10年ひとむかし  54 路線バスの変化

高校時代はバス通学でした。今から40年以上前のこと。

村に外国人がやってきたに書いたように、路線バスに時々米軍兵士が乗り込む特殊な地域でした。

卒業して都内に戻ってきてからもバスを利用していましたが、当時は都心でも、あの地域ほどはまだ外国の乗客をバスで見かけることもない時代でした。

 

また、まだ高齢化がそれほど進んでいたわけではないので、1970年代から80年代のバスや電車内では、歩くのもやっとという感じの高齢者を見ることはありませんでした。

 

 

十数年ぐらい前に父が認知症になった頃から、頻繁にその地域に帰るようになって、路線バスを利用する機会が増えました。

 

*車内の転倒事故に対するリスクマネージメント*

 

大きな変化を感じたのが、歩くのもやっと、つかまるのもやっとという高齢者が乗客の大半を占めるようになったことでした。

 

それに伴って、バス内の「暗黙のルール」の変化や運転士さんたちの緊張感が伝わるようになりました。

以前だったら、降りる場所が近づいたらドアの方へ近づいて降りる準備をしていました。

 

いつ頃からか、年齢に関係なく、バスに乗るたびに「走行中に席を立たないでください」と注意されている場面に出会います。

客観的にみると足元もおぼつかないし、走行中に車内を移動しようとしてバランスを崩したり、どこかに掴まって体勢を立て直す反応や力も衰えている方々が席を立とうとしていて、こちらもヒヤヒヤしています。

まだまだ停留所までだいぶあるのに降りる準備を始めるのは、年をとると気持ちが焦るのか、それとも以前の暗黙のルールが体に染み込んでいるのでしょうか。

そして、耳も遠くなったり、あるいは頑固になっているのか、運転士さんの注意も耳に入らないようです。

 

発車時にも、必ず乗客が着席するかつり革に掴まったかを確認しているので、以前のように乗客がバス内に入ったとたんに動き出すこともありません。

 

*外国人旅行客が増加した*

 

以前は地元の人と米軍関係者しか使わなかった路線バスですが、もうひとつの変化が外国人旅行客の急増です。

観光ルートにそれまでの路線バスのルートを組み込んで、長距離化したようです。

 

バスに乗ると、乗客のほとんどが大きなスーツケースやバッグを持った外国人観光客のこともあります。

乗った瞬間に、もしかしたら「日本人」は運転士さんと私だけかもしれないという日もありました。

時々、走行中に行き先や料金のことで運転士さんに英語で話しかけていて、言葉の通じない運転士さんが困惑している様子がよくありました。

 

最近、この路線バスルートにたまに、英語と中国語を話せる運転士さんを見かけるようになりました。

 

10年ぐらいで思い返してみると、バスの運転士さんの業務量とその質は大きく変化しているのだろうと思います。

 

 

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行間を読む 78 落ち着いた街

いろいろなところを歩いてみると、ああなんと落ち着いた街だろうと感じる場所が増えました。

掛川城の周辺のように川と城を中心に静かで落ち着いた街もそうですし、治水との闘いだった街や、海岸や山沿いの風雪に耐えてきた街もそうです。

 

*街の「栄枯盛衰」*

 

散歩の記録にもしばしばこの「落ち着いた街」という表現を使っているのですが、書きながらも漠然としたままでした。

 

自分で使っておきながら、これ以上表現できないもどかしさを感じていたのですが、かつて牛がいた街で紹介した「『水』が教えてくれる東京の微地形」(内田宗治氏、2013年、実業之日本社)を読み直していたら、島崎藤村の言葉がありました。

藤村が「大東京繁盛記」(昭和3年刊)で狸穴、飯倉、六本木あたりについて書いた内容のようです。

 何より、島崎藤村はこのあたりに関し、大正十二年の関東大震災以降、古い屋敷町の風情が失われ始めたのを目の当たりにしながら、次のように書いている。

「町には町の性格があり、生長があり、また復活もあって、一軒一軒の力でそれをどうすることの出来ないようなところもあるかと思う。でも、嘗て栄えた町の跡と、まるで栄えたことのない町とでは、歩いて見た感じが違う。あたかも城として好かったところは、城址として見ても好いようなものだ。」  (「『水』が教えてくれる東京の微地形」、p.133)

