イメージのあれこれ  27 パンタグラフ

ここ3〜4年、少し遠出することが増えてあちこちの鉄道に乗る機会が増えました。品川駅にひっきりなしに入ってくる東海道新幹線大宮駅のさまざまな新幹線を見ているだけでなんだか幸せな気分になっています。あるいは在来線のホームで、遠くから列車が近づいてきたり風景のなかに遠ざかっていく様子にも惹きこまれています。

 

「鉄オタ」というほどの知識も情熱もないのですが、列車を眺めるのは好きです。

通勤時にホームで列車を待つ間も、列車が近づいてくるのを飽きもせず眺めています。激混みの通勤も、列車を眺められるから耐えられてきたのかもしれません。

 

子どもの頃から半世紀以上、さまざまな列車に乗ってきたことになるのですが、最近になってこの列車さえも見ているはずなのに見ていないことに気づいて、冷や汗をかいています。

 

パンタグラフはどこにいくつついているか*

 

もし列車の絵を描いてみましょうと言われたら、今までなら各車両の車体の上にパンタグラフを描いていたと思います。

 

ほぼ毎日のように列車を見ているのに、ある日ふとパンタグラフに目がいって驚いたのでした。

「各車両にあるわけではない」ことに。

 

ではどの車両につけるか、何車両に対していくつつけるのかなど法則性はあるのだろうかと眺めているのですが、先頭車両についている列車もあれば、途中についているものもあるし、列車によっては数車両をひとつのパンタグラフだけのこともあります。

 

パンタグラフがどこについているかさえ、ずっと思い込みで生きてきたのだと、またまたショックを受けています。

 

で、頼みの綱のWikipediaで検索しようと思い「パンダグラフ」と打ち込んだら、「パンタグラフのことでは?」とGoogleさんに教えてもらいました。

そう、パンダグラフパンタグラフかさえあやふやでした。

Pantographというのは写図器のことなのですね。

鉄道におけるパンタグラフとは、コイルばねの力や空気圧などによって架線に集電舟を押し付け、関節構造または伸縮構造を設けることで、架線高さの変化に追従させる形態の集電装置。   (中略)

パンタグラフの構造は、大きく分けて4つの部分で構成されており、架線に直接接触して摺動しながら架線の電力を取り込むための集電舟、集電舟が自由に動きながら架線の追従性をよくするための集電舟支え装置、鋼板・アルミ合金・ステンレスパイプのリンクで構成された枠組み、パンタグラフ全体を支えて車体に固定するための枠からなっており、集電舟の架線との摺動部分は摺板と呼ばれており、導電性の良く架線に損耗を与えにくいカーボンや銅合金などが使用され、摩耗による定期的な交換を必要とするため、それが容易にできるように、いくつかに分類された構造となっている。                                              

 

すごいですね。

この数行だけでも、知識と技術と経験、そして歴史に圧倒されてしまいます。

 

なんで架線から外れないのだろうと眺めていたのですが、その仕組みどころか、どこについているかも目に入っていなかったのでした。

 

 

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食べるということ 38 食べ物が国境を越える

7月初旬に、何気なくつけたテレビで外国の女性が日本のおにぎりにハマっているという番組がありました。

テレビ東京の「世界!ニッポン行きたい人応援団」の7月8日の放送だったようです。

インターネットで見つけたおにぎりに一目惚れし、1年半前におにぎり店をオープンした女性をポーランドから招待する。「本物のおにぎりを学びたい!」と意気込む彼女は、創業59年のおにぎり専門店「ぼんご」を訪ねる。さらに、新潟の米農家を訪ね、田植え体験を通じて"ニッポンの心"を学ぶ。

 

ここ数年、海外でもおにぎりを販売しているという話題を耳にするたびに、時代とともにあり得なさそうなことが起こるものだと、30年前のことをいつも思い出していました。

 

東南アジアのある国で暮らしていた時に、同僚におにぎりを作って見たのですが、誰も手を出さなかったのでした。

中に入れるものは調達できなかったので、塩むすびだったと思います。

米の種類は違っても、炊きたてのご飯を塩でむすんで海苔を巻いたものだけで、私には食欲が出てくる味でした。

 

