散歩をする 359 JR釜石線に乗って釜石駅から新花巻駅まで

一日目に釜石市の中心を流れる甲子(かつし)川の水の美しさにほっとしました。

 

東日本大震災後では釜石市も甚大な被害を受けて、ニュースではしばしば映像を目にしました。

釜石市の「被害状況及び取り組み状況について」(2012年8月)には、車窓から見た真新しい場所の当時の写真が載っています。

津波が遡っていった川が、この甲子川でした。

この遠出であちこちのその10年後の風景を見て、ようやくこうした資料を読めるようになりました。

 

10月下旬に釜石を訪ねたあとしばらくして、「ポツンと一軒家」という番組が岩手県だったので録画して見ました。

戦後から山を開拓し牧畜を営んでいた方の家で、そこも「地割」の住所なのかなと、その暮らしの歴史を興味深く観ました。

そこに釜石市から訪ねてきた娘さんが映り、当時20代だった一人息子さんが津波に流されて亡くなられたことが伝えられていました。甲子川のそばを避難されている途中だったようです。

 

今現在の甲子川の近くの風景を見ていなかったら、感情が渦巻いて、途中でこの番組も観続けられなくなっていたかもしれません。

人が言葉にするのにも、それを受け止めるのにも時間が必要ですね。

 

釜石線の沿線の風景*

 

三陸地域の美しかった風景に名残惜しい気持ちで、14時20分発の釜石線快速はまゆり号に乗りました。

 

乗車の直前に、釜石駅前で救急車が搬送の準備をしていました。

どこの病院に搬送されるのだろうと気になりました。地図では、ここからしばらく沿線にはせいてつ記念病院、釜石厚生病院、県立釜石病院、そして釜石バイパス沿いには国立病院機構釜石病院と総合病院が集中しているようです。

 

列車が走り出してから甲子川の水面を眺めつつ、病院の建物を追っていましたがいつの間にか通り過ぎていました。

今まで散歩をしたところでは、最近の総合病院は要塞のように大きな建物ばかりだったのですが、県立釜石病院までどの病院も沿線の住宅に隠れて見えない高さだったようです。

 

松倉駅のあたりから、静かな住宅地になりました。大きなお寺がありました。

正福寺、水田!

山の紅葉、山あい美しい!

そうこうしていると、車掌さんが検札に回ってこられました。「快速はまゆり」には自由席と指定席がありましたが、自由席も各車両数人ぐらいでした。

 

旧釜石鉱山事務所、陸中大橋

ヘアピンカーブ、圏外

鉱山鉄道、トンネルまた山、トンネル

地図でみて驚いた区間を走りました。1990年代初頭に軽井沢へ行くのに乗った信越本線横川駅から碓氷峠を越えたことを思い起こしたのですが、それとも違って、列車はスイッチバックすることもなくヘアピンカーブを過ぎました。

 

早瀬川へ

足ヶ瀬のあと急にひらけた、水田!美しい村、黒瓦、川、稲刈り

岩手上郷、美しい、黒牛

遠野から見える山、落ち着いた街

遠野で結構乗車

猿が石川沿いへ、美しい!

北上川支流、

堤防沿い、桜の紅葉、綾織、美しい、水田地帯、農業用水タンク、低コスト圃場整備

黄金、少し渋い黄金

荒谷前、広い水田地帯

鱒沢、大船渡方面からの道、サイクリングロード

柏木平の先で猿が石川は西へ、

小さな地図にない川、水田!黄金

宮守、大きな集落、

遠くに滑り台のような坂道が見える、14度だが寒い、

岩根橋の手前、ダムを経て再び猿ケ石川

東和発電所、川幅広くなる

晴山、ひらけた

土沢の手前で川は西へ、山の間

見事な棚田

貯木、ため池、白鳥飛来

 

あっという間に1時間37分の車窓の風景が終わり、新花巻駅に到着して ただひたすら川と海を見に〜岩手・青森編〜の散歩が終わりました。

 

北上川流域や三陸海岸の風景を見ることができ、そして北上山地の海側は小さな沢や川があるくらいで、北上山地からの水は内陸側へと流れて北上川馬淵川になる様子を見ることができました。

そしてさまざまな規模の水田がありました。

 

過去から現在へと、生活の変化を少し垣間見ることができました。

 

 

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記録のあれこれ 112 田老駅と新田老駅

いつか三陸鉄道に乗ってリアス海岸を見たいと思った理由の一つに、田老の防潮堤がありました。

 

2011年3月11日、本棚を押さえながら田老の堤防のことも思い出していたのは、東日本大震災以前に吉村昭氏の「三陸海岸津波」を読んでいたからでした。

 

