行間を読む 125 人を神とする

あちこちを散歩するようになって、現代でも「人を神として祀る」ことがあることに驚いています。

 

この出だしの一文でさえ、私の世代になると白を黒に、黒を白に変えさせられた父の世代の世俗の葛藤を思い出しますし、何か触れてはいけないタブーや批判めいたものになりそうなので、言葉にすることさえためらわれる感情で千々に乱れそうな内容です。

 

そして現実の生活では、そういう父も神棚と仏壇がない家に育った子はいい子ではないという強い価値観と、イデオロギーに入り込むなとの間で常に葛藤していたのでした。

 

あちこちを歩き始めた数年前は、たとえば夢の島や辰巳のあたりには全く寺社が無いのは、1970年代から80年代に埋め立てられた新しい地域だからと思っていたように、もう戦後は新しく神社を建てるような時代ではなくなったからだと思っていました。

 

ところが、愛知用水神社は1976年(昭和51年)に建てられています。しかも、その事業の中で殉職された方々を祀っていました。

自ら計画した用水建設で56名の犠牲を出したことに心を痛めた久野氏が、神社を建てたのでした。

 

「人を神として祀る」というのは、こういう葛藤の表現だったのかもしれません。

人の命に対して負いきれない責任との葛藤の表現のひとつ、とでもいうのでしょうか。

 

藤田神社も最初は「児島湾神社」という名前だったようですが、もしかしたら藤田伝三郎氏個人を祀るというよりもその事業でさまざまな犠牲を負った方をも祀っているのかもしれないと感じたのですが、どうでしょうか。

 

 

*神社の変遷について知らない*

 

1970年代半ばの高校時代には、時間が足りなくて十九世紀後半から二十世紀初頭の歴史は駆け足 で学びました。

それはまだ歴史として検証されていないという理由もあったのだと思います。

 

その中で「廃仏毀釈」「神仏分離」「復古神道」のニュアンスやあるいは「国体」いう表現はさらりと耳にしましたが、なんとも歴史として教えるにはまださまざまな感情や批判が渦巻く言葉だったのではないかと、当時の雰囲気を思い返しています。

戦後、四半世紀といった時期でした。

 

「人を神とする」「神から人へ」なんて、今でもちょっとタブーな言葉かもしれませんね。

 

あちこちの神社で「御由緒」を読むと、昔から神社は「人」を祀って来たのですね。

あまりにも神道について知らなさすぎました。

最近の若い人たちの「御朱印ブーム」などを耳にすると、私自身の神道や仏教の歴史に対する空白の時間との違いを感じます。

 

 

ただ、そのタブーのような風潮の時代のおかげで宗教と距離をおくことができたので、「祀る」のはどういう感情なのか、それをどのように利用するのかもその人次第なのだと、少し見えてきました。

 

恒例の、特定の神社参拝を政治に利用する風景は私には滑稽に見えるのですけれど、これも時代の葛藤でしょうか。

そしてその葛藤から解放されるには、一世紀とか二世紀といった時間が必要なのかもしれませんね。

 

 

 

 

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水の神様を訪ねる 42 児島湾干拓地の「守護神」

4年ほど前に岡山の干拓地を歩こうと思い立って資料を検索しているうちに、「藤田」という名前が明治以降の干拓の中では深い関わりがあることを何となく知りました。

 

てっきり岡山の地主かと思っていたら、大阪の豪商であり、「児島湾干拓ー藤田伝三郎の業績ー」に生本伝九郎による案をムルデルの科学的な調査によって作成された計画を実現するために、生本伝九郎が藤田伝三郎を探し出したことが書かれていました。

 

当初6人の組合経営で計画された干拓事業がなかなか足並みがそろわず、そのような中でも藤田伝三郎は独力でも干拓事業を成し得ようと十数年の時間をかけたようです。

さらに地元の人からも反発があり、時間がかかっていたことが書かれています。

 

反対運動に加え、明治25年(1892)・26年(1893)に大洪水が起こり、また県知事も交代して進展しないままの時期もあり、ようやく「明治17年以来20数年にわたり、ごうごうたる反対の声のなかで堅忍自重を続けながら起工にこぎつけ」、その後は「機械化農業の先進地」として発展して行ったようです。

 

地図で藤田神社を見つけた時にはまだあまり藤田伝三郎氏のことを知らなかったのですが、ぜひ訪ねてみようと思ったのでした。

 

 

*藤田神社*

 

鬱蒼とした鎮守の森の周りには、水路からひいた水の流れがありました。

広大な干拓地の中の、オアシスのような場所です。

御由緒らしきものを探して見ましたが、わかりませんでした。

 

 

帰宅してから藤田神社のサイトをみると、「藤田傳三郎と藤田神社」という記事がありました。

その中に以下のように書かれています。

巨万の富を築いた藤田伝三郎でしたが、日本の国のため、慈善事業や学校教育の面で多額の寄付も行ったことでも知られています。

 

藤田家の私財を投げ打った児島湾干拓事業

 

明治時代を代表する政商として、各界で活躍した藤田傳三郎でしたが、特に児島湾干拓事業は、彼の功績のなかでもひときわ異彩を放っています。藤田傳三郎は、広大な干拓地の埋め立てのために、藤田家の私財を投じ続けたという点で驚くべきものがあります。

 

