散歩をする 139 上溝から下溝へ

タイトルにある地名「上溝」は、競泳が好きな方ならピンと来るかもしれません。

 

最近の競泳ジャパンオープンは辰巳での開催がほとんどですが、以前、一度だけさがみはらグリーンプールで開催されたことがあります。10年ぐらい前だったような気がしていたのですが、2013年だったのですね。

辰巳ではなくグリーンプールになった理由は相模原市総合立水泳場に書いてある通り、あの東日本大震災による辰巳国際水泳場の長期改修のためでした。

いやはや、記憶というのは本当に曖昧ですね。

 

当時、会場へは相模原駅からバスで行き、帰りはJR相模線の上溝から電車を利用しました。

相模原駅周辺は、駅前に米軍施設があるように平地が続き、このプールがある横山公園もとても広いのですが平らな場所でした。

相模原市というのは平らな場所だという印象が残りました。

ところが公園の反対側からは上溝駅まで急な下り坂になり、駅の周辺に高低差のある場所がとても多かったことが印象に残っていました。

今ならすぐに相模川河岸段丘だとピンとくるのですが、当時はまだあまり地形に関心がありませんでした。

 

5月初旬、急にあの地形を確認したくて出かけました。

 

相模川河岸段丘沿いに歩く*

 

相模川下流は、なんども東名高速小田急線、新幹線などで通過したのですが、中流から上流はどうなっているのか、私の頭の地図の中でも不正確な場所です。

行く前にどこを歩こうか考えていたら、相模川に並行して2本の川があり、それが下溝で合流して相模川に流れているところに下溝駅があることがわかりました。

 

ということで、上溝から下溝まで歩いてみようと行き当たりばったりの大雑把な計画になりました。

 

散歩のスタートはJR相模線の橋本駅で、次の南橋本駅までは見渡す限り平らな土地が続きますが、南橋本駅を出ると、あの記憶にある雑木林と崖のような場所が続き上溝駅に到着しました。

これを確認しただけでもなんだか満足です。

 

上溝駅の説明にあるように、駅と線路は「てるて通り」の上を通過する高架式になっています。

河岸段丘沿いの崖が途切れた場所に、相模原方面へ向かう道路が造られているようです。

 

上溝駅を降りて、すぐのところにある川沿いを歩こうと目指しましたが、途中からは歩道がなくなってしまったので、段丘の崖にある雑木林を左手に感じながら歩いてみました。

地図では道保川公園まで緑の部分が続いていますが、これが河岸段丘の崖の雑木林だということがわかりました。

地図では一旦、もう少し下流県立相模原公園までは雑木林はなくなるのですが、左手の段丘の高低差はずっと続きます。

 

県立相模原公園の手前には、崖からの湧水が集まり、その小さな流れから川になり、その水を利用しているのでしょうか内水面種苗生産施設がありました。

そして、下溝の手前あたりから川に沿った遊歩道が整備されていて、三段の滝展望公園の手前で、いくつかの流れが合流して相模川へと流れ込んでいました。

 

「三段の滝」というくらいですから、川の合流部分もイメージしていた平な地形ではなく、相模川よりも10mぐらいでしょうか高い位置にありました。

 

Wikipedia上溝の「地理」に地形の説明がありました。

神奈川県北部、相模川左岸に形成された上・中・下3段の河岸段丘からなる相模台地の「中段」上に位置する。

 

段丘崖(ハケ)はしばし崖上の上段部分も合わせて「横山」と呼ばれ、崖の大部分は雑木林に覆われている。

台地中段上を、北西に隣接する下九沢方面から鳩川が南東に流れ、鳩川と同様に段丘崖下の湧水などを集めて当区域内に源を発する姥川と道保川が鳩川および段丘崖に並行して流れる。

 

下溝からは対岸の厚木や丹沢、高尾方面まで広々と見え、相模川が静かに流れていました。

もう少し川を眺めていたかったのですが、雷鳴が聞こえ始めたので駅へ向かい、電車に乗ったところで叩きつけるような雨が降り始めたのでした。

おそらく、相模川の様相も一変したことでしょう。

 

相模川の段丘を実際に歩いて見ることができ、予想以上に湧水が多く、満たされた散歩になりました。

 

 

「散歩をする」まとめはこちら

ハケや崖線の散歩のまとめはこちら

 

 

 

正しさより正確性を 17 「乳頭混乱」と 因果関係

たぶん20年前の私なら、乳頭混乱という言葉が「専門書」に書かれていたら、そのまま使っていたと思います。

経験上とはなんか違うなと思いつつ、医師も参加している本ですし、新しい治療法や新しいケアに乗り遅れてはいけないと結構勉強熱心でしたから。

 