いつ頃この本に出会ったのか記憶になく、今は手元にないので詳細を確認できないのですが、読んだ当時は海が見えなくなるほどの高いコンクリート製の堤防を造ったことがなんだか非現実的な話のような印象を受けたのでした。

どこか何かが自分の中に引っかかっていて、それ以来、田老地域の記事があると読んでいました。

防災の研究をされている大学の先生がたも関わっていたと記憶していました。

 

堤防と田老の街はどうだったのだろうと震災後のニュースを追っていると、あの堤防が破壊されたニュースがありました。

 

宮古市のホームページに以下のように書かれています。

1896年(明治29年)の明治三陸津波と1933年(昭和8年)の三陸津波により壊滅的な被害を受けた田老地区(旧田老町)。

これを受け、防潮堤の整備は昭和三陸津波の翌年(昭和9年)から始まり昭和54年に整備が完了しました。

町全体を囲む総延長2,433メートル、高さ10メートルの長大な防潮堤はかつて「万里の長城」と呼ばれていました。

 

また、旧田老町では、定期的に津波避難訓練が行われたり、避難場所・避難経路を示す表示が多く設置されるなど津波に対する取り組みがなされていました。

2011年(平成23年)3月11日に発生した東日本大震災による津波は、この高さ10メートルの田老防潮堤を超え、田老の町を飲み込み、甚大な被害を及ぼしました。

「田老の防潮堤」では、東日本大震災により甚大な被害を受けた田老地区の現状や当時の状況を「学ぶ防災ガイド」により知ることができます。

 

私が非現実的のように感じた高さをはるかに越える津波が現実になったのでした。

 

 

*新田老駅ができた*

 

今回、三陸鉄道に乗る計画を立ててから地図を眺めていて、「新田老駅」が田老駅の近くにあることに気づきました。

その間はわずか300mほどです。

 

以前はなかった駅名のような気がしましたが、この300mは高台への道だろうと想像がつきました。

三陸鉄道のホームページの駅紹介を読むと、「2020年5月18日に三陸鉄道リアス線41番目の駅として開業」とありました。

 

さて、この新田老駅の直前から全てを目に焼き付けるべく、車窓に集中しました。

新田老、堤防の上、学生

田老、山あいへ、田老川沿い、美しい!

写真も撮らず、メモを取るのも惜しい時間でした。

 

東日本大震災で破壊された堤防も残り、その向こうにさらに高い白い防潮堤ができています。

見学に訪れている学生さんたちの姿が見えました。

 

田老の町を歩きたい、そう思って計画を何度も何度も考え直して見ましたが、今回の2泊3日ではどうやっても無理です。

今回はいつかの日のための予習ということで、車窓からの散歩になりました。

 

これだけの被害に、もうその地域には住めないのではないかと思う状況でもまたそこでの暮らしが続いていく。

吉村昭氏もそのあたりに何か考えることがあったのではないかと、勝手に想像しています。

 

 

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散歩をする 358 久慈駅から三陸鉄道で釜石へ

久慈川沿いにもう少し歩いてみたいな漁港のそばを歩いてみたいな、どの辺りであのほたてが採れて、どんな暮らしがあるのか歩いてみたいなと後ろ髪を引かれながら、三陸鉄道に乗りました。

 

最近、もう一度1980年代に2ヶ月ぐらいかけてタイをまわったように、あちこちをゆっくりと歩きたいという思いが強くなっていますが、忙しい日常に戻らなければなりません。

 

 

10時39分に久慈駅を出発して13時57分に釜石駅に到着するまで、ここから31駅あります。1日目に乗車した区間の一部を反対側から見たらどんな風景なのかも楽しみです。

 

*久慈から宮古へ*

 

久慈駅からはまだ数人程度でしたから、海が見える席も余裕で座れました。

市街地を離れると落ち着いた住宅

山あい紅葉、黄色

トンネル、沢から川へ

陸中宇部、黒瓦美しい、右に水田! 稲穂が残る

陸中野田、水門と堤防、海まで水田

古い堤防の向こうに堤防、松の植林

十府ケ浦(とふがうら)海岸、水田、堤防、ちょっと海

野田玉川、高台、海、西行の庵

川、漁港、道路、小さな川、トンネル、

赤川、橋、鮭、停車してアナウンス、下安家漁港、津波区間の表示

堀内(ほりない)駅、目の前漁港、

大沢橋、山側、赤い橋、 190m、停車、トンネル

 

久慈川からはまた地図に載っていないような小さな沢がところどころあり、それでも水田がありました。

高所恐怖症というほどではないのですが、高い場所ではゾクゾクしてしまいますが、すごく高い場所に架けられた橋の上で列車が停車して名勝である放送がありました。

海岸ぎりぎりのもう少し低いところに道路が見え、漁港もありました。

堀内駅を過ぎるとまた停車して、今度は山側の高いところに自動車用の赤い橋が見えました。

久慈駅からここまで、鉄橋はこの2カ所でした。

 