児島湾干拓は江戸時代は岡山藩、明治に入ってからは岡山県による、いわば公共事業として進められていました。しかし県の財政は厳しく、また干拓事業のスケールの大きさを前に継続を断念します。夢のような話とまで言われた事業で、国に事業の継続を要請しても、必要資金があまりにも多額なため断られます。当時の県令(現在の県知事の役職)であった高橋五六は、関西や関東の財閥に事業継続のお願いに走ります。

しかしあまりにもスケールが大きく、成功の保証もない、採算がとれるあてがない干拓事業を引き受けてくれる者はいませんでした。そんな中、立ち上がったのが当時、大阪でゆるぎない地位を確立していた藤田傳三郎だったのです。干拓事業が持つ広大な国土再生計画に夢を感じた傳三郎は、国利民福を掲げて一歩を踏み出しました。

 

困難極まる児島湾干拓事業、奮闘の日々

 

一歩を踏み出したかに見えた干拓事業ですが、明治22年に国の許可は下りるものの、地域住民からの猛烈な反対運動を受け、着工までに約10年かかったと言われています。結果、工事がスタートしたのは明治32年でしたが、全行程が完成する昭和28年まで続く、苦難の日々の始まりとなりました。

想像以上の底なし沼の状態に、一間あたり1万3000貫以上の堤防を、延々と何十里も築こうとする、困難極まりない工事となりました。

松丸太杭を打ち込み、竹シガラを編み、堤心は土を盛り築きますが、数時間のうちに泥の中に呑みこまれるというありさま。工法を変え、丈夫な基礎工事をし、その上に石垣を築き、石灰眞砂土のコンクリートで隙間を埋める工法にたどり着きましたが、地盤の悪さに苦難は続きました。この誰でもが放り出しそうな状況を、傳三郎は諦めることなく事業を続けます。

干拓は5500町歩(1650万坪)を第1工区~第7工区にわけ、莫大な費用と時間が過ぎる中、明治45年3月30日傳三郎は完成を見ることなく他界いたしました。

 

傳三郎の後を継いだのは、藤田財閥第2代目当主藤田平太郎でした。平太郎は第2工区末より事業を進めますが、彼にもまた苦難の道が続きます。出来上がった土地での塩害、水害、疫病など悩まされる中、平太郎は父の教えに導かれ、「神仏を尊ぶ事、成就の理也」と干拓の成就に土地の鎮魂を願い、大正4年に神社を建立します。これが当宮となる『児島湾神社』です。

 

10タラントン持つ人はその10タラントンを生かす人であり、このサイトによればそのことで表に出る人でもなかったようです。

 

「青海変じて美田となす」(藤田神社、同記事より)

藤田傳三郎は自身の目でその夢の実現を見ることが叶わなかったとのことですが、明治に入ってからの、一世紀先を見越したかのような「人類のため」「事業で得た金を社会へ還元する」といった社会のうねりはどのように広がっていたのでしょうか。

 

 

 

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行間を読む 124 生本伝三郎の計画とムルデルの科学的な調査

明治初期に計画された児島湾干拓事業に利根運河を手がけたムルデルが関わっていたことを、今回児島湾干拓資料室を訪ねて知りました。

ムルデルは1879年(明治12年)に来日し、あのヨハネス・デ・レーケと同様、あちこちの土木事業でその名を目にします。

 

ムルデルが児島湾干拓の計画も立てたのかと思ったのですが、よくよく 「明治時代から昭和にかけての干拓」を読むと、読み飛ばしそうな以下の文章があります。

明治時代に入ると、これまでお殿様に使えていた武士の人たちが仕事を失ったため、こうした人たちが農業で生活できるように児島湾の干拓が行われました。

 

東京新田を思い出しました。

誰が計画を立てたのでしょうか。

 

 

*「農業土木を支えてきた人々」より*

 

もう少しこの箇所を知りたくて検索したら、「農業土木を支えてきた人々 児島湾干拓ー藤田伝三郎の業績ー」という1985年に農業農村工学会の雑誌に掲載されていたものがありました。

 

「その発端」に以下のような箇所があります。

 児島湾干拓は、明治維新以降、食録から離れた旧岡山藩士族たちの画策がその発端である。

 明治10~11年を中心に、士族たちの団体で児島湾の干拓許可を願い出たものには数団体に登るが、そのうちでも旧藩の家老が中心となって3,000haの干拓を計画した伊木社、士族1,000余人を糾合して4,000haを計画した微力社が最有力で、両者が競願の形であった。彼らの計画は壮大ではあったが、技術、資金についての実力はなく、ただ計画面積や団体勢力の大きさを吹聴するだけとみられた。

 ときの岡山県令(知事)高橋五六は、これらの士族団体の実力を見抜いていたか、区々の計画の不利を悟ったか、それはともかく懇願は全て黙殺して、明治13年5月に県独自の雄大な計画を立て、その構想を政府に上申した。

 

それは、県勧業課員の生本伝九郎(岡山県山陽町の人)によるものだが、その概要は次のとおりであった。

 「児島湾内の旭川河口付近から対岸の鮑浦までの狭隘部に堤防を築き、進潮を止めれば、湾内の一万余町歩は一時開墾地となり、およそ米15万石の生産が可能で、士族1万人に恒産を授け得る。