 

狸穴(まみあな)は、こちらの記事に書いたように、現在はロシア大使館や外務省飯倉公館のある飯倉という「丘上の屋敷町」に対し、「崖下」の地で、狸穴坂があります。

 

現在はこの坂道にもぎっしりと住宅やマンションが立ち並んでいますが、明治末期までは「真昼間と雖(いえど)も森閑としていた」(「大東京繁盛記」)ようです。

おそらく藤村はそうした屋敷町の風情が失われ、この辺りが住宅地として開発されていく様子を嘆いたのだろうと思います。

 

それからおよそ一世紀。

このあたりを散歩して内田宗治氏が感じたことが、以下のように書かれていました。

麻布狸穴町界隈には、東京中どこにでもあるような光景も多い。だがかつて屋敷町として名を残した余韻のようなものを、坂道や崖、打ち捨てられたようにも見える空地、時折見かける木々に囲まれた屋敷や神社などで感じさせる。

 

私が感じる「落ち着いた町」に通じる何かを、感じた箇所でした。

「栄」「盛」の対語は、単純に「枯」「衰」でもないなというあたり。

 

 

「落ち着いた町」という印象は、なかなか言葉で表現できませんね。

 

 

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土のいらない植物

「緑が欲しい」という母の希望に答えて持っていった小さな植物が、1年ぐらいで弱り始めました。

行くたびに、なんとか持ちこたえていました。

今まで母が過ごした二つの施設では、鉢植えの植物が枯れた時にその土をどうするか聞いたことがなかったのですが、土地はあまるほどある地域ですから、施設周辺に捨てたものもあったのではないかと思います。

 

今、お世話になっている施設ではどう処理するのか確認するつもりでいたところ、次に行った時にはきれいに土がなくなっていました。スタッフの方が処分してくださったようです。

しばらく、母の居室には植物がない日々が過ぎていきました。

 

そこで、かつてから考えていたエアープランツを持って行くことにしました。

「残念なことですが非常に多くの人がエアープランツをミイラにしてしまっています」ということで、「空気中の水分だけで生きられる」というものでもないのですが、土の処分の問題がないことに、いよいよ出番だと思った次第です。

 

母にとって初めてのエアープランツなので、持って行く前に私のところでしばらく様子をみてみました。

10日間ほど水もあげなくても、大丈夫でした。

 

母が植物を好きなのは「土いじりが好き」という点があるので、土がないエアープランツをどう受け止めるかと思いましたが、やはり部屋に植物があることがうれしいと思ってくれたようです。

 

 

 

土はゴミではない

ベランダにたくさん植物があって、季節の草花がある生活がうらやましいなと思いながら、NHKのドラマ「植物男子ベランダー」を録画して観ていました。

ポトスのような簡単な観葉植物でもだめにしてしまうので、技術的、能力的に無理だと思うから余計にうらやましく観ていたのかもしれません。

 

こんな私でも20代の頃に大事に育てた植物がありました。

幸福の木と呼ばれていたドラセナです。もうあいまいな記憶ですが、購入した時は50cmほどだったものが倍の大きさになったので、数年の間に1〜2回は植え替えもしたのかもしれません。

私にもやればできるかもしれないと思いつつ、観葉植物のお店で眺めては躊躇するのが土をどうするかという問題でした。

枯らしたら、可燃ゴミにも不燃ゴミにも出せない土が残るからです。

 

そのドラマでは、枯れた植物の「死者の土」を入れた「復活の鉢」がありました。

そういうやり方があったかと思いましたが、きっと死者の土だけがどんどんと増えていくことが想像できるので、やはりベランダーになるのを躊躇しています。

 