白井海岸、山の中に停車

ここから内陸へ、山の中に水産工場、ウニが有名というアナウンス、お寺、川がきれい

ぐるりと山に囲まれている譜代(ふだい)、水田、消防署、立派な家

川、西から北へ、きれい、長いトンネル、眠くなる

沢!またトンネル、水田跡、水田、集落、谷戸

 

海岸といっても三陸海岸の発達した段丘を実感する場所で、水産工場も山の中にありました。

このあたりも地図では「地割」の表示です。

 

田野畑手前、川、きれいな駅舎、行違い待ち、一人乗車して3人に

水門、ひらい川、トンネル、海岸沿いへ、トンネルの合間に海

島越(しまのこし)駅、赤レンガ風の駅舎、水門建設中、切牛という地名

トンネル、川、トンネルまた長い下りのトンネル

岩泉小本、水田!赤い水門、女性が一人乗車

駅前、「命を守れ」の碑、津波防災センター、水田、ゆったりした川、トンネル、

摂待、水田!摂待川美しい、長いトンネル11時47分、釜石まであと2時間、ちょうど山の向こうは盛岡のあたり

よくこれだけの鉄道を建設した、トンネルを抜けるたびに美しい川

 

久慈駅から約1時間、こまめにメモを取ったおかげで、写真を合わせると記憶が蘇ってきました。

最初は数人だったのですが、学生さんが降りて、途中はもう一人の旅行者と二人だけでした。そのうちに、地元の女性がポツリポツリと乗ってきたのでした。

そして次第に沢ではなく小さな川が増えてきました。

 

新田老、堤防の上、学生

田老、山あいへ、田老川沿い、美しい!

さばね、長いトンネル

電波届きにくい

一ノ渡、山の中、家二軒、美しい沢、トンネル

宮古山口病院、山口団地

 

宮古から釜石へ*

 

一日目に乗った懐かしいJR山田線が並走して、宮古駅に到着しました。

ここで20分停車時間がありました。

 

今まで2輌に数人という贅沢な空間でしたが、ここからけっこう乗る人がいました。

なんだか一人でボックス席に座るのは居心地が悪くなり、列車の一番後ろの窓から立って風景を見ることにしました。

本当は、ここが特等席ですけれど。

 

宮古、結構乗車、うるさい、一番後ろ独占

保線すごい

宮古から釜石へ、一昨日の記憶を巻き戻しているみたい

鮭孵化場? 久慈へ107キロ

荒川川、豊間根手前、美しい

大きな声の会話、うるさい、陸中山田、新しい電柱

後ろにきた青年、地元の人のよう、うるさかったのだろう

川が本当にない、波板海岸まで、道路よりかなり高い位置

踏切防護協力店、波板海岸駅前

大鎚、復興住宅

両石、復興住宅

水海川!

 

「荒川川」は、メモをするときの入力間違えかと思ったら、本当にありました。

津軽石川の支流で、豊間根駅の先で左手から流れてくる川でした。

一日目には反対側の車窓を見ていたので気づかなかった川です。

 

車内で大はしゃぎをしているグループがいて、その会話から車窓の風景に集中しようとした1時間20分の記録になっていました。

 

 

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生活のあれこれ 5 さまざまな生活史

久慈川沿いの飲食店が続く細長い路地を歩いている時のメモに、カトリックの小さな教会があったことを書き留めていました。

帰宅してMacの地図を最大限に拡大してみましたが、載っていません。

検索したら、カトリック仙台教区の久慈教会だとわかりました。福島から青森まで、「53小教区(教会)と8巡回教会から成り立っている」とのことです。

 

けっこうカトリック教会があるのですね。いつ頃、どのようにこの地域にカトリックの信仰が広がっていったのでしょう。

そんなことがまた気になります。

 

さて久慈駅に戻ってきて、10時39分発の釜石行きの列車まで時間がまだあります。

駅の売店から良い香りがしてきて、ふらふらと誘われてしまいました。

もしかしたら今日もお昼ご飯を食べそびれるかもしれないと、ここで食べることにしました。

 

パッと目についたのが「ホタテうどん 500円」でした。

大きなホタテが一個、どんと乗っかっています。美味しい!

