散歩をする 267 多磨霊園と野川の湧水

昨年末は小平霊園を訪ねたので、新年早々、都立霊園の話が続きます。

 

1990年代に時々、東八道路を通る機会があって、都立多磨霊園のそばを通過したことがあるのでだいたいの場所は知っていました。ただ、いつも夜だったので、ちょっとぞわぞわする気配を見ないようにしていました。

 

お鷹の道から国分寺崖線のハケ下を歩き、野川沿いを歩いた時には、そばを東八道路が通っていたのですが、正反対が多磨霊園だったことを帰宅してから気づきました。地図を穴があくように見ているはずなのに、なかなか頭の中の地図は不正確なままですね。

 

そうだ、今回は多磨霊園の中を通って、野川へ出て、あの湧水をみよう。

そう思って地図の多磨霊園を拡大したら、高橋是清氏の墓地があるようです。

 

*都立多磨霊園

 

武蔵境駅から西武多摩川線に乗り換えて、多磨駅で下車しました。

小平霊園と同じく、西武線の沿線にあります。子どもの頃から乗っていた西武線ですが、複雑な路線図でここだけ離れた路線なのは、多摩川から砂利を運搬するためだったことは以前Wikipediaで読んだ記憶があります。

 

霊園の前というのは石材店が並んだ参道がまっすぐ通っているイメージでしたが、同じ都立霊園でも、多磨霊園へは細い駅前の道を通り、人見街道を渡った後も曲がった細い路地を歩くようです。わずか2~3分の距離なのに、道を間違えそうになりました。

細い参道の先に、一段高くなっていて、そこが多磨霊園の敷地でした。

野川の河岸段丘の山林を切り開いた故の、段差でしょうか。

東京市公園課長井下清による欧米諸国都市における墓地研究の結果、1919年(大正8年)に東京都郊外の東・西・北に新たに広い公園墓地を整備する計画が提出された。そして、この計画を基にして1920年大正9年)に東京市の西にあたる多磨村が選ばれ、その2年後には多磨墓地の造営が開始された。この場所が選ばれた理由としては、同地はほぼ未開地であったことや、郊外としては甲州街道京王電気軌道・多摩鉄道・中央線などの交通網が揃っていたことが挙げられる。造園開始から1年後の1923年(大正12年)に開園した。

 

東京市街から離れていたこともあり供用開始からしばらくは使用するものはあまり多くなかった。しかし、1934年(昭和9年)に東郷平八郎元帥海軍大将が名誉霊域(7区特種1側1番)に埋葬されたことにより多磨墓地の名前が広まり、これ以降利用者が大幅に増え、現在のような人気の霊園の一つになった。

Wikipedia多磨霊園」の「歴史」より)

 

園内に入ると、1874年(明治7)に市民墓地として開園された青山墓地のような高低差はなく、広大な平地です。半世紀ほどの間に、こうした土木技術の発達もあったのでしょうか。

それにしても、「欧米諸国都市における墓地研究」とはどんな内容だったのでしょう。

 

広大な敷地の都立霊園は柵で囲まれていて出入り口が少ないのですが、東八道路側への出口を見失って反対へ歩いてしまったため、園内の3分の1ぐらいを歩くことになってしまいました。

 

 

*名誉霊域*

 

中央の道の周辺は、1区画が大きい墓地で胸像やら鳥居が敷地内に置かれるなど豪華絢爛なお墓が続いていましたが、これが「名誉霊域」だったようです。

高橋是清氏のお墓は、「名誉霊域」の一本後ろの区画でしたが、少し広めの墓地でも、墓石は質素でした。そしてその周辺は小平霊園の一般区画と同じぐらいの広さでしょうか。

戦後に開園された小平霊園では案内図でも名誉霊域の表示もなくて一般区画が大半を占めているあたり、戦後の民主主義への意識を反映しているのかもしれないと感じましたが、事実はどうなのでしょう。

 

出口を探すために霊園の端の方を歩いたら、そのあたりは一般区画をさらに半分にしたくらいの長細い墓地になっていました。

 

なんだか住宅すごろくとか、20年前は一軒家だった土地が2軒分の家になるような、現代の住宅の様相に似ていますね。

 