それまではあまり疑うこともなく自信に満ちた経験や思考に圧倒されていたのに、だんだんとつじつまの合わない話に見えてきたのが10年ほど前のこと。

そこで出会ったのが、「個人的体験談は効果を示すものではない」「相関関係と因果関係」といった言葉でした。

 

恥ずかしながら、10年前に初めてkikulogというサイトに出会って初めてエビデンスの意味とその背景にある考え方や手続き方法について考える機会になりました。

 

医療に限らず、日常の生活ではあんがいこういう「科学の考え方の基本」を学び続ける機会が少ないのかもしれません。

 

*「こうすればうまくいった」「こうだからうまくいかない」因果関係を単純化

 

たとえば生まれて2〜3日の間、おっぱいに吸い付かずギャン泣きしていた新生児が、生後3日目ぐらいから急に吸い付くようになることはしばしば体験します。

これだけでも、哺乳瓶を使ったからといって「乳頭混乱を起こした」「哺乳瓶に慣れた」と言えるわけではないと思うのですが、スタッフも漠然とした不安があるのでしょう。

 

スタッフがその「事実(現象)」をどのように判断しているかは、勤務交代時の申し送りでだいたい想像できます。

 

ラッチオンとポジショニングを修正したら吸えるようになりましたは、そのひとつ。

確かにそれで改善する場合もあります。

生後2〜3日の新生児というのは浅めにクチュクチュと吸うことが多いので、少しでも巻き込み方が浅くなると外れてしまい、大泣きしてしまう場合です。

ただ、それもほんとうに「浅く吸っていたから外れてしまったのか」あるいは「新生児自らが浅く吸いたかったのか」「吸わずに他の理由でギャン泣きしているか」は、誰にもわかりません。

ちょっと授乳の姿勢を介助した時期と、その赤ちゃんが急に深く吸い始める時期がたまたま一致した可能性が高いとも言えるかもしれません。

 

ただ、生後2〜3日あたりは、ちょっとうまくいったかなと思っても、また吸い付かなくなったり、反対に何も手伝わなくても吸い付いたりというタイミングが多い時期です。

吸い付かずに泣き続ける新生児とそのお母さんには、スタッフもびっちり側について吸わせる訓練をしますから、吸い始めるようになると「訓練したから赤ちゃんが上手になった」と見えるようです。

これもたぶん、「赤ちゃんは前半はあまり吸わずに、後半になると吸い付くタイミングがある」と見方を変えてみれば、その訓練はやってもやらなくても同じだった可能性があります。

 

それでもなかなか吸い付かずに泣く赤ちゃんがいると、「お母さんの乳頭が扁平だから」「お母さんの抱き方が下手だから」「お母さんが根気がなくてすぐにミルクを足すから哺乳瓶に慣れてしまった」あるいはまたぞろ舌小帯が短いからという話が復活してくるのでしょう。

 

新生児が刻々と変化していることがなかなか言語化されないから、「もう少し待てば新生児も変化する」という発想にならないのかもしれません。

 新生児の生活史もまだわからないのに、「××だからうまくいかない」と因果関係を単純に判断しようとしてしまいがちです。

その辺りが「乳頭混乱」という言葉のでどころだろうと推測しています。

 

 

新生児期は数時間のちがいでも刻々と変化していますから、同じ新生児に「それをした場合としなかった場合」を比較して、科学的な考え方の基本である「再現性」を調べることは不可能に近いのかもしれません。

ただ、生後すぐから1ヶ月ぐらいまでの新生児を何千人、何万人と見ているうちに、おおよそのパターンが見えてきたり、反対に「こんなこともあるのか」というまだまだ経験したことのない状況に遭遇することもあります。

 

 

だから、答え(原因や効果)を単純化しないで、観察をし続ける。

 

そういう姿勢を医療や日常生活の中で考える機会がなかったと、時々、以下の3つの資料を読み直しては頭の整理をしています。

「ニセ科学とつきあうために」

「現代を生きるための科学リテラシー(ニセ科学問題と科学を伝えることなど)」

「中高生のための「だまされないための科学リテラシー」」

 

 

「正しさより正確性を」まとめはこちら

新生児の「吸う」ことや「哺乳瓶」に関する記事のまとめはこちら

 

 

 

完全母乳という言葉を問い直す 40 医学用語でもない言葉が医学っぽく広がる

昨年でしたか、「完全母乳という言葉は使わない」と明言した団体が、「おかあさんたちの気持ちに寄り添っている」かのように、好意的に紹介されているのを読みました。

 

