水の神様を訪ねる 59 戸塚安行から草加までの3つの氷川神社

埼玉スタジアム線戸塚安行駅から東武スカイツリーライン草加駅まで歩いたのですが、最初は2箇所の氷川神社を訪ねる計画だったのが、期せずして3箇所を訪ねることができました。

 

*安行氷川神社と九重神社*

 

一つ目は、尾根筋の高台にあった安行氷川神社です。

社殿が朱塗りの鮮やかな建物でした。

 

御縁起(歴史)

 往古、鎮座地は老杉の茂る神さびた所で、『郡村誌』には「社地中に杉の大木あり」と記録されている。この大木は旧社殿の東隣にあったもので、昭和二十年代に自然枯死したため、伐採売却され、その代金の一部を持って社殿を改築している。この時、社殿は三〇メートル余り西の現在地に移転している。

 祭神は素戔嗚尊(すさのおみこと)で、本殿には衣冠男神座像が奉安される。

 社蔵の棟札によると、元禄十三年(一七〇〇)十二月に当社の拝殿が造営されている。当時の別当住僧は、白現房快宥である。快宥は、越後国出雲崎町にある円明山快栄法印の弟子で、学問修行のため、縁あって当地の真言宗赤芝やま円福寺に入り、当社の造営に助力する。住居は、当地の中山氏が山林二畝一八歩に証文一通を添えて寄進している。この円福寺は、当社の南西側にあったが、明治初年の神仏分離により廃寺になっている。

 明治期、当社は大字安行原に鎮座する九重神社に合祀されることになったが、氏子が一丸となって反対したため合祀を免れている。『明細帳』によると、明治四十年六月七日、大字安行字立ノ﨑の無格社氷川社、字大原の無格社神明社、字宮下の無格社金山社、字宮越の無格社浅間社を合祀している。このうち氷川神社は当社本殿に合祀し、他の三社は境内に合祀したため、現在、境内に三社様と呼ばれる社がある。

 

1700年ごろだと、まだ見沼溜井の干拓の前なので、この辺りは水辺を見下ろすような場所だったのでしょうか。

 

二つ目に立ちよった神社は御由緒は分かりませんでしたが、「九重神社(氷川神社)」とありました。

実際に訪ねてみないと地図だけではわからないものですね。

登ってきた石段を境内から振り返ると、ちょっと足がすくむ急斜面の場所に立っていて、お隣はお寺とお墓が斜面にあり、庭木の手入れをしている方々がいらっしゃいました。

 

草加氷川神社

 

氷川通りを左に曲がると、木々の緑が美しい氷川中公園があり、蒸気機関車が展示されていました。子どもたちがたくさん遊んでいて、水路をへだてて草加神社の境内で立派な社殿がありました。

 

草加神社本殿

 

 草加神社は氷川社ともよばれ、天正(一五七三〜一五九二)の頃、小さな祠を祀ったのが始まりと伝える。その後、享保二年(一七一七)四月十六日、正一位氷川大明神の位がおくられている。明治四十二年(一九〇九)に付近の十一社を合祀し、社名を草加神社と改めた。

 本殿は、間口二・二七メートル、奥行き一・九一メートル、向拝の出一・七三メートルの一間社流造(いっけんしゃながれづくり)である。

 建物は天保(一八三〇〜一八四三)頃の造営と伝えている。

屋根は銅板板葺とするが本来は桧皮葺(ひわだぶき)か柿葺(こけらぶき)であったと思われる。棟をT字型に配し、正面に千鳥破風(ちどりはふ)を見せているのは棟に鰹木(かつおぎ)・置千木(おきちぎ)を用いているのと合わせて装飾性も持たせるための手法と思われる。銅板葺のやや厚ぼったい軒先は護持のためやむをえないが、現在は本殿全体を保護するために覆屋が作られているので。流造本来の姿に戻せたらと思われる。

柱・桁などの構造材には欅材を用い、木太く雄大な姿を見せる。

配される彫刻は建物本体を凌駕するほどではないが、優美な姿を見せる。

題材は中国の仙人の物語に由来する。木鼻や手挟(たばさみ)は籠型に仕上げている。

 平成十六年に拝殿が整備されその姿は一新された。本殿廻りの旧玉垣には弘化三年(一八四六)の銘が刻まれていたが、現在は本殿と木造の隙塀が一体となって美しい様相を見せている。

 平成二十二年三月  草加市教育委員会

 

 

草加駅周辺は平地に見えたのですが、利根川、荒川などに挟まれたこの地域で、十六世紀には氷川神社の前身となる祠が造られたようです。

当時はどんな風景だったのでしょうか。

 

 

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散歩をする 395  戸塚安行から草加まで歩く

鴨川の千貫樋(せんがんぴ)の歴史をたどると、やはりまた伊奈忠次と伊奈忠治の荒川下流の治水や新田開発につながりました。

 

昨年秋に訪ねた新井宿が見沼代用水西縁のそばであることを知り、見沼代用水が綾瀬川を越えたあと、西縁と東縁に分かれる場所を歩きました。

以来、この東縁と西縁の二つの用水路に挟まれた地域を歩いてみようと、いくつか計画ができました。

 

新井宿に行った際、埼玉スタジアム線に乗ったのですが、新井宿のあたりでぐいと曲がります。埼玉スタジアム線は地下鉄なので、地上はどんな景色なのだろうと気になっていました。

戸塚安行という地名から、何か歴史がありそうです。

 

地図では戸塚安行の東側は、見沼代用水によって開墾された地域のようにも見えます。

まだ訪ねていない安行の氷川神社を目指し、そこから草加の氷川通りを歩き草加氷川神社を訪ねる。大まかな計画で出かけてみました。

 

戸塚安行駅から氷川神社へ*

 

4月中旬、午後2時過ぎに戸塚安行駅に到着しました。地上はどんな場所だろうと期待して出ると、さっそく大きな水路が西側から流れています。少し高台なのに、どこからくる水でしょうか。