「土はゴミとして出せない。ガーデニングで困る使用後の正しい土の処理法」(LIFULL HOME'S PRESS、2017年12月9日)を読むと、最近では回収してくれるお店などもあるようです。

土の処理の問題について、以下のように書かれていました。

プランター1個で10kg前後が不要に 

 

一度植物を育てた土は栄養もなく、また植物の根や茎が残っていると細菌繁殖の原因にもなることがある。植物を植え替える時は、綺麗な花を咲かせるためにも土を新しくする必要がある。その際、古い土をどうするかが問題となる。

一般的なサイズのプランター(65cm)1個で、約12l(重さは土の種類によって異なる)の土が必要となるが、使用済みのものは水などを含んでいるため、1個分10kg前後になる。これだけのものを処分するのはなかなか大変。めんどうになって放置している方もいるのではないだろうか。

 

まだ資源ごみやリサイクルという言葉が浸透していなかった80年代ごろまでなら、なんでも燃やすか埋めていたことでしょうし、土地がある地域ではゴミを投げ捨てられる場所に放置していたことでしょう。「土に還る」と思い込んで。

 

ゴミという環境問題だけでなく、外来種という言葉を知った現在では、正確にどのような影響があるかまではわからないのですが、「鉢の土をむやみにその辺に捨ててはいけないだろう」と思うようになりました。

 

観葉植物に挑戦するのはやはり無理だなと思っていたら、最近、近くの花屋さんに古代蓮がありました。

直径30〜40cmぐらいの容器に、蓮の花が3〜4本咲くようです。

衝動買いしそうになったのですが、自分の能力を思い出してやめました。

 

 

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水のあれこれ 106 吸水性

90年代ごろだったか、キッチンの水回りを拭くのに吸水性の良い薄いスポンジのようなものが日本に紹介され始めた記憶があります。たしかドイツ製でした。

早速購入してみたるとたしかに吸水性は良いのですが、キッチンというのは調味料やら食品やらいろいろな成分をふき取るので、洗って干すことを考えるとそれまでの布巾の方が使い勝手がよく、結局、私の中では却下されました。

 

その吸水性の良いスポンジのような布のような製品は、それ以降、どちらかというと車の整備や掃除用品の類として見かける程度でした。

 

*セームの広がり*

 

競泳を会場で観戦するようになって十数年以上になりました。

競技前に選手の名前がコールされて入場してくるのですが、テレビより会場で観るのはずっと迫力がありました。

2000年代初めの頃は、選手が所属する大学やチーム名が書かれた大きなバスタオルを持って入場していましたが、それからわずか2〜3年でその光景がぐっと減り、手に小さなタオルを持っての入場に変わり始めました。

 

水着売り場にもカラフルなセームが並ぶようになりました。

おそらく、アテネオリンピックあたりが競泳選手のタオルからセームへと大きく変化した時期ではないかと記憶しているのですが、さすがに検索してもわかりませんでした。

 

プールから上がると、パタパタと体に軽く叩きつけるようにするだけで水分が取れるようです。

 

選手の方々から遅れること数年、私もタオルからセームにしてみたところ、本当に吸水力が良くて驚きます。

タオルに比べて小さくまとめられるので、どこに行くにも水泳グッズを持ち歩きやすくなりました。

 

*セームとは何か*

 

このセームとは何かという説明が案外なくて、唯一まとまっているのははてなキーワードでした。

水泳などで使われる吸水性の高いタオル。

水分を吸った後に軽く搾ることですぐに吸水性が復活するため、体に付いた大量の水分を一気にふき取るのに最適である。

 SPEEDから出ている吸水性の高いスポンジ状の物と、 ARENAから出ているタオルの様な風合いの物の二種類が主流。

元々、機械のメンテナンスに使われるセーム(鹿革をなめしたもの)に近い風合いをナイロン等で合成した人工セームが車のメンテナンスに開発され、その吸水性に目をつけたスポーツ用品メーカーが人肌用に生地を改良してスイミング用品として発売したもの。