 さらにこの堤防を利用して、児島半島東領の小串に通じる道路を開き、小串港を岡山の外港とする」

 この構想は、茫漠たる児島湾を一条の堤防で締切り、湾内を一気に干拓するという、まさに荒っぽい夢の干拓計画であった。なお、それから100余年を経た今日では、児島湾淡水化の堤防が完成し、堤防は重要な道路に利用されていて、当時の夢は実現した形になっている。(強調は引用者による)

 

それに対して、政府がムルデルを派遣して調査を行ったことが書かれています。

(引用文中では「ムルドル」)

 ムルドルの調査報告書は、6ヶ月にわたる正確な地勢、水位、河川氾濫、潮流などの測量を基にして立てられた干拓計画書であったが、その概要は次の通りである。

⚪︎湾内面積6,900町歩のうち低水面(干潮時の平均水位)より2尺(60cm)以上の干潟となる部分が1,800町歩、1尺以上が1,000町歩あり、干拓後の土地の低落(沈下)が1尺とみて、さしあたり1,800町歩の干拓が可能で、その他は時期を待つ劇である。

⚪︎干拓可能の部分は、倉敷川笹ヶ瀬川旭川の吐口を避けて1~4区に分けて築堤する。

(中略)

⚪︎将来干拓堤防を築く予定線上に拘泥堤(土砂、粗朶、石の投入による沈床)を築いておけば、土砂が堆積して有利である。

⚪︎旭川河口左岸の三橋から、湾内の高島までの堤防を築いて道路とし、高島に港の桟橋を設ける。

 このように、ムルドルの計画は、科学的な調査に基づき、付近の既墾地や航路などへの障害を避けた計画であって、後に地元の反対が言い立てた障害論を論破するに足るものであったし、事実この計画に従って実施計画が作成されたのである。

 

 

江戸時代以前からの干拓の歴史があるとはいえ、生本伝三郎氏が一世紀先を見越した計画を立てたことも驚きですが、さらにムルデルの「科学的な調査」の結果を受け入れ、生本伝三郎氏はその後資金集めに奔走したそうです。

 

一世紀半前、食録を離れた士族をどうするかという、大混乱の時代の雰囲気はどんなものだったのでしょうか。

 

そして、当時は「科学的」という言葉があったのかそれとも別の言葉だったのかわからないのですが、本質的なことを見抜ける人たちがいたことで、現代につながっているのですね。

なんだか今の世の中と重なり合いますね。

 

 

 

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行間を読む 123 児島湾の「明治時代から昭和にかけての干拓」

長い時間をかけて児島から児島半島になり、その児島湾をさらに明治時代から干拓が行われたことが「干拓から始まる岡山平野南部地域の成り立ち」(農林水産省 中国四国農政局 岡山南土地改良建設事業所)に書かれています。

 

明治から昭和にかけての干拓

 

 明治時代に入ると、これまでお殿様に使えていた武士の人たちが仕事を失ったため、こうした人たちが農業で生活できるように児島湾の干拓が行われました。

 政府はオランダ人のムルデルに児島湾を干拓できるかどうか調査を依頼し、ムルデルは児島湾を8つの区に分けた干拓の計画をとりまとめました。

 しかし、実際に工事するには多くのお金が必要となり、なかなか工事が開始されませんでした。

 そうした中、大阪の大富豪「藤田伝三郎」に工事をお願いし、伝三郎は自分のお金を出して工事を開始しました。

 当時はコンクリートも無い時代で、大きな石や木の枝などを使って堤防の土台をつくり、その上に土や石を積み上げ堤防を築いていきました。しかし、児島湾は底なしのような海で、堤防ができあがるとその重みで海の中に沈んでしまう大変難しい工事でした。

 その後、昭和23年に国(農林省)が工事を引きつぎ、昭和38年にすべての干拓事業が完成し、約5,000haの農地ができあがりました。

 工事が完成したばかりの干拓地は、土地の中に塩が混ざっていて、お米を作るのに大変苦労をしました。塩分を抜くために田んぼの中に溝を掘ったり、用水路をつくったりして、農業ができる環境を整えていきました。

 また、飲み水や生活に使う水は、井戸を掘っても塩水ができるため、溜めた雨水をろ過して使ったり、干拓地の外の村まで水をもらいに行っていました。今、児島湖の周りに広がる田んぼや畑は、昔の人たちの苦労や努力によってできた土地なのです。

 

児島湾干拓資料室でもらってきたパンフレットに「児島湾締切堤防の耐震化対策」があり、児島湖干拓堤防に被害をもたらすおそれの高い南海トラフ地震に対応できるように、令和元年度から令和12年度にかけて樋門・閘門そして締切堤防の耐震化工事が行われていることが書かれていました。

 

19世紀末のコンクリートが無い時代は「児島湾は底なしのような海で、堤防ができあがるとその重みで海の中に沈んでしまうという大変難しい工事」であったものが、半世紀後には締切堤防がつくられ、さらに数十年後には耐震化工事が行われるようになったのですから、やはり干拓事業も驚異的に変化する時代ですね。

 

そのパンフレットによれば、現在干拓地は「岡山市の農業の中心をなす穀倉地帯が形成されており、近年では水稲を中心として二条大麦のほか、施設なす、玉ねぎ、レタス、れんこんといった多様な高収益作物の栽培が展開されている」ようです。

 

 

それにしても子どもの頃は、祖父母の家に遊びに行くと岡山は平野が広がっていて広々した土地だと感じていたのですが、最近、もしかして「岡山」というのはほとんど岡と山しかなかったからではないかと思いつきました。