帰宅して地図を追うと、武蔵野線東川口駅東浦和間に大きな溜池と川口自然公園が見えるのですが、そこから分水された水でした。ということは見沼代用水西縁の水でしょうか。

 

この辺りは、芝川のあたりまで首都圏近郊緑地保全法による区域であることが書かれていました。

本当に緑が多い場所です。その名も「花山下」交差点から東に向かい、東京外環自動車道の下をくぐると雑木林になりました。初夏の香りがする緩やかな上り坂を歩くと安行氷川公園があり、その先に最初の目的地の安行氷川神社がありました。

周囲は造園業の敷地に囲まれているので、木々が美しく、幻想的な場所でした。

 

雑木林のような中を歩くと、花と緑の振興センターの横に出ました。植物の販売もしているようです。

そこから東へと歩きましたが、この辺りも造園業が盛んなようで森なのか敷地なのか、木や草花がずっと続く道でした。

ところどころに筍や野菜などの無人販売があったり、庭先におしゃれなカフェがあったり、草花を求めて散策しているのでしょうか、結構な人とすれ違いました。

ニワトリの鳴き声が聞こえたり、美味しそうなお蕎麦屋さんがあったり、散歩の序盤なのにもうここでやめてもいいかなという誘惑に駆られそうでした。

 

安行小学校の校庭の横から左へ曲がると結構なくだり坂になりながら、右手は安行原自然公園で広々と雑木林が保存されていました。

その途中の小高い場所にある九重神社に立ち寄ってみると、期せずしてそこも氷川神社でした。

 

先ほどの吉場安行東京線は、尾根筋を通る道路だったようです。

 

*かつての水田地帯を草加まで歩く*

 

九重神社から下り坂を降りると、水門と用水路がありました。先ほどまでの鬱蒼とした森が残る尾根筋とは違い、昔は広々とした水田地帯だったのだろうと思われる水路があちこちに残る住宅街を歩くと、忽然と暗渠になった先にまるで森の中にあるような民家がありました。

よくみると、小川のように水路が民家のそばを通っています。

古くからの農家でしょうか。敷地の中に水が流れている羨ましい場所でした。

 

そこを過ぎるとまた住宅地になり、大きな道路に出ました。

その先に、西側から流れて新郷東部公園のあたりから大きな流れになる川があります。

今回はその川に沿って草加へと向かいました。

 

橋の欄干に水田を耕す人の姿を描いた銅板の絵が飾ってあり、「寄贈 新郷東部地区治水事業推進協議会」と書かれていました。

途中から東へ曲がり暗渠に沿って小さな道を歩いていくと、広大な変電所の施設がありました。

どこまでもどこまでも平らな場所です。

 

日光街道を越え、氷川通りを道なりに歩いて「水道庁舎(南)」という交差点を曲がると、以前から気になっていた草加駅前の氷川町に出ました。

この辺りも暗渠になった水路が住宅街や駅前のそこかしこにあり、草加神社の前には水が流れていました。

 

今回の散歩は、見沼代用水東縁が潤したであろう地域を歩くことが目的でした。

Wikipedia「見沼代用水と干拓前の見沼溜井」の図にある東縁と西縁の水路がくっきりと分かれているイメージでしたが、実際には尾根筋のように見える場所に西縁から東縁に向かって水路が網羅されているらしいことが少しわかりました。

 

現代の地図だと、かつての見沼代用水がどこを流れているのかなかなか分かりにくいものです。

実際に歩いてみるしかないですね。

そして歩けば歩くほど、またわからないことが増えてきました。

見沼代用水を知るには、残りの人生をかけても時間が足りなさそうです。

 

 

 

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行間を読む 147  「急行50周年」と井の頭線の歴史

先日、井の頭線の車両に「急行50周年」というパネルが取り付けられているのに気づきました。なんと昨年12月、急行ができて半世紀経っていたようです。

 

半世紀の歴史なんてすごいなと思うとともに、子どもの頃に乗っていた井の頭線は各停しかなかったのかとちょっと愕然としたのでした。

短い路線なので各停と急行だと5分ぐらいの差ですが、タッチの差で乗り継ぎが間に合わないだけで10分とか20分のロスになる都内の交通機関では貴重な5分ですからね。

 

京王井の頭線の歴史を読むと、「1971年(昭和46年)12月15日:永福町駅に待避線を設置、急行運転開始。当初の最高速度は80km/h。」とあります。

 

1970年代前半に、年に2~3回、当時住んでいた所から東名と環八を通って高井戸駅から新宿駅まで利用していたことがありますが、あの時は永福町駅で急行に乗り換えて次の明大前駅まで行ったのか、それとも「急がないから各停のままで一駅行こう」だったのか、全く記憶がありません。

もう少し前、1960年代に渋谷から井の頭線に乗った記憶が、あのマークシティが2000年にできる前の古い駅舎の記憶とともにあるのですが、それは確実に各駅停車の時代の記憶のようです。

 

なんだか半世紀なんてあっという間ですね。

20年とか30年前でも大昔に感じていたのに、一世紀というのは近すぎて混沌としていると感じることが増えました。

 

 

*永福町検車区が壊滅的な被害を受けた*

 

井の頭線の歴史を読み返していたら、「1945年(昭和20年)5月25日:東京大空襲により永福町車庫が被災。29両のうち23両が消失、壊滅的な被害を受ける」とありました。

77年前のちょうど今頃のようですが、現代の風景に重なります。

 

急行待ち合わせで停車する永福町駅の歴史が、永福町車検区に書かれていました。

1933年(昭和8年)の帝都電鉄線(現・井の頭線)渋谷ー井の頭公園間の開業と同時に永福町駅構内北側に開設された。線内唯一の車両基地であるため、全車両が留置できるように多くの留置線が設けられた。また、航空機の格納庫を彷彿とさせるような車庫が建てられ、長年親しまれた。しかし1945年(昭和20年)5月25日、東京大空襲(山の手大空襲)により被災し、29両のうち実に23両が消失という壊滅的な被害を受けた。これにより井の頭線は車両不足となったため、応急的に代田連絡線が敷設され、戦後にかけて他路線との間で車両の搬出入が行われることとなる。