その国でももち米を丸めたお菓子はあるので、外見からはそれほど抵抗はなさそうなのに、あの黒い海苔にまず警戒心を持ったようです。

その国では、主食の米を大皿から手でとって小さく丸めて食べるのが作法でしたから、他の人が直接手で握ることに抵抗を持ったわけでもなさそうです。

 

米を主食とする地域では振り向いてもらえなかったおにぎりだったのに、30年後に、はるか遠いポーランドの女性がお店まで出すようになるなんてなんだか不思議でした。

しかも日本で食べてハマったというのでもなく、インターネットで見つけて、味を想像しながら作ったなんて驚きです。

 

それまでは食べ物の広がりというのは、人や物が直接出会い、ゆっくり時間をかけてある地域からある地域へと伝わり根付いていくものだとイメージしていました。

たとえば、少数民族の村で出された豆豉のように。

あるいは、80年代ごろからの本格的なカレー90年代のエスニック料理がブームになったのも、海外へいく人が増えて実際に現地で食べたことがきっかけではないかと思います。

そして見慣れない食べ物には、警戒心が起こるのも当然かと。

 

それなのにインターネットで見て作る、見たことも食べたこともないおにぎりをそれだけで再現させる。

驚異的に変化することの多いなかでも、ちょっと想像ができないことでした。

 

 

 

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こんな地図があるといいな 3 静かに座れる場所がわかる

海や川、あるいは池などの水面をぼーっと眺めているのが好きです。

都内の川沿いの公園を訪ねるようになって、自然と安全とを配慮した場所が案外とたくさん整備されていることを知るようになりました。

 

大小さまざまな都内の河川も、遊歩道やサイクリングロードが整備されていて、滔々と流れる水と、大きな空をずっと眺めながら歩くことができるのは至福の時です。

 

多摩川とか荒川の下流にももっと堤防の上でぼーっとできるような場所があるといいなと思うのですが、下流域になるとおそらく防災上の理由でしょう、座る場所がほとんどなくなります。

実際に歩いてみると、川風で歩くのもままならない時もありますし、万が一、堤防を超えるような増水になればベンチは容易に凶器へと変わってしまいますから、止むを得ないことですね。

 

散歩をしていると、水面を眺めて、静寂な時間が好きな人が結構いらっしゃるようです。

 

ほどよい間隔でベンチやあずま屋が整備されている場所は、ひとりでこの静けさを楽しむ人の好む場所かもしれません。

水元公園の小合溜に面して、ずっとベンチが並んでいるところも、都内では贅沢な場所で好きです。

葛西臨海公園や周辺の運河にも、ぼーっと海や川あるいは鳥や植物を眺められる場所があります。

 

人はそこそこ出入りするのですが、ベンチの間に距離があることと、ほとんどはしゃぐ人がいないことも共通しています。

 

風や水の音、そして木の葉の風に揺れる音や鳥の鳴き声ぐらいです。

こういう場所が、ヒトには大事なのかもしれません。

都心だからということでもなく、日常生活から少し気持ちを切り替えたいときに、こういう場所があることが必要なのかもしれません。

あの三面川に隣接した公園や信玄堤公園でも、地元の方々が川を眺めに来ていらっしゃいましたから。

 

 

クリックすると、あちこちの静かに座れる場所がわかる地図があるといいなと妄想しています。

たぶん、そういう場所を求める人は静寂を好むので、人が集まったとしても静かな環境を守れると思っています。

 

そして、しだいに街のあちこちに座れる場所が増えていくといいなと。

イベントや興奮とは対極にある、静かで豊かな場所が。

 

 

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観察する 63 座れる場所がない街

あちこちを散歩するようになってだいぶ歩けるようになりましたが、たぶん、今の限界はおよそ2万5000歩ぐらいです。

最初の5000歩ぐらいを越えると、「どこかで座ってひと休みしたいな」と思い始めます。

最初の頃は無計画な歩き方をしていたのか、あまりこの「ひと休みしたい」という休憩を予定していなくて、どこかに座れる場所があるだろうくらいに思って失敗したこともありました。

まあ、どこにでも腰掛けてしまえばいいのですが、問題は歩道もほとんど分離されていないような道を歩き続ける時ですね。

 

ほんとうに安心して、そして休み休み歩ける場所というのは、案外少ないものです。

 

*人が集まる場所には、座れる場所がある*

 