完全母乳という言葉がどこからどういう経緯で出てきた言葉だったのか、そしてそれがひろがったことによって社会にどのような影響を与えたのか、1970年代からの歴史を踏まえていればまた受け止め方も違ったのではないかと思います。

 

10年前までは、周囲のスタッフの中で「完母(かんぼ)」「完ミ」という言葉は使われていませんでした。その後、お母さんたちの中で「完母でした」という人がぼちぼち現れ、気になってこの記事を書いたのが2012年でした。

最近は、私を除くほぼ全員のスタッフが、「ひとり目の時は完母だったそうです」と使っています。

定義もない言葉なのですけれど。

 

2015年には医学的コンセンサスはないとされた「乳頭混乱」も、むしろそのあと、スタッフの中で使う人が増えてきました。

さすがに「インプリしました」は 聞かなくなりましたが。

誰かが使い始めると、「新しい用語を使わなければ」という焦りがこういう広がりを加速させるのかもしれませんね。

 

*「病産院では教えてくれない、赤ちゃんに良いことを教えてくれる人がいる」*

 

最近、お母さんたちの中でも「調べたら乳頭混乱を起こすと書かれていたので、哺乳瓶と人工乳首、ミルクを使わないで欲しい」という方がぼちぼち現れ始めました。

 

きっと赤ちゃんを初めて育てることへの不安からいろいろと調べたのでしょう。

あるいはお一人目の時に吸わせることに苦労して、それが哺乳瓶を使ったからだと因果関係もないのに自責の念にとらわれてしまったのかもしれません。

 

あるお母さんは超難産といえる大変だったお産の後にもかかわらず、最初から赤ちゃんと一緒にいらっしゃいました。

おそらく「生まれた赤ちゃんはどんどんとおっぱいを吸って、吸えば満たされて落ち着く。お産で身体中が痛くても寝不足でもとにかく付き合えばよいのだ、自分が頑張れば母乳もうまくいくはず」とイメージされていたのだと思います。

ところが目の前の赤ちゃんは、大泣きしてもなかなかおっぱいに吸い付きません。ずっと授乳を試みたりあやしたりしてたようです。

産後十数時間たった頃でしょうか、「やはり預けます」ということになりました。

 そりゃあそうですよね。現代の母子同室というのは、人類がかつて経験したことのない、分娩直後の産婦さんが一人で新生児の世話をするという実験のようなものなのですから。

 

ただし「ミルクも足してください、でも哺乳瓶は使わないでください」とのこと。

その方の気持ちを尊重し、預かった後はスプーンでの授乳をしました。

 

最初の2〜3回の授乳は赤ちゃんも哺乳意欲があまりなく、一回に2~3ml程度だったので、スプーンでもそれほど時間はかかりませんでした。

その後は飲んだり飲まなかったり、ミルクをスプーンで口に運んでは吐き出され、また少し飲みを繰り返し、5mlを飲ませるのにも30分以上はかかりました。

 

結局、その赤ちゃんは朝までずっとぐずり、しょっちゅうあやして一晩がすぎました。

でもこれは、スプーンでも哺乳瓶でも、あるいはおっぱいでも最初の24時間ぐらいというのはこういう赤ちゃんもいます。

何かやり方が悪かったというよりも、哺乳行動とは授乳・消化・吸収・排泄の統合的な行動ともいえるのではないかというあたりです。

 

翌日の朝には、まずはおっぱいをクチュクチュと吸うようになりました。

お母さんには、「夜中にぐずりながら何度も胎便を出したので、赤ちゃんも少し次の段階になったのかもしれませんね」とお話しておきました。

 

 *素朴な疑問*

 

でも、もしかしたらお母さんはそのあたり、「やっぱり人工乳首と哺乳瓶を使わないでもらったから吸えるようになった」と因果関係を取り違えるかもしれません。

「病院では相変わらず哺乳瓶や人工乳首を使っている」と病産院への批判的な気持ちが生まれてしまうかもしれませんね。

 

で、素朴な疑問が湧きました。

スプーンやカップで飲ませたら、「そちらの方が飲みやすい」とカップフィーデイングに慣れてしまう乳頭混乱は起きないのでしょうか?

 

医学用語あるいは専門用語っぽいけれど、実はそうではないものに翻弄されているのは、やはり新生児の生活史が観察されていないから人一倍授乳に熱心な人が繰り返し出現し、新たな方法論や新たな言葉を広げては消えて、を繰り返しているのではないでしょうか。「医学的」というイメージで。

 

 

 

「完全母乳という言葉を問い直す」まとめはこちら

新生児の「吸う」ことや「哺乳瓶」に関する記事のまとめはこちら

 

つじつまのあれこれ 15 医学的コンセンサスはないけれど哺乳瓶は使わない?