干拓の歴史を知るにしたがって確信に近いものになってきましたが、どうなのでしょうか。

 

 

 

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行間を読む 122 児島から児島半島へ

すでに築かれていた干拓地に淡水を供給するために締切堤防が造られたことについて、今回の散歩で頭の整理ができました。

 

その児島湾締切堤防の「堤防道路」を読むと、1974年に「堤防完成から15年を経て無料開放が実現した」と書かれていました。

ということは、1960年代、子どもの頃に叔父叔母に連れられて通過した記憶がうっすらとあるのですが、あの時にはまだ有料道路だったようです。

 

「堤防道路」にはその有料から無料化への経緯が書かれています。

当初の計画では、締切堤防の用途には農業用水確保のほか、国鉄宇野線の短絡線と岡山市玉野市間の短絡道路とすることが盛り込まれていた。しかし鉄道と道路は計画段階で放棄され、農林省が土地改良法に基づいで行う単独事業となった。農業用水専用の堤防となったことで、干拓農家組織である児島湾土地改良区が、締切堤防に加えて湖岸堤防の管理も単独で行う必要が生じた。改良区は管理費を捻出するため、締切堤防に(農業用水とは関係ない)道路を作るのであれば有料道路とすることを主張した。一方で改良区以外の関係者は、堤防は国の事業による公共の財産であるとして無料開放を主張した。

 

堤防完成から2年間の協議の末、1961年から有料道路として供用開始、しかし堤防完成でそれまで「陸の孤島」だった状態から解放されると期待した郡地区の住民による無料解放運動は高まり、無料突破デモを繰り返すなどの実力行使が行われた。各種選挙でも争点となり、岡山県議会でも協議されたが、岡山県岡山市、改良区のそれぞれの思惑が一致せず、なかなか無料開放には至らなかった。

 

「郡地区」というのは、甲浦郵便局バス停のあたりや八浜のあたりでしょうか。

あの静かで落ち着いた街が、私が子どもの頃に通過した頃はまだまだ「闘争」の真っ只中だったとは。

 

 

*児島から児島半島へ*

 

倉敷周辺には「島」がつく地名が多いのも干拓の歴史からきていることが少しずつ理解でき、そして昨年牛窓を訪ねた帰りに児島の親戚の家から水島工業地帯が左手に見えたのは、島と島の間で遮るものがなかったのだとつながりました。

 

ただ、それ以上「児島」が島だったことについてはわからなかったのですが、今回吉備の穴海というキーワードから、「岡山の風」という岡山の歴史をまとめている個人のブログにたどりつき、そこに児島の歴史が書かれていました。

一方、本州側では、吉井川、旭川高梁川の三大河川から流出した土砂の沖積作用で、潮流が緩やかな島々の間に干潟が発達しました。

奈良時代(8世紀頃)から河口の干潟、低湿地地域を排水改良した小規模な農地開拓が行われました。

が、児島はまだ瀬戸内海に浮かぶ島でした。

 

「吉備の穴海に浮かぶ児島・岡山」という絵図では、南側に大きな「児島」がありました。

この時代はまだ倉敷は小さな島で、現在の岡山市中心部は海のように描かれています。

 

岡山では岡山城下町建設後の1583年、宇喜多秀家による干拓が始まりました。(倉敷市中条辺り)

1618年、現在の倉敷市西阿知から粒浦辺りの干拓により児島湾は陸続き(児島半島)となり、西側が阿知潟、東側が静かな入海「児島湾」になりました。

 

「阿知潟」、あの海上交通の守護神を祀った倉敷の駒形山にある阿智神社とつながりました。

 

 

ところでこの児島半島を行政地区で見ると東側は岡山市、真ん中は玉野市、そして西側は倉敷市に分かれているようです。

児島半島先端にある郡地区は、この締切堤防道路がなければ岡山市内から他の市を越えてぐるっと迂回することになるので、たしかに「陸の孤島」といえそうです。

 

そういえば「瀬戸」の意味を調べていた時に、児島が児島半島になったことや、締切堤防などによって潮流が穏やかになったという記述を見つけました。

郡地区のあたりは潮流が速かったのでしょうか。

 

 

吉備の穴海の時代から干拓によって陸続きになり、そして締切堤防でつながった。

子どもの頃に見ていた風景は、今更ながらにすごい変化だったのだと思い返しています。

 

 

 

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散歩をする 329 児島湾干拓地を歩く

 2018年に児島湾干拓地を訪ねた時には、「彦崎駅から明治時代の干拓の跡を訪ねる」と書き、実際に駅の北側を流れる倉敷川の向こうに広がる干拓地を一時間ほど歩きました。

祖父の水田があった地域に似ていると感じましたが、あの頃はどこをどう歩いたらよいか見当もつかず、ただただ乗り継ぎに便利な場所を訪ねてみたという感じでした。

ですから、彦崎駅周辺を実際に歩いた記録さえ残していませんでした。

 

今回も児島湾の干拓の歴史の全体像がわからないまま出発しましたが、4年前に「藤田」という名前が干拓に深い関わりがあることを知ったので、地図で見つけた藤田地区を歩いてみたいと思いました。

 

地図を拡大すると、その地区の真ん中に何本もの水路がまとまったように見える場所がありました。その辺りを歩き、藤田神社を訪ねる。

公共交通機関では無理そうなので、児島湾干拓資料室を見学したあとタクシーを呼ぶことにしました。

 

 

