記憶についてのあれこれ 139 東海道新幹線品川駅

昨年、倉敷を訪ねて以来、今までの人生の中でこんなに新幹線に乗った年はないかというくらい利用しています。

10年ほど前に 母が入院して面会に通った時期は、週に2〜3回新幹線を使っていましたが、それ以来です。

 

最初に新幹線に乗ったのが、小学生の時に大阪万博へ行くために「夢の超特急」に乗った時でした。

今から半世紀前になるのですね。

新幹線のホームに初めて立って、新幹線が停車している時の音を聞いただけで、なんだかすごいと感激していたあの気持ちがいまも蘇るので、新幹線に乗るのが大好きです。

母の面会の時でさえ、心が踊っていましたから。

 

最近、あちこちに散歩するために新幹線を使うようになって、驚いているのがそのダイヤです。

6時台から7時台の早い時間帯に乗ることが多いのですが、3分から4分おきに次々と新幹線が入ってきます。

のぞみとひかり、そしてこだまが次々と来て、そして途中駅で抜いたり抜かされたりしながら、あの速度でほぼ正確に運行されていることに改めてすごいと思います。

 

私が通勤に使っている路線でもこの時間帯はまだ7〜8分おきの時間帯に、そのどれもすでに結構な乗車率で、もう「夢の超特急」は人生の晴れの日に乗るようなものではなく日常の交通手段になったのですね。

 

以前は東海道・山陽新幹線に都内で乗車するには東京駅しかなかったのですが、いつ頃からか品川駅ができてとても便利になりました。

いつからだろうと東海道本線を読むと、2003年だそうです。

東海道新幹線の品川駅が開業したのは2003年(平成15)10月で、現時点では最も新しい。当駅で折り返すことで大井車両基地との競合を回避し、線路容量を最大伝に活用できるようになった。 

 

その早朝の時間帯に3〜4分で列車が入ってくる下りホームと同じように、東京駅に向かう回送列車が次々と通過していました。あれが、大井車両基地から来ていたのでしょうか。

 

ところで、新幹線品川駅がいつ開業したかという記憶が、私には全く残っていないことにちょっとショックを受けています。

2003年当時はほとんど新幹線と無縁の生活でしたが、新幹線と聞くと大阪万博に行った時のことや、その後山陽新幹線まで延長されて祖父母のところへ行ったことなど思い出されるので、少しはそのニュースが記憶に残ってもよそさうなのですが。

 

それにしても、2003年ごろでも相当な本数が走っていたことでしょうから、その合間に品川駅を新設する工事はどうやって行われていたのでしょう。

新幹線が走らない夜間帯に、粛々と進められていたのでしょうか。

なんだか、すごいことですね。

 

 

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散歩をする 126 汐川干潟と渥美半島

温かい食事で元気が出たら、まだ日没までに3時間ぐらいあるのでもう少し欲張って歩いてみようと思いました。

すでに計画はありました。

豊橋駅から豊鉄渥美線に乗って、渥美半島の車窓の風景を見ることでした。

 

干潟を訪ねた頃に、地図を眺めていて偶然見つけたのが、汐川干潟でした。

最近では地図をパッと見ただけで、用水路と干拓地を見つけられるようになりました。

渥美半島の内側に干拓地らしき場所があって、そこを拡大してみていたら汐川干潟と書かれていました。

 

こちらの記事に書いたように、椎名誠氏や中村征夫氏の本で干潟の存在が心の中に残ってから30年ほどたった今、その言葉が大きくなってきました。

干拓地と干潟は切ってもきれない関係のようで、どちらかを立てればどちらかが立たずなのかもしれません。

 

 

*汐川干潟を車窓から眺める*

 

豊橋駅に戻った頃は、お天気なのに風がそうとう強くなっていました。おそらく風速10mぐらいです。

 

豊鉄渥美線は1時間に4本あるので、風がなければ途中下車して干潟の近くまで歩いてみようと思ったのですが、風の冷たさに断念しました。

ただ、地図で見ると線路と干潟は離れているようでも間は水田地帯のようですから、おそらく成田線から利根川が見えたように、風景を遮るものは少ないと予想しました。

 

