行間を読む 149 「防府地形の変遷」より

山口県では干拓地を「開作」と呼ぶことを知り、ちょっと見てみたいくらいの気持ちで出かけたのですが、防府市内の水田の歴史をたどるだけでも簡単ではないですね。

 

防府市防府図書館の、「防府史料 第六十九集 御園生翁甫著 『防府地形の変遷』」が公開されていました。

古代から現代までの防府の地形がどのように変化したのかが書かれていて、特に近代の開作について、四十ヶ所以上の開作の歴史が書かれていて圧巻でした。

 

佐波川河口の西浦は塩田だったようですが、戦後になって新たな干拓計画として拡張されたことが書かれていました。

藩制、二百七十年間に、防府には、ざっと千五百町歩の干拓地ができた。といっても、それが、全部そんな短期間に営まれた沖積層でなくて、実際は、遠い遠い祖先以来の累積であった。それを悉く処理し尽くしたる現代に於ては、唯頼むは、大海湾に注ぐ佐波川と、横曽根川の沖積作用のみである。佐波川尻にては、既に、西浦新開作地先き海面に、百七十町歩干拓の計画をたて、今年より実施することとなっている。

 

昭和27年(1952年)に書かれたもののようですから、佐波川河口の水田地帯はその年から干拓が始まったのでしょうか。

 

*「非科学的の憶説が流伝して、先入観をなしているのに公憤を持った」*

 

さて、その「防府地形の変遷」は、それぞれの開作の歴史が記録されているというだけでも圧倒されたのですが、冒頭の「緒言」を読んで惹きつけられたのでした。

 

 防府の地貌は予が物心ついてからでも、かなりの変化があった。況んや、遠き神代の昔、我等の祖先が、居を占めてから、茫々三千年、其の変遷の甚だしかりしことも、蓋し想像に余りあるであろう。

 現代の防府は、悉く、累代先人の拮据経営になれる積極的の開発築造と修理固成の結集であらねばならぬ。予等防府に育まれ、先人の集積遺産をそっくり受け継いで大なる恵沢によくしているものとしては、出来るだけ、郷土生成の経過を明らかにし、先覚郷土開発の偉業を顕彰して、報本反始の誠を致したいと念願しているのである。

 予はかような心構えで、この書の編纂に着手したが、いざ筆を執ることとなると、文献の備わらない大内氏以前のことを各地区にわたって細論するは、到底不可能であると言った方が正直なところであろう。それにもめげず、勇を鼓して、之を公表する所以は、従来防府の地形に就いては非科学的の憶説が流伝して、先入観をなしているのに公憤を持ったことと、一方文学博士渡辺世祐氏が、明治の中葉に発表されたる他に、学者の注意を惹かなかったから、隅々防府開作地のことなど記するものあるも、実地に疎く、且つ、又土地の古老にすら、知られていない開拓地が処々にある。

かようにして、百年河清を待つような態度をとることは、学問進歩の途でないと考えたから、先ず隗より始めるという気持ちになったのである。

 

読み方や意味がわからない言葉が多いのですが、私が生まれる数年前の日本というのは、こんな難しい表現が多々使われていたのですね。

 

それにしてもこれが書かれた1952年は、市民の心はなかなか混迷を抜け出せない時代であり、黒を白に白を黒にの時代。

まるで9割がイメージで作られたかのような「現実の社会」、言い換えれば思い込みと思いつきの主張から社会が動き、それが間違っていても訂正されない世の中から目が覚めるというのは、そういう時なのかもしれませんね。

 

吉村昭氏がフィクションを書くために、人に会い、徹底した史実調査にこだわった、あるいは、もう一回細かな事実をきちんと出していく、あわてて理論とか構造を立てる必要はないという鶴見良行氏も、この時代を経験されていたからだったのかもしれない、とこの緒言の時代背景が少し見えたような気がしました。

 

ところで、この「防府地形の変遷」は、ところどころ空白のページがありました。

のちに新たにわかったことと置き換えるために非公開になったのかはわかりませんが、もしそうであれば、「科学的」に重きを置いた著者であれば本望とも言えるでしょうか。

 

 

 

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米のあれこれ 36 防府の開作と塩田

今回の散歩で一日目に防府を訪ねで宿泊する計画にしましたが、当初は防府が目的ではありませんでした。

 

山口県の「開作」「新開」といった地名を地図で追っている時に、最初に目にしたのが現在の新山口駅の南側、椹野川(ふしのがわ)河口の干拓地がまず目に入りました。

真ん中に、水路と貯水池のような施設があり、近くに「新開バス停」がありました。

ここを訪ねてみたい。

そこから次第に山口県内の沿岸部を眺めていくと、公共交通機関でなんとか行けそうな干拓地の候補がいくつか出てきました。

 

その時点では防府市はまだ地図で見る限り、「内陸部」に見えたのでした。

 

ところが、せっかく宿泊するなら市内を歩いてみようと地図を眺めているうちに、防府の広い市内の大半が干拓地のように見えてきました。

三田尻」「新田」「伊佐江」といった地名と地形を辿ると、その南側はおそらく海だったのだろうと思えてきます。

航空自衛隊防府北基地陸上自衛隊防府分屯地のあたりは、島と島の間の遠浅だった場所のようにも見えます。

そしてその西側の、佐波川河口には新しい干拓地のように見える水田地帯もあります。

 

2泊3日で訪ねるにはどこに泊まりどのようなルートにするか、いくつか計画ができました。

防府に泊まれば瀬戸内海沿岸の風景も見ることができ、干拓地もいくつか見ることができそうです。

それで決めたのでした。

 