私が高校生まで過ごした地域に行くと、鉄道の本数も増え、人口も少しずつ増えているにも関わらず、駅前は閑散としています。

駅舎も駅前のロータリーも整備され、観光客や地元の人の乗降客も多いにもかかわらず、列車が行ってしまうと、さーっと人の波が引いてほとんど人が歩いていません。

 

1970年代から80年代ぐらいだと、市内で一番大きなスーパーマーケットがあって、駅前の商店街を歩けば、ちょっとおしゃれな服から日用品までほとんど揃っていました。

 

今は空き地が増えて、残っているのは居酒屋さんぐらいです。

どうしてこうなっちゃったのでしょう。車社会だからでしょうか。

さらに、新しくなった駅舎やバスロータリーでは座る場所がなくなってしまいましたし、バスや列車を待つ間にちょっとコーヒーでもと思っても、気軽に立ち寄れるお店も座る場所もなくなってしまいました。

 

駅はただ通過する場所になってしまったようです。

 

「ここは何もないから」と自嘲気味におっしゃる地元の声を耳にするのですが、駅前に雨をしのげて座れる場所を作ったら、ただ座るだけでも素晴らしい風景を見ていられる場所になるのに。

もったいないなと思います。

 

その地域によっていろいろな理由があるとは思いますが、駅前に座れる場所がないことも駅前が寂れていく理由のひとつではないかと、あちこちを散歩するようになって思うようになりました。

 

ちょっとそこで一息ついたら、そして目の前に商店街があったら、ふらりと歩いてみたくなるのですけれど。

 

あちこちを散歩している中でも、気になっているのが谷津駅です。

お店の数は少なくなっているのに、さまざまな年代の人たちが買い物にきていました。

通りのあちこちに石で作られたベンチがあります。それが理由かもしれません。

 

「人が集まる場所には、座れる場所がある」は私の勝手な仮説ですが、歩く人が休めるベンチや場所を作りますという公約を掲げる人がいたら、絶対に投票するのですけれどね。

 

 

 

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こんな地図があるといいな 2 歩道がわかる

MaciPhoneの詳細な地図でもやはり現地に行ってみないとわからない情報が、歩く人のための地図に書いたように「道はあるけれど歩くのには適さない」という情報です。

 

例えば、水郷田名へ行く断崖のような場所に通っている道路です。

つづら折りの道路をひっきりなしに車が通っていて、一部分に歩道はあるのですが、あるところで忽然と消えていました。

最初にバスでそれを見ていたので、歩いて戻る計画を変更できたのですが、知らないまま歩き始めていたら、ちょうどカーブのところで立ち往生したことと思います。

 

春に武甲山を見に行った時に、秩父鉄道に乗り換えて三峰口まで行ってみました。

この時に、荒川の上流を見るという目的以外に、もうひとつ寄ってみたい計画がありました。

地図で、浦山口駅の近くに浦山口歴史民俗資料館を見つけました。近くにダムがあったので、もしかしたらダムによる移転の歴史が記録されているのではないかと思い、途中下車することにしました。

 

直線距離では駅から数十メートルですが、地図ではつづら折りの道路の反対側に描かれています。

上り坂を歩くことは想像できたのですが、実際にその道路に行ってみて「歩くことは不可能」と判断しました。

 

白線で引かれた幅30cmほどの歩道があるだけで、対向車の見えないヘアピンカーブを途切れることなく白線を越えて乗用車やバスが通過していきます。

おそらく、運転している人も「まさか人が歩くなんて」と思うことでしょう。

いろいろな場所を散歩して見ると、日本は平地が少なく高低差が大きい中で、車道を優先して作る必要性もわかりますしね。

 

 

地図に「歩道がわかる機能」があれば、別のルートや計画もたてやすくなります。

突然歩道がなくなるとか、歩道だとこういう風に迂回しているとか、事前にわかると便利ですね。

さらにどれくらいの歩道なのか、車やすれ違う人を気にしなくて良いぐらいゆったりした幅なのか、段差があるのかなども色を変えるなどしてわかれば、散歩だけでなくバギーや車椅子あるいは杖歩行などで通る人にも有用な情報になることでしょう。

 

そして歩行者だけの道がいかにそれが少ないかも地図ではっきりと示されれば、もう少しゆったりと歩ける道が増えて、案外と「車がなければ」という生活自体が変わるかもしれません。

 

 