予想通り、老津駅を過ぎたあたりから海が見え始めました。三河湾大橋と田原湾がしばらく見えました。その向こうにある工業地帯の存在感の方が大きくて、保存運動で守られてきた干潟が本当にあるのか車窓からは見えず、残念でした。いつか、干潟を歩きにまた訪ねてみたいものです。

 

終点の三河田原駅に着きました。

せっかくだから田原城まで行ってみようと駅舎を出たら、あまりの冷たい風に気持ちが折れて、そのまま折り返しの列車に飛び乗って旅は終わりました。

 

でも駅に停まっていた「伊良湖岬行き」のバスを見て、幼児の頃に伊勢神宮へフェリーで行ったのは、伊良湖岬からだったのだとつながりました。

先日、母にどこからあのフェリーは出ていたのかと尋ねたら、愛知県だったようなことを言っていましたから。

東海道本線しかなかった1960年代前半には、おそらく関東から伊勢神宮に行くためには、豊橋で降りて伊良湖岬からフェリーで伊勢神宮に行くのが近道だったのかもしれません。

 

思いがけず、記憶を確認する散歩になりました。

 

 

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水のあれこれ 98 豊川放水路

行く前に地図を見ていたら、豊橋駅のすぐそばにある水路に気づきました。牟呂用水であることがわかりました。以前、どこかで目にした明治時代に開削された用水路です。

駅西口からすぐのところに神野新田開発のために延長された部分が残っているようなので、豊橋駅に到着してまずこの用水路を見に行きました。

Wikipediaの牟呂用水の説明にもうひとつ松原用水について書かれていますが、こちらはさらに16世紀に豊川から水を引き始めていたようです。

 

大きな川から水を引き、農地が作られ、食糧を得る。

「灌漑」という言葉を小学生ごろに習っていたと思いますが、こうして実際にその用水路をたどって歩いて見ると、月並みな言葉でしか表現できないのですが、その重みに圧倒され続けています。

 

さて、地図で見ると豊橋市を流れる豊川は、市の中心部のあたりで大きく蛇行を繰り返しています。

コトバンクの世界大百科事典では、豊川放水路について以下のように言及されている部分が紹介されていました。

...豊川は流路延長が短く、河道のこう配が大きいのに、流域の降水量に季節的な変化が大きいため、河況係数(年間の最大流量の最小流量に対する比)は8:1と全国主要河川の中では最高値を示している。このため過去なんども洪水にみまわれ、鎧堤と呼ばれる堤防を築いたり、民家の周りに石垣を築くなど対策が講じられてきたが、最終的に解決されたのは1965年の豊川放水路の完成によってである。豊川を利用した灌漑用水としては、松原・牟呂両用水に加えて、68年に完成した豊川用水がある。

 

広範な土地を水で潤すだけの水量は、反対に家や田畑を流し、多くの生命を奪うことにもなるということですね。

 

*豊川放水路分水堰まで歩く*

 

豊橋駅から市電に乗って十分ぐらいのところに、吉田城跡と公園があります。川のすぐそばに城跡があるということは、あの熊野川を見下ろす新宮城のような高台だろうと思った通り、大きく蛇行する豊川を一望できました。

 

そのあとバスで豊川放水路の手前まで行き、放水路の堤防を歩いて分水堰を目指しました。

春の暖かな日差しだったので歩くと汗が出てきそうなくらいでしたが、風が少し強くなってきたので上着を脱ぐと少し寒く、またガードレールもない堤防を車を避けながら歩いていると風で放水路に飛ばされそうになりながら、ちょっと冷や汗の出る散歩になりました。

歩いている人なんていませんからね。

 

堤防を歩くこと20分ほどで分水堰につきましたが、その間、放水路側に流れている水はわずかでした。

2ヶ月くらい前に、下流を新幹線で通過したときにはかなりの水量があったので、季節の違いとか上流のダムからの放水量が関係しているのでしょうか。

この日は豊川本流もこの分水堰があるあたりは水量が少なく、河床が広範囲に見えていたのですが、大雨で濁流がこの堤防の上端近くまでくることを想像すると、この大きく蛇行した場所はそうとう危険だったのだろうと想像しました。

 

私が幼児の頃に完成したこの放水路ですが、私自身、水害の記憶がほとんどないのも、この時代にこうしたひとつひとつの工事が積み重ねられてきたからだったのだと改めて思いました。

