はどういう基準なのでしょう。

まさか「社会保障に係る資格におけるマイナンバー制度活用に関する検討会」の資料にあった「社会保障に係る資格取得者の利便性とともに、社会保障の担い手確保等に資するよう」というのは、人材派遣会社からたくさんお仕事のメールがくるようにさせるとかではないですよね。

 

 

そんな労働や経験の対価が軽んじられてプライバシーもなくなるような資格証はいらないですけれど。

なんだか変ですよね、最近の政府は。

 

 

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マイナンバーとマイナンバーカードについての記事のまとめはこちら

デジタルについての記事のまとめはこちら

あの日(2022年7月8日)から考えたことのまとめはこちら

 

存在する 35 自分の存在の証明が主体的でなくなった

わけのわからないタイトルですね。

 

自分を証明するために四つの本人確認方法があることを以前知りました。

運転免許書はそのうちの「身元確認」で、信頼できる機関が発行しているので日常的な自分の証明はこれ一つで済みました。

そして無くすことや失効することもなければ、私自身が「それを持っていること」で事足りました。

 

ところがマイナンバーカードになると、「持っている」だけではだめでそれを読み取る機械があって初めて有効になりますね。

 

その中に「実印のように重要な本人確認方法を詰め込んだカード」を日常的に持ち歩かなければならないだけでなく、それを読み取る機械が必要で、電気や通信インフラや読み取り機をつくる会社がなければ私自身を証明できないただのカードになってしまうのは、自分の主体性を奪われてしまったような感覚です。

 

 

*印鑑証明でさえ主体性が失われた*

 

マイナンバーに期待したのはそんなカードではなく、本人でもない印鑑が意味を持ったり、そこに存在していないのに本籍地を登録したり変更しなければならない実態のない制度をどうにかしてほしいというもっと根本的なことでした。

 

最近は印鑑を廃止するような雰囲気になり、サインだけですむ場面が増えました。

このまま日本の印鑑の文化と折り合いをつけながら、自筆のサインが本人の意思確認として有効になる社会に大きく変化するのだろうと期待していました。

 

さて、先日とある書類が全てデジタル作成になるというので、電子印鑑の登録をすることになりました。

今までのように何ヶ所も住所氏名を記入し印鑑を押す必要もなく、審査に通るとデジタル書類が保存用に戻ってくるという簡素な方法になりました。

ところが送信されてきた書類を見ると、なんだか三文判を大きくしたような印鑑が隅に押されて出来上がってきました。

 

今までであればその会社との書類のやり取りだけでしたし、手元にある私の印鑑を押していました。

ところが今度はその間に電子印鑑の会社が入り、しかも私が気に入っていた実印とは程遠いデザインの印鑑がデジタル上の書類に押されています。

デジタル化ってこういう無駄を無くすのではないかと思っていたのに、相変わらず「印鑑」を押すのですね。

なんだかなあ。

 

この電子印鑑はどういうしくみで信用になるのだろうと説明を読んでも、なんだかスッキリ理解できません。

何より手元にある実印を押すという主体性さえ奪われた、なんだか敵に武器を渡したような心許なさですね。

 

行政手続きにおける印鑑の廃止に前向きな姿勢を取っている。ハンコ文化に理解を示すと同時に、業務の効率化のためにはハンコは減らすべきではないか、と述べたことがある。2020年4月27日より、防衛省内部部局、統合幕僚監部、陸上幕僚監部、海上幕僚監部、防衛装備庁、防衛大学校は、内部決裁を全て電子決裁とし、省外からの書類に関しても印鑑証明が要らないものは印鑑を不要とした。印鑑証明に代わる証明については、総務省が検討中のシステムで行う。

 

「印鑑証明に代わる証明については、総務省が検討中のシステムで行う」

そうだったのか、印鑑がなくなるというのはぬか喜びで別の方法にとって変えられることであり、それに登録しなければ自分の証明が成り立たないという主体性を放棄することだったのだと、遅まきながら気づいたのでした。

 

なんだかなあ、ですね。

 

 

 

 

 

 

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散歩をする 493 立会川に侵食された台地を感じながら歩く

目黒川を越えると品川用水が潤していた田んぼがあったあたりから、新幹線の車窓の両側には尾根から谷地までぎっしりと家が建つ風景が何度か現れます。

 

あっという間に通過していくことと、A席とE席でも風景が違うので、舌状台地末端の複雑な地形のどのあたりを通過しているのかいつも見過ごしてしまいます。

最近は海側を見ることができるA席にすることが多いのですが、最初の緊急事態宣言のあと遠出を再開した2020年7月頃は1車両に数人とか20人ぐらいでガラガラだったころに比べると、最近はE席はまず取れないくらいに乗客数も復活しました。