 

*元々は塩田のための干拓地だった*

 

航空地図で見ると防府市の沿岸はほとんどが工場地帯のようで、防府北基地の東側にわずかに残る程度です。

干拓後の農地から宅地化が進んだ場所なのだろうかとその沿岸部を追っていくと、三田尻塩田記念産業公園がありました。赤穂の塩田と同じく、製塩のための干拓だったのでしょうか。

 

Wikipedia防府市の「地理」にも書かれていました。

山口県のほぼ中央に位置し、南を瀬戸内海に面する。市の北西から瀬戸内海に向かって一級水系佐波川(さばがわ)が流れ、山口県では数少ない、河口付近に開けた平野部に都市が成り立っている。さらに沖合側はかつての塩田の跡が干拓されて平野部を形成している。

 

たしかに、地図で山口県の瀬戸内海沿岸を眺めていると、「数少ない、河口付近に開けた平野」として目に入ってくるのが防府市でした。

 

倉敷周辺の干拓地の場合は、遠浅の海を干拓したあと塩に強い綿を育てて、そしてようやく水田になったようですが、この防府干拓地にはどんな歴史があるのでしょうか。

 

 

*「三田尻塩田の歴史」*

 

防府市のホームページに、「260年にわたり日本の産業を支えた三田尻塩田」の説明がありました。

瀬戸内海の干拓と入浜式塩田

 

防府市は、波の穏やかな瀬戸内海の沿岸にあり、近世以前の市域では揚浜(あげはま)塩田、入浜(いりはま)系の古式入浜の2つの製法で製塩が行われていました。

萩藩は瀬戸内海沿岸で干拓を行い、元禄12年(1699年)に築造された古浜をはじめ、中浜、鶴浜、大浜、江泊浜、西浦浜が「入浜式塩田」として築かれ、「三田尻六ヶ所浜」と呼ばれていた。

 

他の地域と同様に、戦後になって塩田が廃止されたようです。

近代の三田尻と塩田の廃止

 

明治38年(1905年)、塩専売法の施行に伴い、鶴浜の東南部に「三田尻塩務局」、同42年(1909年)には中浜に「専売局三田尻試験場」、大正7年(1918年)には向島に「三田尻専売支局直轄工場」が設置され、三田尻は広大な塩田とともに産業の一大拠点としての役割を果たしました。

戦後、外塩の輸入と「流下式製塩法」の進歩による内地塩の過剰生産のため昭和34年(1959年)に「塩業整備臨時措置法」が成立して防府市内の塩田全ての廃止が決まり、江戸時代から260年にわたり日本の塩業を支えた「三田尻六ヶ所浜」の輝かしい歴史に幕が降ろされました。

 

Wikipediaの「防府市」の年表と併せてみると、塩田の周辺には戦前から工場や陸軍飛行場などができ始めたようです。

 

六ヶ所浜のうち西浦浜はおそらく現在の防府北基地の西側の「西浦」で、比較的新しい干拓地かと思ったのですが、開作と塩田の歴史をもつ場所でした。

そして六ヶ所浜の中では唯一、干拓地から農地へと転換された場所でしょうか。

昭和34年ごろからどのように塩田の塩を抜いて、水田へと変えたのでしょう。

 

興味が尽きないのですが、なかなか歴史をたどるのは難しいですね。

 

 

 

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水の神様を訪ねる 60 佐波川と防府天満宮と佐波神社

予定していなかった円筒分水工と分水路を見ることができ、そして三角形のスッとした天神山を背景に流れる佐波川の堤防沿いの美しい風景にまた歩く元気が出てきました。

 

せっかくここまできたのだから、計画の段階では「体力と気力が残っていたら行こう」と思っていた防府天満宮と佐波神社まで足を伸ばすことにしました。

 

防府天満宮まで天神山の山裾に水路があり、それを辿ることにしました。

取水堰からの水路が緩やかに蛇行しながら流れています。山側には古い住宅が並び、反対側には畑や比較的新しい時期の家々が続いています。

おそらく何世紀も生活の中で大切に使われてきたのだろうと思われる水路に、街路樹の新緑が映えて、開出のあたりの水田地帯と、この水路沿いを歩けただけでも防府を訪ねて良かったとしみじみ感じ入ったのでした。

 

防府天満宮

 

1kmほど歩くと暗渠になったあたりで、天神山の南端に建つ防府天満宮に登る坂道がありました。

息が切れそうな石段を登り切ると防府天満宮の境内で、防府市内を一望できる場所がありました。地図では平地のように見える防府市ですが、目の前にあの桑山があり海は見えません。

そのはるか向こうにまだ山があるように見えましたが、その間には干拓地と海があるはずですからあれは瀬戸内海に浮かぶ島々でしょうか。

 

防府天満宮、三大天満宮としては知っていましたが、実は正確な読み方を覚えていませんでした。今回、防府を訪ねる計画を立てて、「ほうふ」と濁らない読み方だとはっきり覚えました。

 

天満宮ですから学問の神様ですが、佐波川の旧河道はこの天神山の目の前を流れていたのではないかと地図から想像していたので、もしかしたら水の神様も担っていらっしゃるかもしれないと御由緒を探しましたが、やはり学問の神様のようです。

 

また急な石段を降りて、しばらく歩いたところに、「一等水準点(第1728号)」がありました。

ここに設置されている標石は、「水準点」といい標高が正確に求められています。

水準点は地盤沈下の調査や道路・下水道などなどの測量の基礎となるので、私たちの日常生活に深い関わりがあります。

水準点を大切にしましょう。

散歩をするようになって水準点や水準原点に目がいくようになりましたが、まだまだ勉強が足りず、さらに突き詰めて学ぶということが足りなさすぎると反省しながら歩きました。