 

 

*とよがわからとよかわへ*

 

豊川(とよがわ)から豊川(とよかわ)市内へは、歩いて20〜30分ぐらいでいけそうです。

分水堰付近はバスが通っていないので、豊川稲荷まで歩くことにしました。

地図で見ると、分水堰から水田地帯をまっすぐ歩けば名鉄豊川線の稲荷口にたどり着くようです。

この「豊川線」は「とよかわせん」と読むようですね。

 

このあたりで1万2000〜3000歩ぐらいだったので、まだまだ歩ける余力はありました。

ところが田園地帯の道路というのは車優先なのか、歩道もなく、前から後ろからひっきりなしに通過する車を避けながら、しかも次第に風が強くなってきた中を歩くのはけっこう疲れました。

そして、まっすぐな道というのは、目標が遠くに見えてもなかなか近づかない感覚が疲労感を増加させる感じです。

 

ようやく、観音堂という交差点から、歩道が整備された道になりました。

その交差点からはゆるやかに、でも結構な勾配の登り道になっています。

ここが、水田地帯と豊川の河岸段丘の境界なのかもしれません。

 

河岸段丘の上に、豊川稲荷とその門前町が広がっていました。

豊川稲荷が見えてきた頃に2万歩を超え、足を引きずるように歩いて、風の冷たさと疲労感の中、お店にたどり着きました。

そこで食べた温かいおうどんで元気になり、もうちょっと歩けそうな気がして豊橋駅まで戻ることにしました。

 

その途中、豊川放水路の下流部分を通過したのですが、分水堰付近の水量とは様相が違い、以前見たように相当の水量が流れていました。

ということは、あの分水堰より下流で、両岸に広がる水田地帯から水が流れ込んでくるのを受け止めているのでしょうか。

 

水を利用し、そして水を制するということは、本当にすごいことだとあちこちの放水路を見るようになって思います。

 

 

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散歩をする 125 豊橋から豊川へ

先日の記事の2万5000歩は、豊川放水路を訪ねる散歩でした。

 

南紀をまわる計画を立てる時に、名古屋までいくつ川を渡るか調べた時に見つけました。

新幹線で豊川を渡ったあと「次に見えるのは豊川放水路だ」と目を凝らしていたら、冬で安倍川が瀬切れを起こすぐらい乾燥していた時期なのに、思いのほか水量の多い流れが印象に残りました。

帰宅してさっそくパソコンの地図を見ていると、豊川と豊川放水路の分岐点からの二つの川の流れが直線と蛇行と対照的で、その地の水害の歴史に俄然、興味が出てきました。

この放水路の分岐点をいつかこの目で見てみよう。散歩の予定ノートに書き加えられました。

 

3月に掛川に行き、天竜浜名湖線の途中まで乗ったので、せっかくだから全部乗ってみたくなりました。

浜松から遠州鉄道西鹿島天竜浜名湖線に乗り、浜名湖の周りを見て、終点新所原から豊橋に向かい、豊川放水路をみる。

時間がまだありそうなので、地図を拡大したり縮小したりしているうちに、豊川稲荷までいけそうです。

大まかな旅の計画ができました。

 

ところでこの準備をしている時に初めて知ったのが、川の方の「豊川」は「とよがわ」で、市は「とよかわ」だそうです。どちらも「とよかわ」だと思っていました。

おもしろいですね。読み方にもまた、歴史があるのでしょうか。

 

天竜浜名湖線浜名湖をまわる*

早朝の新幹線で浜松まで行き、遠州鉄道西鹿島でおりました。天竜浜名湖線の時間まで40分ほどあったので、天竜川の堤防まで歩いてみました。先日あっという間に過ぎてしまった鉄橋が、すぐそこに見えます。やはり、そこから上流は急激に川幅が狭くなり、両岸が山のような高さになっていました。

天竜川の上流もいつか見てみたい、ノートに書き加えられました。

 

天竜浜名湖線に乗って、比較的平坦なところに丘のような山がある地形の中を進んで行くと、浜名湖が見え始めました。

新幹線や東名高速で通過する浜名湖の風景とはまた違い、いくつもの奥まった湾に沿って街があって、それぞれ少しずつ雰囲気が違いました。

子どもの頃は温州みかんといえば「三ケ日みかん」だったのですが、その三ケ日もこの天竜浜名湖線沿いにありました。

 