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水のあれこれ 107 多摩川と澤乃井園

水が美味しいところには美味しいお酒があることを、子どもの頃から知っていました。

その頃から飲んでいたわけではなくて、当時住んでいた水が豊富な地域に酒造工場ができたことで、大人の会話から知ったのだと思います。

 

あちこち遠出をすると、その場所でしか買えない地酒を購入するのも楽しみの一つです。

ただ、重いので、旅の終わりまで買うのをぐっと我慢し、小さな瓶をいくつか購入しています。

家で、訪れた先の風景を思い出しながら、楽しんでいます。

 

多摩川を眺めながら澤乃井を飲む*

 

奥多摩へ行く目的にもうひとつ、沢井で下車をして澤乃井を飲むことがありました。

こちらの記事に書いたように、澤乃井で日本酒の美味しさに目覚めたのでした。

それ以前も、80年代には八海山や越乃寒梅などが人気になって、友人とカウンターで日本酒を飲んでいましたが、東京に美味しい日本酒があるなんて考えたこともなかったのでした。

その後、多摩川上流には豊富な水と酒蔵があることを知りました。

 

沢井駅を降りて急な坂道を下ると、酒蔵があります。

その坂道を降りる時に、すでに豊富な水が多摩川へ向かって流れている水音が聞こえます。

多摩川の河畔への斜面を利用して庭園があり、そこで目の前に流れる多摩川を見ながら日本酒を静かに楽しむことができます。

 

久しぶりに、あの場所で川を眺めながら澤乃井を飲みたい。

再び、坂道を降りていきました。

 

手入れされた庭園は、変わらないままでした。

その日は時々雨がぱらつく天候でしたが、多摩川から川霧が立ち昇っていて、幻想的な風景でした。

 

この澤乃井園ができて半世紀ほどのようですが、静かに風景とお酒を楽しめる場所が東京に残り続けるのも、豊富な水がもたらす恵ですね。

そして、久しぶりに訪ねても澤乃井園周辺の風景が維持されているのは、ノブレス・オブリージュの一つなのかもしれません。

 

 

 

 

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散歩をする 146 日原川

今日のタイトルの川名を正しく読めて、場所もわかるかたはどれくらいいらっしゃるでしょうか、特に東京に住む方々で。

私は最近、地図で名前を知りました。でも読み方は「ひはらがわ」だと思い込んでいて、現地に行って「にっぱらがわ」と読むことを知りました。

 

羽村から小作を歩いた後、久しぶりに小河内ダムに行ってみようかと地図を眺めていたら、奥多摩多摩川に合流する川があり、上流へとたどってみたら奥多摩日原森林館があり、そこまでバスが通っていることがわかりました。

羽村大賀ハスを見た後は、多摩川の支流をみることにしました。

 

奥多摩線*

 

小作駅から青梅線に乗り、青梅からは奥多摩線に乗り換えました。

90年代にこの奥多摩線には何度か乗る機会があり、とても好きな路線です。

多摩川のそばを走っているのですが、川は深い渓谷に流れていますから、川の姿を見ることができるのはごくわずかな場所だけです。

それでも急峻な山々に囲まれて、街道沿いのわずかな土地に街が広がり、なんとも美しい風景が続きます。

当時は青梅駅で購入した紙の切符を、無人駅の回収箱に入れて出ていました。

 

90年代はまだ、平日ならそれほど多くの乗客もいなくて静かな車内だった印象がありますが、2000年代後半に再び乗った時には、中高年層の方々がたくさん乗っていてにぎやかでした。

 

あの当時はたしか2両か3両の古い車両だったのですが、久しぶりに乗ったら新型車両で、しかも4両編成になっていました。そしてすべての無人駅に、ICカードのタッチパネルが設置されていました。

車窓の風景はあの頃と同じ、山が車窓に迫るぐらいに近づいてきて、時々、多摩川が木々の間から見えます。

 

急な傾斜に石を積み家を建て、畑があります。

20年以上前と同じまま、風雪に耐え街が守られていることに、30代の頃には感じなかった思いが湧き上がってきました。

 

*日原川*

 

お昼頃に奥多摩駅に到着し、東日原行きのバスに乗りました。乗客は私ぐらいだろうと思っていたら、平日にも関わらず、いつの間にか満席の状態になりました。

森林館より上流にある鍾乳洞へ行く人たちで賑わっていたようです。

 