*野川の湧水へ*

 

多磨霊園を出て東八道路を渡ると、すぐに野川の河岸段丘を利用した広い武蔵野公園に入り、そしてそのまま都立野川公園の広大な敷地へと続いています。

お正月でも今年は行き場のなかったたくさんの人が公園に遊びにきても、まだまだ余裕があります。ほんとうに、こうした公園が整備され、鎮守の森が保護されてきたことをありがたいとこれほど思ったことがありませんでした。

 

野川の左岸側は小高い国分寺崖線で、雑木林が続きます。それに沿って歩き、西武多摩川線の陸橋をくぐると都立野川公園に入ります。

この辺りではまだ、野川の水量は少なくて小さな小川なのですが、自然観察園が広がるあたりにはたくさんの池が国分寺崖線の下にあります。

 

このあたりまではけっこう、散歩をする人とすれ違っていたのですが、次第に歩く人がほとんどいなくなったあたりに、目指す湧水があります。

 

そこに近づいただけで水音が聞こえ始め、野川の水量も増えていくのがわかります。

崖のすぐ下にいくつか湧き水があり、その手前に3匹の猫がいました。

お邪魔しますねと声をかけて、しばらく湧水を眺めました。

周囲には誰もいなくて、湧き水を独り占めです。

 

この湧き水のあたりを境に、野川は急に一級河川の趣になります。

それでも川のすぐそばを歩けるようになっていて、そのまま大沢の里まで歩き、バスで帰路につきました。

 

 

今年もたくさんの美しい水辺の風景と出会えますように。

 

 

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散歩をする 266 湧水に詣でる

ここ最近のお正月は、仕事の合間に水を求めて出かけています。

私の初詣は、湧水に詣でるというアニミズム的な感じです。

 

2018年は妙正寺川を2回にわけて歩いたのですが、最初がお正月で、大田黒公園、妙正寺公園そして馬橋公園の湧水を訪ねました。

2019年は洗足池からスタートして、小池公園まで歩いて見ました。洗足池は駅もあり有名ですが、その水はどこに行くのだろうとたどった先に見つけた公園に行って見ました。この日のことは散歩の記録に残していなかったのですが、大田区の住宅街にこんな谷津と湧水があるのかと驚く、静かで心が洗われるような湧水でした。

昨年は、お鷹の道を再び歩きました。

 

今年はどこに行こうかと考えていたのですが、都立霊園のことを考えていたら、多磨霊園のそばにある野川の湧水を見に行こうと思いつきました。

 

散歩の記録に残したはずと思ってブログ内を検索したのですが、これもまた書いていませんでした。

お鷹の道から国分寺崖線のハケ下の湧水を巡る散歩で見つけたのですが、引き込まれそうな水音と周囲の雑木林の美しさに動画まで撮ったのでした。

もしかすると、あの時には言葉で表現できないくらい、さまざまな思いが湧き上がってきたのかもしれません。

 

ということで、今年の散歩初めは野川の湧水を見にいきました。

 

 

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行間を読む 100 小平霊園とお墓の移り変わり

お正月早々、霊園の話が続きます。

1960年代70年代頃の小平霊園と変わらない懐かしい風景でしたが、現代風に変化した場所もありました。

私の記憶の中では、きっちりと区画が決まった墓地だけでしたが、入口の近くに合葬式墓地が造られ、また新青梅街道沿いには芝生に同じデザインの小さな墓石が並んだだけの場所もありました。コンパクトな区画です。

 

小平霊園の入り口に説明がありました。

昭和36〜44年   芝生墓地開設

昭和60年10月  霊園の管理が(財)東京都公園協会に委託される

昭和63年9月   現在の管理事務所竣工

平成3~5年    壁型墓地開設

平成10年6月   合葬式墓地1号墓開設

平成20年5月   合葬式墓地2号墓開設

平成24年4月   樹林型合葬埋蔵施設開設

平成26年4月   樹林型合葬埋蔵施設開設

         および小型芝生埋蔵施設開設  

 

*「小平霊園のあらまし」*

 