動物園での哺乳瓶の使用がいつごろからかはわからないのですが、ヒトの場合は手頃な価格で哺乳瓶やミルクを使えるようになったのは、ここ半世紀ほどのことではないかと思います。

 

子どもを育てるために何がよいのかヒトもまだまだわからないことが多いので、さまざまな ケアについての世界観があり、そこから方法論がすぐに広がりやすい印象です。

 とりわけ、1970年代に端を発した母乳推進運動の中で、哺乳瓶についてもいろいろな「仮説」があっというまに広がり、言葉だけがひろがってしまうことがあるようです。

 

そのひとつに乳頭混乱という言葉があります。

こちらの記事で、「乳頭混乱」について、NPO法人日本ラクテーションコンサルタント協会が2007年に出版した「母乳育児支援スタンダード」に書かれている内容を紹介しました。

ステップ:9 乳頭混乱とおしゃぶり

 

ステップ9は人工乳首(哺乳びん)とおしゃぶりの使用を禁止したものであるが、これは出生直後から哺乳びんを使用した場合、児が乳房を吸わなくなる「いわゆる乳頭混乱」と呼ばれる現象があるためである。「いわゆる乳頭混乱」という言葉を使ったのは、乳頭混乱の概念や成因についてはさまざまな説があり、未だ医学的コンセンサスが得られていないからである。

 

新生児がぐずって吸い付かないことはしばしばありますが、それは母乳に限らず、哺乳瓶でもあるわけで、「哺乳瓶を使ったからおっぱいに吸い付かなくなった」というわけではなさそうですし、出生当日から2〜3日の間に、刻々と吸い付き方が変化して生きます。

また、乳輪から乳首に弾力がある初産婦さんだとしばしば直接吸付けないことは経験しますが、経産婦さんではほぼそういう状態が無くなります。

 

 

ところが、「未だ医学的コンセンサスは得られていない」と言いつつ助産師向けの参考書に書かれていた言葉は、10年後にジワリとひろがっています。

 

*医学的コンセンサスはないけれど哺乳瓶は使わない?*

 

さて、この「医学的コンセンサスが得られていない」用語ですが、その後どのように書かれているでしょうか。

 

8年後の2015年に出版された第2版では、以下のようになっていました。

人工乳首・おしゃぶりの使用を避けるのは、児によっては人工乳首・おしゃぶりの方を好み、母親の乳房から直接飲むのを嫌がる現象がしばしば起きるためである。人工乳首の場合、早いときは生後1週間いないから認められ、生後3〜4ヶ月で起きる場合も珍しくない。この現象は「乳頭混乱(nipple confusion)」と呼ばれてきたが 、その概念や成因について医学的コンセンサスがなくこの言葉はあまり使われなくなっている

 

ところが、その後半の説明では以下のように続きます。

もし補足が必要な場合は、カップによる授乳が推奨されている。カップの方が清潔を保持しやすく、授乳時に児を抱き、顔を見ながら飲ませる行為が保証されるからである。哺乳びんを枕などに立てかけ飲ませることは、カップではできない。準備や片付けを含めると授乳に関する時間は哺乳びんと変わらない。 

 

 乳頭混乱という言葉は必要がなくなってきているのに、なぜカップフィーデイングをわざわざ勧めるのでしょうか?

そしてカップフィーデイングをすれば赤ちゃんがおっぱいに吸い付かないことがなくなると検証されたのならともかく、「こちらの方が清潔」「哺乳瓶と違って必ず抱っこするから」とまったく違う話になっています。

 

このつじつまの合わなさは、おそらく、「母乳育児成功のための10か条」の「第9条:母乳で育てられている赤ちゃんに人工乳首やおしゃぶりを与えないようにしましょう」が何より大事な世界観になっているからかもしれませんね。

 

ところで、「この言葉はあまり使われなくなっている」と書かれていますが、むしろ臨床では数年から10年ぐらいのタイムラグでジワリと広がってきています

そしてカップフィーデイングの根拠とも言えるとらえ方がが否定されたというのに、頑として哺乳瓶を使わないという方々がぼちぼち出現してきたのでした。

「赤ちゃんのために良いことはしてあげたい」という強い意志とともに。

 

お母さんたちは、どこからそのつじつまのあわない「知識」を得るのでしょうか。

 

 

 