浜名湖の沿岸を通過する間に、何本もの川を渡りました。

大きな川から小さな流れまで、そして時々見える浜名湖湖畔まで、期待以上に水が澄んでいました。

この浜名湖に注ぐ川も、またいつか訪ねてみたいものです。

 

 

終点の新所原東海道本線に乗り換えると、十分ほどで豊橋に到着。

いよいよ、豊川放水路の分水堰です。

 

 

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事実とは何か  59 「 悪魔の証明」

「正しさ」との闘いに距離を置くで引用した2018年の新聞記事を読み返していて、こういうことを「悪魔の証明」というのかなと思いました。

古賀の代理弁護士によると、古賀は3月に世界反ドーピング機関( WADA)に夜抜き打ちの尿検査を受け、筋肉増強作用のある禁止薬物が検出されていた。8月のFINA国際水泳連盟)の公聴会では摂取していたサプリメントに成分表示のない禁止物質が混入していたとする分析結果を提出。検出されていた物質の資格停止期間は原則4年だが、重大な過失はないとして2年以下に短縮するよう求めていた。

しかし、FINAは「立証責任を満たすだけの信用性が認められない」として主張を退け、10月25日付けで4年間の停止処分を受けていた。

 

「悪魔の証明」という表現を、10年前にニセ科学の議論を読むようになって初めて知りました。

その当時の何の議論で使われたのかも覚えていないことと、なんとなくその意味が理解できる程度でそのままにしていました。

 

Wikipediaでは以下のように書かれています。

悪魔の証明とは、証明することが不可能か非常に困難な事象を悪魔にたとえたものをいう。中世ヨーロッパのローマ法の下での法学者らが、土地や物品等の所有権が誰に帰属するのか過去に遡って証明することの困難さを、比喩的に表現した言葉が由来である。 

 そして最後に、「消極的事実の証明」とありました。

「ないことの証明」を、「悪魔の証明」とする使われ方もある。また、証明が困難でないことを『「悪魔の証明」には当たらない』と反論で使うこともある。 

 

ああ、そうでした。50mプールに一滴垂らした濃度で何かに効果があるというホメオパシーについて、「効果がないと証明しろ」と求められることについて使われていたような記憶が。

 

先日の藤森大将(ひろまさ)選手のニュースもそうですが、「どこに気をつけたらいいのかわからず、手の打ちようがない」としか言いようがない事態になっているのは、ドーピング検査というのはこの「悪魔の証明」に近いものを求められているからではないかと、この言葉を思い出したのでした。

 

身の潔白を証明するためには、「身に覚えがない」状況は許されないのが最近のドーピング検査かもしれませんね。

これからは毎日、飲んだり食べたりした物からキスをした相手の唾液まで、一つ残らず検体として保存しておかなければならないほどのことを求められているわけですから。

 

「常に限界を超えるところを目指し、節度を失ったスポーツ」になるに連れて、選手の健康と尊厳を守るはずのドーピング検査も節度を失っているのかもしれません。

 

こちらの記事で紹介した、「現代を生きるための科学リテラシーニセ科学問題と科学を伝えることなど)」(菊池誠氏)の、「ニセ科学とは言えないが危ない議論になりがちなもの」のカテゴリーに、私の中では反ドーピング運動が追加されるようになりました。

分野はニセ科学ではないが、怪しい説が飛び交う難しい領域の例。リスクや安全にまつわるものが多く、不確実性が高く、白黒はっきりした正解はない(トランス・サイエンスと近い)。 

 

何が問題か

・社会的損失

  経済的、時間的、人的

・社会の非合理化、思考の単純化

  ・二分思考:ゼロリスク幻想

  ・考えない世界:民主主義の基盤 

 

ほんとうに、「悪魔の証明」を求められることによる人的損失は大きいと思いますし、「ドーピング検査は正義」で思考停止してしまっているかのような風潮がちょっと怖く感じます。

 

 

 

 

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古賀淳也選手とドーピング問題についての記事はこちら

数字のあれこれ 49 泳ぐ速度を予測する

NHKテレビ朝日の競泳の放送では「前半に○秒××で入ったので、後半は△秒◎で戻ってこれれば、日本記録更新が可能ですね」という解説者の説明を聞きながら観ることができます。