 

車両基地であるとともに、近くを荒玉水道、和田堀給水所そして淀橋浄水場への東京市水道が通っていたので標的になったのでしょうか。

東京大空襲についても、ほとんど知らないまま来てしまいました。

 

それにしても、「29両のうち実に23両が消失」という書き方に、ふだんWikipediaでは感情的な記述が少ない印象の中で、この記録を残してくださった方の無念さが表れているように感じました。

 

 

井の頭線の歴史から*

 

Wikipedia井の頭線の「歴史」に興味深いことが書かれていました。

同線は山手線周辺から郊外へ延びる鉄道としては、他の路線と比較してもかなり遅くに開業した路線となった。そのため、当時としては珍しく高架・堀割を中心にして建設し、車両も全鋼鉄製で自動扉を採用して女性車掌が乗務するなど、開業時はかなり近代的な路線であった。

 

高校生の頃の井の頭線の車窓の風景の記憶があまりないのですが、土手のように続く堀割が多かったからかもしれません。今ではそうした場所でも土手の草花を楽しんでいますが。切り通しの歴史を考えると、井の頭線の堀割は先駆的ですね。

 

神田川玉川上水を散歩するようになって、井の頭沿線は起伏が多いことを実感しています。

そして線路に並行した幹線道路が少なくて、半世紀以上も前の道路計画よりも住宅化が先に進み、ようやく道路建設の段階になっているのも、堀割を必要とする地形によるものでしょうか。

 

もう一つ興味深いことが、戦前から女性車掌が乗務していた路線だということでした。近代的だったからか、それとも「戦時下の交通は女子の手で確保」という雰囲気になり始めていた時代だったのでしょうか。

 

ただ、2000年代から女性車掌や女性運転士の姿を私が最初に見かけるようになったのは井の頭線で、先進的だと感じた記憶がありました。

 

「急行50周年」から、井の頭線の年表を読む機会になりました。

 

 

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水のあれこれ 243  鴨川の千貫樋(せんがんぴ)

堤防の斜面の途中をトラックがバックして工事現場へ土砂を運ぶスリリングな風景の場所は、地図では千貫樋水郷公園へとつながる水路がもうじきあるはずです。

見落とさないようにGPSを見ながら歩いていると、住宅の間に小さな水路に沿った遊歩道がありました。前から来た男性がそこを曲がって行きました。

あまりに小さい水路だったので絶対に違うだろうと通り過ぎたところ、次の橋のあたりに来てしまいました。

どうやら先ほどの水路が千貫樋への入り口だったようです。

 

引き返して水路沿いを歩いてみました。一見、両側に遊歩道があるのですが、途中で片方の遊歩道が行き止まりになるトラップがあります。おそらく地元の方はどう歩いたら良いかわかっていらっしゃるのでしょう。

 

水路の入口(というか水の出口)のあたりは狭かったのですが、途中は広がり水量もそれなりにあるように見えました。両側は住宅地ですが、一段、水路より高い場所に建っているので、なんだか渓谷の中を歩いているような感じです。草木も手入れされていて、枝垂れ桜やツツジが咲いていました。

途中でまた水路は狭くなり、その先に道路が見えてきました。

水路はその道路の下をくぐっています。

道路と水路の交差部分は煉瓦造りの2本のトンネルで、一本は水路、もう一本が歩道になっていておしゃれです。

くぐり抜けたところに、公園がありました。

 

さて、千貫樋はどこだろうと近くにあった説明板を読んでみました。

 千貫樋は鴨川が荒川へ流れこむ地点に設置した荒川からの逆流を防止するために水門でした。当初の水門は江戸時代に木造で建設されましたが、数年で駆逐し、洪水の度に破壊されていたので1904(明治37)年に鴨川落悪水路普通水利組合が煉瓦造りへと全面的に改築したものです。

 千貫樋の建設工事は、明治37年4月30日に着手し同年6月15日に竣工しました。また、使用煉瓦数が153,000個の大規模な工事でした。煉瓦水門として改良されてからは、荒川の洪水に対して非常に有効な土木構造物でした。

 現在の千貫樋は水門としての役目を終え、荒川の旧堤防であった主要地方道57号さいたま鴻巣線の千貫樋橋として今なお現役です。 

 

もしかしてと振り返ってみると、先ほどの煉瓦のトンネルに「千貫樋」とありました。

 

 

*水の流れはどちらに向いていたか*

 

たしかあの行きすぎた遊歩道の入り口では、水路から鴨川へと水が落ちていたと記憶していました。

ところが、説明では「鴨川が荒川へと流れ込む地点に設置した荒川からの逆流を防止するための水門」とありますから、当初は水の流れは鴨川から荒川へという方向だったようです。

 

Wikipedia鴨川(埼玉県)の「治水」にこの千貫樋や鴨川の歴史について説明がありました。

1596年(慶長元年)に関東で発生した100年に一度と言われる大洪水が契機となり、伊奈忠次により土屋村(現さいたま市西区土屋)付近に堤が築かれて入間川が締め切られて現在の荒川に近い流れに纏められた。これにより新川合流点以南は鴨川となった。

昭和初期までは、大久保村(今のさいたま市桜区大久保)で西に折れて荒川に注いでいたため、荒川は増水した際の逆流による水害に悩まされていた。

1904年(明治37年)、近隣の村々が資金を出し合い、当時の荒川合流部付近に千貫樋(せんがんぴ)と呼ばれる関門を設置した。さらに1915年(昭和10年)には鴨川を南に延長して鴻沼川の一支流に付け替え、鴻沼川に合流させた。合流点から下流はその時まで鴻沼川のものだったが、鴨川を本流としたため鴨川と名を変えた。付け替えで切り離された旧鴨川下流は今も小河川として残り、一部は「千貫樋水郷公園」として整備されている。なお、千貫樋の名前は金一千貫文をかけても完成できなかったために名付けられた。