「つじつまのあれこれ」まとめはこちら

新生児の「吸う」ことや「哺乳瓶」に関する記事のまとめはこちら

哺乳瓶のあれこれ 17 「ショウヘイの人工哺乳」

5月23日の「東京ズーネット」で、多摩動物園で生まれたアムールトラ「ショウヘイ」の公開が始まるニュースがありました。

「ショウヘイ」が生まれた時の状況は「アムールトラ『シズカ』の出産、そして生まれた子『ショウヘイ』の人工哺乳」(2019年4月22日)の中で詳細が書かれています。

 

2019年1月19日にシズカから3頭が生まれ、3番目がショウヘイでした。

翌日夕方、シズカの意識が子どもから離れるようになり、産室内を確認したところ、生まれたのは3頭。しかし、1頭はすでに死亡しており、1頭は虫の息でした。もう1頭だけは元気な声をあげて動いています。体力はまだあるようです。すぐ私は麻袋を敷いた段ボールを用意し、3頭を入れて病院へと走りました。

 

一刻の猶予もならない緊急事態です。私と病院係長の2人で、生きている2頭をお腹に直接当てるように抱え、体温で温めました。1時間後に哺乳したところ、鳴き声をあげていた子(オス)は元気を取り戻してミルクを飲みました。ところが、虫の息だったメスの子はミルクも飲まず、体調も思うように回復せず、残念ながら翌朝死亡してしまいました。 

 

ヒトの出生直後から24時間ぐらいの、あの「なかなか飲まない」「なかなか吸い付かない」新生児の様子と重なります。

 

ショウヘイの出生時からの体重の変化の記録はありませんが、生後2ヶ月ほどたった4月10日には10kgになり、人工哺乳と合わせて馬肉や鶏の頭のミンチ250gを食べるほどに成長していたようです。

 

写真に写っていたショウヘイが使っていた哺乳瓶は、ヒトでも馴染みのあるデザインでした。

飲み方も、時々、ふにゃふにゃと甘噛みのような感じでくわえてみたり、ペッと吐き出してみたり、ヒトの新生児に似ています。

そして日齢とともに集中して飲むようになっていく様子も。

 

動物園で哺乳瓶が使われるようになったのはいつ頃からか、どんな試行錯誤があったのか、その歴史を知りたくなりました。

 

 

新生児の「吸う」ことや「哺乳瓶」に関する記事のまとめはこちら

10年ひとむかし 51 自宅の通信障害

自宅の通信障害でパソコンからの資料の印刷ができず、しばらくメモ的なブログ記事が続くかもしれません。

通信障害でパソコンから印刷できない、意味がわかりにくいですね。

 

*自宅のインターネットが使えなくてもデザリングがある*

 

自宅でインターネットを使うようになって20年になりますが、当時はパソコンでネットに繋がるだけでもすごかったのに、その10年後には電話とパソコン、そしてカメラやビデオの機能を持った小さなスマホになり、さらにクラウドで自宅のパソコンといつでも同期されるようになりました。

 

夢のような生活があっという間に当たり前になりました。

 

そしてさらにすごいと思ったのがデザリング機能で、これができたことで自宅内を無線LANにするメリットもなかったので、有線LANのままにしていました。

 

自宅のネットが使えなくなった時に、まずブログをどうしようかと思いました。慣れないけれどスマホで書くしかなさそうです。

フリック入力ではちょっと文章は書きにくいし、スマホだとブログ記事の入力設定が少し違うので面倒そうでした。

で、ふと思い出しました、デザリングでパソコンをネットにつなげられるではないかと。すごいですね!

 

ところが昨年買い替えたMacが、TypeCの外見はおしゃれなパソコンになったもののUSBの接続口がなくなり、外付けのポートで対応しなければならなくなりました。

そうなると、今回のようにデザリングでUSBを使ってしまうとプリンターを同時に使えないということに。

ネットで情報などを検索してプリントアウトすることができない、というのが冒頭の一文の意味でした。

 

まあ、USBの接続口の多いポートに変えれば済むのですけれど。

 

それでも20年前なら通信障害が起これば、修理が終わるまではネットにつなぐこともできなかったことを考えると、非常時にも代替手段があるというさらに夢のような時代ですね。

 

少し前に起きたソフトバンクの通信障害ではパソコンとスマホを使いわけながら対応できたのですが、通信インフラが生活のなかに当たり前になり、あるいは命綱のようになったのも、たかだか20年のことなのですけれどすごいですね。

ごく稀に起きる通信障害ですが、今回の件で通信会社に電話をしたらすぐに原因が確認できることにも驚きでした。

 

20年前には、「自宅の通信障害」なんて言葉も思いつかなかったなあと、その変化の大きさをあれこれ思い出しました。

 

 

 