 

防府天満宮から山際の道を選んで歩くと、静かな古い街並みがあります。

周防国分寺の敷地は少し坂になった場所があって砂利が敷き詰められているのですが、そこを杖を持ってリハビリでしょうか、歩いている地元の方もいらっしゃいました。

きっと子どもの頃からこの奈良時代からの史跡で遊び、生活してきたのだろうと想像すると、なんだかかなわないなあと思いました。

 

道路に、「史跡境界」という石が埋め込まれていました。

生活の場としての土地と、史跡を守るための境界線でしょうか、初めて見た標識でした。

 

 

*佐波神社*

 

地図で佐波神社を見つけたときに、佐波川と何か関係があるかもしれないと思い計画に入れました。

 

周防国分寺の前から道なりに東へと歩くと、少し高台になり、その下に水田がありました。地図に載っていた水色の線は、想像していた「水路」というよりは小川に近く、草むらを流れていてなんとも美しい風景でした。

その水田の前から石段でさらに小高い場所に登ったところに、佐波神社がありました。

 

Wikipediaの写真よりは、もう少しこじんまりと感じる境内です。

水の神様というよりは、「国府にその国の諸神を祀る惣社(総社)」だったようです。

「建立時期は不詳であるが周防国府設立後と考えられている」

ここから南東300mほどのところに、周防国府跡があります。

そのころは、その近くまで海岸線だったのでしょうか。佐波川はどんな流れだったのでしょうか。

 

石段の間にすみれの花が咲いていました。どこから来て、どうやってこの過酷な場所で花を咲かしているのでしょうか。

 

先ほどの小さな道に戻り、ふと道端を見ると「旧山陽道」という表示がありました。

なんだかかなわないなあと思いながら、防府駅の近くへと戻りました。

 

周防国府跡のあたりまで来ると、小さな水の流れが滔々と流れる用水路になっています。

帰宅して改めて水の流れを確認すると、佐波川からの取水ではなく、山側から湧き出た水のようでした。

奈良時代にもこの辺りの水田を潤していたのでしょうか。

 

 

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水のあれこれ 245 佐波川の円筒分水工、そして防府総合用水

佐波川の堤防のそばの水路は、東西へと3本の水路になっていましたが、一旦、暗渠になり、しばらく上流へと歩くと4本の水路が見えました。川側の1本は他の3本よりも少し高い位置を流れています。

なんとも複雑な分水路です。水路のそばには、古い農家のどっしりとした家が並んでいました。

その向こうに、三角の天神山が見えます。

その麓にある佐波川河川敷公園まで、ここからは堤防の上を歩くことにしました。

 

土手を上ると、広々とした河川敷です。

堤防の内側には鮮やかな芝桜が植えられていて、堤防の上は遊歩道として整備されていました。

日傘をささなければめまいがしそうなほどの日差しの中、堤防の上を歩いていると、「円筒分水工 600m」と表示板がありました。

 

地図で気になっていた、河川敷の丸い水色の部分はやはり円筒分水工だったようです。

俄然、元気が出てきました。

 

遠くに取水堰が見えます。真っ直ぐな堤防の道を、美しい佐波川の流れに元気づけられながら歩きました。

 

 

*「防府総合用水の円筒分水工」*

 

佐波川周辺総合案内」に、「佐波川自転車道シバザクラ)」「じゃぶじゃぶ池」「佐波川右岸多目的広場」「上右田児童遊園」「佐波川河川敷緑地」「円筒分水工」「桜本児童遊園」とあり、両岸が公園として整備されているようです。

 

円筒分水工を上から見ることができる場所に、説明板がありました。

防府総合用水の円筒分水工

 

防府総合用水の歴史

 佐波川は「人が死ななければ梅雨が明けない」と言われるほどの暴れ川で、毎年必ず死者を出していましたが、防府総合用水の整備、上流のダムの建設により、死者を出すことはなくなりました。

 防府総合用水は、佐波川に架かる4ヶ所の堰を統合する計画で、昭和26年から昭和33年までの8年間で施工されました。

 この円筒分水工は、6本の水路に分水し、複雑な関係を生じていた地域の水問題を抜本的に解消しました。

 

円筒分水工とは

 野菜や米などと作るためには水が必要です。昔から限られた水を求めて争いが絶えませんでした。このため、悩まされてきた水問題を、その源から抜本的に改め、より正確に分配するために考案された施設が「円筒分水工」です。

 円筒分水工は、円筒の中心から水を吹き出させ、円筒の周囲に設けた仕切りの間隔(各地域の耕作面積)によって、公平に水を供給する仕組みとなっています。

 また、この円筒分水工の直径は、現存する中では『日本一の規模』を誇ります。

 

 名称:防府総合用水

 完成年度:昭和33年

 形式:逆サイホン(全周越流型)

 外円筒:34.0m(日本一の規模)

 内円筒:30.0m

 受益面積:約1.500ha(当時の面積)

 所有者:防府土地改良区

 

 

 

佐波川から取水された水が、「乙井手18%」「青井手37%」「一本樋1%」「仁井令5%」「植松38%」「古祖原1%」の水路へと目の前で分水されています。

私が生まれる少し前に完成したようですが、当時の風景はどんな感じだったのでしょう。

 