自動車用品よりも生地(発砲)が細かいため、洗車に使うと車体に張りついてしまうので流用は避けた方が良い。

自動車用品と違って、乾燥させると割れやすい為、保管時には水分を含んだ状態でケースに入れておくのがベター。

 

競泳選手と違って数日ぐらいプールに行けない時もあるので、私はその都度乾燥させていますが、乾くとほんとうにゴワゴワです。

私はその乾燥したセームを折って小さくするので多少ひび割れるのですが、そこから案外、切れてしまうこともなく長持ちしています。

 

セームが面白いのは、せっかく乾燥しているのに、使う時は水に浸すことです。

その湿らせたセームで体を拭くと、面白いほど水分が吸収されて、絞るとジャーっと水が出てくるのです。

単純なようでその吸水のしくみがよくわからず、これを発見した人はすごいなと感心しています。

 

 

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小金がまわる 17 タクシーと金銭感覚

母の暮らしている施設へ面会に行く時には、駅からタクシーを利用しています。

駅から10分ぐらいの距離ですが、往復で五千円以上かかります。

タクシーしか選択がないので、都内からその地域への交通費よりも、駅からわずか10分ほど乗ったほうがお金がかかることになります。

 

父がお世話になった施設も同じくらいの距離でしたが、路線バスが通っていたので数百円のバス代で済みましたし、その施設の送迎バスもありましたから、最期の不安定な時期に週に2〜3回通った時も、それほどの負担にはなりませんでした。

 

天気が良い時には、そのタクシー代を節約するために最寄りのバス停まで40分ほど歩いてみたり、そのバスも1時間に一本なので、結局1時間半ぐらいかけて駅まで歩くこともあります。

散歩には慣れているのですが、途中、歩道もなくほとんど人通りのない山道もあり、「ケチらずにタクシーにすればよかったか」と、毎回、葛藤しています。

 

8年ほど前に母に対して「運伝は禁止」「お金は負担するからタクシーを使って」と言っても、スーパーへの一往復だけでも数千円のタクシー代は高すぎるのでしょう、母は心臓手術を受けるために入院する直前まで運転していたようです。

事故を起こさなくてすんだことはほんとうに幸いだったと思うとともに、高齢者がなかなか運転をやめられない理由はそこにあることが、今、タクシー代を実際に払うようになって身に染みるようになりました。

 

特に最近、新幹線を使って遠出をするようになり、数千円あれば分水まで行けるとか、つい比較してしまいます。

 

電車やバスのように一度に乗客を乗せる公共交通機関と、個人だけを乗せて自由に時間や目的地を選択できるタクシーとの違いがあるので、タクシーにはタクシーの便利さもあるので単純に比較はできないのですが。

 

ただ、何度も母の施設と駅をタクシーで往復するようになって、車種や運転手さんの選択するルートによって、金額が千円ほど違うことがわかりました。

小型車に当たって、近道をしてくれる運転手さんだと片道数百円違うのです。

でも、なかなか小型車にうまく当たらないですね。

タクシーは高い上に、どんな料金になるかその時にならないとわからない不安定さがあります。

 

通院や面会あるいは買い物など、同じ場所への定額の往復チケットがあったらいいな、と最近思います。

 

あの八郎潟を訪ねた時も、大潟村の中心部まではコミュニテイバスがあって、タクシーなら五千円以上かかる距離を100円で行くことができました。

最近では、距離と速さを考えると、新幹線の方がむしろタクシーより安く感じるようになったり、私自身の金銭感覚がおかしくなっています。

 

人の足になる交通機関は、この30年ほどでいろいろと変化してきましたが、タクシーはこれからどんな変化をするのでしょうか。

 

 

