正しさより正確性を 27 それはいつの時代のどういう背景だったか

「掻爬法」という専門用語がかまびすしく聞こえてくる最近ですが、それに対するイメージというのは一様ではないのだろうと、最近の動きを見ています。

 

「"戦後まもなくから変わらない"日本の中絶」(NHK NEWS WEB、2021年10月14)という特集が時々出てくるのですが、本当に「戦後まもなくから変わらない」のでしょうか。

 

色々な世代の産婦人科の先生方と働いてきたのですが、20世紀半ばまでは子宮内は暗黒な完全に閉ざされた世界であり、方法論がなく自然に委ねられた自然淘汰の多い診療科であった時代から急激に変化している時代の葛藤から、 現在はなんだか掻爬法が悪の大権現にされてしまっているのではないかと思えてきました。

 

*掻爬法の看護の私の個人的な経験談ですが*

 

医学的議論の詳細はわからないのですが、掻爬法(キュレッテージ)の際の看護には携わってきましたから、今考えると90年代の掻爬法もすごい時代だったなと思い出しました。

 

人工妊娠中絶も流産手術も処置は基本的に同じですが、流産の場合自然流産を待っている間に進行してきて、出血が多いと夜間でも来院してもらい、対応することもありました。

そのまま子宮内に残っている組織をかき出します。

当時はまだ経腹エコーも画像がそれほど鮮明でなく、まさに手探りで医師の勘が頼りの処置という印象でした。

無麻酔でしたから、絶叫が病棟に響くことがありました。

 

中にはこう言いう体験をされた女性が、「遅れた掻爬法」のイメージとして思い出していることもあるかもしれませんね。

あるいは医療システムが異なる国では、まだまだこういう方法が「掻爬法」なのかもしれません。

 

なぜ無麻酔だったのだろうと思い返しているのですが、決して産科医が何か「女性に対して懲罰的な感情」があったわけでもなく、当時は静脈投与自体が一般的になり始めた時代で、まだ安全性とか潤沢に薬剤や物品を使える時代でもなかったのかもしれません。

このあたりの記憶は曖昧なので、またひとつひとつの歴史を確認しなければと思います。

 

そんな今から考えると怖ろしい方法でしたが、当時でもすでに血液型がRh(-)の方を見逃さずに抗Dヒト免疫グロブリンを打ち忘れない対応がされていました。

その歴史を読むと、1940年に「ヒト赤血球にRhD抗原が存在」することがわかり、1972年には日本で始まっているようですから、子宮も胎児もブラックボックスだった時代になんとすごいことだろうと改めて思います。

 

この後、子宮内のさまざまなことがわかり、医療機器も医薬品も進歩しました。

2000年代に入ると私が勤務していた診療所では、流産の処置でも吸入麻酔か静脈麻酔を使用し、必ず経腹エコーで子宮内を確認しながら金属製の細い管で吸引したあと、残った組織をキュレットで掻爬していました。

掻爬だけでなく「吸引法」という技術ができ、また麻酔が日常的に行われ、その麻酔も喘息既往がある方には別の薬品を使用するようになりました。

 

2000年代以降、処置そのものは「眠っている間にもう終わったのですか」という感想をおっしゃる方がほとんどです。

麻酔からの覚醒時も、以前は吐いたり下腹部の痛みで苦しむ方も多かったのですが、最近はほとんどいらっしゃいません。

 

中絶にしても流産にしても、失ったことに対してさまざまな思いがあり、表情に出さずにじっとこらえて帰宅する方もあれば、涙が止まらなくなる方もいらっしゃいます。

言葉にならないものを受け止め、その後の生活を整える対応が看護でしょうか。

 

わずか30年ほどでも、隔世の感ありですね。

 

 

*理不尽さを表現するためのスケープゴート

 

「日本は遅れた掻爬法」と批判している人たちは、どんなことをイメージしているのだろう。

そんなことが気になっています。

 

きっと文字で表現するときには険しい表現でも、外来でお会いして直接お話しすれば、ああそういうことなのですねとその歴史は理解してくださる方も多いかもしれません。

 

 

ただ、妊娠・出産に間することは言葉にならないさまざまな思いがあるので、納得とは違う話なのだろうと思います。

あの、分娩台がスケープゴートにされた時代と、今回の掻爬法への反応は似ているかもれないと感じているのですが、どうなのでしょうか。

 

妊娠・出産に関すること、あるいは「女性の身体」といったことについて運動という手法で世の中を変えようとすると、築いたてきたものが簡単に壊され世の中が求めているものとは違う方向へ変わってしまう可能性がありそうです。