*広大な干拓地はちょうど田植えの時期だった*

 

岡山市内から来るタクシーを待っている20分ほどの間、締切堤防の外側の海と児島湖を眺めました。気温は28℃ですが、快晴なので猛暑日ぐらいに感じました。

青い空と青い海、穏やかな瀬戸内海は私の海の原風景です。

 

タクシーが来ました。行き先を告げましたが、運転手さんもあまり干拓地内を走ったことはなさそうです。

昔は海岸線だった児島湖沿岸の道をしばらく走ります。

八浜に入ると、懐かしい風景が見えて来ました。2018年に両備バスに乗って児島湾締切堤防を通り、この八浜宇野港行きのバスに乗り換えましたが、乗り継ぎ時間に余裕があったのでこの辺りを歩きました。

水路があり、そのそばを静かな街が続いていました。児島湖ふれあい野鳥親水公園のベンチに座ってしばらく児島湖を眺め、快神社を訪ね、その小高い場所ぞいの街並みを歩きました。

「こころよし」神社と読むのですね。

とても落ち着いた街でしたが、町並み保存をしているようです。

 

懐かしい風景を過ぎるとすぐに第七区の干拓地に入り、広い水田地帯が広がり始めました。

「千両街道」、名前に惹かれてそこを通ってもらいましたが、正式名称は児島湾広域農道のようです。

 

ずっとまっすぐの道で、六月末でしたが両側に広がる水田は田植えが終わったばかりのように見えました。

半世紀前、祖父もこのくらいの時期に田植えをしていたのでしょうか。

点在する家は昔ながらのどっしりした日本家屋で、なんとも落ち着いた風景です。

倉敷川を越え、千両街道をまっすぐ進み、途中で左折して藤田寺のそばで降ろしてもらいました。

一本、用水路を越えて国道30号の向こうが、あの地図で見つけた何本もの用水路が集まっている場所です。

 

猛暑日のような暑さになってきたので、予定を変更して藤田神社を目指しました。

妹尾川沿いにはところどころ木陰があって、花も植えられていました。このあたりが第6区のようです。

帰宅してから改めて地図をみると、この妹尾川の上流が犬養木堂記念館のある庭瀬でした。

児島湾干拓地もあの佐賀のクリーク周辺のように大きな木や森がない印象ですが、中に入るとひんやりとする鎮守の森がありました。ここが藤田神社です。

そこからまたまっすぐな道を歩いて国道まで戻り、バスで岡山駅に戻りました。

 

*大阪の豪商「藤田伝三郎」*

 

この第6区あたりの地名は地図では「藤田」ですが、「干拓から始まる岡山平野南部地域の成り立ち」の「干拓の歴史」にこの経緯が書かれています。

 

 明治時代になると廃藩置県に伴い、家禄を奉還した旧士族たちの授産施設としての干拓による農地造成が契機となり、大阪の豪商「藤田伝三郎」によりこの地域での大規模干拓が開始されました。

 

 湾内約7,000haのうち、約5,500haを8工区に分けて順次着工し、昭和16年までの第1〜第5工区約2,970haが造成されました。昭和14年に着工した第6区(約920ha)はその後の農地改革制度に伴う藤田農場解体により一時工事を中断していましたが、昭和23年農林省がこれを引き継ぎ、昭和29年に完成しました。また第7区(約1,650ha)は昭和19年農地開発営団によって着工しましたが、昭和22年営団閉鎖に伴い農林省に引き継がれ、昭和38年に完成して現在に至っています。

 

*戦前にはほとんど干拓地ができていた*

 

2018年に訪ねた時には、JR宇野線が彦崎から早島・妹尾へと西側に弧を描いて通っているのが干拓地との境界なのだろうと見当をつけていました。ところが今回訪ねた児島湾干拓資料室にあった図と年表を見ると、この辺りは、江戸時代から明治維新までにすでに干拓されていたようです。

 

もう少し東側を見ると、彦崎駅から妹尾駅を結ぶように蛇行した水路が描かれていて、この東側が明治から大正、昭和にかけての干拓地のようです。

 

帰宅してから地図や資料を何度も見ていると、私は大きな勘違いをしていたことがわかりました。

児島湾干拓地というのは、八郎潟やそのほかの国営干拓地のように戦後の食糧増産のために締切堤防を造ってその内側に新たに干拓地を造成したのだと、子どもの頃から思っていました。

 

児島湾締切堤防の「概要」にその点が書かれています。

 児島湾干拓地の水不足、塩害、浸水などの問題を湾内に流入する笹ヶ瀬川倉敷川等の河口域を淡水湖とすることによって解決しようと1951年(昭和26年)着工、1959年(昭和34年)完成した。

ほとんどの干拓地は、戦前には出来上がっていたのでした。

 

 

千両街道の風景が、「新しく入植した」という感じではなく昔からの水田の風景のような印象だったのはそのためだったのかもしれません。

 

 

 

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事実とは何か  83 祖父の水田は干拓地だったのか違うのか

岡山と倉敷周辺の水田地帯がいつ頃干拓されて用水路名は何かが、「児島湾とその周辺地域の時代別干拓」にまとめられていました。

帰宅してからじっくりと見ようと写真を撮りましたが、その時点では祖父の水田は江戸時代か明治初期の干拓だろうと思い込んでいました。

 