「小平霊園のあらまし」という説明がありました。

 明治7年、時の明治政府の「墓地取扱規則」制定を機に、東京府は市民のための公共墓地として青山、谷中、染井、雑司ヶ谷等の墓地を開設しました。

 しかし、その後の東京の急激な市街化の進展と人口増加の為、大正初期には墓地不足が深刻化し、東京市は郊外の東方、西方、北方の3か所に公園墓地の建設を計画しました。この計画に基づき、大正12年には北方面の多磨霊園府中市)、昭和10年には東方面の八柱霊園(松戸市)を開設、昭和19年に西方面の小平霊園建設を都市計画決定し、昭和23年5月に開園しました。

 小平霊園は、新宿から西へ23kmの地点、西武新宿線新青梅街道にはさまれた住宅地のなかに建設された公園墓地で、総面積は65万3千㎡、そのうち約半分が墓所、残りの半分は樹林や草地、園路となっています。中央部の36区画は一般墓地、東側の5区画は近代的な明るい雰囲気の芝生墓地、正門を入って右側の樹林地の中には合葬式墓地、小型芝生墓地、北側の新青梅街道沿いには、壁型墓地があります。また、管理事務所近く、中央参道を左に入った所に樹林・樹木墓地が設置されています。

 西武新宿線小平駅北口から線路沿いに、ケヤキ並木の表参道を300mほど歩くと正門に着き、門を入って左側の林の中に管理事務所があります。正門からは幅員約50mの中央参道が北へ600mほど続き、両側に高く枝を広げるアカマツや緑鮮やかな芝生地、秋には彼岸花などが目をひきます。園内の区画の多くは、ケヤキ、サクラ、マツなどの並木のある園路によって100mごとに四方を区切られ、区画ごとに特徴のある雰囲気を醸し出しています。

 春と秋のお彼岸やお盆の時期には一日に数万人の墓参者が訪れます。墓参だけでなく朝晩や休日などには、散歩を楽しむ人やこどもたちなども多く見受けられ、地域に溶け込んだ霊園となっています。

 なお、本園は周辺市の広域避難場所にも指定されています。

 

幼い頃に墓地内を散策したときには、圧倒されるような立派なお墓と反対に、小さなお墓があった記憶がありました。

死んでからも墓地の大きさの差がついてまわることに、何か無情を子ども心に感じたのですが、今回久しぶりに歩いてみると、小平霊園の昔からある一般区画は大半が同じ面積でした。もっと広いお墓があったような気がしたのですが、区画の広さは平等で、墓石などで立派さの差を出していたようです。

これもまた、平等を求める市民の気持ちが明治時代ごろから少しずつ社会に根づき、戦後に実現したのだろうかと想像したのですが、どうでしょうか。

 

明治生まれの祖父母は、ここに墓地を得たことにホッとしたのかもしれません。

ところが、30年ぐらいで息子(父)とともにお墓も引越し、さらに10年ほど前にはお寺の中に造られた小さな室内墓地に引っ越しました。お墓の維持のためにこどもたちが困らないように、と私の母が思ったようです。

墓地には悠久の時が流れているイメージでしたが、案外、移ろいは激しいものですね。

お墓に対しての考え方も、驚異的に変化した半世紀と言えるでしょうか。

 

私はといえば、都立墓地にも樹木葬があることに心が弾みました。

祖父母が選んだこの小平霊園での樹木葬もいいかなと、思い始めています。

祖父母の世代には樹木葬なんて考えられなかったことでしょうね。

 

 

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散歩をする 265 小平霊園と黒目川源流を歩く

昨年は、私が幼児の頃に住んでいた東久留米に流れている黒目川を何回かに分けて歩きました。

 

支流の落合川の水源地に始まり、下里氷川神社のあたりの水面の美しさとか、妙音沢とか、武蔵野台地から豊かに水が湧き出ていました。

なぜ私の記憶では、東久留米周辺はただただ乾いた大地に見えていたのだろう、黒目川を全く知らないままきてしまったのはなぜだろうと不思議です。

あんがい、身近な楽園には気づかないのかもしれませんね。

 