 

 

「正しさより正確性を」まとめはこちら

 

 

 

 

 

 

 

 

行間を読む 133 八戸港の歴史

八戸と聞くと、小学生の頃から工業地帯を連想しています。

1960年代ごろから岡山の児島湾にできた水島臨海工業地帯など全国に工業地帯ができ始めたことが、当時の小学生にとっては先進国入りの象徴のように社会科の授業で学んだからだと思い返しています。

 

八戸線の車窓から海岸線に大きな港と工業地帯が見えました。

帰宅してから「八戸工業団地」で検索しても、1990年代から開発された八戸北インター工業団地の説明は見つかったのですが、この臨海工業地帯については頼みのWikipediaがありませんでした。

 

どちらかというと八戸港としてその歴史がまとめられているようです。

 

戦後、1949年(昭和24年)には、戦前から始まり中断していた豊洲のデルタ地帯を工業用地として活用するための馬淵川の河川切替工事が終了し、河原木地区に臨海工業用地の第一工業港が完成した。その後、東北地方で最大と呼ばれた八戸火力発電所や製錬所の建設が進み、1957年(昭和32年)には重要港湾として位置づけられた。また、国の全国総合開発計画の策定により1964年(昭和39年)には八戸が新産業都市に指定された。これにより市街地開発及び港湾インフラ整備が強化され、新たに八戸大橋や八太郎大橋などの港湾道路建設や第二工業港の八太郎、河原木地区の岸壁工事も進められ、三菱製紙八戸工場をはじめとする重化学産業の誘致にも成功した。

Wikipedia八戸港」「歴史」)

 

小学生の頃の記憶は概ねあっていたようです。

 

*「八戸町での築港運動」*

 

現在の八戸港ができるまでの歴史を読むと、ヨハネス・デ・レーケと同じく明治時代に来日して全国の土木事業に関わってきたムルデルの名前がありました。

八戸港の歴史は八戸藩が開かれた17世紀の中頃に遡り、当時は鮫浦または鮫浦港と言われていた。八戸港と呼ばれるようになったのは八戸市市制施行後の昭和5年(1930年)からである。開港当初から漁港や悪天候時の避難港として利用され、寛文4年(1664年)には八戸藩が江戸へ廻米し、寛文11年(1671年)の東廻開運の就航で鮫浦は寄港地になった。明治時代になると、八戸町で築港運動が盛んに行われ、明治17年1884年)に内務省からオランダ人技師ローウェンホルスト・ムルデルの派遣により八戸港の測量が始まり、港湾計画策定に至った。

Wikipediaローウェンホルスト・ムルデルの「関与した案件」に「鮫港整備」がありますが、まとめはまだなさそうです。

 

大正8年(1919年)から鮫浦港の修築工事が始まり、昭和3年(1928年)に内務省指定港湾に位置付けられた。これにより更なる港湾整備が進み、昭和7年(1928年)からの商港第1期整備工事により北防波堤、3000トン岸壁、物揚場が完工した。これらの背景には『後背地に産出する石灰岩、砂鉄、硫化鉄などの豊富な地下資源が、八戸の近代化に大きく貢献し、港は工業港としてその機能を高めていく。

 

国土交通省東北地方整備局八戸港湾・空港整備事務所のサイトに「八戸港の歴史と将来像」があり、それを読むと、「砂浜でイワシの地引網漁」をする小さな漁港だったこの辺りが、鮫浦として17世紀ごろからは北前船の東廻路の港として栄え、さらに「明治27年(1894年)に湊線(今の八戸線)が開通すると、海と陸をつなぐ物資の輸送が増え」ていったことが書かれていました。

 

私のイメージしていた八戸港や工業地帯は、戦後どころか江戸時代からの歴史があったことを知りました。

 

そしてこの地の土木事業にもまた、生死をかけて、遠く祖国を離れて日本に技術や知識を伝えようとした人の存在があったのでした。

 

 

ムルデルについて書いた記事をこちらにまとめようと思います。

水のあれこれ 101   山梨の水との闘い

行間を読む 111   利根運河の歴史

行間を読む 123   明治時代から昭和にかけての干拓

行間を読む 124   生本伝三郎の計画とムルデルの科学的な調査

行間を読む 202 備前渠用水の石碑と年表

 

 

 