カウンターで食べていると、その向こうで私よりはひと世代ぐらい上でしょうか、調理してくださった女性二人がおしゃべりをし始めました。

女性がおしゃべりなのはどこでも同じかもしれませんね。

ただ、お二人の話し方がとても物静かで、相槌の打ち方も穏やかで、ホタテうどんを食べながら聴き入ってしまいました。

こんな静かなおしゃべりもあるのかと。

静かな声だったことと方言のため話の内容はわかりませんでしたが、なんだかBGMを聞いているような心地よさでした。

 

この雰囲気は、東南アジアの辺境の島で暮らしていた時に似ています。女性も男性も皆、静かに静かに話すのでした。

 

話し方ひとつにも個人差だけでなく、それぞれの地域の雰囲気があるのかもしれませんね。

 

 

*「もう一度細かな事実を出して行く」*

 

ところで1月になってしまったというのに、まだ2ヶ月前の遠出の記録が終わっていません。

最近は2泊3日の遠出だと、思いつくことがどんどんと増えて1ヶ月近くあれやこれやと書いています。

 

何故なのだろうと思っていたのですが、知らないことが増えてきたからとも言えるかもしれません。

たとえば一杯のホタテうどんを前にして、ホタテはどのように成長していくのかという生物学的な生活史から、それを獲る人たちはどんな生活をしているのか、どんな流通の歴史があるのか、目の前の調理をしてくれている女性はこの地域でどんな風に生きてこられたのかと、生活史やその歴史への関心が次々と広がっていきます。

 

最近、また村井吉敬さんや鶴見良行さんをよく思い出すようになりました。

 

村井吉敬さんも30代頃でしょうか、インドネシアに留学した時に書かれた本を読み返すと軍事政権への政治的な批判も書かれていて、それが「バナナと日本人」「エビと日本人」と日本の生活から社会問題として考えることになったのだろうと思います。

ただしだいに、搾取とか人権抑圧といった表現は使わない書き方になっている印象です。

 

歩けば歩くほど、気づいていなかった細かな事実が気になり、あまり結論めいたことは言えなくなる。

でもお二人もまた、関心がどんどんと深まっていく楽しさにわくわくされていたのかもしれないと想像しながら、なんだかいつも一緒に歩いているような気分になっています。

 

 

 

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もし、あの頃、こうしていれば 4 時代と状況を見誤らずにいたら

久慈川のそばの遊歩道に満ち足りた思いで、駅に向かいました。

 

ゆったりと拡幅された国道は「銀座通り」で、街の中心でもあるようです。駅まではもう一本川よりの細い路地を歩いてみました。

飲食店が続いている道で、朝まだ10時ごろだったのでどれくらいの賑わいになるのかわからなかったのですが、飲んべえには楽しそうな道です。

 

その途中に、産婦人科医院の看板がありました。お産はきっと、対岸にある岩手県立久慈病院でしょうか。

 

久慈病院のHPを読むと、以下のように書かれていました。

産婦人科医師の減少により、岩手県北の産婦人科医療を二戸病院に集約しました。そのため久慈病院の常勤医師は1名となり、正常分娩のみの対応とさせていただいております、できる限りストレスの少ない、自由な体位での分娩、いわゆるフリースタイル分娩をおこなっています。ハイリスク分娩は密接な連携のもとに二戸病院に搬送させていただいています。

 

当院では帝王切開をおこなっておりません。妊娠経過中やお産の最中に、医師よりハイリスクと診断された場合は、連携を取っている県立二戸病院へ紹介や救急搬送いたします。予定で帝王切開が必要な妊婦さんの場合はご希望の病院へ紹介いたします。(妊婦健診は32週まで受診可能です)

 

二戸に分娩施設があるのかともう一度地図見直すと、たしかに県立二戸病院が斗米駅金田一温泉駅の間にありました。

ここ久慈市からだと直線距離だと40~50km、間に北上山地をはさんでいますから国道281号線、340号線そして395号線と山道を、妊婦健診や救急搬送を車で行くのでしょうか。

 

都内だと、産科診療所であっても分娩施設であれば自分のところで帝王切開まで対応していますし、さらに超緊急の対応が必要な場合には近隣の周産期医療センターへ早ければ搬送決定から1時間以内で搬送しています。

 

もちろん、現場では一人一人のお母さんと赤ちゃんが無事に分娩を終えることを目標にこうしたシステムが築き上げられて来たのですが、それだけでなく、産科崩壊と言われる時代に、さらに超緊急にも完全を求められ、そして満足のいくお産まで求められた、思い出すだけでも胃が痛くなるような時代があったからでした。

 

こちらの記事でsuzanさんが八戸周辺の様子を教えてくださいました。ありがとうございます。

馬淵川沿いにある八戸赤十字病院だけでなく新井田川沿いに八戸市民病院があり、ドクターヘリもある周産期センターでした。

冬は八戸は雪は少ない(青森の中では)ですが道はスケート場のように凍ります。みなさん、凍った道の運転は上手ですね。ちなみに八戸市民病院にはヘリポートがあり、どうしても長距離搬送が必要(弘前大や岩手医大)などは自衛隊が飛んでくれます。

