水の神様を訪ねる 24 野火止用水と氷川神社

念願の「都民農園セコニック」行きのバスに乗り、野火止用水の近くにある2つの氷川神社を歩く計画ができました。

 

お昼時だったので、散歩の途中で食べるおにぎりを購入してバスに乗り込みました。ほぼ満員で出発。JR中央線西武新宿線西武池袋線の間をつなぐバス路線なので、利用者も結構いるようです。

みなさん、「都民農園セコニック」という行き先をどのように受け止めているのだろうと聞いてみたくなるのを抑えながら、沿線の風景を見ていました。

 

大泉風致地区というバス停で、たくさん下車しました。この辺りから東西南北に道路がまっすぐ整備された朱雀大路のようです。キャベツ畑があり、次が「都民農園」というバス停でしたが、やはり住宅街でした。

大きなショッピングモールがあり、そこが「都民セコニック」のバス停でした。最初は降りて歩く計画でしたが、そのまま終点の新座栄まで行くことにしました。

 

*妙音沢*

 

黒目川に架かる大きな橋の手前でバスは左折し、河岸段丘のヘリにある終点のバス営業所で降りたのは私ひとりでした。

 

そこからグンと下り坂を降りて橋を渡ろうとしたら、黒目川沿いに遊歩道があるのを見つけました。黒目川右岸側に鬱蒼とした森があり、その崖から湧水が流れています。

妙音沢特別緑地保全地区という表示がありました。

下車したバス営業所の少し先の崖から、湧き水が出て、黒目川へと流れているようです。

木の椅子もあり、ここでおにぎりを食べることにしました。

黒目川の川の音と、この湧水の音を独り占めです。

 

もうこのまま、ここに数時間ぐらいいるだけで今日はいいかと思いましたが、やはりせっかくなので野火止用水を歩ききりたいものです。名残惜しいまま、この湧き水を後にしました。

 

しばらく歩いて黒目川の左岸側へと渡り、上り坂を歩くと、関越自動車道のそばにひとつめの馬場氷川神社があります。自動車道はこの氷川神社がある山をきり通して造られたようです。

この氷川神社は、中世に建立されたことが書かれていました。

 

 

野火止用水へ*

 

この辺りからはまだまだ畑がたくさん残っていて、子どもの頃に住んだ東久留米のような雰囲気です。あちこちに野菜の無人販売所があるので、ついつい買いたくなるのですが、まだ散歩の序盤ですから我慢です。

 

畑の横に石積みの水路がありました。「史跡 平林寺堀」で、雑木林と畑の中を蛇行しながら水路が続き、そして陣屋通りまで流れているのですが、地図には載っていない水路でした。

ここからは、平林寺の雑木林を右手に見ながら、野火止用水の遊歩道を歩きます。

左手はずっと広い畑や果樹園、竹林が広がっていました。野火止用水の水がつくりだした風景でしょうか。

人参畑が多く、小さな白い花が咲いていました。

畑の真ん中にお墓が建てられている場所もありました。この地で生きてきた先祖への強い想いがあるのでしょうか。

どんな歴史と生活があるのだろう。

ところどころ小高くなった場所を蛇行しながら水が流れています。どうやってこの場所を見つけて用水路をつくりあげたのでしょう。

 

過去と現在を行ったり来たり考えているうちに道路に出て、水路は暗渠になり、そこに野火止公園と少し離れて野火止用水公園がありました。

これでほぼ野火止用水の主な区間を歩いたことになります。

このあたりは新しい住宅街という雰囲気で、そこからまたところどころ人参畑があり、そこを歩きながら、野火止氷川神社を目指しました。

 

道道路の前にあるこの氷川神社は、人参畑からは少し小高い場所にありました。

当社の創建は、江戸時代の承応二(1653)年と伝えられています。川越藩松平信綱公により野火止の地が開発された年で、以来村の鎮守として人々の崇敬をあつめ、五穀豊穣・天下泰平を祈り子々孫々お祭りが行われてきました。