 

2022年7月に西大井駅あたりから立会道路、そして立会川の河口まで歩きました。立会川が暗渠になった道路です。

新幹線の車窓からこの立会道路のあたりが見えるとまた高台の風景になり、次に見えるのは呑川の両岸の風景です。

 

今回はこの立会道路に沿って、E席から見える風景を歩こうという計画でした。

 

 

西大井駅そばの立会道路へ*

 

品川区立豊葉(ほうよう)の杜学園の間の品川用水の跡の暗渠を歩くと、四間通りの交差点に出て右手をまた新幹線が通過していくのが見えました。交差点には古い地蔵堂があり、かつてはどんな風景だったのでしょう。

しばらく高架橋に並行して歩くと地図にはない公園があり、小さな「杜松小學校創立之碑」と彫られた石碑が建っていて、その向こうに新幹線の高架橋がまた見えてきました。品川平和の花壇という公園にはカンナの花が鮮やかに咲いていました。

新幹線と横須賀線の高架橋の下に北側へと杜松地下道が見えますが、「水系と3Dイラストでたどる 東京地形散歩」の3Dイラストの地図と付き合わせると、どうやらその地下道のあたりにかつて品川用水が通っていたように見えます。

 

今回は、地下道を通らずにもう一つ先のガード下まで高架橋の南側を歩くことにしました。

間口の狭いあの京都の長屋のような家々がぎっしりと続いていて、新幹線が住宅の屋根のすぐそばを通過していきます。当日のメモには「かつては水田もあった」と記録していたので、おそらく小さな暗渠を見つけたのでしょう。

 

古い石垣が残るガード下の四間通りをくぐると、その壁に小学生が綱引きをしている絵が描かれていました。

その先に大きな一本の木が残り、線路の南側とはまた違った住宅地が広がっていました。そこから南西へと少し下り坂になっているので、かつての立会川左岸でしょうか。

 

新幹線の高架橋沿いに歩くと、暗渠の水路が住宅地の道として使われていて途中の橋も残っていました。

屋根に隠れて姿は見えませんが、時々静かな走行音が通過していきます。

 

商店街に入りました。立会道路の一本北側の三間通りのようです。

走行音が聞こえるたびに振り向くと、お蕎麦屋さんや花屋さん、焼き鳥屋さんの向こうに新幹線が通過していくのが見えました。

E席からはこんな風景が見えていたようです。

 

 

*立会道路を荏原町駅まで歩く*

 

 

途中で南側へと路地を曲がると、立会道路に出ました。ここでは、真ん中の道路が一段高くなっています。かつての川の堤防の跡でしょうか。

ここから東急大井町線荏原町(えばらまち)駅方面へと立会道路沿いに歩きます。「3Dイラスト」の地図によると荏原台の高台の上を流れる川のようですが、道路の南側が小さな崖のようになってそれを利用して家が建っているのに対して、北側は少し下りのような場所でした。

 

立会川の暗渠を利用した道の両側は公園や住宅の緑があって、想像していたよりものんびりとした道です。

しだいに新幹線の走行音も聞こえなくなりました。

国道1号線第二京浜)との交差点がありその先の立会道路は遊歩道になりますが、横断歩道を渡ると、その遊歩道へは階段で降りるようになっています。

横断歩道から見えた第二京浜は両側が緩やかに上り坂になって、かつての立会川の両岸だとわかりました。

 

遊歩道になると自転車と歩行者の道が分けられているので、ぼーっとのんびりとかつての川の上を歩くことができます。

よく手入れされている木々が植えられて、途中にある特別養護老人ホームの前にはベンチもあって一休みさせてもらいました。

80年ほどのこの地域の風景の変遷を見てこられた方々にとっても、きっと川の記憶が蘇るような穏やかな場所でしょう。

 

歩く人も増え両側にお店が増えてきたあたりで昔の川は北へとぐいと曲がり、そのそばに木と小さなお社がありました。水が溢れないように、そして水が足りなくなりませんようにとたくさんの人が祈ったのかもしれません。

 

15時40分、荏原町駅の賑やかな商店街に出て、今回の新幹線の車窓を歩く散歩が終わりました。

 

お腹も空いたので、ちょうど開いていた中華料理屋さんに早めの夕食と思って入りました。

隣の席で人が寝ている気配がありました。こういう生活の雰囲気も好きだと思いながら、美味しく食べて満足して散歩が終わりました。

 

今度新幹線に乗ったら古戸越川と立会川が侵食した荏原台の地形、そしてそこでの生活の風景を見逃さないように集中しなければ。忙しくなりますね。

 