 

周産期医療ネットワークシステムと言っても地域によって、あるいは世代によっても全く異なることを指している言葉だと改めて思います。

 

 

*80年代からのあの「熱」はどこへ行ったのだろう*

 

「できる限りストレスの少ない、自由な体位での分娩、いわゆるフリースタイル分娩」という表現に、80年代終わり頃からの「自然なお産」とか「主体的なお産」といった運動の名残を感じてしまうのですが、世代によってはそういう背景も知らないのかもしれませんね。

 

助産師の手でお産を(産婦人科医がいなくても分娩介助できる)「産む力」「生まれる力」とか院内助産とか、挑ませるためのファンタジーやプロパガンダが吹き荒れていたあの熱かった時代が嘘のようです。

 

その行き着いた先は無事に生まれればそれでいいですという出産のもっとも根源的な願いを叶えるために、途方も無い地域差が出てしまったのではないかとこの30年ほどを思い返しています。

 

分娩施設が減少したのはさまざまな理由があるとは思いますが、過疎化というよりは、地域から産科医の先生方が撤退せざるを得なくなったあの時代の雰囲気があり、助産師が時代を見誤ったことが大きいという思いがますます強くなって来ました。

分娩の本質を見失わずに、それぞれの地域の生活を考慮した周産期看護を軸にしていたら、もう少し違った方向になっていたのかもしれません。

 

でもひと世代ふた世代違う同僚に話しても、「え〜そんなことがあったのですか」と、なかなかその時代の雰囲気というのは理解できないようです。

 

 

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水のあれこれ 204 もう一つの久慈川

八戸線から久慈駅に到着したのが9時2分で、三陸鉄道の乗り継ぎに1時間半あります。

散歩の計画を立てるときに、久慈市のどの辺りを歩こうかと地図を眺めました。

久慈駅2本の川が合流する場所の近くにあります。

まずはその川合の先端を目指そうかと思ったのですが、川の名前を確認したら久慈川でした。

 

久慈川といえば2019年8月下旬に訪ねた久慈川をまず思い浮かべていたのですが、ここにも久慈川がありました。検索した限りでは、この二つの久慈川だけのようです。

 

そしてその久慈川左岸にも、地図には「地割」で表示されている場所が書かれています。

どんな風景なのでしょう。川のそばを歩くことにしました。

 

久慈川のそばを歩く*

 

駅前から少し歩くと歩道もゆったりと広い道に出ました。国道281号線で、久慈市から盛岡市を結んでいるようです。

少し歩いたところで山側の道へと左に曲がると、道の駅がありました。国道沿いではなく小さな路地に面した道の駅に不意打という感じでしたが、もしかしたらこちらが旧道でしょうか。

ふらりと立ち寄りたくなるのを抑えて、先を急ぎます。

 

久慈市の名前も10年前にニュースで耳にしましたが、このあたりは昔ながらの家や商店がありました。

目指すのは久慈大明神です。

山肌と道に挟まれたような場所にありました。久慈川水の神様かと想像したのですが由来はわからず、石碑には「寛政2年」(1790年)に建てられたようなことが書かれていました。

 

ここから右手の久慈川へ向かいました。

一旦、橋の上で上流の方を眺めると、なだらかな山が見えました。左岸側もなだらかな山です。

水のすぐそばを歩けるようになっていて、その遊歩道を歩きました。

水は澄んでいて、草が生い茂る中をゆったりと蛇行しています。

その水のすぐそばには、川に向いて座れるベンチがところどころにありました。

散歩をしている人とも時々すれ違って、会釈をしました。

こんなに近くで川をぼーっと眺めながら過ごせるなんてうらやましいものです。

 

こちらの地名の由来はわからないのですが、もう一つの久慈川の「名称の由来」のように「近くに小さき丘あり。かたち、鯨鯢に似たり」を思い起こさせるような風景でした。

 

 

*「東日本大震災 久慈市の記録」*

 

この久慈川津波が来て大きな被害があったと思うのですが、その河原に新しいベンチが造られていることが印象に残りました。

 

東日本大震災 久慈市の記録」が公開されていました。「久慈市の被害状況」では津波の波高8.6m、河川遡上4kmとありますが、「浸水範囲」の写真を見ると川合よりも海側だったようです。

そしてあの陸中夏井駅のあたりから久慈湾へと流れ込む鳥谷川の河口付近の湊町のあたりも浸水しているようです。

平成23年3月11日(金)14時46分ごろ、三陸沖を震源とするマグニチュード9.0の地震が発生し、久慈市でも震度5弱を観測しました。地震により市内全域で停電と断水が相次ぎ、14時49分には大津波警報が発表。約40分後、大津波が沿岸部に襲いかかりました。