「行間を読む」まとめはこちら

散歩をする 357 八戸線で久慈へ

本八戸駅を7時25分発の久慈行きに乗る予定でしたが、馬淵大堰のすぐそばまで行けなかったので早く駅に着きました。

これなら1本前の鮫行きに乗ることができそうです。

 

地図で八戸線の線路を追っていた時に、目に入ったのが「鮫駅」でした。どんなところか歩いて見たいと思ったですが、久慈行きの列車は本数が少ないので途中下車は諦めていました。それが叶いそうです。

 

7時10分発の鮫行きは高校生でいっぱいで、中に通勤の人もちらほらと乗っていました。

どこでも朝の通学時間は静かです。

1970年代半ば、何をしたいのかよくわからないまま成績で高校も決められていく時代に入っていく中、私は電車通学をしたいと志望校を決めたら両親に却下されたのでした。

日本各地のいろいろな通勤通学の風景をみるのも散歩の醍醐味ですが、電車の中の高校生を見るとうらやましくなります。

 

朝日が入って眩しい中、列車が動き始めました。

馬淵川下流に広がる平地と反対側の高低差の大きい街並みとを見比べているうちに、もう一つの新井田川を超えました。川のそばの住宅街に接して大きな工場が建っているのが見えました。

陸奥湊駅のあたりからは左手に八戸の工業地帯と港が見えてきました。その次の白銀駅では、ドアが全て開いて、高校生の大半が下車しました。多勢ですが、下車するときの法則があるのか、粛々と列を作ってあっという間でした。

目の前は見上げるような坂道で、そこを登っていくようです。

 

海側が工業地帯や水産加工工場などの風景になり、鮫駅に到着しました。

駅の周辺を少し歩いてみましたが、なぜ「鮫」なのかわかりませんでした。

 

*久慈行きの八戸線で海岸線を走る*

 

7時43分、久慈行きの列車に乗りました。新しい車両で快適です。乗客も数えるほどしかいないので、海側の座席に座ることができました。

左手には穏やかで真っ青な太平洋が広がっています。

地図では、ここから久慈駅のあたりまでなだらかな海岸線が描かれていますが、どんな風景なのか楽しみです。

 

八戸線がぐいと弧を描くように曲がるあたりに、水産科学館が見えました。途中下車してみたかったのですが先を急ぎました。

 

水平線、日が翳り程よい明るさ

黒のトタン、陸奥白浜美しい、庭園

松原に遊歩道、切り通し

種差キャンプ場、沖にタンカーが見えた

静かな街、きっとどの家からも海が見えそう、浜ごとに駅

畑はある

金浜、林、沢

医療を受けるためにはいろいろな費用がかかる

大蛇(おおじゃ)駅、立派な家、意外に雨戸のある家が少ない

階上(はしかみ)、小高い、行き違い

地図にはないけれど小さな沢、コメを作るのにどれくらいの水が必要?

 

美しい海岸線の風景と、想像以上に落ち着いた街並みが沿線に見えました。

瓦が少なくて、トタン屋根が多かったのですが、真っ黒なトタン屋根が風景を引き立てていました。

 

乗客のほとんどが中高年の、おそらく地元の女性でした。

八戸まで直線距離だと数キロですが、この海岸線からは山道を越える必要がありそうです。

車社会の中で、通院や買い物に鉄道が必要な人がいることでしょう。

 

岩手県に入り、久慈駅へ*

 

階上駅を越えるとじきに岩手県に入りますが、地図で見ると県境を超えると地名ではなくまた「地割」の表示になるようです。

角の浜(かどのはま)駅、墓石も真っ黒、植木の道、岩手県に入る

水田!

水路、平内(ひらない)駅の手前、ここで高校生が下車

おそらく水田の跡

水門が見え、水田がある

種市(たねいち)駅、ひらけた市街地、川があったが沢のよう

土が黒い

玉川駅、水田、黄色い菊、沢の先に水田

宿戸(しゅくのへ)駅、斜面に畑

水田地帯、海岸、川!初めての鉄橋

陸中八木駅、漁港、白波、女性下車、東の方に高い波が見える

このあたりから波が荒い、小さな川、堤防と水門

有家(うげ)駅、サーフィンができそうな波、人を寄せ付けないような海岸が続く

陸中中野駅、山村地域特別対策事業食用菊、昭和55年の倉庫

トンネル、内陸へ

 

地図では似た海岸線だったのに、岩手県に入ると沢を利用した水田がちらほらと見え、そして鮫駅を出てから初めて川らしい川があり、鉄橋を渡りました。

この川はiPhoneのマップを最大に拡大しても河口部分しか描かれていないのですが、その次に流れているのが、有家駅陸中中野駅の間の有家川でした。

 

海岸線の風景もそれまでは穏やかな波と砂浜だったのに、このあたりからは荒波が海岸に打ち付けている風景です。

 

1980年(昭和55年)、このあたりの暮らしはどんな感じだったのでしょうか。

 

このあとしばらく内陸部を走り、いよいよ久慈駅に到着です。

川らしい川!