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散歩をする 138 豊洲から辰巳

5月30日から辰巳国際水泳場で、競泳Japan Open 2019が開催されています。

辰巳に通って10年を書いてからまた5年が過ぎ、私の競泳観戦歴も十数年になりました。

 

「辰巳に通って10年」に書いたように、辰巳までの景色がほんとうに変わりました。

一番大きいのは、辰巳駅の西側にそびえる豊洲タワーマンション群の出現です。

以前は、夕日が落ちていく空しかなかったのに。

 

 

自宅から辰巳までの交通手段は、潮見を通る京葉線りんかい線、そして有楽町線をその時の気分で選んでいます。

辰巳周辺は運河に囲まれているのですが、その下を通過する地下鉄だとあんがい地上の風景を知らないものです。

豊洲台場公園に行ったあと、ゆりかもめから地下鉄に乗り換えるために通過しただけでした。

 

豊洲の次が辰巳駅ですが、その途中の風景を知らなかったので、今回は歩いてみようと思いつきました。

 

*運河を渡る*

 

豊洲駅から豊洲公園へむかい、海を見てから晴海通りへと歩きました。

あのブラタモリの晴海の回で紹介されていた、駅近くにある防潮堤の痕跡を見て、それからひとつめの運河を渡り有明へいったん渡ります。

ここに、あの辰巳駅から見えるマンション群があるのですが、それを見ながら橋を渡った後すぐ左手に曲がって歩いていくともうひとつ運河を渡ります。

 

あとで調べたら、どちらも東雲(しののめ)運河でした。もともとあった運河の先に埋立地が増えて分岐したかたちなのでしょうか。

辰巳は東京湾埋立7号地、有明は10号地だそうで、どちらも1960年代後半(昭和40年代)に埋め立てられて住居表示が始まったようです。

 

ふたつめの運河を渡ると、三ツ目通りに向かってまっすぐ伸びる道があるのですが、目の前に建設中のアクアテイックセンターが見えます。

京葉線から見ていたよりは、近くでみるととても大きいのでびっくり。

 

電車だとあっという間に過ぎてしまう運河に囲まれた埋立地ですが、こうして歩いて見るとその広さを改めて感じました。

 

*辰巳団地と豊洲マンション群*

 

有明から辰巳に入ると、昔ながらの都営団地が並んでいます。

一部は10階以上の高層団地へと再開発中でしたが、昔80棟以上あった団地の半分ぐらいが残っています。

団地の一階には小さな商店街があったり、ちょっと懐かしい風景でした。

 

私が辰巳国際水泳場に通い始めたのは豊洲の再開発が始まる前だったので、地下鉄の駅からも見えるこの都営団地の方が私には最初の辰巳の風景でした。

 

真新しい豊洲の街から歩いてくると、いきなり半世紀前の風景になりました。

ただ、1960年代後半にこの団地ができた頃は最新の団地で、若い家族が次々と入居して活気があったのだろうと思います。

私もまた、1960年代前半に都内にできた5階建の新しい官舎に住んだ頃の、似たような記憶がはっきりと残っていますから。

 

半世紀ぐらいで、古い景色から新しい景色へと様変わりするのかもしれませんね。

でも、どこかにその歴史を書きとどめて欲しいと思いながら、辰巳国際水泳場へとむかいました。

 

 

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正しさより正確性を 16 災害史が教育の基本になれば

あちこちを散歩するようになり、日本のひろさを痛感するようになりました。

その時に、案外と小学校から高校までで学んだ退屈に感じていた知識やものの見方が役に立っていると思うこの頃です。

 

ただ最近は、私が子どもの頃にあった学問のイメージが変化してきています。

 

子どものころは、まだ世の中で解明されていないようなことを発見したり発明する超天才的な人が学問の頂点にいるようなイメージでした。

だから、私には無縁の世界のような。

その後、世の中がどんどんと専門分化するようになって、その分野の知識を正確に記憶している人たちの学術的な世界が学問のイメージに付け加えられました。

難解な専門用語や概念を駆使できる人たちとでもいうのでしょうか。

どちらかというと現実の疑問の中から少しずつこうした知識に近づいていく私のようなごく普通の頭の持ち主には、無縁の世界です。

 

現在は、こうした知識を瞬時に記憶できるような人たちが賢人の世界なのかもしれませんね。

 

そういう人たちも大切だと思うとともに、何かが足りないようなと感じていたことが、少し最近見えてきたような気がします。

 

*教科のあれこれ*

 

最近の小学生や中学生はどんな教科を習っているのだろうと、Wikipedia教科を読んでみたら、「ヨーロッパの教科」がちょっと目から鱗でした。

 