何度も何度も街を襲い、漁港や工場、家屋などを飲み込んだ津波

信じられない、信じたくないような惨状が沿岸部に広がりました。

家屋の被害は1,248軒と書かれていました。

 

八戸駅からの三陸海岸の海岸線がなだらかな地域は小さな沢はあっても大きな川がない風景でしたが、久慈駅の周辺には川の流れがありました。

久慈駅に到着したときには、なんだか久しぶりに川を見た気持ちになりました。

 

久慈川右岸側はお寺や昔からの家が続く旧市街地の佇まいで、対岸の「地割」の住所がある地域は新市街のようにみえましたが、どんな歴史や生活が川とともにあったのでしょう。

 

 

 

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行間を読む 134 さまざまな「行間」の視点がある

中学生や高校生の頃は歴史が苦手でした。

嫌いなのではなく授業はそれなりに面白かったのですが、歴史を暗記することがとても苦手でした。

自分の記憶力が優秀でないから苦手なのだろうと、サクサクと歴史を暗記できる人はすごいと思っていました。

 

年号を暗記することはなんとかできても、誰々と誰がどういう関係で何が起きたということを覚えるのが不得手で、それは今でも他人の人間関係を覚えるのは苦手なので小説やドラマも苦手です。

 

20代の頃から大型書店の棚から棚を眺めて、どこにどんなジャンルの本があるかわかるぐらいになったのに、意識的に避けていたのが歴史のコーナーでした。

一冊買っても、きっと途中で挫折することがわかっていましたから。

 

「歴史」を違った視点から読めるようになったのが、吉村昭氏や三浦綾子氏の小説でした。

「今の社会をたどっていくと、ここに何か変化のきっかけがある」という視点があったからかもしれません。

時間の方向を過去から現在でなく、現在から過去へと変えてみたら歴史が面白く感じるようになったとでもいうのでしょうか。

ただ、まだ自分が関心がある分野をちょっと垣間見る程度の「歴史の学び方」でした。

 

最近は、地図で見つけた川やそこにあるものを実際に訪ねることで、どうしてなのだろう、何があったのだろうどんな生活があったのだろう、時代の変化はどんな感じだったのだろうと関心が広がり、あの高校生までに学んだ歴史や年表がようやくつながってきました。

 

暗記したそばから忘れていったように感じていたのですが、案外、あれはあれで基礎になっていたのだと感じるこの頃です。

 

記憶力はもっと落ちたけれど、それを上回る理解の仕方は積み重ねられてきたと思うことにしましょう。

ただ、正しさや理想だけを求めすぎないように、今年もブログに記録するときには注意していこうと思います。

 

あれ?年頭の挨拶のようになってしまいました。

読んでくださる方、コメントやはてなスターやブックマークをくださる方、ありがとうございます。

 

 

 

 

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境界線のあれこれ 103 三陸海岸

本八戸駅から久慈駅までの八戸線は、陸中中野駅で内陸部に入るまでトンネルもほとんどなく、ずっと海岸線を走っていました。

ところどころ八戸線に並行して海側に道路があって、地元の車が通過しています。

地図の通り、この区間は海岸線の凹凸が少ない区間の印象でした。

 

ふと、この辺りも三陸海岸と呼ぶのだろうかと心もとなくなりました。

イメージの三陸海岸はリアス海岸とは違っていました。

 

 

三陸海岸の範囲*

 

Wikipedia三陸海岸によると、「青森県南東部の鮫角(八戸)から岩手県沿岸を経て宮城県東部の万石浦石巻市)まで総延長600キロメートル余りの海岸」とありました。

 

そして「地理」には「三陸海岸という言葉が指す範囲にはいくつかある」として、以下のように書かれています。

・A. 尻屋崎〜阿武隈川河口:陸奥・陸中・陸前の3つの令制国の太平洋側の海岸線の全延長を指す立場。

・B. 鮫角〜万石浦北上山地が太平洋と接する海岸線を指す立場。

・C. 鮫角〜金華山北上山地が外洋に接する海岸線を指す立場。

 

Aはなんとなくわかるのですが、BとCの「太平洋と接する」と「外洋と接する」の違いとなると地図を穴があくほど見つめてもよくわかりません。

Aは、字面の通りに「三陸」を捉えた範囲であり、気象学や気候学の分野で「三陸沖」と言う場合に対応する三陸海岸である。Cは、北上山地東海岸に辺り、日本海溝沿いの地震による津波の直接波の被害地域である。Bは、Cの範囲に牡鹿半島仙台湾側を含めた範囲であり、海岸地形や人文地理学的な共通性を根拠にしている。一般的にはBの範囲が三陸海岸と見なされている。

 