これが直接会場で見る醍醐味とは違った面白さです。

 

私には「今日は泳ぎがとても軽そうだ」「後半、失速している」ぐらいしか見えなかったのですが、最近は「このペースなら〇〇秒台かな」ぐらいは見えるようになってきました。

ところが解説の方々は、百分の一秒まで計算しながら、選手の泳ぎを観察して、そして結果を予測しているのですからすごいものです。

そして泳ぐ選手自身が、そういう百分の一秒までの数字を意識して泳ぎを再現しようとしているのですから、ただがむしゃらに頑張っていたり、興奮をバネに戦っているだけではない競技ですね。

 

まあ、数字に弱い私は、解説の中の小数点以下2桁までの数字を言われても、合計何秒になるのか足し算が追いつかなくて録画を見ているのですが。

 

昨日の200m男子平泳ぎ決勝の渡辺一平選手の泳ぎも、「これはすごい記録が出そう」という泳ぎに見えました。

前半から本人の持つ世界記録ペースで泳ぎ、会場に「世界記録更新」の音楽が流れるだろうと思っていたのですが、最後のほんの5mぐらいの泳ぎ方で更新がなりませんでした。

世界記録を出したあと、その自己ベストの更新どころか優勝からも遠ざかっていたので、自信を失いそうな状況だったのではないかと渡辺一平選手の気持ちを勝手に想像していたのですが、あとわずかというところまで再現できたことは次への自信になることでしょう。

 

そんな世界記録レベルの泳ぎでも、インタビューを見ると計算しながら泳いでいるのですから、競泳選手に必要なのは泳ぐ速度を予測する能力で、それは薬やサプリでは得られないものだということが痛いほどわかっているのが選手自身ではないかと思えるのです。

 

反ドーピング運動を率いている側は、「これをどれだけ飲めば、これだけ速く泳げる」という効果があるのであれば、その予測を数字で実証して欲しいものです。

 

 

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古賀淳也選手とドーピング関連の記事のまとめはこちら

事実とは何か 58 抵抗のない泳ぎの技術に効果のある薬

競泳日本選手権が4月2日から開かれています。

年々、開催期間が長期化する中で、今年は8日までの7日間と記憶する中では最長です。しかも開催時間が16時からと早いので、休みか夜勤明けの日にしか観に行けなくてちょっと残念です。

 競泳の場合、NHKが全日程を放送してくれているので、行けない日には録画を観ることができてありがたいのですが、それでもやはり会場での観戦は、楽しいものです。

 

なんといってもやはり、競技前のアップの様子を観ることができることです。

20〜30人ぐらいの選手が一斉にアップをしているなかで、最近はそのなかでもさらに達人級の選手をパッと見つけることができるようになりました。

先日も、ふと目がいった選手が大橋悠依選手でした。

ふわっと抵抗のない泳ぎ方にまず目が行って、しばらくして大橋悠依選手だと気づきました。

言葉に表現するのは難しいのですが、アップの時にも練習で積み上げてきた泳ぎの技術の差が見えるかのようです。

 

 

*抵抗のない泳ぎに効果のある薬物はあるのか*

 

さて、ここ数年は、競泳の応援のしかたに逡巡していました。

というのも、まだ自分が何者かわからない若い人たちを持ち上げたり引きずり降ろしたり、そんな社会の中の作られていく興奮が怖いように感じることが多いからです。

 

昨年からは、アンチドーピング運動への疑問も大きくなりました。

 

この日本選手権の直前にも2つのニュースがありました。

古賀淳也選手が所属先を退職しこれからも身の潔白を証明し続けるというニュースと、

「競泳の藤森太将(ひろまさ)、ドーピング検査で陽性反応 リオ五輪4位」(朝日新聞、3月29日)でした。

 

朝日新聞では、12月の短水路世界選手権で「検体から興奮作用のある禁止物質メチルエフェドリンが検出された」と書かれています。

そして日本水連のコメントが以下のように書かれています。

日本水連の幹部は「指導は徹底している。本人も摂取の心当たりは無いといっている。どこに気をつけたらいいのかわからず、手の打ちようがない」と話した。

 

水泳は抗力と推進力のバランスが大事で、一人一人の体も心も違うので他の選手の技術を真似てるだけではだめだし、ただ力任せになってもだめだし、興奮しすぎて気負っても百分の一秒まで自分の泳ぎを再現することができなくなるほど、繊細な競技ではないかと思います。

 

それなのに、「これを飲むとその百分の一秒の戦いに勝てる」かのような物質は存在するのでしょうか?