そして佐波川は「人が死ななければ梅雨が明けない」といわれるほどの暴れ川であったとは。

Wikipedia佐波川に「洪水」の説明がありました。

古来より佐波川は何度も洪水を起こしており、重源が木材運搬のために118ヶ所築いたとされる関水(堰)も、殆どが洪水被害により失われている。近代で特に大きな被害を出した洪水としては、国土交通省佐波川水系河川整備基本方針が、1918年(大正7年)7月の台風により各地で堤防が決壊して3,451戸が浸水した洪水と、1951年(昭和26年)7月に梅雨前線により堤防17ヶ所が決壊して浸水家屋3,397戸に及んだ洪水を挙げている。ただし、1972年(昭和47年)昭和47年7月豪雨以降は、河川氾濫による浸水被害は出ていない。

 

私が子どもの頃から大きな水害のニュースが少なくなったのは、記憶間違いでもなさそうです。

 

 

開作の歴史をたどり用水路と水田を見ることを楽しみにこの地を訪ねてみたのですが、実際に歩いて出会うこうした一枚の説明板に、また知らない世界が広がります。

一本の水路にも、その歴史の重みに打ちひしがれるような感覚に陥るようになりました。

 

数年前からの散歩も思えば遠くに来たものです。

 

 

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水のあれこれ 244 防府市内の水路沿いに歩く

1日目の出だしから大幅に計画変更になり、13時23分、予定よりも2時間ほど早く防府駅に到着しました。

日差しが強く、まるで初夏のようです。

さっそくお昼ご飯を食べようと駅周辺を歩きましたが開いているお店がなく、疲れ切って近くの公園のベンチに座りました。非常食のおにぎりを持っていてよかった、と涼しい木陰に座って食べました。

今日は予定通りには行かない事ばかりですが、街中にゆったりとした公園があり、落ち着いた街に元気が出てきました。

 

地図では北側に山、南側へはずっと干拓地の平地が続いているように見える防府駅周辺ですが、実際には干拓地との間に小高い場所がありました。

そこが桑山で、最初の目的地の防府郷土資料館があるはずです。

桑山の間が切り通しになっていて、広い道路が山の向こうへと続いていました。

駅に到着した時から上空を航空自衛隊の訓練機が何機も飛んでいたのですが、この山の向こうに防府北基地があるようです。

 

歩く人はほとんどいない坂道の途中に郷土資料館がありました。せっかく時間ができたので、まずはここで防府干拓について整理できたらいいなと思い立ち寄りましたが、なんと臨時休館でした。

本当に思うように行かない一日目です。

 

*水路に誘われて、「開作」の跡を歩く*

 

ふと、その桑山の麓を流れる小さなコンクリート張りの水路が目に入りました。その水路を辿ってみたら、地図で気になっていた場所に行けるかもしれません。

途中は防府市役所の敷地内だったので迂回してその先へと歩いてみました。

 

幹線道路沿いの歩道を歩いていると、途中から先ほどの水路と別の水路が合流する場所があり、「民話大鯰発祥の地」という立札が水路のそばにありました。

そのすぐ先に、今度はまた分水路があり、一方は山に沿って小さな公園になっています。

道路の反対側にはところどころ水田が残っていました。

「伝説 和尚鯰(おしょうなまず)」の説明板に、昔、この辺りは清水沼と呼ばれる大きな沼があったようです。

 

地図では桑山の西側に、何本も水色の線が集まったような場所がありました。

そこを実際に見ることができました。

 

防府駅から1kmほども離れていないのですが、先ほどの山に囲まれた風景から、西側は広々とした住宅地が広がっていました。

 

 

*佐波から佐波川へ*

 

 

計画の段階で地図を見ていた時に、防府市に流れる大きな川が佐波川(さばがわ)で、その河口付近に「開出」「泥江」といった地名を見つけました。このあたりが「開作」に関連した場所なのだろうかと興味が湧いて何度も眺めているうちに、天神山の近くから何本もの水路が佐波川から扇状に出ているように見えてきました。

 

現在の「佐波川河川敷公園」があるあたりにその取水堰があって、この辺りの水田を潤しているのではないか、その水路沿いに歩いて佐波川まで歩く、これが防府市での「時間と体力があったら行こう」という計画でした。

 

用水路があちこちに残る住宅地を北へと向かって歩いていると、突然、目の前が開けるように水田地帯になりました。

藁を燃やしているかのような香ばしい香りと藤の花の香りと、あちこちからさまざまななんとも良い香りが漂ってきます。

緩やかに蛇行した細い道は白っぽい土で、そのそばを勢いよく水が流れています。

新しい家も多い集落でしたが、倉敷の祖父母の家のあたりを思い出させる道でした。

水田の真ん中でしょうか、小さなお社もありました。

途中、自転車道のような道が防府駅の方へと向かっていて、おそらく幹線水路を暗渠にして活用しているのだろうと想像しました。

この辺りが開出地区のようです。

 

この風景を見ることができただけでも満足して歩いていると、国道262号線に出て、そこに「中の関港道」と書かれた古い石柱がありました。

この辺りが、以前は海岸線だったのでしょうか。

 

あと1kmほど歩くと、佐波川の堤防です。

 

住宅地を水路沿いに歩いて行くと、堤防の直前で、分水路がありました。

先ほどの開出地区を挟んで、東西2本の水路になる場所のようです。

西側への分水路はさらに真ん中が仕切られて2本の水路になっていました。どうやって、どの水田にこの水が行き渡るようになっているのでしょう。

なんだかすごいなあと、しばらく水を眺めました。

 

今日は出だしから計画変更ばかりで行き当たりばったりになりましたが、地図から閃いた計画はまんざらではなかった、来た甲斐があったと満足しながら、佐波川の堤防にのぼりました。