この辺りは実際にそこで生活してみないと、その境界線がさすものはわかりにくのかもしれませんね。

 

*地理的な特徴*

 

その三陸海岸の北側の方は比較的なだらかな海岸線で、岩手県の途中から典型的なリアス海岸になっているのは不思議でしたが、その答えも「地形」に書かれていました。

 

三陸海岸隆起準平原である北上山地が太平洋と接する海岸線である。三陸海岸は全体として隆起地形であるが、隆起の速度の違いにより、岩手県宮古市を境に南北で異なる様相を呈する。

 

岩手県宮古市より北では、陸地が大きく隆起し、海岸段丘が発達している。そのため、段丘崖が海に接して海岸線が単調となっており、港に適した場所が少ない。また、段丘崖が波の浸食によって変化に富んだ海蝕崖となっている場所もあり、北山崎や鵜ノ巣断崖に代表されるような景勝地が多い。段丘面は浸食によって既に深い谷が形成されているところも多いが、八戸市周辺などではなだらかな台地状を呈しており、農業や牧畜などが盛んである。

八戸線からの車窓の風景が思い出される文章です。

 

読んでなんとなくわかったのは、「隆起の速度の違いにより、岩手県宮古市を境に南北で異なる様相を呈する」の部分と「海岸段丘が発達している」ぐらいで、自分が生きている地面のことを理解するのはほんと大変ですね。

 

今回の散歩の1日目に乗った盛駅から宮古駅区間は典型的なリアス海岸でしたが、久慈駅から宮古駅までの三陸海岸の風景も楽しみです。

 

 

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米のあれこれ 30 廻米

Wikipedia八戸港の歴史を読んでいたら、初めて見る言葉がありました。

「廻米」です。

検索するのにも漢字は一発で転換できず、「廻船」の「廻」と「米」で入力しながら、もしかして米をどこかに船で運ぶとか、「年貢米」に近い言葉かもしれないと想像しました。

 

東北の冷害に強い米の栽培は最近になってからだろうというイメージだったのですが、IGRいわて銀河鉄道と青い森鉄道八戸線の沿線に、沢の水を利用した小さな水田がたくさん見えました。

 

岩手や青森で米を作り始めたのはいつ頃からだろうと気になっていたのですが、馬淵大堰とこの地域の稲作を検索していたら、「700年以上続く米作り」というニュースを見つけました。

「八戸・『すまもり中世の田んぼクラブ』が稲刈り 700年以上続く米づくり伝える」

(八戸経済新聞、2020年10月20日

 

 地域おこし団体「すまもり中世の田んぼクラブ」が10月18日、八戸市南郷島守の田んぼで稲刈り作業を行った。

 同クラブは2014(平成26)年から活動を開始。700年以上続くと言われる米づくりを多くの人に伝えることを主な目的に活動を続けている。

 南郷島守地区での米作りの記録は、南部師之(もろゆき)公が八戸市根城に城を構えた1334年にさかのぼる。6人の有力農家が年貢を納めた記録が残り、巻(まき)地区と沢代(さわしろ)地区には鎌倉後期の水田跡と思われる場所があることがわかっているという。中世の水田跡が確認されているのは、岩手県一関市、大分県豊後高田(ぶんごたかだ)市と、南郷島守地区の3カ所のみ。島守地区では中世時代から現代まで絶えることなく米作りが続いてきたと考えられている。

(以下、略)

 

地図で確認すると、八戸市南郷島守地区は新田川の上流の山間部のようです。

700年以上前の水田地帯、どんな風景だったのでしょう。

 

 

*廻米(かいまい)*

 

Wikipedia八戸港の歴史に書かれている「寛文4年(1664年)には八戸藩が江戸へ廻米し」は米を江戸におくっていたという意味でよさそうで、17世紀には相当な収穫があったのでしょうか。

 

廻米 かいまい

 

江戸時代に遠隔地へ米を廻送すること、またその米をいう。江戸幕府は、1620年(元和6)初めて江戸浅草位に御米蔵を建て、よく年大阪に御蔵奉行(おくらぶぎょう)を置いて諸国の廻米を収蔵した。諸侯も、大阪、江戸などの蔵屋敷へ貢租米を廻走して、市中の米問屋を通じて換金に務めている。江戸、大阪などの中央市場へは多量の米が廻送されたが、それらは、天領などからの御城米(ごじょうまい)、藩からの蔵米(くらまい)のほか、商人が農民からの貢租余剰米を買い付けた納屋米(なやまい)もあった。江戸幕府は、米の輸送の安全のために厳しい廻米仕法に務めたので、城米の品質や員数などが厳重に点検された。廻米には、海路が多く用いられたが、河川や駄馬も併用された。交通の整備とともに廻米は増加し、市場に米の供給が過剰となった享保(きょうほう)(1716~36)以降、幕府はしばしば江戸、大阪への廻米を制限して、米価の調節を図った。