「その効果を謳う側がそれを実証する必要がある」というあのニセ科学の議論で耳にしていた言葉が浮かんでくるのです。

 

 

「ドーピングの哲学 タブー視からの脱却」によれば、世界反ドーピング機関(WADA)が設立されたのが1998年のようです。

その6年前に、科学的根拠に基づく医療という言葉が生まれています。

そのあたりから医療では、「まだ検証されていないから認められない」「わからないものはわからないとする」方向へ大きく変化しました。

 

その医療の変化を身をもって感じてきた経験からすると、アンチドーピング運動側のようにごく微量の物質を黒(ドーピング)とする方が、社会全体が近代医学以前の非近代医学の時代に後戻りさせられているように見えるのです。

 

守るべきは選手たちの尊厳と健康のはずが、どこか道を間違っているように感じています。

 

 

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観察する 59 自然教育園

国立科学博物館付属自然教育園は、これまでも近くまで散歩をしていながら閉園時間や休園日だったり、入る機会がないまま過ぎていました。

緑の中に水色の部分がある、地図を見ているとすぐにでも行きたい場所の一つなのですが。

 

桜が咲き始めた季節とあって、平日なのにお隣の東京都庭園美術館にはたくさんの人がいました。

自然教育園も混んでいるかなと心配になりましたが、こちらはほどほどの人出でした。

 

歩き始めたところで、スミレの群生した場所があちこちにありました。

タチツボスミレではなく「アオイスミレ」と標識がありました。

スミレが大好きという割には、その標識がなければタチツボスミレだと思う程度の知識です。

 

*水はどこから来るのだろう*

自然教育園は航空写真ではわかりにくいのですが、園内は高低差がかなりあって、池の方へはけっこうな斜面になっています。

途中に、室町時代の豪族によって造られたらしい土塁の説明がありました。

前に見られる土盛りが土塁です。

この土塁は、今から400〜500年前、白金長者とよばれる豪族によって、外敵や野火を防ぐために築かれたと考えられています。

土塁は、園の周辺や館のまわりに築かれ、その上にシイの木を植えたといわれています。

自然教育園の池や沢の水は、北側にある土塁の下を通って外へ流れますが、この出口を閉じると上流部が大きな池になるように作られています。 

 土塁の中に水路が造られていて、あの地図にある水色の池や湿地になっているようです。

 

自然教育園の前の目黒通りの反対側に、池田山公園八芳園がありますが、山手線の車窓からでも高台に見えるこの白金台に水が豊富にある場所がいくつもあるようです。

三田用水ができる以前から、水が豊富な高台は力のある人たちによって押さえられてきたのだろうかと想像しながら、園内の水辺を歩きました。

 

*手を入れずに変化を観察する*

 

鬱蒼とした林の中を歩いていると、「林の移り変わり」という説明がありました。

この林は、1960年頃にはまだ若いマツ林でした。しかし、自然教育園になって、下刈りなどの手入れをやめるとウワミズザクラ・イイギリ・ミズキなどの落葉樹やスダジイタブノキなどの常緑樹がマツ林の下に育ってきました。

1963年頃には、マツは下から育ってきた落葉樹の高木に光をうばわれて枯れ始めました。

今ではその落葉樹も、生長が遅かった常緑樹が高くなるにつれて下枝などが枯れ始めています。やがてこの林は、長い年月の間には、スダジイなどの常緑樹林へと変わっていきます。

このように、林が時間とともに変化していくことを遷移といい、遷移が進んで変化の安定した林を極相林といいます。

 

あの熱帯雨林の10年の変化を思い出しました。

 

園内には一見、朽ち果てた木が放置されているかのように見える場所があります。手入れが行き届かないのかと思っていたのですが、この説明を読んで観察されていることがわかりました。

この自然教育園の林が極相林になる頃は、私はこの世にはいないかもしれないですから、森林の変化の観察というのはなんと気が遠くなる時間なのでしょうか。

 