その源は小平霊園の中だったことも、昨年知って驚いたのでした。

さいかち窪

さいかち窪(皀莢窪、槐窪とも)は、霊園内の一角(近傍、東久留米市柳窪三丁目)を指す地名で、雑木林に覆われた直径100m余りの窪地(くぼち)である。黒目川の地形上の源頭にあたり、通常は水のない枯れ窪だが、雨の続いた後などには水を湛え、特に雨の多い年には何日も水がたまったまま沼のようになることもある。2015年、2016年、2017年と3年連続して、その後は2019年に台風19号の通過した後ここが湧出した。その前は2008年、2004年、1998年、1991年とさかのぼる。1991年は台風の大雨で武蔵野線新小平駅が水没した時に湧出した。東久留米市史によれば小平霊園が開園した1948年以前は常時湧き出す小池があったらしい。

Wikipedia「小平霊園」

 

お墓参りに行っていたあの霊園内に、黒目川の始まりがあったとは。

12月中旬に、いよいよそこを訪ねることにしました。 

 

*さいかち窪を訪ねる*

 

西武線小平駅を降りると、小平霊園の入り口まで石材店が並ぶ通りを少し歩きます。

もっと石材店があったように記憶しているのですが、それでも仏花の入った桶が店頭にある風景は変りませんね。

変わった点といえば、貸自転車があったことでした。確かに園内は広いので、自転車があればとても便利そうです。

 

私の祖父のお墓は西武線に近い方の区画だったのですが、さいかち窪は反対の北東の方向にあるようです。

静かな園内を歩くと、じきに雑木林が見えてきました。

その中が緩やかに窪んでいます。ここが黒目川の源流にあたる場所のようですが、たしかに水は見えませんでした。

 

 

*小平霊園からの2本の流れ*

 

地図では小平霊園から2本の川が出ているように描かれています。

黒目川と野火止用水の間に、もう一本川があり、下里氷川神社の近くで黒目川に合流する川のようです。

最初にその支流から歩くことにしました。小平霊園内から小さな水の流れが始まっています。

両岸は住宅地ですが、よく見ると傾斜が結構あり、この小さな川が作り出した地形のようです。おそらく1960年代頃から建てられたのだろうと思われる住宅があり、ちょっと懐かしい風景です。

 

200mも歩くと、その小さな川の両岸に住宅が迫るようになり、そばを歩けなくなりました。

次にその川を見たときには、水無し川になっていました。この川の名前は地図に載っていなかったのですが、住宅地の地図に「出水川」とありました。

もしかすると、雨が多いと溢れるような川だったのでしょうか。

周辺は、地図では想像していなかったほど起伏があり、農地や果樹園がありました。ちょうど東久留米市東村山市の境になるようです。

 

最初は黒目川の合流部まで歩く予定でしたが、日が落ちるのが早い時期ですし、水の流れる川のそばを歩きたくなり、大岱公園から黒目川へと向かいました。

 

*幻想的だった黒目川上流*

 

東久留米市立第十小学校の裏手から、今度は小平霊園に向かって黒目川を歩きました。

小学校の裏に、木で作られた遊歩道が整備されています。

じきに、両側が雑木林と畑になり、まるで1960年代の東久留米に舞い戻ったような場所です。

黒目川上流は、沢のように静かで、それでいて水量もありました。

 

雑木林はすでに葉が落ち、そこに紅葉がところどころ浮かび上がる晩秋の風景です。

深い竹やぶが川に沿って残り、さわさわと風に揺られているそんな遊歩道で、たまに人とすれ違うぐらいで、一人で静かに歩くことができました。

「黒目川越処橋特別緑地保全地区」と書かれた標識がありました。

 

黒目川上流は小さな流れですが、両岸は水で削られた場所もあり、高低差もあります。

1960年代には手をつけられなかったこのような場所も、現代の技術なら川のすぐそばまで家を建てることもできたことでしょう。

郊外へ郊外へと住宅地が広がって行った時代に、この水源と小さな雑木林を保全地区にしようと考えたのはどんな方々だったのでしょうか。

 

もう一度、小平霊園に入り、さいかち窪をぐるりと歩いてから帰路につきました。

 

 

ところで「さいかち」とはどんな意味だろうと検索したら、マメ科の植物でした。

「ひょろひょろの形」から、あの窪につけられたのでしょうか。

 