陸橋の付近、土砂崩れ、山あいを走る

また小さな川2本、沢と並走

林の中に家、

なぜ侍浜(さむらいはま)?尾根のような場所?女性が一人乗車

左手に高速道路、切り通し多い、トンネル

右手に市街地、真ん中に川

堤防が嵩上げ、水田! 山中に石積みの排水路

陸中夏井駅、水田、女性が走って乗車!セーフ!

あと6分で久慈、久慈も暖かい

 

陸中中野駅の後に見えたのが高家川で、侍浜駅を越えて市街地の中を流れていたのが鳥谷川で河口の湊町には西側からの久慈川も流れ込んでいるようです。

 

美しい風景が次々と変化する八戸線の車窓の散歩が終わり、9時2分に久慈駅に到着しました。

ここで、三陸鉄道に乗り継ぐまでの1時間半ほどを歩く予定です。

 

 

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鵺(ぬえ)のような 10 急に何かが動く瞬間がある

「飲む中絶薬」がまたニュースになっていて、産科診療所に勤務していると胃が痛くなるような内容だろうと思いつつ、NHK NEWS WEBの「『経口中絶薬』の使用 承認申請 国内初:手術を伴わない選択肢」(2021年12月22日)を読み、そのTwitterでの反応を読みました。

 

 

*妊娠の診断から安全に妊娠を終了するためのコスト*

 

 

案の定「ぼったくり」とか散々な反応の中、現状を理解されている方の意見がありほっとするとともに、私自身、医療経済がわかっていないので勉強になりました。

これはミスリード

NCBIのページによると(Mifegymiso)の価格は1キットあたり300ドル。またこの薬は処方薬であり医師の診察がないと買えません。

 

「医師の診察」というのはきちんと子宮内に妊娠しているかとか、他に疾患が隠れていないかとか、必要な採血をして感染症とか血液型不適合の可能性など、中絶を安全に行うだけでなくのちのち女性に大きな負担を強いる状況をできるだけ見落とさないようにすることも含まれていると思います。

 

「薬で簡単に中絶できるという捉え方をされないか懸念」(NHK ニュース)というのは、「740円」があまりにもイメージとして広がりすぎて、妊娠の診断から安全に妊娠を終了させる技術はわずかこの20〜30年ほどに確立されたもの人の歴史の中でも驚異的な変化 だったことが知られていないことへの懸念だろうと私は理解していました。

 

国内だと内外価格差や治験費用もかかるから倍ぐらいの価格になる。なお日本では新薬扱いになるので10年間は後発薬は特許の関係で出せない。そこに産婦人科の診療費用がかかるから10万くらいは妥当。

一つの製品や薬品が安価にそして安定して供給されるまでには時間が必要だということは、医療現場にいても忘れやすいことだと改めて思いました。

 

 

*「入院が可能な医療機関で」の意味*

 

もうお一人、こういう意見を書かれていた方もいらっしゃいました。

アメリカやカナダでも3万円前後の薬価ですので、入院での管理など含めたら10万円ほどの費用になるのは仕方ないのでは。

 

なぜ入院管理が必要か。

薬を飲んでからいつ子宮内容の排出が始まるか個人差があると思うのですが、平日の日中なら、処方したところへ相談できることでしょう。

 

では夜間や休診日に出血や腹痛、そのほかの症状があった時どこが対応するでしょうか?