児島湾干拓資料室を訪ねて2ヶ月がすぎてしまいましたが、やっとただひたすら川と干拓地を見に〜岡山から姫路へ〜をまとめはじめながら資料館の展示内容を見直していると、「もしかしたら干拓地ではなかったのかもしれない」とひやりとしました。

 

その地図では干拓地を「16世紀〜17世紀末/安土桃山時代〜江戸時代、元禄年間まで」「18世紀〜19世紀末/江戸時代中期〜明治維新まで」「19世紀末〜20世紀/明治〜大正・昭和」の3つの時代に分けて色分けしていましたが、祖父の水田のあたりはどれにも該当していないように描かれていました。

 

*「児島湾干拓の概要」*

 

「空からみた児島湾」という大きな航空写真の下側に、江戸時代から明治までの「児島湾の概要」がまとめられていました。

 

江戸時代には「沖新田」と「興除(こうじょ)新田」が開拓されて、沖新田の施工者は池田綱政で元禄4年(1691)に着工、興除新田は岡山藩主により文政4年(1821)に着工されたようです。

 

明治時代になると「一区」「二区」「三区・五区」が明治32年(1899)から昭和8年(1933)ごろまで藤田組によって、「六区」は藤田組と農林省によって昭和14年(1939)から、「七区」は農地開発営団農林省によって昭和19年(1944)からとあります。

 

 

祖父の水田はこの17世紀に開拓された沖新田よりさらに内陸側で、現在の倉敷駅の南側、そして美観地区で有名な倉敷川の南側ですが、そのあたりはまるで埼(さき)のように突出して干拓地とは違う色になっていました。

 

干拓地ではなかったのでしょうか。

 

*「吉備の穴海」から干拓の時代へ*

 

「年表」のパネルの写真を見直すと、もっと古い時代からの干拓の歴史がまとめられていました。

吉備の穴海(あなうみ)の時代 

現在の岡山・倉敷の市街地の大部分は海面下。二十余の島が浮かぶ吉備の穴海と呼ばれていた。吉井・旭・高梁川の沖積作用で次第に遠浅の海になり、これが後の干拓のベースになる。

 

奈良時代 

八〜九世紀

十二ヶ郷用水湛井堰造られる。

吉備の穴海で小規模な干拓が始まる。

中国山地で、タタラ製鉄が盛んになり、岡山の三大河川で大量の土砂が流出、吉備の穴海の堆積が進む。

 

平安時代 

1182年 妹尾兼康は湛井十二ヶ郷用水大改築。

1184年 源平の藤戸合戦当時、児島は本土と離れた島だった。浅瀬の海峡は藤戸の渡しがあった。

 

室町時代 

1492年頃  八ヶ郷用水疎通する。

 

大規模干拓の開始 

秀吉の高松城水攻めの堤防作りの技術をヒントに宇喜多秀家干拓を始める。

 

安土桃山時代

1582年  羽柴秀吉備中高松城水攻め。十二日間で約三キロの堤防を築く。

1585年  宇喜多秀家、酒津・倉敷間に宇喜多土手を築き干拓

     備前・備中の干潟地開発の始まり。

 

そして江戸時代には「寛永年間から慶応に至る240年間に約7,000haもの大干拓が行われた」ようです。

この年表を見ると、祖父の水田のあたりはいずれにしても昔は海底だったようなので、人の手による干拓地だと言えるでしょうか。

 

 

祖父の水田の歴史を知るのはなかなか簡単ではないですね。 

 

 

それにしても「水攻めの堤防造り技術をヒントに大規模干拓が始まる」なんて、またまた知らない水の世界が出てきました。

 

 

*この年表は「干拓から始まる岡山平野南部地域の成り立ち」(農林水産省国史国農政局 岡山南土地改良建設事業所)という資料が公開されていて、その中で読むことができます。

 

 

 

 

「事実とは何か」まとめはこちら

米のあれこれ 29 児島湾干拓資料室

あっという間に岡山に到着し、駅前から10時に出発する両備バス・玉野渋川特急線に乗りました。

都内は雨だったのに、岡山は快晴の真夏のような日射しです。

 

この路線は2018年に乗っていて2回目なので、沿線の広い平地の風景も記憶があります。30分ほどで、児島湾締切堤防を越えた所にある甲浦郵便局前バス停に到着しました。

甲浦は「こううら」と読むのか念のため検索したのですが、この地域の読み仮名は見つからず、高知に甲浦と書いて「かんのうら」と読む場所があるようです。日本語、難しいですね。

 

バス停から一旦、岡山市方面へ締切堤防沿いの遊歩道を戻ると、児島湾干拓資料室がある建物がありました。

1階が資料室になっているのですが、自由に出入りしてよいようです。スタッフの方も来館者もいなくて、室内の電気も来館者がつけるようになっているのか真っ暗です。本当に入っていいのかなとためらいながら点灯すると、目の前にはたくさんの展示物がありました。

 

「空からみた児島湾」「児島湾干拓の概要」「児島湾干拓と児島湾締切堤防」「周辺農業農村整備事業概要」「国営干拓事業一覧図」「記念碑・堤防」「干拓400年の歴史」「児島湾とその周辺地域の時代別干拓」「旧樋門・井戸跡」「年表」「干拓の工法」「児島湾干拓地の『土地と水』を守る事業について」

 

特に、干拓の行われた時代別に色分けされた地図と干拓地に張り巡らされている用水路の地図に、ああこういう全体図を探していた!と写真を撮らせてもらいました。

 