なんだかこの園内のすべての植物や生物の存在に圧倒されながら、最後に売店で「スミレ ハンドブック」(山田隆彦氏著、2019年、文一総合出版)を見つけました。

スミレだけで80ページにも及ぶ写真付きの説明があり、「スミレ科には23属約800種がある」という出だしの一文で打ちのめされるような感じになりました。

私が見ていること、知っていることなんてこの世の中で観察されていることからしたら、ほんのわずかだということに。

 

 

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散歩をする 124 恵比寿から白金台へ

今日のタイトル、とてもおしゃれな散歩のように聞こえますが、かねてからずっと気になっていたビール工場跡地を確認する散歩です。

 

恵比寿というと、1980年代前半の記憶では、今の山手線の内側に大きなサッポロビールの工場がありました。

当時はまだ埼京線などがなくて、あの辺りはたしか山手線と貨物専用の線路だけで、しょっちゅう貨物列車と行き交っていた記憶があります。

山手線沿線は30〜40年前と景色がほとんど変わらないような場所と、恵比寿や大崎周辺のようにその変貌の激しさに驚く街とがあります。

 

恵比寿を通過するたびにあの工場のあった頃と、1980年代終わりに工場の跡地にビアガーデンができた頃、そして今の恵比寿ガーデンプレイスと、3つの時期の風景が重なり合って、何度通っても今の景色が幻のような不思議な感覚に陥る場所です。

 

そのビール工場があった場所を、以前も訪ねて歩きました。

1980年代前半に工場のそばを通過している時には広大な平地にしか見えませんでしたが、おしゃれなガーデンプレイスになってから、よくよくみるとウエスティンホテルやマンション群のある南側は切り立つような斜面になっています。

小高いところにあの工場があったことがわかりました。

三田用水を訪ねて歩いたことで、そこに工場あった理由がわかりました。

 

そうなると、今度は高低差が気になり出しました。恵比寿駅と目黒駅の間に、ガーデンプレイスと白金台に挟まれたように低い場所があり、ガーデンプレイスの斜面に沿って細い道があります。

山手線の車窓から見える、あの細い道を歩いてみたい。

恵比寿駅からその高低差を歩き、白金台へと上り、国立科学博物館付属自然教育園まで歩いてみよう、散歩のコースが決まりました。

 

恵比寿駅を降りてガーデンプレイスまで歩き、そこからはほとんどの人が目指すガーデンプレイスからそれて、エビスビール記念館の方へ向かい、ウエステインホテルの脇の道に入ります。

右手はガーデンプレイスの急な斜面と少し鬱蒼とした植え込みが続き、左手は普通に住宅街が続く道ですが結構な下り坂でした。

ここがあのビール工場の裏手だったのかと、大げさでなく感無量でした。

 

恵比寿の「概要」に歴史が書かれています。

1887年(明治20年)、日本麦酒醸造株式会社(サッポロビールの前身)がこの地に工場建設用地を取得し、2年後の1890年(明治23年)に発売されたビールは、「ゑびすビール」と名付けられ人気を博した。翌1891年(明治24年)には、ビールの運搬のために日本鉄道品川線(現在の山手線)に貨物駅が開設され、「恵比寿停留所」と命名された。 

私が見ていた工場は、この地でビールが造られてちょうど一世紀ほどたった頃だったようです。

 

渋谷区が出版した「渋谷の記憶」では、「明治末期 大日本麦酒工場正門」の写真があります。その写真をみると、工場の左側に切り立つような斜面が写っています。ここがこの日に歩いた道かもしれません。

 

また「昭和26年 恵比寿駅」の写真にこんな説明が書かれています。

明治34年(1901)に「恵比寿ビール」の積み出し専用駅として開業した恵比寿停車場は、39年に一般の客も利用できるようになりました。 

 「昭和20年代 恵比寿駅前」の写真では、「線路の向こう側にはまだ林などが多く残って降り、貨物用の線路には蒸気機関車が走っています」と書かれているので、工場のあった山手線の内側は、まだ人寂しい場所が多かったのかもしれません。

 