きっと近くの施設を探して、それは分娩施設になるわけで、そういう施設はそれまでかかったことがない人を受け入れる余裕はないのが現状。

都内近郊の病院が多い地域でも、妊娠というだけで夜間休日に救急診療の受け入れ先を探すのは大変です。

 

妊娠の診断から中絶が終了するまでは、入院設備のあるところが責任を持って行うとなれば、入院費も発生することになります。

 

そういう意味だと思うのですが、なんだかうまく伝わらないですね。

その産婦人科医療を築いてこられた先生方に向かって、こうして簡単に社会が牙をむくのはあの産科医療崩壊の頃を思い出して胃が痛くなるのです。

何がそういう雰囲気を社会に起すのでしょうか。

そんなに産婦人科の先生は女性に無理解な悪徳業者のように見える人がいるのでしょうか。

 

人工妊娠中絶も流産手術もしている施設に勤務し続けてきましたが、これだけ医療事故にピリピリし新たな対応を取り入れ続けている産婦人科ですが、現在の方法の安全性に大きな問題があればスタッフからもおかしい、変えなければという声があがるはずだと思います。

 

ぼったくりでもなく、自施設での持ち出し分も多い中、安全性と社会の変化を配慮しながら粛々と医療を提供していくしかないですね。

 

やはりネット上の特殊な、イメージをもとにした意見の広がり方があるのかもしれません。

誰を、何を正したいのでしょうか。

今の雰囲気は、また何か大きなものを失うような気がして胃が痛くなるのです。

 

 

 

 

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トイレについてのあれこれ 12 公共トイレ内の注意書き

馬淵大堰から本八戸駅に戻って、八戸線に乗る前にトイレに行きました。

改札内にトイレはなく、外に公共トイレとして設置してあるようです。駅構内のトイレはきれいでも外のトイレは雑に使われていることがあるので、おそるおそる入るととてもきれいでした。早朝の寒い中、どなたかが清掃してくださっているようです。

石鹸水が備えられ、ありがたいことに温かい水でした。10度ぐらいの気温でも、外を歩くと手が冷たくなりますからね。

 

玉川上水の一部区間下水の再生水を利用しているということから、水への関心も下水やトイレへと広がりました。

 

それで6年半ほど前に「トイレについてのあれこれ」を書き始めたのですが、その間だけでもいろいろと変化を感じることがあります。

 

公共トイレ内の注意書きもそうですね。

以前は「きれいに使いましょう」とか「落書きはしないように」ぐらいでした。「以前」というのは1980年代ごろですね。

 

最近はすっかり落書きを見なくなったので、「落書きはしないように」という注意書きもほとんど見なくなりました。

きっと、SNSに書き込んでいるから壁にわざわざ自分の存在を書きつけなくても済むようになったのかもしれないと思っているのですが、どうでしょうか。

 

駅だけでなく公園なども清掃が行き届いて、しかもトイレットペーパーや便座クリーナーなどが設置されていたりつくせりになってきたからか、きれいなトイレだと汚さないで使うのかもしれません。「きれいに使いましょう」も見かける頻度が少なくなった印象です。

「きれいに使ってくださってありがとうございます」へ変化したのかもしれませんね。

 

 

*増える注意書き*

 

では注意書きがなくなったかというと、この数年だけでも想定外の注意書きが増えてきました。

「トイレットペーパーを持ち出すな」

「家庭ゴミを捨てるな」

「汚物入れに捨てるな」「ゴミは持って帰れ」

「忘れ物に気をつけろ」

「荷物はここにかけろ」

「荷物の重さは何キロまで」

「加熱タバコも吸うな」

そして「個室内に長くとどまるな」は、個室内でスマホをしたり化粧をするなということでしょうか。

実際には、もっと穏やかな表現ですが。

 

そしてトイレがハイテクになってさまざまな種類のボタンや装置が増えたので、その取り扱い説明や「ボタンの押し間違え注意」というのも見かけました。

 

そして日本語だけでなく、2~3ヶ国語と点字での説明もあります。

 

注意書きが増えてもまた意表をつくような行動をするヒトが出現するので、ヒトのトイレでの行動は摩訶不思議だなと思いながら、各地のトイレに何が書いてあるか興味深く読んでいます。

 

その時には個室内にタバコの匂いがたちこめていて、髪の毛や服、そしてマスクに匂いが少しでもつかないように慌ててすませたのでした。

目の前には「タバコの煙に警報が作動します」のようなことが書かれていたような気がしたのですが。

 

時々、全くと言って注意書きがないトイレもあるのですが、静寂を感じます。

文化的な静寂とでもいうのでしょうか。

あと一世紀ぐらいしたらそんな時代もくるでしょうか。

 

 

 

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こんな地図があるといいな 8 遊歩道がわかる

馬淵川の堤防に上って朝日に輝く水面と馬淵大堰を眺めるという朝一番の計画を断念し、堤防の上を散歩している人をうらやましそうに見上げるだけで引き返すことになりました。

地図を見直すと、確かに馬淵川緑地公園とまぶち公園の間には引き込み線が描かれていたので、それを見落とした私の痛恨のミスですね。

 