 

しばらく水道道路を歩いたあと、黒目川方面へと左折すると、バス通りまではけっこうな下り坂でした。

バス通りを歩いていると、平林寺方面が一段と高い段丘であることがはっきりとわかります。

そしてその崖のような斜面にも、住宅がびっしりと建っていました。おそらく崖っぷちに家を建てる風景が増えたこの30年から40年ほどの変化かもしれませんね。

 

90年代ごろの「都民セコニック」行きのバスに乗ったら、このあたりは当時どんな風景だったのだろう。

なんとも残念でした。

 

 

「水の神様を訪ねる」まとめはこちら

 

 

散歩をする 264 幻の「都民農園セコニック」

吉祥寺では、駅前からいろいろな方面へのバスが出ています。

90年代に初めて吉祥寺に行くようになって、「都民農園セコニック」行きと表示されたバスに目が止まりました。

 その路線は今でもあります。

 

「都民農園セコニック」、どこだろうとずっと気になったままでしたが、なんだか見知らぬ世界へ行くような遠い場所に感じていました。

都内を散歩するようになり、バス路線を検索していたら、どうやら和光市との都県境あたりまで行くようです。

ブームになった家庭菜園が広がっているのかなと、航空写真に切り替えて見たところ、広大な住宅地が広がっています。そしてそばには自衛隊朝霞駐屯地もありますが、それらしい農園はなさそうです。

 

都民農園セコニックを読むと、幻の行き先のようです。

「都民農園」とはかつて東京都が計画していた、都市農民に対してレクリエーション農園を提供するという構想に由来するものであり、結果として実現しなかった。 

 

1970年代終わり頃の記憶としては、朝霞周辺は田畑と雑木林に囲まれたまるで演習場のような場所でした。

そんな場所だからこそ、朝霞駐屯地観閲式が行われていたと理解していました。

今年初めに、朝霞台地の北側を黒目川に沿って歩いた時、畑は残っているものの密集した住宅地になっていて、70年代のイメージとは全く違っていました。

 

30年来の、念願の「都民セコニック」行きのバスに乗ってみよう。 

12月初め、遠出の散歩はしばらく無理そうになってきたのですが、 都県境ぐらいは許されるかなと出かけてみることにしました。

 

そして黒目川を渡って左岸側には、前回、時間切れになった野火止用水公園までの区間があります。

散歩のコースが決まりました。

 

 

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境界線のあれこれ 100 「現代」とはいつのことを言うのだろう

こちらこちらの記事に、「現代」とはいつのことを言うのだろうと書いたのですが、そこからまた次々と思い浮かんでいます。

 

鯖街道を知ったのは25年ほど前ですが、私は鯖街道の歴史をそれほど昔に感じることはありませんでした。

1980年代からしばらく生活していた東南アジアでも、市場から離れれば離れるほど干し魚や缶詰の魚になっていきましたが、その生活があまり不思議に感じなかったのも、私が幼少時の1960年代の日本でもまだまだ鮮魚というのは貴重な貴重なタンパク源だった記憶がどこかにあったからだと思います。

鯖街道の話も、私には「現代」に含まれるような感じです。

 

 

その小浜市の歴史の中に、こんな記述がありました。

1969年2月24日 小浜市議会に原子力発電所誘致のための委員会設置。

1972年6月20日 市長が、市議会において、田島への原子力発電所誘致断念を表明

 

 

今回の北陸道の散歩では、小浜線の車窓から原子力発電所を見ることができるかなと思っていました。

25年ほど前に、村井吉敬さんたちと小浜に行ったときに、途中であの幻想的な海の向こうに原子力発電所が見えた記憶があります。北陸には5か所の原子力発電所があるようですが、あれは高浜発電所だったと記憶しています。

あの時は車だったので発電所の近くを通る国道を走ったのですが、残念ながら今回は、小浜線の車窓からは見えませんでした。

 