戦後しばらくは台風の襲来時に溢れることもあったが、のちに状況は改善されている。

 

現在は水の流れを逆にして、公園として整備してこの千貫樋を歴史的な遺産として残したのでしょうか。

 

いろいろな形、そしていろいろな由来のの千貫樋があるものですね。

 

 

それにしても、中世の関東の治水と新田開発水争いを解決する努力がなければ今の関東平野はなかったのだろうと、この鴨川の流れからもその歴史を垣間見ることができそうです。

 

 

 

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水の神様を訪ねる 58  在家の大久保神社

堤防の上は見晴らしがよく、少し離れたさいたま市民医療センターが要塞のように建っているのも見えました。その少し下流在家橋があり、そこからの右岸側は堤防ぎりぎりのところまで水田地帯が広がっていました。

 

在家橋を右に曲がると住宅地の中に鎮守の森が見えます。計画の段階で立ち寄ろうと思っていた大久保神社です。

 

大久保神社の手前に小さな川があり、鴨川へと合流していました。

ゆるやかに神社のあたりが周囲よりも高いように感じる場所です。

境内の入り口に、「宿深町 土地改良事業記念碑」という立派な石碑が建っていました。「浦和市」になっているので、2001年以前のもののようです。

 

氷川神社だった*

 

大久保神社の御由緒もありました。

□ 御縁起(歴史)

 

 宿の地名の由来は、近村の道場村に畠山重忠の館があったころ、当地もにぎわい、家が軒を連ねて宿のようであったことによるという。

 地内の字宮前にある「宿(しゅく)の城」といわれる城館跡は、安保直実(なおざね)・安保泰規(やすのり)に関係のものが居住したと推定されている。安保直実・泰規の両名は賀美(かみ)郡安保郷(現神川町元阿保一帯に比定される)を本領とする豪族・安保氏の一族で、南北朝期に当地を含む大窪郷を領していた。

 当社はもと八幡社と称し、この「宿の城」の南東に鎮座していることから、安保氏に関係する者によって武神として奉斎されたことが推測される。最も古い史料に、承応二年(一六五三)本殿建立のものと思われる棟札があり、「御本願地頭朝岡権三郎」「大寒中村枩左衛門」の名が見える。また、天明四年(一七八四)の「再建主村氏子中」「大願主星野喜惣次」とする本殿再建の棟札があり、現在の一間社流造りの本殿はこの時に造営されたものであろう。

 『風土記稿』には「八幡社 村内の鎮守なり」とある。明治六年に村社となり、同二十二年に宿村が大久保村の大字となったことから、同四十年には同村の大字植田谷領在家(うえたやりょうざいけ)の村社天神社と大字白鍬(しらくわ)の村社氷川神社を本殿に合祀し、村名を採って大久保神社と改称した。現在、白鍬の氷川神社の社殿は当社境内にあり、嘉永二年(一八四九)の棟札と社殿仕用帳、明治十三年の棟札が残されている。

 

もう少し古い「御由緒」もありました。

創立年代不詳なるが由緒は古く、新編武蔵風土記にも記載されてゐる古社である。

現本殿は棟札によると天明四年、百十九代の光格天皇の御代、徳川家第十代家治将軍時代(約二百十年前)の再建とある。

尚神社保存木ふだによると安政二年神社を中心して遠くは浅間山の大噴火翌三年には江戸城辺り迄の地震風水害が記され神社は安泰なり明治六年四月村社に列格 同四十年九月廿三日大久保村大沢植田谷領在家字稲荷の天神社 同村大字白鍬の村社氷川神社を合祀、社号を大久保神社と改称す。

明治四年九月廿七日神饌帛供進神社に指定される。

昭和廿年八月太平洋戦争終結 翌廿一年神道指令により、神社本庁所属の宗教法人大久保神社となる。

 

同じ神社の歴史でも、時代や視点が異なると違った御由緒になりますね。

 

それにしても、期せずして氷川神社にたどり着きました。

 

*在家の地理*

 

在家というと「出家」ぐらいしか思いつかなかったのですが、「中世、荘園・公領で、農民と耕地を一体のものとして賦課の対象としたもの。東国や九州に多くみられる」(weblio辞書)という意味もあるようです。

 

Wikipedia在家(さいたま市)がありました。

元は江戸期より存在した武蔵國足立郡植田谷領に属する在家村で、古くは水判土荘に属していたと云われている。村高は『武蔵田園簿』では347石余、『元禄郷帳』では290石余、『天保郷帳』では297石余。化政期の戸数は30軒で、村の規模は東西14町余、南北3町余であった。

 

「石」や「町」という昔の単位はほとんど想像がつかないのですが、古い記録が残されていることはすごいですね。

 

「地理」もありました。

さいたま市桜区北部の沖積平野(荒川低地)に位置する東西に長い炬形の堤内地を有する地区。地区の東側で白鍬に、南側で宿や五関(飛び地)に、西側で昭和に、北側で島根に接する。全域が市街地調整区域である。住宅地が東部にあるが、西部は荒川堤防まで耕地整理された田園や大久保浄水場があるのみで、宅地はない。西部から東部にかけて江川が流れ、鴨川に合流する。地区の南方の荒川の河川区域内に入会地由来の飛び地がある。地内の荒川堤防ではさいたま築堤事業によって、堤防のかさ上げ工事が実施されている。

(強調は引用者による)

 

矩形(くけい)は長方形の意味だそうですが、地図では東側が少し長細くなっています。

鴨川の右岸部分の堤防工事が行われていた箇所で、家はなく水田地帯で、少し丘陵のような地形でした。

江川が荒川の方ではなく、大久保神社の横を鴨川の方へと流れているのもこの丘陵に沿っていたということでしょうか。

 

地図で改めて確認すると西側はたしかに農地と浄水場だけで、荒川の堤防沿いの場所に水田と運動場がありそこが「昭和」のようです。このあたりも、暴れ川を制したのが昭和に入ってからで、ようやくその河川敷のそばで人が生活できるようになった、という地名でしょうか。