コトバンク日本大百科全書(ニッポニカ))

 

日本史で概ね同じような内容は習ったような気がするのですが、なぜ「廻米」という言葉を初めて見たのでしょうか。

 

それにしても、米が足りなくなったり余ったり、昔も今も大変ですね。

ヒトの歴史の中での少し前という意味ではつい最近まで、農家でさえ十分に米を食べられない時代でした。

そのわずか半世紀後には、海外からの支援米をまずいと捨てるような時代になったり、ダイエットのためにお米が敬遠されたり、「廻米」という字からなんだかめまいがするような時代の変化を思いました。

 

 

「米のあれこれ」まとめはこちら

 

医療介入とは 108 子宮の中に残さず、妊娠を終了させる

私の手元には30数年前の助産婦学校時代の教科書(当時は助産婦が正式名称)と、サブテキストとして使用していた「最新産科学ー正常編ー」「最新産科学ー異常編ー」だけはとってあります。

 

当時は本当に最新の知識だったのですが、いま読み返すとむしろ子宮内がブラックボックスだった時代に近い内容になっています。

 

最近の産婦人科医療の進歩は、10年ひとむかしどころか、2~3年もすると変化しています。

 

紙の色が変わっていく昔の教科書を読みながら、子宮の中に残さないための方法や考え方の移り変わりを思い出して、何がその変化のきっかけだったのだろうと思い返しています。

 

 

*癒着胎盤への対応を思い返す*

 

それだけ劇的に妊娠に伴う子宮内の変化が解明されてきたというのに、その妊娠を終了させるための体の仕組みもまだまだわかっていないことだらけだと痛感することばかりです。

 

たとえば赤ちゃんが生まれると数分ぐらいで、つるりと胎盤が剥がれて娩出されて分娩が終了します。

学生の頃の「胎盤娩出」の知識から、最近では、体の中の巧妙な仕組みに畏敬の念でしかありません。

それでも、胎盤が剥がれずに人為的に処置が必要な場合があります。

 

医師が子宮内に入れた手で用手剥離(ようしゅはくり)を試みることで、たいがいは出ていますが、中には残ってしまうことがありました。

 

いつ、どのタイミングで、どのような処置をするか。

時代の変化だけでなく、施設間でも考え方には差があるとは思いますが、癒着胎盤ひとつとってもだいぶ対応の仕方が変化しました。

 

90年代に勤務していた病院では、できるだけ早く娩出を試みていました。

それまで胎児を育てていた大事な胎盤もお産が終われば体にとっては「異物」でしかないので、そこからの感染を起こさないことが優先順位としては高かったのだろうと思います。

流産手術や人工妊娠中絶手術のように掻爬法で一気にかき出すことはできないのかなと「素人的」に思ったのですが、分娩直後の子宮は穿孔(せんこう)を起こしやすいという話を医師から聞いた記憶があります。

胎盤鉗子でそっと試みて、うまくいかなかった場合には抗生剤の点滴をしながら待機していました。

 

大雑把な記憶ですが、2000年代に入ることには「抗生剤も無しで、そのまま退院させて1ヶ月ぐらいまで自然待機」という方法や、抗がん剤を投与して人工的に胎盤を萎縮させて娩出を図るようなことも耳にするようになりました。

 

案外と感染を起こさないという知見が積み重なったのでしょうか。

そして耐性菌の問題もあって、抗生物質の使用を最小限にするための試行錯誤の時代に入ったこともあったのでしょうか。

 

「分娩直後の子宮は穿孔しやすい」ということがわかったのも、そこには膨大な症例報告に学ぶしくみからなのかもしれません。

 

*子宮の中に残さず妊娠を終了させる*

 

妊娠初期の流産も、最近は自然に排出されるのを待つようになってきました。

 

これもここ20年ほどの妊娠判定薬経膣エコーによって、妊娠の診断がより正確にできるようになってさまざまなことがわかり、どこまで待つか、待てば自然に排出される割合がどれくらいあるといったデーターが積み重ねられたからなのだと思います。

 

そして、「生理がこないから妊娠と思って受診」していた時代だと、産婦人科医でも妊娠7~8週まではあまり診察する機会もなく、ブラックボックスだったのかもしれませんね。

 

待機していて自然に子宮内容(胎のう)が排出される機序もすごいと思いますが、やはり中には子宮内容除去術(掻爬)が必要な場合もあるようです。

 

「子宮の中に残さず、妊娠を終了させる」ための診断と技術。

産科医の先生方の判断をそばで見ていて、すごいなとその点にも畏敬の念を抱くようになりました。

 

 

 

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