帰宅してからもう一度Macの地図を最大限に拡大して、どこから馬淵川の堤防へといけるのだろう、あの散歩をしていた人はどこから入ったのだろうと見直してみました。

数百メートルどころか1kmほど上流側へと行かなければ、堤防に上がる道がなさそうに見えます。

 

ただ、そこに「道」が描かれていても要注意で、多摩川沿いの堤防の一区間太田川放水路のように、堤防の上はほぼ車道しかないこともあります。

 

川沿いにはもう少し灰色の細い線で遊歩道のような道が描かれているのですが、それをたどって行くと突然と途絶えて、普通の道の線になっていることもしばしばあります。

そこはつながっているのか、あるいは人は歩けるのか、歩いて良い場所なのかなどは実際に行ってみないとわからないものです。

 

自動車も自転車も通らない、人だけがゆっくりと歩ける遊歩道がどこにあるのか。

その遊歩道にはどこから入れるか、そしてどのように他の道とつながっているのか。

クリックしたらすぐにわかるとか、色分けしてあるとか、そんな地図がないかなと思っています。

 

1年ほど前に山の名前がわかるといいなと思ったら、最近iPhoneのマップに山の名前が追加されているように重層的な地図が実現しているので期待できるかもしれませんね。

 

ただ、最近のiPhoneのマップはそのためか、全面が表示されるまでに時間がかかっているように見えます。

求める機能が増えると通信量も増えるのか動作が重くなるという悩みもあるので、現代の地図は難しいですね。

 

 

「こんな地図があるといいな」まとめはこちら

 

 

 

水のあれこれ 203 馬淵大堰

最近、散歩の記録が2ヶ月遅れになっているのですが、ようやく10月下旬のただひたすら川と海を見に岩手県と青森県を散歩した3日目の記録になりました。

 

また真っ暗でカシオペア座が真上に見えている早朝から窓の外を眺めていると、4時5分ごろに歩いて出勤する人の姿がありました。

都内だとまだまだ真っ暗な時間ですが、5時をすぎるとうっすらと空が明るくなって、5分刻みで明るくなっていきました。5時21分、目の前に見えるJR本八戸駅に回送列車が入ってきました。

早朝から働いている人に支えられていることを感じる時間帯ですね。

 

八戸は9度、快晴。7時25分発の八戸線久慈行きに乗る前にもう一箇所行きたいところがあったので、6時にはホテルを出発しました。

6時10分に日の出、南から昇ってきたように感じて方向感覚を失いました。

 

*馬淵大堰を目指す*

 

本八戸のどこを歩くか計画を立てていた時に、本八戸駅の西側から馬淵川へまっすぐな水路を見つけました。たどっていくと、三八城公園のそばで向きを変え、その先に「左水門下」「右水門下」という地名があります。

川ではなく用水路のようで、どこから取水しているのだろうとたどると、馬淵大堰がありその少し上流川からのようです。

馬淵大堰のそばには堤防沿いに馬淵川緑地とまぶち公園があり、馬淵川の最下流のあたりを眺められそうです。

 

ホテルを出発してすぐに水路沿いに歩きました。

地図の水色の線というのは、支流で流れ込んでいるのかそれとも川から取水した水路なのか見ただけではわかりにくいのですが、実際に歩いてみて馬淵川から市内へと水が流れていました。

少しだけ残っている畑のそばを歩き、堤防が見えてまぶち公園に到着しました。

 

堰の建物も間近に見え、堤防の上を散歩している人の姿も見えました。早く堤防の上に上って、馬淵川の水面を見たい!

ところが、このまぶち公園と堤防の向こうの馬淵川緑地の間には引込み線がありました。

どこから堤防に上れるのだろうと地図を見ましたが、どうやら数百メートル離れているようです。そこまで行くと予定していた列車に乗れなくなりますから、断念しました。

 

朝日に輝く馬淵川の水面は幻想に終わり、堤防の土手だけを眺めて本八戸駅に戻りました。

 

 

*馬淵大堰*

 

馬淵大堰について検索すると、国土交通省東北地方整備局の2014年の資料がありました。

馬淵大堰の施設概要

馬淵大堰は、馬淵川2.6km付近に位置し、河道維持、塩害防止および各種取水の安定などを目的に造られた河道堰である。昭和55年に完成し、現在まで約30年間供用されている。

 