 

そのような荒川の河道の変遷を眺めるような場所に、大久保神社が建っているのだとつながりました。

 

 

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散歩をする 394 鴨川(埼玉県)沿いの堤防を歩く

4月上旬、12時台の湘南新宿ラインで大宮へ向かいました。休みの散歩は、ロングシートの向かい合った人と目が合わないようにするストレスから解放されて車窓の風景に集中できるので、奮発してグリーン車です。

沿線は満開の桜、土手にはレンギョウハナニラ、名前がわからない色とりどりの草花が咲いています。なんと美しい世界でしょうか。

あっという間に36分のちょっとぜいたくなグリーン車の旅が終わり、大宮に到着しました。

 

水判土バス停で下車し、「鴨川」に向かいました。

ついつい京都の観光用の「鴨川」の情景が思い浮かんでしまうので、あまり期待していなかったのですが、目の前に現れた鴨川は、両岸が満開の桜と緑の土手にゆったりと水が流れていました。

一瞬、「私はどこに来たのだろう」と、ちょっと鳥肌が立つような風景でした。

 

*鴨川みずべの里*

 

堀の内橋を渡り、鴨川左岸側の公園を目指しました。

水田には水が張られていて、田植えの時期が近づいているようです。

鴨川から200mほどのところに、雑木林が残っていてそこが「彩の国音かおりの里」の「鴨川みずべの公園」でした。Wikipedia鴨川(埼玉県)によると、1990年代に鴨川の旧河道に沿ってつくられた公園のようです。

公園には「雨水流出抑制施設」も併設されていることが表示されていました。

 

稲荷塚古墳に立ち寄る計画でしたが、想像以上の美しい風景に、今回はそのまま川岸を歩くことにしました。

学校のグラウンドとの間の細い道を川に向かって歩くと、公園の続きでしょうか、水辺ギリギリまで下りれるようにおそらく旧河道の水辺を生かした場所が続いています。

しばらく桜の花びらの道を歩くと、湿地に木の遊歩道が渡された関沼木道が整備されていました。

 

周辺は水田や畑も残り、地元の方達でしょうか、のんびりと散策されています。

 

途中には、「水の浄化」という大きな説明板もありました。

ここ鴨川では、近年の都市化の進展により、水の汚れが急速に進みました。

この汚れた水をきれいにするためには、水中の微生物や植物などを利用する方法があります。ここでは、これらの方法を紹介するため、浄化モデル水路を設置しています。

 

散歩をしながら自分が生活をしている場を知ることができるようになったことに、社会に知識が浸透するまでの時間差はあるにしても、確実に90年代初めの頃に比べれば社会が変化したことを感じました。

 

 

*鴨川の堤防を歩く*

 

公園が終わるあたりで鴨川の右岸側に渡り、ここからは堤防の上を歩きました。

堤防は嵩上げされたのでしょうか、少し高い堤防で、水田が見渡せます。鴨川の川面よりも両岸の水田の方が高い位置にありました。そのためでしょうか、ところどころに水門があり小さなポンプ室がありました。

 

土手には菜の花が満開です。菜の花の黄色は、永劫均一の色ではないかと思うほど、どこに行ってもいつの時代にも同じ黄色ですね。まるで手品のようです。

水面に近い場所はコンクリートで護岸されていますが、その上は土の道が続いていて、草を踏み分けながら歩きました。歩いても歩いても、むしろ先にまだ堤防が続いていることが楽しい道でした。

利根運河にちょっと風景が似ていました。

 

在家橋を過ぎたあたりの水田地帯が広がっている右岸側では堤防工事が行われていたので、左岸へと渡りました。

この辺りはほとんど高低差がないので、ずっとずっと東側の下流の方が曇っていることまで見渡せました。

 

千貫樋が近づいてきたのでまた右岸側へと渡ると、堤防が二段になっていて改修工事中でした。

堤防の中間は車が一台通れるぐらいの道があり、トラックがその工事箇所まで数百メートルほどバックで土砂を運んでいました。ちょっとハンドル操作を間違えれば川の中に落ちてしまう、見ているほうがドキドキする運転技術です。一日に何往復して、こうした場所の改修工事が行われるのでしょう。

すごい世界ですね。

 

出かける前は、彩湖の近くと同じ風景だろうぐらいに思っていたのですが、実際に歩いてみるとそれぞれの地域のそれぞれの歴史を感じる堤防上の充実した散歩になりました。

 

 

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散歩をする 393 鴨川から千貫樋へ

散歩の記録が2か月遅れだったのが、昨年末あたりから3ヶ月遅れになっていました。書いていると次々と知らないことや気づいていなかったことが出て、それがまた一つの記事になるので、どこかへ行ったという話が2~3週間続くようになったことが理由です。

 

ただ、今年に入って今までとは違った感染の広がり方にしばらく散歩の機会が少なかったので、ブログの公開が3ヶ月遅れから2ヶ月遅れぐらいまで巻き戻してきました。

 

散歩をした時の記録は、行動計画をメモ用紙に書いて持って歩き、散歩の途中はiPhoneのメモと写真で記録しています。

できるだけ思い込みをなくし、時間も含めてありのままを記録することが大事だと、まるで仕事中の看護記録を練習しているような感じです。

 

さてようやく4月上旬の散歩の記録を書こうと思って、水判土が書かれた日程のメモを見た時に、「あれ?私はなんでこの場所に行ったんだっけ?」とちょっと記憶が怪しくなりました。

で、メモの中に「千貫樋」を見つけて、そうだったここを見ようと思ったのだったと、その日のことを思い出してホッとしたのでした。

 

 

*「埼玉県の治水施設」千貫樋を訪ねる*

 

2月に三島を歩いていて偶然知った千貫樋(せんがんどい)についてWikipediaを検索したところ、埼玉県にも千貫樋(せんがんぴ)があることを知りました。

 