 

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記憶についてのあれこれ 164 小平霊園

9月に村山貯水池を訪ねた時、車窓に小平霊園の入り口が見えました。

 

東久留米に父方の祖母が住んでいた頃、小平霊園には祖父の眠る墓地がありました。

1960年代、私が幼児の頃、そして引っ越して他県に住んでからも、毎年お墓参りに行った記憶があります。それで五日市街道と小金井街道の交差点の風景が記憶にあったのでした。

最後に小平霊園に行ったのは、1970年代半ばでしょうか。

看護学生になって1970年代終わり頃から再び都内に住むようになった時、一人でお墓参りに行こうと思うと話したら、母に「お墓は昼間でも魑魅魍魎が出るから、一人ではダメ」と言われたのでした。

 

そのうちに、両親の本籍を他県へ移したころに墓地も移したので、小平霊園とは無縁になりました。

 

 

*お墓参りの記憶*

 

春と秋の2回、お墓参りに行っていたと思うのですが、私の記憶にあるのはなぜか春です。

当時、寒冷地に住んでいたので都内に行くと天国かと思う暖かさで、墓地内には沈丁花の香りが満ちていました。

 

霊園の入り口には「〇〇家」という石材店がたくさん並び、その屋号が入った桶に仏花が入ったものを購入して、お墓まで持って歩くのが役目でした。

 

お墓周辺を掃除しながら隣近所のお墓をみると、長いこと誰も来ていないようなお墓もけっこうありました。

まだたくさんの漢字は読めなかったのですが、墓碑銘を眺めたり、お墓の大小や宗教の違いなど、あちこちのお墓を見比べていました。

人生の無常のようなものを、霊園の雰囲気から感じ取っていたのかもしれません。

 

お墓全体が朽ち始めているようなところもあったので、古い霊園だと思っていたのですが、1948年(昭和23)の開園ですから、私が生まれる10年ちょっと前ぐらいの新しい墓地だったようです。

園内は広くて、石材店から祖父のお墓までは歩いて10分くらいかかったのですが、当時でも、すでに空きの区画はほとんどなかったような記憶です。

 

小平霊園は青山霊園と同じ都立霊園ですが、都立公園協会が管理しているのですね。

「TOKYO霊園さんぽ」というサイトがあって、そこに沿革が書かれています。

 霊園が公園になり、散歩の場所にもなった。

これもまた墓地に対する感覚が驚異的に変化する時代だったと言えるかもしれませんね。

 

この世のあとの居場所が散歩のコースなんていいですね。

 

小平霊園の静寂、時々、風に木々の葉が擦れる音や西武線が通過する音が聞こえ、春には沈丁花、秋には枯葉と線香の香りがが漂う。

車窓から見えた霊園の半世紀前と変わらない雰囲気に、一生なんてあっという間だなあと思ったのでした。

 

 

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水のあれこれ 158 溜池とダム

私の人生の大部分が溜池とは無縁でしたが、ダムとも無縁でした。

 

ダムのそばを通ったことはあるかもしれませんが記憶になく、初めてダムを見に行ったのは小河内ダムでした。

当時30代になったばかりですが、何がきっかけで一人で奥多摩方面へ出かけたのかあまり覚えていないのですが、想像以上に大きい「都民の水がめ」のダムの高さに驚き、そして怖々と天端の遊歩道を歩いたことだけが記憶にあります。

当時は、こうした公共事業の恩恵で便利さを享受し、そのために人生を大きく変えられた地域があることへの罪悪感の方が強くありました。

 

溜池に関心が出たのが2018年の倉敷での水害で、関西方面に多い溜池の存在が気になりだしました。

以降、少し遠出をする時には沿線の溜池と思われる場所は地図で確認して出かけています。

 

ダムに対して、溜池を見るときには「水不足を補うための重要な農業用の施設」という肯定的な気持ちしかありませんでした。

 

堤体の高い溜池・・・谷池*

 

昨年7月、奈良の荒池の西側がまっすぐになっているのを見て、「これはダムと同じではないか」と印象に残りました。

私が溜池として思い浮かべるのは「皿池」の方でしたから、初めて「谷池」を見たのでした。

 