散歩をするときには、その地域の分娩施設や周産期医療ネットワークシステムをイメージするようにしているのですが、原子力発電所刈羽発電所福島第一原子力発電所や第二原子力発電所など、近くを通過できるルートを意識しています。

未曾有の大事故がきっかけになってはいるのですが、それ以前に1980年代に暮らした東南アジアのある地域にも近くに原子力発電所があったこと、そしてこの高浜発電所の記憶がつながりあって、どんな地域なのか歩いてみたいと思うようになりました。

 

高浜発電所は1974年、美浜発電所は1976年にそれぞれ運転開始しているようですが、1960年代にはこの地域には活発な誘致運動があったのでしょうか。

その時代の雰囲気はどんな感じだったのか、なかなか知ることは難しくなって行きますね。

私が生まれた頃、月への有人飛行が実現し、その月の石を見に夢の超特急で大阪万博を見に行ったのが1970年。

この頃には、次世代の発電に大きな夢が広がる雰囲気だったのでしょうか。

 

同じ頃、ようやく 誰もが医療にかかることができるようになり、そして誰もが医師のいる分娩施設での出産が可能になっただけでなく、胎児はブラックボックス、生きているか死んでいるかぐらいしかわからなかった1970年代から、今や胎児治療という分野まで広がりました。

 

この範囲も私にとっては「現代」なのですが、世代が違えばもうセピア色の歴史の一部に見えることでしょう。

 

 

25年ほど前に、高浜発電所の近くを通ることも村井さんは計画の中に入れていたのだと思いますが、ダムを見て歩いた時と同じく、その歴史について何か批判するわけでもなく静かに眺めていたような記憶があります。

1943年生まれの村井さんにとって、私の「現代」よりはさらに20年ほどの差のある「現代」を見ていらっしゃったのかもしれないと思うようになりました。

 

「現代」と感じる幅が広がるに連れ、何かを批判するのは難しく、責任を伴うことに感じるようになるのかもしれませんね。

 

 

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行間を読む 98 「地図と地球儀」

さまざまな記憶をたどるために遠出をしてみたり、20代の頃から影響を受けていた本を読み直したりしています。

 

犬養道子さんの「歴史随想パッチワーク」(中央公論社)は2008年に出版されたもので、まだ読んだことがなかったので購入したまま日が過ぎてしまいました。

最近、積ん読が増えました。

 

先日そろそろと思ってパラリと開いたら、「地図と地球儀」という章が目に入りました。

犬養道子さんも地図や地球儀を眺めるのがお好きだったことを初めて知りました。

地図を見るのが好きである。観光客呼びよせ用の名所名物の絵の入れられているような地図ではない、ほんとうの地図。そういう地図は見てくれる人を待っている。見るだけでなく、自分の話を聞いてくれる人を。地図は大変なおしゃべり好きなのである。そして実際、汲みつくせないはなしの泉を、太古から今までずっと待つ。この泉から湧き出る流れが「歴史」を生みそだてるのだ。 

 

犬養さんも地図と地球儀が好きだったのだと嬉しくなって読み始めたら、「観光客呼びよせ用の名所名物の絵の入れられているような地図でない、ほんとうの地図」の一文で、犬養さんらしいなあと思いました。

20代の頃の私だったら、この文章をそのまま受け入れていたかもしれません。

 

その章の後半で、以下のように書いています。

このごろ、「一般の、とりわけ若い人々の、歴史感覚が乏しくなった」という声を折にふれて耳にする。当たりまえ。地理「地図」と歴史を別々にしてしまったのだから。 

たしかに犬養道子さんは、ヨーロッパで神学を研究されて世界の歴史に精通されていらっしゃったので、それに比べれば一般の人は「歴史感覚が乏しい」ように見えるかもしれませんね。

 

「地図と地球儀」ひとつとっても、「現代」とはいつのことかと感じるほど、同じ時代に生きていてもこれだけ感じ方が変わるのかと思いました。

 