これはぜひ訪ねようと地図を眺めて、今回の計画ができたのでした。

 

「鴨川」というとまずは京都を思い浮かべますが、埼玉の鴨川は荒川に並行して流れている河川です。

彩湖のそばを通る武蔵野線の北側で、流れがぐいと西へと変わり荒川へと合流しています。2年ほど前に彩湖のあたりを歩いたので、地図で見るまっすぐな鴨川のあたりも似たような風景だろうと思っていました。

 

水判土のあたりは蛇行した箇所があり、「稲荷塚古墳」や「鴨川みずべの里」という公園が描かれていて、しばらくするとまっすぐに整備された水路が続くようです。

そして4kmほど下流に千貫樋水郷公園がありました。

とりあえずそこまで歩いてみることにしよう、その後は成り行き任せでバス路線も結構ありそうなので疲れたらバスで戻ろうという大雑把な計画で出発しました。

 

お天気は快晴、暑くもなく寒くもなく爽やかな春の日差しの中、大宮へと向かったのでした。

 

 

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水のあれこれ 242 水判土

いきなりなんの題名か、どう読むのかわからないタイトルですが、地名です。

4月上旬に行った散歩で、まずここを目指しました。地図を眺めて散歩のコースを決めるのですが、「水」という地名があるこの場所はどんなところなのか、その時もまだ読み方がわからないまま訪ねてみました。

 

交差点があり、その表示に「Mizuhata」とありました。

ああ、みずはたと読むのか、日本語は難しいなあと思いながら、1ヶ月ほど経ったらもうすっかりなんと読むのか忘れていました。

 

Wikipediaには水判土の詳しい説明がありました。

さいたま市の難読地名の一つに数えられる」とありますから、読めないのは私だけではないことでしょう。

 

JR大宮駅と荒川のちょうど中間あたりで、荒川に並行して流れる川に小さな支流が合流する場所に水判土があります。

4本の大きな道路にさらに2本の小さな道路が放射状に交差している場所で、北側にお寺があります。

 

2018年に見沼代用水と武蔵水路を訪ね、荒川の水の神様を訪ね始めてから、大宮周辺の地形もだいぶ想像がつくようになりましたが、「水判土」とは何を表すのか全くわかりません。

 

*水判土の地理*

 

大宮駅から指扇駅行きのバスに乗り、その名も水判土バス停で下車しました。

トラックや自家用車の通行量が多い道路で、そこまでは最近拡幅工事されたような歩道もゆったりした道でしたが、バス停の近くは歩道も白線だけでした。

車を避けながら、交差点の表示を写真に撮りました。

 

北側のお寺は、2mほどの石の壁で高くなった場所にありました。

それ以外は平地のように見えました。

 

さいたま市西区南東部の大宮台地に属する指扇支台の最南端に位置する。南側は鴨川や新川(古入間川)が流れ下る沖積平野(荒川低地)で、北側にも鴨川に合流する小河川が流れる谷戸の低地があり西側以外の三方を低地が取り囲んでいる。

Wikipedia、「水判土」「地形」)

 

あの地形が「大宮台地に属する指扇支台の最南端」というのですね。

散歩に行く前にWikipediaを読んでもなかなか頭に入らないので、だいたいは帰宅してから検索するのですが、正確にその場所が表現されていてすごいと思いながら読んでいます。

ところで「指扇(さしおうぎ)」も、昨年伊佐沼を訪ねるときに「指扇駅」を通過して読み方を覚えたはずなのに、すっかり忘れていました。難しいですね。

 

*水判土の歴史*

 

Wikipediaに歴史が詳しく書かれていました。

もとは江戸期より存在した武蔵國足立郡植田谷領に属する水判土村で、古くは水判土荘内野郷に属していたと云われている。さらに古くは戦国期より見出せる足立郡のうちの水判土であった。水判土は水波田とも記す。

 

地名は低地の農地である水田(水畑)を意味する。低地はかつての入間川の旧流路(現在の新川および鴨川)の氾濫原であった。

「水波田

利根川東遷事業のあとも、暴れ川だった荒川の歴史を意味する地名だったのでしょうか。

 

北側のお寺についても書かれていました。

慈眼寺(じげんじ)には1591年(天正19年)11月10石の寺領(朱印地)が寄進されていた。826年(天長3年)創建で、中世には慈眼寺に水判土館と称される城塁が存在していた。

交差点に面した、あの石が積まれたあたりが城塁だったのでしょうか。

 

そして交差点も、直角に道路が交わるのではないあたりが、「水判土は古くからの交通の要衝であり」を感じさせるものでした。

 

 

ということで、以前からちょっと気になっていた地名でした。これでようやく読み仮名を覚えられるでしょうか。

 

 

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記録のあれこれ 120 明治用水頭首工漏水のニュース

水鏡になった水田に小さな苗が植えられたり、これから植えられる苗が田んぼのそばに準備されている風景を見に、とある地域を訪ねました。

水田は健在と満ち足りた思いで帰路についた新幹線の中で、明治用水頭首工での漏水のニュースを知りました。

 

昨年2月と3月に明治用水の一部を歩きました。その時もちょうど工事中で、あれだけの大地を潤す水量を調整しながら頭首工付近の改修工事が行われていることに圧倒された記憶が蘇ってきました。

 

 

水田だけでなく、水を必要とするすべての仕事に大きな影響が出る可能性がニュースになりました。

 

愛知 取水施設「明治用水頭首工」で大規模漏水 影響広がる

(2022年5月18日、NHK NEWS WEB)

 

愛知県中部で、工業用水や農業用水を供給している水道の取水施設「明治用水頭首工(めいじようすいとうしゅこう)」で17日から取水できない状態となっています。

施設を管理する東海農政局は、十分な量の工業用水を供給するため、ポンプの手配を進め、順次稼働させています。

この影響でトヨタ自動車は部品の供給が滞るとして、19日にトヨタの完成車の生産を担っているグループ会社「トヨタ自動車織機」の工場で、稼働を一部停止すると明らかにしました。