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世界はひろいな 51 淡水魚

最初は魚はどうしてあんなにうまく泳げるのかという、自分の水泳の上達のために通いだした葛西臨海水族園ですが、多種多様な生き物に惹きこまれていきます。

最近、葛西臨海水族園の公式Tweetで、「あまり知られていない生き物も紹介したい」と館内に展示されている約600種を紹介する「かさりん図鑑」が始まりました。

 

水族園に行ったら、必ず一つは名前を覚えて帰ろうと思っているのですが、これが頭が固くなってなかなか覚えられません。

きっと子どもたちなら、あっという間に覚えるのでしょうね。

 

それでも色や形、あるいは泳ぎ方が個性的だったり生活が個性的な種の名前を少しずつ覚えました。

 

その中で、ちょっと覚えられないのが淡水魚です。

葛西水族園の広い敷地には、少し離れたところに淡水生物館があります。水族園の本館に比べるとヒトもひっそりしているのですが、展示されている淡水魚もひっそりしています。

見た目が派手な色とか形のものが少ないので、最初は本当に同じにしか見えないくらい、淡水魚には無知でした。

小学生の頃は裏山と沢で遊ぶ野生児だったのに、淡水魚にはあまり出会ったことがなかったのでした。

ですから、今だに区別がつくのは、鯉、鮒、鱒、ワカサギ、鮎ぐらいでしょうか。

それも同じ属でも、異なる分類になるとまったくのお手上げです。

この地味な魚を区別できる人は、本当にすごいと思います。

 

最近、ちょっと淡水魚に関心が出始めました。

黒川清流公園に行った時、私の気配に気づくと驚くような素早さで水底に隠れたあの小さな魚の名前を知りたくなったからです。

そして、どうやって「私の気配」を感じて逃げることができるのか。

 

淡水生物館に行って、隅から隅まで眺めましたがわかりませんでした。

ふれあい科学館でも、似ているようなそうでないような魚がいたのですが、今だにわかりません。

 

先日、葛西水族園に行った時、売店で「くらべてわかる淡水魚」(斎藤憲治氏/内山りゅう氏、山と渓谷社、2015年)が目に入り、購入しました。

残念ながら、私にはやはり似ているような違うような、あの魚を見つけられませんでした。

分類するということは並大抵のことではないと、圧倒されています。

 

それにしても、上流から下流までの魚の美しい写真と説明にひきこまれていきます。

環境を知る

川の上流から下流にかけて、環境は次第に変化します。

そこにすむ淡水魚の種類も環境の変化に応じて少しずつ変わっていきます。

湖や田んぼや水路にもそれぞれ、その環境に適した種類の淡水魚がすんでいます。(p.5)

 

用水路への関心から、また世界がひろがりそうです。

 

 

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記録のあれこれ 40 好ましいことも好ましくないことも記録する

5月に八郎潟を訪ねた時に、干拓地の中心部までは大潟村コミュニティバスを利用し、帰りは船越駅までタクシーを利用しました。

タクシーの運転手さんが私より一回り上の世代のような印象でしたので、干拓前の風景をご存知かもしれないと質問しました。

干拓前はたくさん魚が獲れたのですか?」と。

 

こういう質問は慎重にする必要があることを、90年代に東南アジアのODA(政府開発援助)の予定地や国内の大型公共事業の現場を訪ねるときに学びました。

私が「正しい」と思う考え方が少しでも言葉の端にでれば、相手の心は閉ざされてしまい、その葛藤を知ることはできなくなります。

その時代のその当事者でなければわからない、またひとくちに「当事者」といってもさまざまな事情と判断があるという当たり前のことに、こちらの信念を抑えて耳を傾けるというのは本当に難しいことです。

 

さて、運転手さんの答えは「え〜?フナとか鯉ぐらいしかいなかったんじゃないかな」というあっさりしたものでした。

 

でも私はこの目の前の方がどんな人生を送られてきたのかは全く知らないので、この一言も言葉どおりに鵜呑みにしてもいけない、それも90年代の経験から学びました。

そこにはもしかしたら、もっと深い、干拓地への思いとか記憶があるかもしれませんからね。

 