 

 

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散歩をする 397 まずは防府へ

4月下旬、5時前に家を出るときにはうっすらと明るくなり始めていました。

小雨で気温も10度でしたが寒くはなく、薄手のカーデガンを羽織るだけで十分でした。

5時22分に品川駅に到着したときにはまだ新幹線口が閉まっていて、5時半に開くことを初めて知りました。6時発ののぞみ博多行きは、この2年間の中では一番、乗客が乗るのを見ました。

 

金目川と支流、そして高麗山のあたりや黄瀬川と本宿用水のあたりも見逃さないようにと、車窓の風景に集中です。

 

大井川右岸の水田では田おこしが終わって水が張られていましたが、袋井のあたりでは田植えが終わった水田もありました。

4月下旬、地域によってさまざまな水田の風景ですね。

三河安城を定刻通りに通過しましたのアナウンスに感謝し、今回の2泊3日の遠出は順調そうです。

 

関ヶ原のあたりでは山桜がまだ薄茶色の森の中に浮かび上がるように咲いている早春の風景でしたが、水田にはすでに水が張られていました。大雪だった今年ですが、雪解けから田植えまで案外と早いのですね。

 

滋賀では、畦道を歩く集団登校中の小学生の列が見えました。

水田だった地域は、麦が青々と育っていて緑一色です。麦秋のあと、田植えになるのですね。

季節が違うと風景も違いますね。

みなさん、どんな生活をされているのでしょうか。

 

新大阪で観光客らしい人の姿がぐんと減って、車内はビジネスマン一色そして女性のいない風景になりました。

出張で新幹線に乗れるなんて羨ましい限りですがみなさん退屈そうで、仕事モードだと車窓の風景は面白くないかもしれませんね。

 

再び車窓に集中して伊里川の上流を見逃さないようにしていたのですが、防音壁に阻まれました。残念。

あっという間に岡山に到着し、多くの人が下車して車内は閑散となりました。

 

 

*まあ、いろいろなことが起こりますよね*

 

広島に9時38分に到着しました。

9時45分の岩国行きで11時9分に大畠駅で下車し、11時39分の周防大島へ行くバスに乗る予定でした。

 

乗り継ぎ時間も短いので、急いで山陽本線岩国行きに乗りました。

3両編成ですが混んでいて、先頭になんとか場所を見つけました。

いよいよ出発するはずでしたが動き出しません。

なんとすぐ隣の横川駅の線路から発煙していて安全確認中のアナウンスがありました。

 

「線路から発煙」「現在、消防が消火作業中」、どんな状況なのかイメージできないくらい初めてのことで、人身事故でも運転再開に40分ぐらいはかかるので、火災ならもう今日のスケジュールは全て見直しが必要そうです。

この時点で、周防大島の小松開作を見るのは幻の計画になりました。

分母が増えればアクシデントに遭遇する確率も高くなるので、仕方がないですね。

 

待っている間も次々と乗り込んでくるので、以前のコロナ拡大以前の立錐の余地無しの通勤電車のような状態になりました。

 

あんがいと早く運転再開になり、10時18分に広島駅を出発しました。

ぎゅうぎゅう詰めですが、運転席のすぐ後ろなので特等席です。車窓の風景を眺めつつ、どのように計画を変更しようか考えていました。

 

防府へ行こう!*

 

山陽新幹線からは宮島がまるで地続きのように見えた大野瀬戸のすぐそばを通りました。

 

玖波(くば)駅を過ぎたところで、「玖波、川きれい」とメモを残していました。

後で確認すると恵川で、「えがわ」と読むのでしょうか。

「玖」という漢字も読み方がわからず検索したら、「長い時間をかけてできた玉のような黒い石」という意味だそうです。どんな地名の由来があるのでしょうか。

 

大竹駅のあたりから、以前は水田だったのだろうと思われる海岸線に工場が広がり始めました。

11時9分、岩国駅に到着しました。

 

お腹が空いたのでまずはご飯を食べてから岩国を歩こうと、列車の中で計画を立て直しました。

海岸の近くで錦川が門前川と今津川に分かれ、三角州のような場所があります。

その西側が中津町で、山陽本線を挟んで東側が三角町で岩国基地がある場所です。以前からこの、川合とは反対に「川が分かれる場所」を歩いてみたいと思っていました。

 

岩国駅周辺は想像とは違いおしゃれでしたが、開いているのはカフェだけでした。「今はガツンと食べたい。カフェ飯の気分じゃない」と五郎さんになり、このまま今夜泊まる予定だった防府へ行ってまずはお昼ご飯を食べてから街の中を散策しようと、再び計画変更です。

 

11時44分の下関行きに乗りました。

しばらく山が迫る場所で、広々とした瀬戸内海が目の前に静かに続きます。

海岸線のわずかな土地にも水田がありました。この辺りも白っぽい土のようです。

周防大島が目の前に近づいてきました。このあたりも移民になった人たちが多い地域のようです。

小松開作と日本ハワイ移民資料館を訪ねてみたかったので残念ですが、またいつかの楽しみということで。遠くに、小松開作らしき場所が見えたのでよしとしましょう、

 

柳井あたりから山あいに入りましたが、意外だったのが地図では山あいですが平地が多かったことでした。この辺りも島と島の間を干拓したのでしょうか。

岩田、島田とすぎて、光市では平地が広がり、大きな工場が続きます。

あらかじめ地図で見ていた「開作」がつく場所も増えてきました。起伏が全くない場所が続きます。

徳山工業地帯は、新幹線からの風景とは違い、山陽本線では工場の敷地に植えられた大きな木の間を通過して、まるで林の中のようでした。

 