 

 

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新幹線の車窓から見えた風景を歩いた記録はこちら

新型コロナウイルス関連の記事のまとめはこちら

 

 

 

 

米のあれこれ 80 品川用水が潤した田んぼ

大崎周辺の高層ビルのあたりからS字カーブを抜けてきた下りの東海道新幹線がヘリポートの盆踊りの人たちの向こうを静かに過ぎていく風景をみていたら、昭和から平成そして令和の今はいつだったかとちょっと混乱する感覚に陥りました。

 

すぐに東急大井町線の高架橋があり、はっと我に帰った感じです。

下神明(しもしんみょう)駅をくぐると南側は少し窪んで低いようです。西側から都道420号線がきているのですが、この駅周辺で一旦途切れて工事中になっていました。再開発か何かでしょうか。少し前はどんな風景だったのだろうと気になりながら新幹線の高架橋に近づくように歩くと、見覚えのある場所になりました。

 

たぶん都内の散歩を始めた2017年ごろに、この品川区立豊葉(ほうよう)の杜学園の敷地の間の道を歩いた記憶があります。

北棟の校舎のすぐ後ろを新幹線が通過していきました。

 

その道が少しだけ南へと曲がるあたりに案内板がありました。

 

品川用水跡

 豊葉の杜学園の校舎の間を通る道路に沿って、かつて品川用水が流れていました。江戸時代、旱害(干害)に苦しむ品川領の村々では、灌漑用の用水開設を幕府に嘆願していました。寛文七年(一六六七)、願いがかない玉川上水から品川用水を引く工事が始まりました。多摩郡境村(現武蔵野市)の取水口から品川領まで延々約二〇kmにわたる難工事で、二年後に完成しました。

その結果、品川領九宿村(戸越村・下蛇窪村・上蛇窪村・大井村・南品川宿・二日五日市村・北品川宿・桐ヶ谷村・居木橋村)の農地を潤し、水田開発が進み米の収穫量は大幅に増加しました。

 その後、明治時代後期になると、農業用水としての需要は減り工業用水や消防用水などとしても利用されるようになります。やがて、宅地化が進むと徐々に下水化していきました。昭和二十三年(一九四八)、品川用水普通水利組合が当時の三鷹町へ水利権を譲渡し、品川用水は品川区内での役割を終えました。

 現在、水路は暗渠化などにより姿を消しましたが、人々に大きな恵みをもたらした品川用水の沿革を記して記念といたします。

  平成二十五年七月三十一日  品川区教育委員会

 

そうそう、この案内板も見覚えがあります。

玉川上水の水が武蔵野台地の上を通ってはるばるここまできていることが書かれていたからでした。

品川用水の歴史もたどりたいと気にはなっているのですが、現代ではほぼ下水用の暗渠になっているのでしょうか、なかなか出会うことがありませんでした。

 

「居木橋(いるきばし)」、今回の散歩のスタートで初めて知った目黒川にかかるあの橋です。

あのあたりまで玉川上水が水田を潤していたとは、実際に歩いてみて初めてつながりました。

武蔵野台地の末端の舌状台地にも小さな川や水源はあるのですが、満潮時には海水が遡上してくるので田んぼには使えなかったのでしょうか。

 

品川用水が潤した田んぼに稲穂が輝いていた時代、どんな風景だったのでしょう。

ふと、ヘリポートの盆踊りが江戸時代の風景のように混乱してきました。

 

 

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新幹線の車窓から見えた場所を歩いた記録はこちら

 

 

 

水のあれこれ 344 「谷が鹿の角のように入り組む」

大崎駅から歩き始めた時に、空を見上げたら11月初旬だというのに入道雲が見えました。暑くなりそうと思った通り、東海道新幹線沿いの起伏のある場所を歩いているうちに汗が出てきました。

 

ようやく少し平らな場所になり、湘南新宿ラインの踏切を渡ると今回の散歩の2番目の目的地であるしながわ中央公園がありました。

新幹線の車窓に突如として現れたヘリポートに最初に気づいたのはいつだったか記憶にないのですが、近くを通るのが東急大井町線だったことを頼りに、あとで地図で確認するとどうやらこの公園内のようでした。

 

青山公園に隣接する在日米軍赤坂プレスセンターのヘリポートもそうですが、どんな緊急時に備えるのだろう、周囲はどんな場所なのだろうと気になっていました。

 

*古戸越川の流れていたあたりらしい*

 

「水系と3Dイラストでたどる 東京地形散歩」によると、現在の文庫の森や戸越公園はかつての熊本藩主細川家の戸越屋敷で、その池から古戸越川が流れ、しながわ中央公園のあたりを流れていたようです。