それ以降、あちこちの車窓の風景で、こうした溜池の堤体が雑木林の中にあるのが目に入るようになりました。なんといっても、瞬きを惜しんで車窓の風景を見ていますからね。

 

そして地図で溜池を探していると片側がまっすぐな、堤体が築かれている、つまりダムと同じ構造のため池であると想像できる水色の場所が案外あります。

 

いにしえより水が乏しい土地柄であったで引用した「奈良盆地における溜池灌漑の成立過程と再編課題」を読み直すと、「中世までの水利施設」にこう書かれていました。

 奈良盆地において、古代に築造されたと考えられる池は、『古事記』『日本書紀』などに記された池と、古墳の周濠池が代表的であろう。『記・紀』などに作池記事をみる池は、大和で30個余りを数える。この池のうち比定地が推定されているのは劔池、狭城池、和珥池、厩坂池、磐余池、益田池などがある。この比定が正しいとすれば前三者は現在も使われているが、後三者は廃池となっている。古墳の周濠池は佐紀・盾列古墳群、柳本古墳群、および垂仁陵の丸池、孝元陵の劔池、宣化陵の鳥屋池などにその典型をみる。末永はこれら大古墳の周濠は「墳墓であるとともに貯水池たるの目的を」古墳築造当時から持っていたと推察している。

 上記の他には、つぎの注目すべき特徴がある。

第1は、ほとんどが谷池的構造であり、その規模が大きい点である。(以下略)

 

中世までにすでに、現代のダムの造りのような溜池が身近にある社会もあったようです。

あの汐留も17世紀初めにできた、いわばダムでした。

 

私はダムというのは近代的な構造物だと思い込んでいたのでした。

もしこういう歴史を知っていれば、「近代的なダムを持ち込まれた側」という思い込みや「ダムは悪」という批判は、一方的であり的外れなこともあったことに気づいたことでしょう。

 

小さな堤体を車窓に見つけるたびに、「ダムは悪」という雰囲気に加担してしまったという罪悪感に疼くのです。

物事を知らないのに、感情で走ってしまったとでもいうのでしょうか。

何かを批判するのは難しく、責任を伴うことに気付いたときには、時を戻すことはできないですね。

 

今年は、水色の端がまっすぐな溜池もあちこち訪ねてみようと、散歩のテーマが増えました。

 

 

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行間を読む 99 切通しの歴史

黒目川の左岸側の段丘の途中にあった馬場氷川神社の真横に関越自動車道が走っていましたが、のぞき込むと足がすくみそうに深く掘られています。

9月に訪ねた新潟県立大潟水と森公園の横を通過していた北陸自動車道もこんな感じでした。

 

自分で運転をしないので高速道路といえば東名・名神高速道路で私の頭の中の地図は止まっていましたから、いつの間にこういう場所が全国に増えたのだろうと最近、驚いています。

 

国分寺崖線を切り通した東名高速道路

 

こういう山の間を切り開いた道を切通しということを、子どもの頃に知ったのですが、最初に認識したのは東名高速道路でした。

両側あるいは片側の山がざっくりと切り取られたような場所をなんども通過します。

都内へ入る直前に、両側が高くなった場所が国分寺崖線であることに、3年ほど前初めてつながったのでした。

 

つまり、都内から多摩川を渡って川崎にいくためには、この国分寺崖線を越えるという難関が、当時はあったということでしょうか。

だから世田谷のあたりは崖の上のような場所で、今でこそ開発された街ですが、1970年代から80年代はまだまだ農地が多かったのでしょうか。

 

もしかすると、対岸へ通じる道への熱い想いがあったのではないか、そんなことを考えつきましたが、事実はどうでしょうか。

 

切通しという技術はいつ頃からだったのだろう*

 

私が世田谷に住んだ頃にはもう、東名高速道路国道246号線の橋も今と同じようにありましたから当たり前のように通っていたのですが、その20年ほど前の風景や住む人の想いはどうだったのだろうと気になり始めています。

 

東名高速道路関越自動車道、そして北陸自動車道の霧通し部分を上から眺めたり、8月に武蔵野線が山を削った中に通り、水子貝塚を訪ねた時におそらく人の手で開削したのだろうと思われる切通しの道を歩くなど、切通しを意識することが多い一年でした。