私が知りたかった「八郎潟が地元の漁業へどのような影響を与えたのか」という事実には、そうそう簡単にはたどり着けないことはわかっていました。

 

目の前に広がる広大な干拓地をぐるりと囲んでいる残存湖には、どれくらいの魚がいるのだろう、どうやってそれを調べるのだろう。いつその答えに私が出会うのだろうと思いながら、八郎潟を後にしました。

 

八郎潟・八郎湖の一世紀の魚類の記録*

 

ところが偶然にも、「八郎潟・八郎湖の魚」が5月末に出版され、その中には130種類もの魚の写真と説明がありました。

干拓による影響か、見かけなくなった魚もいるようですが、現在は100種類ぐらいだそうです。

あの静かな湖面の下には、こんなに豊かな世界が広がっていたのかと少し驚きました。

そしてどうやって調べたのだろうと。

 

八郎潟時代の魚類に関する資料に、秋田県水産試験場による1916(大正5年)9月発行の「八郎潟水面利用調査報告書」がある(秋水試,1916)。これは「第1編 理化学的調査」、「第2編 生物学的調査」、「第3編 漁業調査」からなる118ページのもので、約100年前にここまでの調査を行ったことに驚かされる。

 

戦後は「八郎潟調査研究資料第1号」(秋水試,1953)が出され、その中で「八郎潟の根本的調査研究を開始」(水野,1953)および「八郎潟調査研究第3号」(秋水試,1954)が出され、その後の調査・研究の充実が期待された。しかし、1957(昭和32)年には干拓事業が開始され、その前後についての調査資料はほとんど見当たらない。干拓により残った水面は、ある意味魚が生息する場所というより、単に、灌漑のための「水がめ」とみていたのだろう。

 

一世紀前の調査の記録があったことで、干拓前と後の変化を知ることができたようです。

八郎潟、八郎湖の名称はどうであれ、そこに生息していた魚類は突然まったく異ったのではなく、その両者は様々な変化をしながらも連続し、一部は絶滅し、一部は国外産や県外産が放流、定着していった。本書では干拓前と後で認められた全ての魚類について、何があったのかという観点からコメントした。 (「はじめに」より)

 

130種類の魚の説明には、絶滅したものもあれば、新たな環境の中で住む場所を変えて生息している種類もあるようです。

素人の私には、「干拓」「環境悪化」「生物の絶滅あるいは減少」という黒のイメージになりやすかったのですが、現実はもっと複雑で多様な変化のようでした。

 

それにしてもあの広大な八郎潟周辺の水辺を観察、調査し続けていらっしゃる方々によって、正確な記録が残されていくのですね。

 

 

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境界線のあれこれ 89 汽水域

ここ数年、潮の満ち引きで水位が変化する河口に近い川の様子 を眺めるようになり、時間帯によりその塩分濃度が変わる水の中でどうやって生物は生きているのだろうと不思議に思うようになりました。

といっても小学生のような感想だけで、そこから深く正確な知識への道のりはあまりにも遠いことがわかるだけに、何から勉強したらよいのか、素人の私は何を知ればよいのか見当もつきません。

 

今年になって、汽水域で生きる生物を中心に展示している博物館を訪ねる機会がありました。

 

一つは、三面川イヨボヤ会館で、鮭の産卵から成長して三面川に戻ってくるまでの生活史が展示されていました。それ以外にも、三面川の河口付近に生息する魚の説明もありました。

もう一つは、相模川の上流から下流までの水生生物を展示しているふれあい科学館です。

 

海から汽水域、そして川と、塩分濃度が違う水にどうやって適応して行くのだろう。

その全ての場所で生きることができる鮭は、どんな体の仕組みがあるのだろう。

プールの水に慣れた私は、少しでもしょっぱい水が口に入ったらむせこみそうです。もうオープンウオーターで泳ぐことに挑戦する気力もないので、どんな水でも泳げる魚の気持ちを妄想しています。

 