 

最初のパネルを読むと、これまで訪ねた干拓地の風景が思い出されました。

 

ごあいさつ 

 

 岡山平野の大部分は、古くから干拓によって造成された土地です。そこには、海に土地を拓いた人々の苦難と喜びの歴史が刻まれています。

 軟弱地盤や潮とたたかいながら堤防を築く技術、悲しい人柱の話、農業を営むために水を求める苦労、そして新しい農地での収穫の喜び・・・。

 こうした人々の歴史を伝える記録や資料も散逸しつつあります。「児島湾中央管理事務所」新設を機に資料の収集、保存と同時に、これをできるだけ多くの人々にご覧いただくために本「干拓資料室」を設けました。

 まだまだ不備ではありますが、今後充実に努めたいと考えておりますので、みなさまのご理解、ご協力をお願いいたします。

 なお、資料室開設にあたりまして、重要な資料や写真等を提供してくださいました方々にお礼を申し上げます。

 

 中国四国農政局児島湾周辺土地改良建設事務所

 

 

いよいよ、祖父の田んぼの歴史を知ることができそうです。

 

 

 

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行間を読む 121 「一色町のうなぎの歴史」

東海道新幹線から見る車窓の風景の変化にはいろいろとありますが、その中でも印象深いのが浜名湖周辺の養鰻池の減少です。

空き地や太陽発電のパネルが広がった風景が増えました。

 

たしか1990年代には、JR東海浜松工場あたりを過ぎると浜名湖までずっと池の風景だったような記憶です。

池には酸素を送る機械でしょうか、水を攪拌しているのが見えました。

あの頃はウナギが苦手だったので「鰻を食べたい!」という食欲からではなく、ここが気になったのは当時行き来していた東南アジアのある地域の海岸線に日本向けの海老の養殖場が造られていたことと重なったからでした。

 

その後、ちょっと高級なお店でウナギを食べる機会があり、その美味しさに食わず嫌いだったことがわかりました。毎年、日本中でウナギに狂喜乱舞するのはこの味だったのかとわかったのですが、その頃には絶滅の心配が出てきたのでした。

 

*「一色町のうなぎの歴史」*

 

さて、あの池に酸素を送る設備名はなんというのだろうと検索していたら、兼光グループという会社の愛知県一色町のうなぎの歴史について書かれたものを見つけました。

あの吉良吉田駅と碧南駅を結ぶ幻の名鉄線があればまわってみたいと思っていた地域で、地図で四角い水色の場所がいくつも描かれています。何の養殖だろうと気になっていたのでした。

 

愛知県の西尾市(旧一色町)は、三河湾に面した温暖な気候に恵まれ、古く明治37年頃から鰻の養殖が始められた。なお、平成23年4月1日に西尾市幡豆郡三町(一色町吉良町幡豆町)が合併した。今日のような大規模な養鰻の産地化が飛躍的に進んだ背景は、昭和36年から矢作古川の河川水を利用するための養鰻専用水道の整備と、昭和40年代後半からのビニールハウスによる加温養殖技術の導入によるものである。県内には西尾市(旧一色町、旧吉良町)を始め弥富市高浜市碧南市豊橋市田原市にも産地をもつ。県全体の鰻生産量は、昭和58年から平成9年までの間は連続で、平成11、12、21年にも日本一の生産量を誇っている。西尾市(旧一色町)は県内の7割以上を占めるとともに、平成21年の国内生産量22,404トンのうち6,250トンと3割を占めている。市町村単位では、第2位の鹿児島県の志布志町や第3位の同県大崎町を大きく引き離して、西尾市(旧一色町)が昭和58年から現在まで全国第1位の生産量を誇っている。

 

ここで養殖業が大発展するきっかけになったのは、意外にも伊勢湾台風です。伊勢湾、三河湾周辺の被害が特に甚大だったが、人と家屋以外にも低湿地の水田に壊滅的な打撃を及ぼした。一色町も、そうした地域の一つであり、これを機に町は水田事業からウナギ養殖へ基幹産業の転換を進める。たまたま近くに、古くからの養殖先進地があったことが、それを思いつかせ、また手本にもなったとされています。

 

昭和36年から整備が始まった全国的にも珍しい河川水を利用した「養鰻専用水道」のポンプ場の整備と各養殖池までの送水管約98kmの敷設と敷設替えを行った。養鰻専用水道の敷設が幡豆養鰻漁協と幡豆地中養殖漁協とで合意され、昭和36年に工事に着手した。

国、県、町の助成を得ながら養鰻水道設備の第1期として、昭和36~41年度には事業に約1億円で5ヶ所のポンプ場と送水管役35kmを整備した。続く第2期の昭和44~46年度には、事業費約6億6千万円で第1期に整備した5ヶ所のポンプ場を廃止し、新たに現在の古川送水ポンプ場と送水管約28kmを整備し、養鰻水道網がほぼ完成した。その後も送水管の敷設と老朽化に伴う敷設替えを行いながら、昭和50年度に送水ポンプ3台を全て更新、平成元年度にはポンプ場に自動制御設備、中央監視装置と送水管末端に圧力モニターを設置して養鰻水道の無人化を図り、維持管理費の大幅な削減と利用料金の据え置きを実現した。平成7年度に送水ポンプ1台をインバーター式に更新して送水圧力を安定化させ、送水管からの濾水を防ぐことで更に維持管理費を削減した。平成9年度に自動制御設備をこうしいし、平成14年度には自動制御装置の機能向上のための更新を行った。この「養鰻専用水道」は、矢作古川の清浄な河川水を養鰻用水として利用することで、鰻が本来生息している天然河川により近い環境で育てることができるようになり、各養鰻業者の養殖技術の均一化と鰻の品質向上に多大な効果をもたらすこととなった。また、養鰻水道を通じて、すべての養鰻業者が繋がることで団結心が育まれ、一致団結して対処するという気風もうまれ、養鰻水道が精神的な柱になるという副次的な効果も出ている。養鰻水道の用水は元来農業用水の余剰水を利用していることから、降雨が少ない年や時期には、用水の確保が課題となっていた。養鰻経営の安定化のためには、この課題の解決が重要と考え、平成12年4月に「養魚用水の水利使用」が愛知県知事から許可された。