つづら折りの道を進むと、奥多摩線よりもさらに山々が近づきます。

そして20mぐらいありそうな杉が山肌にへばりつくように植林されていて、そのはるか下に日原川の流れが見えます。大きな岩にぶつかるところもあれば、少し流れの緩やかな場所もあります。

その水量と、水の清らかさに驚きます。

こんな清流が多摩川に流れ込み、上水道の一部になっていることを全く知らずにいたのでした。

 

森林館には日原川周辺だけでなく、日本各地の樹齢数百年とか千年といった巨樹について展示されていました。

奥多摩町教育委員会が発行している「奥多摩」という冊子に、「巨樹と名水」の特集号がありました。

最初のページに以下のように書かれています。

平安期以来、羽村以西、多摩川上流地方一帯は「杣保(そまのほ)」と呼ばれていました。それは、この地方は武蔵国府への用材の供給地であり、良材を確保する地域であったからです。

(中略)

その昔、国府杣山として設定された、当町の山々の樹木は、すべて太古来斧を知らない天然木で、巨樹の林は続き、想像もつかないみごとなものであったと思われます。

 

奥多摩落ち着いた街と感じる理由は、こんな歴史からきているのかもしれません。

 

*日原川と奥多摩線*

 

森林館へ向かう途中に採掘場が山の間に見え、武甲山のように山が半分ほど削られている場所がありました。

 

Wikipedia日原川の説明に「川沿いに点在する石灰岩の採掘場」とあり、「奥多摩工業曳鉄線(えいてつせん)」に「奥多摩工業」がリンクされていました。

奥多摩駅のすぐそばにあったのが、この会社の石灰石化工場のようです。

 

奥多摩線は小河内ダム建設のために造られた鉄道のように思い込んでいたのですが、先に石灰岩採掘があったということでしょうか。

小河内ダム建設現場までは、氷川駅(現奥多摩駅)から東京都水道局小河内線が5年間、敷かれたようです。

 

 

地図で見つけた小さな支流から、また知らない世界が広がりました。

 

 

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散歩をする 145 羽を歩く

「羽」というのは、川沿いに出っ張った地形を表すというようなことを何かで読んだ記憶があります。

検索しても見つからず、手持ちの川に関する本だったのかもしれないとパラパラと探してみたのですが、何に書いてあったのかわからないままです。

 

その時に「ああ、だから羽村というのか」と納得した記憶があるので、ずっと関心を持ち続けていた玉川上水に関する資料で読んだのではないかと思います。

そして、「それで赤羽という名前もあるのか」とつながったので、おそらく岩渕水門を訪ねたあとのことかもしれません。

荒川放水路ができる前は、あのあたりもぐっと曲線を描いた出っ張った地形だったことでしょう。

 

羽村市の歴史にもその名の由来が書かれていないのですが、年表をみると1989年(明治22年)はまだ「羽村(はねむら)」という呼び名だったようです。

 

羽村市には玉川上水の取水口があり、取水口の付近の住所は「玉川」と「羽東」で、そこから上流に向かって「羽中」「羽加美」「羽西」があり、対岸には「羽」という地名があります。

取水口から玉川上水沿いのあたりとまいまいず井戸は訪ねたことがありますが、それより上流の「羽」は歩いたことがなかったので、いつか多摩川沿いに歩いてみたいと思っていました。

 

昨年、久しぶりに羽村から福生まで玉川上水沿いに歩いた時に、「はむら『マイMY』ロード」という観光協会の地図をみつけました。それをみると、ちょうど「羽」の部分に大賀ハスが植わっている場所があることを知りました。

 

ハスの季節になったら羽を歩いてみようと楽しみに待っていました。

 

*玉川水神社から水上公園*

 

羽村駅を降りて数分もしないうちに、多摩川へ向かって坂道を降りていきます。その先に羽村取水場があり、私にはなじみの風景ですが、そこから上流は歩いたことがありませんでした。

 

その地図のおかげで、取水堰を管理している東京都水道局の施設の片隅に玉川水神社があることを知り、まずそこへ立ち寄りました。

 玉川水神社は東京水道の守護神で玉川上水が承応三年徳川幕府によって完成された際水神宮としてこの地に建立されたものであります

以来三百六十年江戸町民および浄水路沿いの住民より厚く信仰せられて来たもので明治二十六年に名を玉川水神社と改められました

水神社としては最も古いものの一つであります

(上水と浄水は原文のままです)