17日未明、愛知県豊田市にある矢作川から水を引き込む工業用水や農業用水の取水施設で水門の下の川底になんらかの原因で穴が空いて大量の水が下流に流れ出る状態になって水位が下がったため午後6時ごろには取水口から水をくみ上げることができなくなりました。

このうち工業用水について愛知県は、下流にある浄水場にためている水がなくなり次第給水が止まる見込みだとしています。

これを受けて取水口を管理する東海農政局は、できるだけ早く事務所へ十分な工業用水を供給する体制を整えたいとしており、ポンプを順次稼働させ、川からくみ上げた水を直接用水路に流しています。

また今回、トラブルが起きている施設からは農業用水も取水されていますが、同様に水を汲み上げられない状態となっていて、農地への供給が止まっています。

東海農政局では、農業者に対してため池の水を活用することや、場合によっては田植えなどの作業の時期を先延ばしすることなどをお願いしたいとしています。

農政局は、今後漏水を止めるための具体策を検討することにしていますが、少なくとも数日間は、ポンプを使った応急的な対策をとらざるを得ない、としています。

一方農政局によりますと、現場近くでは取水施設の耐震化工事が行われていたほか、去年12月にも小規模な漏水がありましたが今回の漏水との因果関係はわかっていないということです。

東海農政局の小林勝利局長は記者会見し「急激に水が抜けていくことを想定していなかった。結果的に後手に回って発表が遅くなったことは申し訳ない」と陳謝しました。

 

【影響】農業用水も停止JA「明日見えぬくらいの衝撃」

 

農業用水を管理する「明治用水土地改良区」は、安城市刈谷市知立市碧南市高浜市西尾市豊田市のおよそ4500ヘクタールの農地に水を供給していますが、愛知県によりますと、今回の漏水で既に供給が完全に止まっているということです。この地域は稲作が盛んで、田植え時期の水が必要な時期に供給が止まったということで、県などで対策を進めています。

明治用水を利用して農業を営んでいる愛知県安城市の農業組合法人では17日から水の供給が止まったままだということです。この法人では、田植えを前に稲を育てていて、パイプラインで送られてくる水が出ないため、すでに水を張った田んぼから流れ出た排水をまいて稲が枯れないようにしのいでいます。

法人の代表でJAあいち中央営農部会の部会長も努める神谷力さんは「今まさに田植えの水が必要な時期で、明治用水がなければこのあたりの農家は、まったく農業ができないと言っても過言ではない。明日が見えないくらいの衝撃を受けています。一日も早い復旧を願っています」と話していました。

 

【影響】自動車メーカーには工場稼働一部停止決めた社も

 

愛知県で発生した工業用水の供給トラブルを受けて、自動車メーカーや部品メーカーでは、工場で使用する水に井戸水を活用するなどの対応をとっていますが稼働を一部停止する動きも出始めています。

トヨタ自動車は、愛知県で発生した工業用水のトラブルの影響で、部品の供給が滞るとして、19日にトヨタの完成車の生産を担っているグループ会社の「豊田自動織機」の1つの工場で稼働を一部停止すると明らかにしました。

停止するのは愛知県大府市にある工場で、完成車の組み立てを行っている2つのラインで、昼間の稼働をとめます。生産への影響はおよそ600台だとしています。トヨタは19日夜間の稼働については、状況をみながら判断するとしています。

また節水につなげようとトヨタ自動車は愛知県豊田市の本社や市内の工場などで働く事務職の従業員に対し、18日以降できる限り在宅勤務を行うよう呼びかけました。

三菱自動車工業は、愛知県岡崎市に完成車の組み立て工場があり、供給トラブルが起きている工業用水を使っていますが、18日は井戸水を使って通常通り工場を稼働させているということです。19日以降の稼働については、今後の状況をみて判断したいとしています。

自動車メーカーの「デンソー」は、刈谷市安城市などにある6つの生産拠点でこの工業用水を使用していますが、現在はためている水や井戸水などを活用し、生産は通常通り行っているとしています。

 

【影響】供給受ける事業所 8割が自動車関連などの大企業

 

今回トラブルが発生した工業用水は愛知県が事業として運営しているもので、岡崎市半田市刈谷市豊田市安城市西尾市高浜市みよし市東浦町武豊町幸田町の12の自治体にある131の事業所に工業用水を供給しています。愛知県水道事業課によりますと、このうちおよそ8割が自動車関連などの大企業、残り2割程度が中小企業だということです。

この工業用水を利用するには愛知県の「承諾」が必要で、1日あたり300トン以上の水を使うことが承認の目安となっています。このため、工業用水を契約しているのは大企業が大半で、水の使用量が比較的少ない企業は自治体が供給する「生活用水」や「工場用水」などを使うケースが多いということです。

愛知県水道事業課の担当者は「現時点では操業ができなくなったという事業者は把握していない。井戸水などで水を確保している企業もあると聞いており、事業継続への備へを考えているところが多いと思う。まずは復旧に力を尽くしたい」と話しています。

 

【影響】発電所では運転停止したところも

 

愛知県で発生した工業用水の供給トラブルは発電所にも影響が及んでいます。愛知県武豊町にある大阪ガスなどが発電事業を行っている「名古屋発電所」は午後1時前に運転を停止しました。

また「名古屋第二発電所」は18日午後9時以降に運転を停止する予定だということです。いずれの発電所も石炭とバイオマスを燃料とする火力発電所で、中部電力の管内に電力を供給しています。

経済産業省は2つの発電所は出力が大きくないことに加えて、電力の需要が多い時期ではないため、電力需要に影響はないとしています。

また、火力発電事業者JERAが運転する愛知県碧南市にある「碧南火力発電所」でも給水が止まっているということです。

ただ、発電所で貯めているタンクの水を使うことで5日間程度は運転を続けられるため、今のところ発電に影響はないとしています。今後は、水の節約のために出力を落として運転することも検討するということです。