 

地図では平地にしか見えないしながわ中央公園ですが、北側から歩き始めると微妙に坂道になりトラックのある方が高くなっていました。

坂道から少し窪んだような場所にヘリポートがあり、東急大井町線の方へと少し下り坂のようにも見えます。車窓から一瞬で過ぎるよりも、実際にははるかに広い場所でした。

11月でしたが地域の盆踊りがそのヘリポートで開かれていて、その後ろの高架橋に新幹線が通過していくちょっとシュールな風景です。

すごい、新幹線見放題の場所だとしばらく立ち止まりましたが、住民のみなさんは盆踊りに夢中のようでした。

 

新幹線の高架橋を挟んで西側300mほどのところに文庫の森があり、そこが古戸越川の水源だそうで、そこからこのヘリポートのあたりでぐいと北東へと流れを変えて、目黒川右岸の住友不動産の高層ビルがある高台の手前でまた東へと曲がって海へと流れていたようです。

 

 

Wikipedia武蔵野台地は今までも何度も読んだのですが、「東部の舌状台地群と、その上にひろがる都心市街」に書かれていた「谷が鹿の角のように入り組み」が初めて目に入りました。

武蔵野台地は、その成因から、水を通さない海成の粘土質層の上に水を通しやすい礫層が互層しており、この層面から地下水が湧き出し、台地上の中小河川の源流となっていることが多い。台地上に見られる池の多くがこのような成因である。また地名として「清水」を冠していることも多く、さらに、大きな寺社が境内として取り込んだり、名家や武家の庭園になっていた例もある。これらの河川によって武蔵野台地の東部は開析が進んでいて谷が鹿の角のように入り組み、多数の舌状台地から削り出されている。

 

まさにそんな場所にあのヘリポートがあるようです。

 

 

*おまけ*

このWikipediaのわずか数行の記載はなんと正確な表現なのだろう、これを記するのにどれだけの人がそこを歩き観察したのだろうと、ちょっと気が遠くなりました。

いやはや、世の中にはたくさんのすごい先人の記録があるものですね。

 

 

 

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鵺(ぬえ)のような 26 正義の熱狂を車窓から思い出す

品川駅を出てすぐのS字カーブのあたりを歩きたいとずっと思っていたのは、新幹線の線路沿いの地形や地域の歴史を歩いてみたいと思う理由と、もう一つありました。

 

そのものずばり、第一三共研究開発センターのそばを歩いてみたいというものです。

夢は叶いましたが、怪しい人に思われないようにちょっとこそこそとになりました。

 

記憶があいまいになってはいるのですが、久しぶりに2018年の秋に新幹線に乗って岡山へ向かう車窓に、このビルを見つけたときに「ああここにあるのか」と思ったのでした。少し切ない思いと共に。

 

ずっと応援していた競泳の古賀選手のスポンサー企業だったからで、会場に観戦に行くと会社の応援の方々が熱いエールを送り、試合が終わるとそこに挨拶に向かう姿を何度も見ていました。

心強いだろうなと思っていたのですが、状況が変わったのが2018年のあの出来事でした。

その時には、製薬会社がスポンサーだったことは無実を証明するのには幸運だったと思って見守っていました。

 

現代の「科学的根拠に基づく医療」の大事な薬をつくっている会社ですから、当然キスをしただけで陽性になるという怪しい「量の概念」抵抗のない泳ぎに効果のある薬や成分なんて荒唐無稽だとすぐに証明してくれるのではないかと期待していました。

製薬であれば、科学的な臨床試験に基づいた考え方のはずですからね。

 

ところが、選手としての活動を規制されるだけでなく無実の証明のために莫大な費用と時間を費やすことになりました。

 

古賀選手だけでなく選手を疑い、屈辱的な検査を強いられ、そして一回の陽性反応で犯罪者のように扱われるそんな厳しい正義の熱狂的な運動の前には、科学的根拠に基づく医療の基本的な考え方では手も足もでないのかと絶望的になったのでした。

そのあとじきに未曾有の感染症に対する社会の混乱を見ると、「科学的根拠に基づく医療」というのはまだ医療に浸透し始めてわずか30年ほどなのだと痛感しましたが。

 

品川駅を出発して左に車体が傾きながら第一三共研究開発センターの横を過ぎる時には、いつも古賀選手と応援してくださっていた会社の方々の姿を思い出しながら、ちょっと切なくなります。

そして世の中の熱狂的な動きに逆らうことは難しいと、何もできなかった自分も情けなくなるのでした。

 

 

 

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