 

水神社の前の横断歩道を渡ると、多摩川沿いに水上公園と遊歩道があります。

対岸の緑深い山を眺めながら、多摩川の水音と鳥の声だけの静寂の中をしばらく歩きました。

 

*根がらみ前水田と大賀ハス

 

数分ぐらいで、用水路の水音が聞こえ始め、まだ遠くにみえる水田から稲の香りがしてきました。

 

河岸段丘の崖下に広がる水田は、想像していたよりは小規模でしたが、観光協会の地図に「市内唯一の水田」と書かれています。

その田んぼへの道に、「雨乞い街道」という説明がありました。

真夏の日でりが続くと、田ノ上地区の人たちは裸で、この街道を通り抜け、丸山下にある渕へ行き、木製の龍頭をしずめて、雨乞いをしたといわれています。 

 

田ノ上地区というのは、河岸段丘の上の地域でしょうか。

こんなに多摩川がすぐ近くにあっても、段丘の上では水を得ることが難しい時代の話かもしれません。

 

水田の一角に、大賀ハスが大きな葉を広げて揺れていました。

まだ花は少なかったのですが、あの葉を見ているだけでも惹きつけられていく花ですね。

 

 

多摩川の河岸に続く低地部分は「羽中4丁目」あたりのわずかな地域で、じきに多摩川の気配を崖の下に感じるような段丘の上へと道が登っていきます。

あの相模川水郷田名に似ています。

 

 

水量の豊富な川が間近にあっても、その水を利用することもできない。

上流の「羽」という地形の大変さなのかもしれないと思いながら、小作取水堰から小作駅へと向かいました。

 

 

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つじつまのあれこれ 17 「車いす拒否で40分待ち」のニュース

車いす対応バスなのに『次に乗ってくれ』 運転士『拒否』で40分待ち、『障害者は客として認識されていないのか』」(JーCASTニュース、2019年7月14日)というニュースを見かけて、まず思い浮かべたのがあの日のことでしたが、「乗車拒否」までする状況はどんなものなのかと気になり、読んで見ました。

 

読後感は子連れで議会に出席の時のニュースと同じで、「あらかじめそこには観る人の感情を揺さ振ることで、強い主張を社会に広げる意図」を感じました。

 

車いすでのれるバスが決まっている*

 

「拒否された」状況が以下のように書かれていました。

大津市の瀬田駅から大学に向かうバスで12時1分発。だが、運転士から「車いすで乗れるバスは決まっている」「次のバスに乗ってくれ」といわれ、車いすユーザーが乗車できる設備のある「ノンステップバスワンステップバス」のみのダイヤが書かれた時刻表を示された。同時刻表は同社サイトに掲載されていなかった。見ると、次のバスが来るのは12時46分。40分以上待つことになる。 

 

それに対して、「拒否された」と感じた方のとらえ方が取材されていました。

「バス会社としては、車いす対応のバスの時刻を決めている。そのバスに乗ってくれたら、きちんと乗せるのだから差別ではない、という見解だと思います。

 

車いすユーザーが全くバスに乗れなかった時代、物理的にも安全に乗れるバスがなかった時代から、当事者の働きかけや技術者の努力もあって、少しずつ改善してきた歴史があります。だから、このバス会社が『 全部は無理だけど、確実に乗れるバスを用意して、この時刻なら乗れますよという時刻表を作った』経緯自体は、仕方ないというか、当初は良かったのだと思います。

 

しかし、おそらくその後、車いすで乗れる『ノンステップバスワンステップバス』が増えていたにもかかわらず、この時刻表を変えることなく、運転士全員に必要な研修を行っていなかったことは、明らかに問題だと思います。ワンステップバスに乗車してもらう際の操作方法は難しいものでもありません。

 

「確実に(車いすが)乗れるバスの時刻表」がわかりにくく、また大半がノンステップバスになってもその時刻表通りのままにしていることあたりを問題と感じられたのでしょうか。

 

*なんだかつじつまがあわない*

 

であれば、「拒否された」「差別された」という言葉でSNSで広げてしまう前に、直接、バス会社に改善を求めるという選択もあったのではないかと思いました。

 