植物も通常、塩分があることで枯れてしまうのに、なぜ海水や汽水で育つ多様な水草があるのか不思議です。

時間帯によっては、海の水が多くなったり少なくなったり水自体が変化する中で、どうやって生きているのでしょうか。

 

*「八郎潟・八郎湖の魚」*

 

祖父の田んぼから干拓地に関心がでて、関東近辺の干拓地や八郎潟を歩いてみました。

農地のためには淡水化が必要な一方、漁業には汽水域が必要。

長年、耳にする干拓地をめぐる問題について何をどう判断したらよいのかわかりませんでした。

 

もしかしたら、近代の干拓地では完全に海水と真水の境界線をつくってしまうので、汽水域とは何か、私自身があまりにも知らなさすぎたのかもしれないと最近は思うようになりました。

 

さて、八郎潟の全体像がわかる本がそろそろ出ないかなと思って検索していたら、なんと5月30日に「八郎潟・八郎湖の魚 干拓から60年、何が起きたのか」(杉山秀樹氏、さきがけブックレット)が出版されていることを見つけました。

なんという偶然でしょうか。

1957(昭和32)年に国営干拓事業が始まり、1961(昭和36)年防潮水門が設置され、魚が海水と淡水を自由に移動していた「八郎潟」は、内側(淡水)と外側(海水)に分断されて現在の「八郎湖」になった。それから約60年経過し、何が変化し、何が変化しなかったか。この本は魚類図鑑であると同時に、干拓の経過を魚類から見たものだ。(「はじめに」より)

 

ああ、すごい。

魚の側からこの変化を観察し続けている人たちがいたのですね。

汽水域について、この本を手掛かりに学んでみようと思いました。

 

 

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記憶についてのあれこれ 144 マングローブ

海水と真水が混じり合う場所が「汽水」であるということは、中学校や高校で学んだのでしょうか。

なんとなく知っていたこの言葉を目の前で見るようになったのが、1980年代半ばに東南アジアで暮らした時に初めてみたマングローブでした。

 

海の中に森があり木が育っている情景は、それまで汽水域とは無縁だった私にとってはなんとも不安定な風景に見えました。

塩分がある水の中で、植物が育っているのですから。

80年代半ばはまだ東南アジアへの観光はメジャーではなかったので、マングローブは名前は知っていても情報もほとんどありませんでした。

 

時々、漁師さんの小船に乗せてもらってマングローブの森を抜けて外洋へとでる時に、気根がぐっと海の中に張り出している姿に圧倒されていました。

たしかこの時に、マングローブ周辺は魚が産卵で集まる大事な場所だと漁師さんから聞いたのだと思います。

 

海でも川でもない場所があり、塩分のある水中から植物が育ち、そこは海や川から魚が集まってくることが印象に残りました。

 

マングローブとエビの養殖場

 

90年代に入ると、社会問題としてマングローブのことが気になり始めました。

80年代の後半ごろから日本ではコピー機が広がり、どこでも簡単にコピーできるようになりました。

そのインクの原料になるのがマングローブを炭にしたものであり、日本などでインクの使用量が増えるにしたがって、熱帯のマングローブが伐採されて消失していくことが問題になりました。

 

そしてもうひとつ、日本のエビの消費量が急激に増えたことで、エビの養殖場にするためにマングローブの森が伐採されていきました。

 

90年代に私が行き来していた地域の沿岸にも、エビの養殖場が増えました。

「東京ドーム1個分」のような大型の養殖場から小規模のものまでさまざまでしたが、海岸沿いの道を走ると、マングローブの森がなくなり水をたたえた養殖場へと変わっていきました。

エビを育てるために養殖場では海水と大量の地下水を混ぜる必要があり、周辺地域の水不足も起きているという話を聞きました。

 

汽水域のマングローブの周辺で育つエビを大量生産するために、マングローブを伐採し、人工の汽水が必要になる。

 

ちょうどそのころ広がりだした環境問題という、新たな社会問題でした。

 

 

 

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