この資料は、「操作規則変更」のために公開されていたようです。

今回の操作規則変更の経緯

馬淵大堰は昭和55年に完成し、これまで度々、社会的背景の変化などにより操作規制の変更を行ってきた。従前の操作規則は平成18年7月22日より施行してきたが、平成23年3月の東日本大震災を踏まえた「堰・水門の設計、操作のあり方」が、平成23年9月に国土交通省の学識者委員会により提言されている。特に、利水を目的に持つ堰においては、堰の開閉操作や津波によるゲートの損傷によって利水障害が生じないように検討し、津波発生時の操作規制を見直す必要があった。また、異常渇水時の操作については、これまで具体的な基準が示されておらず、実効性のある操作規制を目指す必要があった。

 

東日本大震災を踏まえた河口堰・水門のあり方について(案)」(国土技術研究センター、平成23年)の「河川津波の俎上」で、当時馬淵川津波到達地点は河口から約10kmであったことが書かれていました。

 

「度々、社会背景の変化により」

40年ほど前に堰が完成した頃は、このあたりの街の風景はどんな感じだったのでしょう。

堰からの水路は途中で北東の沼館へと水路が分かれて残っているのですが、この地域には水田がつくられたか、それともその先の八戸港や工業地帯へと送水されるためだったのでしょうか。

 

地図で見つけた一本の川や堰から、実際に歩いてみるともっとその地域の歴史を知りたくなりますね。

そんなことを考えながら本八戸駅に戻る途中、気のせいかお酒の香りが漂っていました。

酒造メーカーの工場がありました。

 

 

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生活のあれこれ 4 青森の天気予報

温かくて美味しかったはっと汁のおかげで元気になり、「もう歩けないかもしれない」と思うほど疲れていたのに再び元気になり、あと1kmを歩きホテルへと向かいました。

 

八戸城跡のそばに残る古い門や、昔のお城を中心にした街であったことがわかる説明書きがあちこちにありました。JR本八戸駅の方へ、下り坂になっています。馬淵川の段丘の上にお城があったようです。

 

 

*細かい区分の天気予報*

 

遠出をした時に楽しみなのが、ホテルでその地域のニュースや番組をみることです。

都道府県境とも違うその地域の境界線があることも興味深いですね。

 

天気予報もその場所に行ってみないとわからない分け方があるので、必ずみています。

青森県の天気予報が始まり、思わず写真を撮りました。

弘前」「藤崎」「田舎館」「黒石」

「西目屋」「大鰐」「平川」

「外ケ浜」「今別」「蓮田」「平内」「青森」

「大間」「風間浦」「佐井」

「むつ」「東通」「脇野沢」

「横浜」「六ヶ所」「野辺地」「東北」

「七戸」「十和田」「十和田湖

「三沢」「六戸」「おいらせ」「五戸」「新郷」

 

画面が変わるたびに、「八戸はまだか」と待っていてようやく最後に出ました。

「三沢」「八戸」「南部」「田子」「階上」

10月下旬でもっと寒いかと思ったら、翌日の予報は18度でしたが、低気圧が通過した直後なので「三陸沖の海上は風速30m」のようです。

 

それにしても一つの県内を35区に分ける天気予報に驚きました。

別の天気予報では「下北」「三八上北」「津軽」という分け方もありましたが、実際に生活してみないとわからない、天候の境界線が興味深いですね。

 

遠出をするようになって、一度訪ねた場所の天気予報も気になるようになったのですが、帰宅してからは「青森」と一括りでしか天気予報が伝えられないと、ちょっと物足りなく感じています。

 

 

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食べるということ 79 南部煎餅

八戸のはっと汁に入っていたのは南部煎餅の一種だったのですが、そういえば私は子どもの頃から南部煎餅を知っていたのは何故だろうと記憶をたどっています。

 

1960年代、両親のどちらが南部煎餅を好きだったのかわからないのですが、売っているのを見つけると買っていました。

ほんのり甘いタイプと表面にゴマがついた塩味のタイプ、そして少し高いくるみやピーナッツが入ったものがあったと記憶しています。

丸いせんべいの周囲の薄いパリパリの部分を少しずつ割りながら食べ始める楽しさが、子どもには面白いものでした。

今でも時々むしょうに食べたくなり買うのですが、南部煎餅の発祥地は岩手県のイメージでした。

 