もし、この地域のバス事情を知らない方だったら、「拒否された」と感じて怒りを感じることもあるかもしれません。

ところが上で引用した発言は、この地域の大学で障害を専門に教えている方ということを知った時点で、なんだかつじつまの合わなさを感じたのでした。

当然、あらかじめその時刻表の存在を知っていたのではないかと。

 

バスの運転士さんは個人の判断や選択で、会社のルールを無視するわけにはいかないことでしょう。

どのような職場もそうですが、個人をスケープゴートにして何かを変えるやり方、あるいはその対応のまずかった点から何かを変えさせる方法というのは、結果的にその職域を萎縮させていくことになりかねないと、医療現場を見ても思います。

 

車いすの方も安全に乗せるためのリスクマネージメントという点で、「確実に乗せられるバスを確保する」ことを決めたバス会社の判断は、優れていると私には見えました。

 

地域差もあると思いますが、路線バスに乗ると大半が高齢者の時間帯があります。

優先席どころか普通の座席も高齢者ばかりで、座れずに立っている高齢者の方もいます。車いすのスペースになる座席を空けられない状況に、バス会社も苦慮しているのかもしれません。

老いるというのは障害を負うことなのだという実感を感じるこの頃ですが、一見わかりにくい心身の障害を持つ人は、バスの中にもたくさんいらっしゃることでしょう。

 

誰もがいつでも安全に安心して利用できるという究極の理想と現実で、どのように折り合いをつけるか。

社会の感情を揺さぶり、自分が良いと思うことを闘争的に伝えようとする方法は、かえって溝を深めてしまうのではないかと、このニュースを読んで心配になりました。

 

 

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事実とは何か 65 ワンマン運転が負担になっているのではないか

3年ぐらい前のこと、当時父がお世話になっていた施設からの帰り道のことでした。

バス停で待っていると車椅子に乗った30代ぐらいの男性が来ました。

その地域では一家に車2台所有も珍しくないのか、車椅子どころかベビーカーでバスに乗る方もほとんど見かけたことがありませんでした。

 

雨が降り出したので、傘を差し出してその方が濡れないように待ちながら、少し世間話をしました。

バスが来て、運転士さんがその方をバスに載せるために降りて来ました。

私と話している時には穏やかだったその男性が、豹変しました。「そんなこともできないのか。早くしろ」と運転士さんを怒鳴っています。

私の方が先に乗ったので何が理由だったのかはわかりませんでした。もしかしたら、スロープの出し入れに少し手間取ったのかもしれませんが、都内のバスで時々経験する車椅子の乗車の対応時間とほとんど差がないくらいだったと私には感じました。

 

観光客を始め満員の状態のバス内に、なんともいえない沈黙が漂いました。

運転士さんは穏やかに発車する旨を伝えバスは動き始めましたが、衆目の中で罵倒された運転士さんのお気持ちにはいかばかりだったことでしょうか。

 

 

*運転士が全てをこなす*

 

先日の車椅子の乗客の乗車を「拒否」したというニュースに、この日のことを思い出しました。

 

私が子どもの頃にはまだ路線バスには車掌さんが乗っていて、運賃支払い、車内アナウンスや発車時の安全確認などは車掌さんがされていた記憶があります。

いつの頃からか、ワンマン運転になりました。

運賃ボックスが機械化されたり、アナウンスも録音されたもので自動化されたり、当時であれば人員削減の十分な理由だったことでしょう。

 

ところが時代の流れとともに、路線バスの乗客の状況も変化しました。

あるいは、運賃も現金だけでなく回数券やICカードなど複数の支払い方法で、清算の対応も運転士さんの業務になっていると、見ていて大変そうだなと思います。

時々利用する高速バスではさらにネット予約のスマホでの確認や、外国人旅行客のさまざまなチケットの確認など全て運転士さんがされています。

 

路線バスだけでなく、在来線のワンマン運転の列車でも、降車客の支払い対応を運転士さんがされています。

 

半世紀前のこうした公共交通機関の運転士さんは、運転席から離れることはありませんでした。

運転士さんが運転に専念できない現状は、事故やトラブルの要因になっているのではないかと思えるのです。

雨の中、運転士さんが濡れながら車椅子の方の乗車対応をされている姿を見て、どんな方にも対応するためには圧倒的に人員が足りないのではないかと思います。

 

 

安全のためには人手は大事。

どの業界でも同じだと思いながら、そのニュースを読み直しました。

もう少し続きます。

 

 

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