 

【仕組み】問題が起きた取水設備と「明治用水」とは

 

今回、問題が起きているのは、愛知県豊田市水源町の矢作川に設置されている「明治用水頭首工」と呼ばれる取水設備です。

「頭首工」は、水位を調節する水門で、これを閉じることで川の流れをせき止めて水位を上昇させ、水門の手前にある取水口に水を流し込む役割を果たしています。

しかし、17日未明に水門の下の川底に何らかの原因で穴が空き、大量の水が、水門の下をくぐるように下流に流れ出ている状態になったということです。このため、水門を閉じても水位が上がらず、取水口で水をくみ取れなくなっているということです。

 

【原因は】東海農政局次長"川の地下に水通る道できた可能性"

 

今回の漏水の対応にあたっている東海農政局農地防災事務所の大坪寛次長は「去年12月に、せきの下流側で水が吹き出しているのに気付き、穴を塞ぐなどの対策をとっていた。しばらくは安定していたが、この日曜日に水が濁っているのに気付いた」とこれまでの経緯を話しました。

その上で「川の地下に水が通る道ができてそこに水とともに土砂が流れ込みだんだん大きくなったのではないか」と話し、水の道を防ぐための対策については「検討中で、一日も早く行いたい」と話すにとどまりました。

 

あの頭首工が与える影響の大きさを改めて感じるニュースでした。

それにしても「水が濁っているのに気付いた」こと、そして「未明」に大量の水が下流に流れ出ていることを発見したという点に、自然災害だけでなく「寝ずの番」であらゆる災害や事故に備えられている社会であることもまたわかりました。

 

広大な碧海台地を潤してきた明治用水が造られ維持されてきた歴史の中で、こうした予期せぬ非常事態を何度も乗り越えてこられたのでしょうか。

 

 

昨年、碧海台地と明治用水を辿って歩いた記事をまとめておきます。

ただひたすら川と海を見に〜矢作川と明治用水〜

明治用水を歩く

「クラボウヒストリー」

矢作川の河岸段丘を歩く

岡崎から三河豊田へ

明治用水取水口と水源町

トヨタの街

明治川神社と水源神社

人造石と服部長七

新幹線三河安城駅と愛知環状鉄道線

矢作川

三河安城駅と明治用水

明治用水記念館の資料より

「水を導く」

「大規模漏水から8週間」

 

*2022年10月4日*

明治用水について書いた記事をこちらにまとめていきます。

 

 

 

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水のあれこれ 241  金目川

上平塚と山下のあたりで数本の川が合流して花水木川になりますが、そこから上流の本流が金目川です。

 

本流ではなく河内川を歩いてみようと計画したのは、山側の住宅地と東側の水田地帯の境になっているように地図では見えたからです。

 

そして「公所(ぐぞ)北」という交差点の少し先で、西からの流れが直角に曲がった場所があります。

そこから1kmぐらい北には金目川が流れているのですが、その間の地名が「広川」で、山側には御領ヶ台貝塚があるようです。

少し高台のような場所が想像できるのですが、そのあたりを見てみたいと思いました。

 

新幹線の高架橋のそばのベンチで一休みしたあとは、右手は水田地帯が続く道を歩きました。

時々、遠くからかすかに「ヒューッ」という音が聞こえたと振り向くと、新幹線が通過しています。

 

山側の幹線道路の方が一段高くなっている住宅地の間を、河内川が用水路のような雰囲気で流れています。

交差点をすぎ、地図の通りに河内川が直角に曲がり山の方から流れてくる場所がありました。山側は急に川の勾配が大きくなって、ちょっとした滝のように感じました。

 

ここからは上り坂になり、東側に金目川の堤防らしき場所が水田の中に見えました。

大磯から歩いてきた疲れもあって、貝塚に立ち寄る計画はやめました。

もう少しで金目川です。そこのバス停から秦野行きのバスがあるので、それに乗ることにしました。

 

建設されたばかりの大きな橋を渡り、片岡バス停につきました。

ここからみる金目川は夕日に水面が輝き、それはそれは美しい風景でした。山の方には雨雲が見え、風が少し強くなってきています。

先ほどの貝塚のある山が金目川右岸にぐいとでっぱり、蛇行しています。「片岡」はそこからきた地名でしょうか。

 

バスに乗ると、金目川の由来となった金目村の中心部の金目駅バス停を通過しました。

「金目駅」で検索すると、またたくさんの先人の記録を読むことができます。

 

蛇行しながら流れる金目川のそばの風景はなんとも落ち着いて美しく、東名高速道路をくぐり、少し高度を上げながら秦野市に到着しました。

ぜひぜひ、川のそばを歩いてみたいものです。

 

*「あばれ川、と言われていた」*

 

金目川は、東名高速道路で渡るときに目にして印象にあった川です。

谷津の細長い場所に水田と水路がある美しい風景が、小学生のころから記憶にあります。

 

金目川は、水源から海までが21キロメートルと非常に短い河川であることから、頻繁に渇水に悩まされてきたと同時に、台風などによる治水対策が難しい流域といわれ、特に、中流部は周囲の田畑より河床が高く、曲がりくねっており、昔は大雨により、洪水がよくおこる「あばれ川」とも言われていた。

 

過去の災害

・昭和54年10月19日の台風20号金目川水系における降雨で最大で一時間に40mmの雨に見舞われたことにより、上流部では堤防が決壊。畑作・水田に被害を出した。

次に収穫できたのは何年後だったのでしょうか。

 

あっという間に新幹線が通過するあの水田地帯に流れる川の歴史を、歩くことで少し理解することができました。

 

ところで、花水木川が金目川になるあたりで、二級河川金目川水系の渋田川と金目川の真ん中にもう一つ川があるのですが、名前が地図には載っていません。

排水路のような流れなのでしょうか。あの山はなんというのだろうというきっかけで計画した散歩でしたが、「その川はなんという川なのだろう」どんな歴史があったのだろう、とまた知らないことが増えました。

 

 

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