 

 

切通し(きりどおし)とは、山や丘などを掘削し、人馬の交通を行えるようにした道である。

トンネル掘削技術が発達していなかった明治以前には、切り立った地形の難所に道路を切り開く手段として広く用いられた。現代でも、工事費がトンネル掘削費用と比較し、安くあがる場合には用いられるほか、古い狭隘道路のトンネルを拡幅する際、土被りが浅い場合など地理的要因によってはトンネルを取り壊し切通しに作り変える場合があった。

Wikipedia切通し」

 

切通し」の歴史を知りたい。

新たな散歩のテーマになりそうです。

 

 

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発達する 33 修学旅行の計画にどんな思いがあったのだろう

ここ2年ほど遠出をするようになりました。

まったく初めての場所もありますが、どちらかというと記憶をたどって行く場所が増えてきました。

 

先月の北陸道も、高校時代の修学旅行や1990年代に訪ねた場所でした。

昨年、金沢駅修学旅行中の高校生を見たことで懐かしくなり、40年前にどんな場所を見ていたのかもう一度訪ねたいという思いが実現しました。

 

北陸の風景を見ているうちに、誰がどんな思いで、あの高校時代のコースを決めたのだろうかということがとても気になりだしました。

旅行会社の決めたコースだったのでしょうか、それとも高校の先生が私たちに「何か」を見て欲しくて決めたコースだったのでしょうか。

能登半島の地理や文化、気候などでしょうか。

 

先月見た石川県の風景は、当然40年前とは全く違いますし、あの頃から見えれば同じ「現代」でも未来のような変化が起きています。

現代の高校生と同じ風景を見ているようで、違う風景です。

 

でも確かに、40年前に実際に訪ねた経験と記憶は私の中に残り、過去と現在をつなぐものに変わってきました。

そしてとにかく見て歩くという言葉につながり、モノや人が通った道を訪ねたくなりました。

 

修学旅行の北陸コースを立てたのはきっと地理の先生だったに違いないと思えてきたのですが、どうでしょう。

そして私たち世代に何をつないでいきたかったのでしょうか。

 

 

 

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数字のあれこれ 68 粛々と歩いていれば55%増でも問題ないのではないか

偶然つけたテレビのお昼過ぎのワイドショーで、週末の人出の「統計」を出していました。

渋谷は「前週に比べて55%増」だったそうで、ご意見番のような人が「若者が行動を変えないと」というようなことを言っていました。

 

渋谷とか吉祥寺とか、比較的私も利用する街ですが、この新型コロナウイルスのニュースでは、なんだか歩いてはいけない街のように映し出されるのがとても心外ですね。

 

「前週から55%増」といっても、かつての混雑具合に比べれば全然少ないですし、何よりほとんどの人がマスクをして、大きな声ではしゃいでいる人はごくごく稀です。

ええ、ちょうどその取材をしていると思われる日に、ちょうど私も歩きましたけれど。

 

3月の緊急事態宣言の時もそうでしたが、この人口が集中している東京では繁華街やオフィス街の人が減れば、住宅街の公園まで人が溢れるわけで、さらにいつもなら帰省や旅行で人口が減る時期ですが、今年は取りやめたという人も多いことでしょう。

 

3月あるいは感染者数が増えた夏も、まだ情報が錯綜していて、「とにかく家にいろ」という対応でした。

ただ、その夏頃からは家にいることだけが対応方法ではなく、「夜の街」から「会食」へと表現が変化し、食べ終わったお皿の前でマスクをして話す人も出てきました。

 

マスメディアを通した情報が錯綜している中でも、自らリスクを把握して行動を変えたり生活を工夫していることで社会は少しずつ変化しているように見えます。

あんなに密接に人と近づく朝夕の満員電車の中で、みなマスクをし、咳やくしゃみをなんとかこらえ、会話をしている人が浮いてしまうほど、粛々と通勤しています。

グッドマナーとも違うけれど、忍耐強く落ち着いていると思いますけれどね。

 