ドイツには「事実教授」という分野があって、理科・社会・地理(郷土)・交通教育等の統合教科を指しているようです。

また、フランスでは「基礎学習期」と「深化学習期」というわけ方があるそうで、基礎学習期には日本と違って「共に生きる」「世界の発見」といった入り口から始まって、深化学習期に「文学・人文教育」として外国語や地域語、歴史、地理、集団生活へと展開されているようです。

 

ところ変われば教育も変わるのですね。

 

*災害教育を核にしたら・・・*

 

阪神大震災を機に看護に災害の視点が入り始めて、2009年から本格的に看護教育では災害看護を学ぶようになったようです。

災害の全体像や総論がようやく明文化され始めた時代に入ったとも言えるのかもしれません。

 

あちこちを散歩していると、必ずそこには水害や地震といった災害を機に歴史が大きく変化したり、その地域独特の産業や生活へとつながっていることが見えてきます。

災害といっても地域によって、あるいは災害の種類によってその史実は本当に一様ではないことを痛感します。

 

ただ私の子どもの頃と同じで、学校では災害教育というのはまだ教科としては認めれられていないのか、避難方法とかそういうあたりでとどまっているのかもしれません。

災害直後というのは生き延びるだけで精一杯ですから、なかなか熊野誌のように記録を残すことも大変なことだと思います。

 

 

発想を変えて、地域の災害史を「事実教授」のような核にし、そこから関心のある分野へと学んでいけると、もっと勉強したいと思う子どもも増えるかもしれないと妄想しています。

災害から気象や土木、あるいは生物に関心を持ったり、その基礎知識として数学とか物理にも関心が持てるかもしれません。避難所での生活や衛生に関心が出る人もあるでしょう。経済損失から経済に関心が出る人もいるかもしれません。防災や災害復旧のために必要な知識は、あらゆる知識につながっていることでしょう。

 

災害もまた日本の大事な資源にしてしまえば、「学校の勉強は役に立たなかった」とか「記憶力が優れている人が優秀」というコンプレックスからも少し解放されるかもしれませんね。

 

そして、災害を自分の世界観に利用する人たちを生み出さないように、災害に関する正確な知識を積み重ねた社会というのは安定感もあるのではないかと。

 

まあ、理想だけを追っても仕方ないのですけれど。

 

 

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事実とは何か 62 オランダのハンス少年の物語

八郎潟がオランダと関係が深いことを初めて知りましたが、オランダ、干拓地というと思い出すのがあのハンス少年の話です。

海抜が低く堤防に囲まれたオランダで、堤防から水漏れを発見したハンスがその土手の穴に手を突っ込んで水漏れを防いだという話です。

小学生の頃に読んで、オランダといえばチューリップや風車の美しい風景とともに、この話を必ず思い浮かべるほど印象深いものです。

 

詳しい話を忘れたので検索してみたところ、「for Civil Engineer」というブログがありました。

オランダに1年間研究で滞在されていた日本大学理工学部土木工学科(2008年当時)の方が書かれているようです。

その中に、「これが有名な・・・」という記事がありました。

これが有名なハンス少年の銅像です。探すこと15分、左写真の通り近所の方が日光浴のために止めてある自転車の奥に見つけました。スバールンダム というアムステルダムに近い小さな町でありました。近づいてみると写真中央の通り堤防の水漏れの箇所に指でふさぎ、誰か来ないかみているようであります。逆側から見るとハンス少年も木靴を履いていることがわかります。

いろいろ調べてみると、このハンス少年の銅像は別のところにもう一つあるようです。(これから調査をします)また、残念ながらこの「ハンス少年の物語」はどうもフィクションのようであります。

運河に囲まれたオランダならではの話題ですが、シビルエンジニアとして市民の生活を守るという共通点があるようにも強く感じます。みなさんはどの様な感想を持たれましたでしょうか?

 

ハンス少年の話をフィクションだと聞いてもノンフィクションのように感じるのは、そこに人の生き死にがかかっているリアリティを感じるからかもしれません。

あちこちの干拓地や川や、あるいは用水路を散歩していると、ハンス少年がいるような気がするのです。

 

八郎潟干拓地の計画ができた頃のオランダ*

 

そのブログに興味深い記事がふたつありました。

大堤防 

オランダでは常に水害の危機に直面しているため、この30キロメートルにも及ぶ大堤防(Afsluitdijk)が1927年から1933年にかけて建設されました。この大堤防によりゾイデル海が淡水化してアイセル湖となりました。さらにアイセル湖では5つの干拓事業が計画され4つの地区で1.7万haが農地として造成されましたが、残る一つは財政上の問題と干拓後の使用目的から凍結されております。そしてちょうどことしか締め切りが完成して75年目を迎え記念イベントなども行なわれていました。デルタプランで紹介した1953年の高潮ではその威力を見事に発揮したそうです。(以下、略)