坂道を下ると山手線から見える踏切があり、「長者丸踏切」という名前であることを知りました。

そこから北へ白金台方面へ、今度は上り坂です。

坂を登りきると、邸宅が立ち並ぶ一角がありました。この辺りの建物にも「長者丸」が使われているものもあり、その由来はなんだろうと検索してみましたがよくわかりませんでした。

 

首都高目黒線の反対側は、鬱蒼とした自然教育園の森が広がっています。

「沿革」にはこんな歴史が書かれていました。

自然教育園を含む白金台地は、洪積世(20~50万年前)海食によって作られました。

いつ頃から人が住み着いたかは不明ですが、園内から縄文中期(紀元前約2500年)の土器や貝塚が発見されていることから、この時代には人々が住んでいたと考えられます。

平安時代には目黒川、渋谷川の低湿地では水田が開墾され、台地の広々とした原野には染料として欠かせなかったムラサキの栽培も広範囲に行われていたと考えられています。室町時代に入ると、この地方にいた豪族がこの地に館を構え、今に残る土塁は当時の遺跡の一部と考えられています。この館の主が誰かは不明ですが、白金の地名は永禄2年(1559)の記録に初めてあらわれ、太田道灌のひ孫の新六郎がこの地を治めていたことが記録されています。また、いわゆる「白金長者」であったという言い伝えも残っています。

江戸時代になると、増上寺の管理下に入りましたが、寛文4年(1664)には徳川光圀の兄にあたる高松藩主松平讃岐守頼重の下屋敷となり、園内にある物語の松やおろちの松などの老木は、当時の造園の名残であろうと思われます。

明治時代には火薬庫となり、海軍省陸軍省の管理となり、大正6年(1917)宮内省帝室林野局の書簡となり、白金御料地と呼ばれました。

その後、昭和24年文部省の所管となり、「天然記念物及び史跡」に指定され、国立自然教育園として広く一般に公開され、昭和37年国立科学博物館付属自然教育園として現在に至っています。

 

この自然教育園のそばの交差点に立つと、一方は目黒駅方面へ、もう一方は五反田駅方面へと下り坂になっています。

山手線から見ると、険しい坂道に住宅やビルが建っているように見える場所です。

この複雑な地形が20〜50万年前に作られ、姿を変えながらいまの風景になったことを考えると、ちょっとめまいがする散歩になりました。

 

 

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数字のあれこれ 48 2万5000歩

先日、とあるところを散歩した時の総歩数が今日の数字です。

 

歩数計を持って歩くようになってから、おそらく最高記録ではないかと思います。

散歩をしていると2万歩ぐらいになることは時々ありますが、それぐらいだと、けっこう歩いたという疲労感があります。

そこを越えると足腰が疲れすぎて、あの準備体操が不十分なまま泳いだ時のように思わぬところを痛める原因になりそうなので、だいたい2万歩を歩きすぎないための目安にしています。

 

そこからさらに5000歩というのは、歩き始めの5000歩とは違って疲労が溜まっていますから、まさに「足取りも重く」「足を引きずるような」歩き方になって行きました。

 

途中で止めたいけれど歩く以外に手段がない道で、しかも休憩するような場所もなく、前に進みました。

お天気の割に風が強くなってきたことと、お腹が空いたのも疲労感を増強させました。

 

街が近づいてきて食堂があちこちに見え始めてきたら、井の頭五郎氏になって遅いお昼ご飯を食べました。

温かいご飯を食べたら、また歩けるような気がしてきて、もうちょっと欲張ってみようと歩き始めました。

日没までにどこまで歩けるか、なんだかトルストイの民話のようだと思いつつ、この疲労感があるから自分の限界を認識できるのかなと、少し朦朧としてきた頭で考えました。

 

歩数計でキロメーターに換算したら18kmと出ました。

これは最初に入力した歩幅通りの計算で、実際には疲れてくると歩幅も小さくなることでしょうから、地図で大雑把に距離を測って見ると12〜13kmといったところ。

 

パソコンの地図を見ているとなんだかどこまでも行けそうな気がして、ついつい欲張った計画を立てそうになっていたのですが、最近ではだいたいの歩ける距離の限界が読めるようになってきました。

 

それにしても、あの東南アジアの山に住む少数民族の人たちの身体能力を思い出しては、彼らは何万歩ぐらい歩けるのだろうと気になっています。

 

 

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