ということで、いつもながらまずはWikipediaですが、南部煎餅の概要を読んで、大いに勘違いしていたことを知りました。

元々は八戸藩で作られた非常食であり、小麦粉を水で練って円形の型に入れて硬く焼いて作られる。縁に「みみ」と呼ばれる薄くカリッとした部分があるのが特徴。保存性は非常に良いが、時間が経過すると酸化により味が落ちる。個包装の商品も存在するが、通常は10-20枚程度を1つの袋に入れた簡素なものが多い。青森、岩手の旧南部氏支配地域においては非常にポピュラーな食べ物であり、来客にも供される。

 

「現在は岩手県南部煎餅協同組合が『南部せんべい』の名で商標登録している」とのことなので、きっと袋に「岩手県」と書かれていたのを見て岩手県の名産品のイメージになったのでしょう。

「南部氏の歴史」を知っていたら、南部煎餅の広がりも想像できていたかもしれませんね。

 

 

それにしても両親のどちらが、いつ、南部煎餅を知り、見つけると買うほど好きになったのでしょうか。

もしかしたら「明治・大正時代の時点で既に南部せんべいは北海道・東北六県で広く食べられていた」とあるので、父が少年の頃に北海道で暮らしていた時に南部煎餅に出会ったのかもしれません。

 

今回の遠出でもお土産に買って帰り、美味しくいただきました。

 

 

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食べるということ 78 八戸のはっと汁

散歩の2日目の馬淵川沿いを歩く計画はだいぶあきらめたまま八戸駅方面へとバスで向かい、繁華街のあたりで下車しました。

薄暗くなりましたが、まだ5時前です。

どこかで温かいものを食べてからホテルへ向かうことにしました。

 

疲れすぎると食欲がなくなり、豪華な食事ではなくあっさりとしたものが欲しくなりますが、ずっと食べ慣れてきたお蕎麦やうどんがこんな時にほんとうにありがたい食事に感じます。

お蕎麦やさんを探していたら、八戸駅でみつけた郷土料理名をみつけました。

「はっと汁」です。

店内には誰もいなかったので、これ幸いに入りました。

 

お店の方に「はっと汁はどんなものですか?」と尋ねると、ちょっと説明し難い様子で「豚肉や鳥肉そして野菜が入った汁で・・・」とのこと。

なんだかわからないけれど美味しそうです。食欲が戻ってきて、お蕎麦も頼みました。

 

大ぶりのお椀に、実だくさんの汁が運ばれてきました。

「中のはっとが柔らかくなってから食べて」とのことです。

平たいお麩のようなものが割られて入っていました。これが「はっと」のようです。

豚肉と鳥肉の両方が入っているのでご馳走の一つでしょうか。

子どもの頃に岡山の祖父母の家で食べた懐かしいお雑煮のような味で、一気に食べてしまいました。

 

翌朝、JR本八戸駅売店でこのはっと汁セットをみつけました。南部煎餅のような白くて丸いせんべいとスープが入っていて、帰宅してからはしばらくこのはっと汁にはまったのでした。

 

 

*青森のはっと汁は「せんべい汁」*

 

「はっと汁」を検索したら、岩手県や宮城県の郷土料理とか、すいとんのような説明は見つかるのですが、私が食べたあのはっと汁とは違います。

 

「じゃぱん 日本のパンを『たべる』と『つくる』を応援するサイト」に「せんべい汁青森県)」がありました。

今回は「せんべい汁」。青森県八戸周辺で、江戸時代の天保飢饉の頃に生まれた郷土料理で醤油味で煮立てた汁物に専用の南部煎餅を加えた鍋料理のことです。汁は醤油味で、鶏肉、ごぼうの他、人参、ネギ、キノコ類など秋冬の野菜を煮込んだもので、せんべいをこの汁に入れて煮込み、ふやかして食べます。

 

ああ、これこれ!

やはり南部煎餅の一種だったのですね。

 

東北地方はたびたび飢饉に襲われ、米が十分に食べられなかったこともあり、小麦粉を練った生地を煮て食べる「すいとん」に似た料理が各地に伝わっています。盛岡地方の「ひっつみ」、仙台や一関地方の「ハット」など、さまざまな形がありますが、せんべいという保存できるものにしているのが八戸のせんべい汁の特徴です。南部煎餅の一種である専用のせんべいを使うため、他の地域にはなかなか広まっていかなかった料理ですが、今では「八戸せんべい汁」として地域おこしの象徴にもなっています。

 

「はっと汁セット」は軽いのですが少しかさばるので、4回分入りを一袋だけ買って帰りましたが、もっと買えばよかったと後悔しました。

「専用のせんべい」を見かけたら、絶対に機を逃さず買おうと思っています。

 

 

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