また海岸線ギリギリに走り、小さな湾や溜池、水田が見えました。

海のすぐそばに水田を作るには、どうやって水を確保するのでしょう。

 

あっという間の瀬戸内海の車窓の風景が終わり、13時23分に防府(ほうふ)駅に到着しました。

駅の北側は新緑の美しい悪石地形の山が迫り、その麓に防府天満宮があります。反対側は干拓地です。

 

1日目の計画は大きく変更になりましたが、さあこれからどこを歩きましょうか。

改札を出ました。

 

 

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散歩をする 396  ただひたすら川と海と開作を見に〜山口から小倉へ〜

昨年6月に佐賀県の干拓地を訪ねました。

 

岡山以西は山陽新幹線の初めて乗る区間だったので、風景を楽しみにしていました。その時のメモにこんなことを書き残しました。

防府の上流、山と川、水田、中国画

厚東、谷戸、赤瓦、美しい

小月、川

広島から山口の区間はトンネルが多いのですが、トンネルを出るたびに美しい田園風景が現れました。

 

そして帰りの新幹線では海側の風景で、「新下関駅を過ぎ、小月(おづき)のあたりで遠くに干潟らしい場所」が見えたことを書き残しました。

 

山口県は30年ほど前に秋吉台から萩・津和野を訪ねたことがありますが、瀬戸内海側の風景は昨年初めてでした。

帰宅してから地図を眺めると、山口県の瀬戸内海沿岸は干拓地らしい場所がたくさんあることがわかりました。

 

水島工業地帯のように、干拓地から工業地帯になったのだろうと思われる場所も見えてきました。

1960年代から70年代の工業化の時代に、埋立によって工業地帯が広がったと思っていたのですが、瀬戸内海沿岸ではそれ以前に干拓の歴史があり、田畑や塩田が工業地帯へと変化したのではないかとつながりました。小学校の社会科からやり直さなければなりませんね。

 

地図を見ていると、瀬戸内海の遠浅の海に浮かぶ小さな島々の間が干拓されたのだろうと思われる場所が想像できるようになってきました。

 

 

*開作とは*

 

昨年来、地図で山口県の沿岸部を眺めていて、「開作」や「新開」という地名が多いことに気づきました。新開は他の県でも見た記憶があるのですが、開作は初めてでした。

 

検索すると「山陽小野田市ふるさと文化遺産」という資料が公開されていて、その中の「高泊開作」に以下のように書かれていました。

「開作」という言葉を聞いたことがありますか。

開作とは、山口県特有の用語で、新たに水田や塩田を開発することを言います。

現在、市役所や市民病院、小野田駅が建っている所は昔、高泊湾という海でした。

この広大な海を埋め立てて陸となったところが「高泊開作」です。

 

 

コトバンクにはさまざまな干拓の呼び名として説明がありました。

東日本に湖沼干拓が多く、西日本に海面干拓が多い。湖沼干拓地は新田という地名であるが、海面干拓は旧藩領によって異なり、八代海の新地、有明海の牟田(むた)、搦(からみ)、籠(こもり)、瀬戸内海の開作、新開などがあり、大阪湾、伊勢湾では新田という。湖沼干拓は17世紀の治水技術の発達によって、干潟八万石、飯沼、見沼、紫雲寺潟などに2000~3000haの干拓地ができた。

(世界大百科事典内の開作の言及)

 

俄然、「開作」がつく場所に関心が出て、しばらく山口県の瀬戸内海沿岸部の地図を拡大したり縮小したりして何箇所も書き出してみました。

 

一度行ってみたいと思っていた周防大島にも、小松開作がありました。バスで行けそうです。

防府新山口、小野田から厚狭、そして印象に残った小月、下関まで開作を訪ねてみよう。

せっかく下関に行くのだから、山陽本線関門トンネルを通って門司のあたりまで足を伸ばしてみよう。

いくつか計画ができました。

 

 

昨年6月には、この辺りはようやく田植えが始まった水田が多かった印象です。

4月だとまだまだ田おこしもしていない可能性もありますが、雨や台風の時期に入る前に見てみたい。

 

そう思って、4月下旬に出かけてただひたすら開作を見てきました。

 

 

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鵺(ぬえ)のような 11  「実証実験」という感覚の広がり

最近、ニュースでしばしば耳にする実証実験という言葉に引っかかっているのですが、いつ頃からどのような感じで広がったのでしょうか。

ちなみに「PRTImES(プレス・ニュースリリース配信サービス)」というサイトで検索すると、5月だけでも40件以上の「実証実験」についてのニュースがありました。

 

1990年代に入る頃から、医療の分野では「医療安全とリスクマネージメント」、「根拠に基づく医療とかエビデンス」そして「インフォームド・コンセントとか接遇」あたりで大きく変化した印象があります。

 

思い返せば、それまでの時代は仮説の段階でも「こうすれば効果がある」と言ったものがちの世界でした。

そしてそれが権威となり、広められていった時代でした。

 

1990年代に入り、エビデンスという言葉が浸透しました。

私の浅い理解ですが、「それをした場合としなかった場合を比較して、効果が認められれば標準医療になる」あたりでしょうか。

 

少なくとも仮説をそのまま世に広めても、どんなに有名な人が発表しても、科学的な手順を踏まなければ信頼できるレベルではないというところまで整理されたのだと思います。

とりわけ、人の生命に直結する医薬品や医療技術は治験も行われます。

 

仮説から効果を認めるまでにかなり厳密な段階を経る現代の医療の世界ですが、「実証実験」という言葉を耳にしたことは私はありませんでした。

 