 

 デルタプラン(1)

オランダは国土の半分以上が海面下にあるという特徴を有しております。1953年に北海から発達した低気圧により、高潮が発生し、オランダ南西部のおよそ20万ヘクタールの土地が浸水し、4500戸の建物が流され、10,000頭の家畜が被害に遭いました。その時の死者は1853名という大災害でありました。

その後、この教訓を生かし二度と同じ被害を起こさないようにと、1957年にデルタプランが実行されてきております。デルタプランは、高潮に対して川をふさいでしまうというものです。1997年に完成したマースラント洪水バリアの全体像(模型)は左の通りです。平時はバリアは開いた状態で川の両岸に収納されており、船が航行することができるようになっております。水位が上がると高さ22メートル・幅210メートルのバリアが両岸から出てきて360メートルの川幅をふさぎます。上流には世界最大級の貿易港であるロッテルダム港(ユーロポート)があります。

 

自国が未曾有の大水害に見舞われていた翌年の1954年にオランダからハンセン教授とフォルカー技師が来日し、戦後賠償としての事業を受け入れるためだったのですから、その心中はいかばかりだったことでしょうか。

 

八郎潟が着工された1957年に、オランダではデルタプランが始まった。

その時代の雰囲気はどんなものだったのでしょうか。

さすがに「オランダまで行ってみました」といえない距離なので、当時の記録と出会うことを祈るしかなさそうです。

 

 

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記憶についてのあれこれ 141  八郎潟の豪雨

広大な八郎潟をどうやって見て回れるだろうかと調べていたら、八郎潟駅から八郎潟の中心部まで大潟村コミュニティバスがあることがわかりました。

タクシーしかないかなと諦めていたのですが、タクシーだと5000円ぐらいかかる距離が100円でした。

 

数年前まではまだまだ近未来の交通手段だと思っていた小型コミュニテイバスですが、最近は見沼代用水木曽三川を訪ねたときにもお世話になりました。

けっこう地元のおじいさんおばあさんが利用していて、車内はその地域の言葉で賑やかでした。

 

大潟村のバスの車内はどんな雰囲気になるかと楽しみにしていたら、なんと終点まで私一人の貸切状態になってしまいました。どうやら、地元の温泉施設が休館日のようでした。

 

*「昨年5月18日の豪雨」*

 

ふだんは業務中の運転士さんに話しかけることはないのですが、ひとりだったのでちょっとだけお話を伺いました。

「雪は大変ですか?」と。

「雪はそうでもないけれど、雨が大変」と予想外の答えで、「昨年5月18日には豪雨があって大変だった」とおっしゃられていました。

 

すごい、1年前なのに正確にその日を覚えているなんて、よほどの天候だったのでしょうか。

 

あとで検索してみると、秋田地方気象台が昨年5月23日に出した「秋田県災害時気象資料」が公開されていました。

「平成30年5月17日から19日の秋田県内の大雨」

 

<概況>

前線が東北地方に停滞し、前線上の低気圧が19日未明にかけて東北北部を通過した。また、19日は別の低気圧が秋田沖に停滞した。前線や低気圧に向かって暖かく湿った空気が流れ込んだため、東北地方では大気の状態が不安定となった。

秋田県では、17日夜から19日にかけて断続的に雨が降り、北秋田市阿仁合で48.5ミリ(18日13時19分までの1時間)、男鹿市男鹿真山で46.0ミリ(18日13時00分までの1時間)の激しい雨を観測した。また、降り始め(17日18時から19日16時までの期間降水量は、北秋田市阿仁合222.5ミリ、仙北市田沢湖高原203.5ミリ、仙北市鎧畑188.0ミリ、仙北市桧木内176.5ミリ、秋田市仁別175.0ミリ、鹿角市八幡平172.5ミリ、五城目170.0ミリ、秋田159.5ミリの大雨となった。

この大雨により秋田県では、秋田市と大仙市で雄物川が氾濫して田畑が冠水し、秋田中央地域を中心に住家の床上、床下浸水、土砂崩れなどの被害が多数発生した。

 

地元の方が「去年の5月18日」と覚えている豪雨なのに、私には全くニュースの記憶がありませんでした。

その時の八郎潟周辺の様子はどうだったのでしょう。

今、この資料の地名を見るとだいたいあの辺りとわかるので、心穏やかではいられない内容です。

あの運転士さんも御自宅のことやバスの運行など、相当緊張を強いられた3日間だったのかもしれません。

 

 

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