 

浜名湖周辺の養鰻池の風景が減ったのは輸入が増えたからかと思っていたのですが、主力の生産地が変化していたこともあったのですね。

 

30年ほど前はまだ私自身が正義感に溢れていた年代だったこともあり、こういう文章を読んでも頭に入ってこなかったのですが、最近は自分の年表とつながってきて「ああ、そういう時代だったのだ」と興味深いものです。

 

そして、「養鰻水道」「濾水」とか、また知らない水の世界が広がりました。

 

 

 

 

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世界はひろいな  54 車窓の風景が好き

6月下旬、九州への二泊三日の遠出から戻って、一週間後にまた出かけました

前回とは違って低気圧が通過中のため、都内の早朝は土砂降りの予報でした。5時過ぎに自宅を出る時にはちょうど雨足が弱くなった時で助かりました。品川に向かう電車の中で、また激しい雨でしたが、もうここからは雨に濡れることはありません。

 

6時37分ののぞみ5号に乗りました。1週間前はほんとうにガラガラでしたが、やはり緊急事態宣言が終わると人出が増えるようで、指定席の窓側の席はほぼ埋まっていました。

 

多摩川を越えるあたりで小雨になり、三島の手前ではすっかり雨があがって夏山姿の富士山がくっきりと見えました。下の方には雨上がりのもやがかかって水墨画のようです。

藤枝を過ぎる頃にはすっかり晴れになりました。

またお天気に恵まれた散歩になりそうです。

 

一週間前に瞬きを惜しんで眺めた新幹線の往復の車窓の風景ですが、またずっと顔をつけて見ていました。

田植え直後だった水田はわずか一週間で、すっかり緑の芝生のように柔らかい稲が育っています。

またずっと水田を目で追いました。ほんとうにどこも水田地帯は美しいですね。

矢作川を渡ると、右岸側はこの時期に代掻きをしていました。6月も終わりという時期にも田植えの準備をする場所があるのかと考えていたら、またあっという間に大高トンネルを通過してしまい見過ごすという痛恨のミスです。新幹線はほんと、速いですからね。

 

ああ、一瞬たりともぼっとしていてはせっかくの風景を見逃してしまうと、また集中していたら今まであまり目に入っていなかった場所が見えてきました。

名古屋を過ぎ、木曽三川を渡る手前に、庄内川が流れその次に新川がありますが、その右岸側に水田が広がっていました。歩いてみたくなります。

 

沿線の風景をもっと眺めていたいのですが、9時46分には岡山駅に到着しました。

 

 

*車窓の風景の記憶*

 

まるでおもちゃかジオラマのような新幹線の車窓の風景は、同じ場所をながめていても全く飽きることがありません。

たぶん、何百回と乗っても飽きることはないかもしれないと、最近思うようになりました。

 

幼児の頃からこの「車窓」の風景をずっと眺めるのが好きだったのだと、記憶をたどっています。

 

私が幼児の頃に父が自家用車を購入しました。その後開通した東名・名神高速道路の沿道の風景など、断片的に残っています。

車に乗るとずっと窓の外を眺めていましたから、山を切り通して造られた道路脇の崖まで、飽きることもなく眺めるのが好きでした。

おそらく最初は「酔うといけないから窓の外を見ていないさい」とでも言われていたのでしょうか。

今でも車酔いとは無縁で、ただただ変化する風景が好きなのは変わりません。

 

車窓の風景が好きなのだと自覚したのが、1980年代に東南アジアで暮らしていた時でした。

月に1~2回、難民キャンプから首都へと休暇がてら行き来していたのですが、日本人には見慣れた水田地帯の風景なのにハイウエイの路肩に収穫した穀物が天日干しされていたり、停車するとお菓子や果物を売りに来る人が集まったり、小さな街の学校や教会、市場など、日本とは雰囲気が違いました。

今も、その路線の車窓の風景を、ビデオで巻き戻しているかのように思い出します。

当時もずっと車窓の外を眺めていたのでした。

 

 

*風景に飽きることがない*

 

 

「散歩」を意識するようになってからはさらに、通勤途中の車窓の風景でさえも飽きることなく見ています。

地図で確認し、実際に歩いてその地形を実感するようになると、同じ風景なのに今まで目に入っていなかったことが見えてきたり、いつの間にか定点観測になっているのか、変化に気づくという面白さもあります。

 

その能力が何かに生かされているかというとほとんどなさそうですが、この年齢になっても「世界はひろいな」と退屈することがないのは、このおかげかもしれないと思うようになりました。

 

 

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