 

*実証とは*

 

実証という言葉も日常的には使われていても、医療の中ではあまり耳にしたことがなかったのですが、頼みの綱のWikipediaにも説明がありませんでした。

 

「goo辞書」には以下のような説明がありました。

1. 確実な証拠。確証。「ーのない仮説」

2. 確かな証拠を持って証明すること。事実について明らかにすること。「推理の正しさをーする。」

3. 漢方で、病状のー。邪気の亢進(こうしん)した状態。水毒・食毒・血毒などが体内に停滞することにより引き起こされる、→虚証。

 

「確かな証拠を持って証明すること」。あの電動キックボードの実証実験で考えてみると、何を証明できたのだろう。

事実という言葉は悲しいかな、"非事実”ということを合わせ持つとすれば、実証とはなんだろう。

 

「漢方」とつながりがある言葉だったから、世の中にこの「実証」という言葉が広がりやすかったのかもしれませんね。

通常医療の中で代替療法との距離の取り方に私自身は葛藤してきたので、やはり実証実験という言葉は医療の中には居場所がなさそうだと、感覚的にですけれど納得したのでした。

 

 

リスクマネージメントとは異なる「願いをかなえる」ための実験*

 

 

この感覚の差が新型コロナウイルスへの対応でも、予防接種とかマスクとか「空間除菌」とか、微妙な理解の違いを社会に広げるのかもしれない。

 

少し検索した印象では、2010年代ごろからぼちぼち「実証実験」という言葉を使ったニュースがあったようですが、誰がどんな目的で使い始めたのでしょうか。

その影響は、どれくらい後にどのような形で社会に現れるのでしょう。

 

「実証実験」という言葉が指しているものは、どちらかというと仮説(願い)をかなえるための野心的研究に近いニュアンスかもしれませんね。

科学っぽい手法だけれど、科学ではないような、そんな感じ。

 

 

 

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実験のようなもの 10 電動キックボードの「実証実験」の結果とは

先日、交差点で信号待ちをしていたら、音もなく電動キックボードに乗った女性が二人、目の前を過ぎていきました。

実際に見るとけっこうなスピードが出ますね。

 

スカートをひらりとなびかせながらというカジュアルさで、あの細い板に両脚のバランスだけで立っている姿は見ているだけでもヒヤリとしました。

電動キックボードでの転倒事故の動画を見ると、本人の転倒だけでなく、転倒したはずみで吹き飛ぶように近くを歩いている人に体当たりしている場面もあって、他の乗り物に比べてもリスクが高そうな印象です。

 

*「特殊電動キックボードの実証実験」*

 

警視庁に「特殊電動キックボードの実証実験」の経緯がありました。

実証実験の内容

産業競争強化法に基づき、令和3年1月、事業者から経済産業大臣に新事業活動区域において貸し渡される電動キックボードに関する特殊措置の要望書が提出されました。これを受け、令和3年4月、国家安全委員会及び国土交通省において「道路交通法施工規則」及び「道路標識、区画線及び道路標示に関する命令」の定期用に関して新たな規制の特殊措置を講じられたことから、本特例措置の対象となる電動キックボード(以下、「特例電動キックボード」という。)の通行に関する安全性等について検証するものです。

 

具体的な検証内容はわからないのですが、関連サイトの経済産業省へのリンクにはこんな説明がありました。

電動キックボード

現在、電動キックボードは道路交通法上の原動機つき自転車に分類されており、ヘルメットの着用が義務となっているとともに、車道(車両通行等の設けられた道路においては、最も左側の車両通行帯。車両通行帯の設けられていない道路においては、道路の左端。)を通行すること等とされています。

事業者より、原動機付き自転車として扱うことは合理的でないとして、新事業特例制度を活用し、令和3年1月25日付けで下記の特例措置の整備について要望がありました。

運転時のヘルメット着用を任意とすること。

・普通自転車専用通行帯の走行を認めること。

自転車道の走行を認めること。

・自転車が交通規則の対象から除かれている一方通行路の双方走行を認めること。

その要望を踏まえ、規制所管官庁である国家公安委員会及び国土交通省において、上記の点に関する特例措置が整備されました。

(強調は引用者による)

 

自転車でもヘルメット装着の時代になっているのに、自転車よりもスピードが出る電動キックボードでヘルメット不要とはどのように安全性を検証したのでしょう。

 

 

*どうしたらこういう結果が導かれたのだろう*

 

4月20日に驚くニュースがありました。

「ほぼ自転車」電動キックボード規制緩和!免許不要の改正道路交通法が成立!既製品はどうなる?

 

 改正法では、最高速度が20km/h以下など一定の基準に該当する電動キックボードは、「特定小型原動機付自転車」という新しい車両区分とされます。

 16歳未満の運転を禁じる一方、16歳以上であれば免許不要で運転できます。ヘルメットの着用は任意です。

 走る場所は原則として車道ですが、最高速度6km/h以下の走行モードであれば自転車通行可能な歩道も走行できるようになります。

 改正道交法のうち特定小型原動機付自転車に関しては、2024年6月までに施行される見込みです。

       * * *

 現在、基準に適合する電動キックボードは原付バイク(原動機付自転車と同じ扱いであるため、公道を走るには免許やヘルメット、ナンバープレート、自賠責保険の加入などが必要です。

 今回の改正ではこれらの規制が緩和され、差異はありますが自転車のようにさらに気軽に乗れるものになります。

 今後は施行に向けて、新しい交通ルールの周知や、特定小型原動機付自転車の保安基準に適合した製品が登場するとみられます。

 保安基準は検討が進められており、最高20km/hの小型低速基準モードだと水色、最高6km/hの歩道走行車モードだと緑色に点滅する識別灯の装着を義務付ける案が浮上。