相変わらず繁華街の人の多さを映し、道ゆく人がまるで烏合の衆かのようなイメージを作るのはなぜなのでしょうね。

感染者が増えたのは誰かのせいという感情を引き起こしたいのでしょうか。

雑踏を歩く人の映像をみた人に怒りの感情を持たせても、感染症の対策にはならないですからね。

 

 

「55%増」の渋谷の人混みにいる人が、みなマスクを外して大声で話していたり、そのまま飲食店に入って唾を飛ばしながら盛り上がっているのであれば問題ですけれど、映像と現実は違いますしね。

マスクをはずして唾を飛ばしてしまう行動をなぜ今とってしまう人がいるのか、この感染症の何がわからなくてそういう行動をとり、そういう人の割合はどれくらいなのか、年代別の特徴など、ぜひぜひ、そのあたりを取材して、リスクの高い行動を変えていけるようにしてくださると心強いのですけれどね。

 

 

 

 

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小金がまわる 22 通信費の割合が激増した

以前は収入に対する割合でまず考える必要があるのが、住居費と食費の割合だったと思います。

1980年代ごろはたしか、「住居費(家賃)は収入の3分の1」以内にすることと言われていた記憶があります。収入も、手取り額に対してだったかと思います。

それ以外は、光熱費、そして電話料金ぐらいのあまり複雑でない支出でした。

 

パソコンもない時代で、固定電話では通話料金とファックスの通信料金ぐらいですから、ほとんど電話を使っていない私の電話料金はたいしたことがなかったと思うのですが、残念ながらいくら支払っていたか記録に残していません。

 

劇的に通信料金の負担が増えたのが、2000年代に入ってからでした。

職場で使用していただけのパソコンですが、自宅でも使用できるようにするためにインターネットに繋ぐようにし、ここから、はっきり覚えていないのですが3000円ほどの通信費がさらにかかるようになりました。

この時代はまだADSLだったのが、しだいにひかりへと変化し、私の場合は2010年にひかりへ変えたことで、現在は数千円ほど支払っています。

システムがわからないまま、固定電話時代からの電話料金も1000円ほど毎月支払っています。

2004年から携帯電話を持つようになり、この頃から1万円ほどの通信料金が必要になりました。

テレビも地上波の時代が終わり、以前のようにコンセントに電源を入れればテレビをみられる時代ではなくなりました。

私は加入していないのですが、BSとかCSとか「もっと観たければもっと料金が必要」になり、これもまた通信費ですね。

 

1990年代はのどかな時代だったなあ、これからはこれだけの通信料金を死ぬまで確保しなければいけないのかと、大げさでなく、大変な時代になったと思った記憶があります。

 

 

2011年に携帯電話からiPhoneに換えましたが、ちょうど東日本大震災や両親の介護などで、どこでもインターネットの機能を使えるiPhoneにほんとうに助けられました。

ですから通信料金が数千円でも、その便利さを考えると高額ではないと納得していました。

2年の契約が終わることには料金が上るという理解できないしくみで、結局は機種変更してまた通信料金が上がり、数年前には通信費全体が、とうとう1万2千円を越えました。

 

この2年ごとの不思議な料金体系はなくなったようですが、では安くなるかといえば、wifiを使わなければバックアップできなくなったり、なんだかつぎつぎと通信費用が上がる仕組みがあってわけがわかりません。

 

この2回ほどiPhoneを買い換えた時に生じたのは、なぜか大昔の削除したはずのメールが全てアップされて、目障りだからと消去しようとするとそれに膨大な通信費がかかったことでした。

そのたびに追加料金を支払ったり、通信速度が制限されることが嫌で、契約料金をあげてしまいました。スマホでは、動画もテレビも使っていないのですけれどね。

なんだかわからないトラップに引っかかっているようです。

 

 

 便利になった分に対して対価を払うのは当然ですが、問題は30年ほど前と比べて収入の増え方が落ちたこととも言えるのでしょうか。

これもまた「インフレは悪」という社会の雰囲気が作られていたことも大きいのかと思うこの頃。

働くことへの対価が増えないのにボーナスからも厚生年金やら社会保険料が引かれ、消費税も上がり、あの手この手でむしりとられていく気分の中で、通信費が異常に高く感じるのかもしれません。

 

 

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