 このほか、車幅の小ささを考慮した段差乗り換えの性能試験なども検討されています。バッテリーや定格出力(600w以下)などの仕様も定め、形式認定も実施する予定です。

 現行の電動キックボードはこれらの保安基準を満たさないことから、特定小型原動機付自転車として使うには改造が必要となるとともに、施行後の区別、ルールの整理などが課題になりそうです。

(「くるまのニュース」)

 

 

ただでさえ「自転車通行可能な歩道」は、歩く人だけでなく、ベビーカー、手押し車を使って歩く高齢者などさまざまな方向からさまざまな速度で歩く歩行者の間を縫うように自転車や電動自転車が通行しているので、四方八方に注意をしながらよろけるように歩いています。

 

この「実証実験」に、歩行者は参加していたのでしょうか。

 

電動自転車以上にスピードも出るのに歩道も車道も走ることができ、ヘルメットも不要、さらに道路交通法を勉強しなくても乗ることができる安全性というのは、どういう「実証実験」から導かれるのでしょう。

人命に直結する話なのに、なんだか煙に巻かれたような話ですね。

 

 

道路上のちょっとした段差につまづいて電動キックボードから吹き飛び、そばを歩いている人に直撃した動画を見てしまったら、たとえケガがなかったとしても私には重大なアクシンデントが想定できそうなインシデントに見えますね。

 

インシデントを認め、報告することで積み重ねられてきたリスクマネージメントの歴史ですが、そこで求められてきた安全性とは違う世界が「実証実験」という言葉に感じるのは気のせいでしょうか。

 

 

 

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行間を読む 148  戸塚安行について

戸塚安行から草加まで歩いた記録を書き始めた時に、最初、「戸塚安行」が一発で変換できませんでした。

 

「安行」って歴史を感じさせる地名なのになぜだろうと、その地名に関心が出ていつも通りWikipediaを探してみましたが、戸塚安行駅のわずかの説明しかありませんでした。

駅名の由来

駅名は現在の地区名の戸塚(とづか)と安行を合わせて付けた。なお駅名決定までの仮称は「川口戸塚駅」だった。

 

ただ、漢字に一発で変換できない理由はわかりました。「とつか」ではなく「とづか」だったようです。日本語の読みは難しいですね。

 

 

*地名の由来*

 

川口緑化センターの「植木の里 安行」の説明がありました。

"植木の里 安行(あんぎょう)"とは?

 

 400年以上の歴史を有する安行の植木は、川口市の2大産業として、鋳物産業と共に時代の隆盛を極めていましたが、近年の住宅開発にともなう土地の高騰等で、鋳物と同様、緑化産業従事者も減少しています。しかし交通網の発達で、生産地を茨城県や千葉県などへ移しながらも植木の拠点として安行の役割は大きく、情報の交換や研修の場として利用されています。

 

緑が豊かな場所でしたが、急激に状況が変化していたようです。

 

「安行植木の祖」に歴史が書かれていました。

 安行の地名は、「新編武蔵風土記稿」によると、かつて中田安斎入道安行という人の領地であったことから名付けられた、とされています。この安行の地の植木栽培の起こりは、承応年間の頃、吉田権之丞によって始まったと言われています。

 吉田権之丞の人となりについては、文献等の資料がないので正確にははっきりしていません。権之丞は、若い時から草花や盆栽に興味を持ち、珍しい草木を集めて栽培したところ、安行の土質・風土に適合しその生育が良かったので、これらの苗木の開発にあたったと言われています。

 その頃の江戸は、経済の発展、人口の増加、明暦の大火の復興などの関係から、活動的な消費都市となっていました。加えて、新しい風流を好む元禄時代を迎え、植木の需要は増していました。権之丞は、たまたま苗木や切花を江戸に運んで商売したところ、大当たりしました。

 

承応(じょうおう)年間は、1662年から1655年だそうです。

 

 

*見沼代用水に反対した*

 

Wikipedia見沼代用水を読みなおしていたら、「建設背景」に安行を見つけました。

 

水不足に悩む村々がある一方で、見沼溜井を利用していた浦和領、安行領、舎人領などの村々は幕府の溜井干拓と水路建設に対して強い反対の立場をとった。井沢が現地調査を行うようになると、反対派の村々は以下の疑問点を挙げ、幕府に対して干拓事業撤回の訴状を提出した。

1. 利根川から水を引くのでは余りにも遠いため、溜井より下流の村にまで水が行き渡るか疑問である。

2. 川の水は雨の多いときには豊富であるが、雨の水ない時には水量が減少する。

3. 溜井の水は養分が豊富であるが、川の水は養分が少なく農作物に適さない。

 

また、見沼溜井に住む竜神の化身の美女が現れ、見沼干拓の撤回を哀願するという内容の見沼の竜神などの多くの見沼に関する伝承もこの時期に作られたといわれている。

しかし、見沼溜井の干拓は決定事項であるとされ、幕府の勘定奉行名で訴訟は却下された。このため反対していた村々は負担軽減に切り替えることを余儀なくされた。1726年(享保11年)、普請役の保田太左衛門により測量が始められた。

 

それから約400年の姿なんて想像できないことを、誰が責めることができるでしょう。

当時のそれぞれの身を引き裂かれるような葛藤と判断に現代は恩恵を受けているのだと、地名の由来から見沼代用水の歴史に繋がったのでした。

 

 

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