私は、駅前や観光案内所などの目的別のコースを示した地図なども大好きですし、その地域の歴史や生活がわかってよくできていると感動しています。

何より、いかなる地図も主観であるわけですし、完璧な地図はないですものね。

 

ただ、1921年(大正10)生まれの犬養道子さんはひとりヨーロッパで暮らし、聖書学を研究し、そして難民問題などに切り込んでいかれ、その行動力と考え方が社会へ、女性の生き方へと多方面に大きな影響を与えたと思っています。

こうした犬養さんの時代の知識層と言われた人たちの「知識」への厳しい考え方があったからこその現代でもある、と言えるかもしれませんね。

 

犬養道子さんに出会って40年ほどの間に、私も少しその行間を深く読めるようになってきたでしょうか。

 

 

「行間を読む」まとめはこちら

犬養道子さんについて書いた記事はこちら

地図に関する記事のまとめはこちら

 

発達する 32 小さな工夫の積み重ね

1年前は、こんな生活になるなんて思いもしなかったと、つくづく思うこの頃ですね。

 

マスクをせずに飲食をともにするリスクは簡単そうでなかなか社会に浸透しないのは驚くのですが、まあこれはこんな非常事態でなくてもいつも通りでしょうか。

たとえば電車が出発するときに「ホームの端を歩かないように」「黄色い線の内側を歩いてください」と毎度アナウンスがあるのに電車に近づくように歩く人も多いですね。

あるいは階段などでホームが狭くなっているところでは並ぶなと文字で書かれ、斜線がホーム上に描かれ、さらに「狭くなっているので立ち止まらないように」と何度もアナウンスされているのにそこで並んだり立ち止まる人がいて、気が小さい私は、なぜそれを無視できる人がいるのだろうとちょっとドキドキしています。

 

スマートフォンの出現やバックパックを背負う流行とか、この10年、新しい何かが出ることでまた軋轢が生まれ、「〇〇はしないように」という注意が増えました。

最近では、あの耳に突き刺すだけのイヤフォンを線路内に落とさないようにという注意が掲示されるようになりました。

 

新しいことが増えるとまた不注意な行動が増え、でも、注意喚起すればするほど人は耳を塞ぐ習性があるのかと思ってしまいます。

ヒヤリとした経験を社会に広く共有することは難しいのかもしれませんね。

 

*けっこううまく変化している部分もある*

 

反面、こんな非日常の生活が続く中でも、社会というのはけっこう我慢強く、そして工夫をしながら変化していくものだと発見することがあります。

 

ここ数ヶ月の変化だと思うのですが、レジでお釣りを受け取るときに、トレイを少し傾けた端っこに小銭を綺麗に重ねてくださる店員さんが増えた印象です。

これだとスッとまとめて取れるので、とてもスムーズです。

感染症対策で直接、お釣りやレシートを渡さなくなった当初は、トレイに小銭をそのまま広げて渡されることがほとんどでした。

それを全部集めて財布に入れるまで、けっこう手間取りますね。

さらにレジ袋が有料になって、お釣りを受け取りながらマイバックに商品を自分で入れあたふたしている間、店員さんがじっと待っている間の悪さで余計に焦ります。

 

どこかのお店で始めたのかもしれませんが、あっという間にあちこちでこういう受け渡しが定着した印象です。

 

 

生活というのは、社会の中のこういう小さな工夫の積み重ねがあるのかもしれないと、興味深く感じています。

 

 

 

 

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レジ袋とエコについての記事のまとめはこちら

 

水の神様を訪ねる 23 川越と氷川神社

川越市の高台をぐるりと囲むように新河岸川が流れていることがイメージできました。

そしてその新河岸川右岸側に二つ、氷川神社があります。

おそらく、高台に川を見下ろすような場所に建てられたに違いありません。

今回は新河岸川の上流にあるこの二つの氷川神社を訪ねることにしました。

 

地図を眺めていると、その名も「新河岸」駅があります。ここから歩き始めることにしました。

 

 

新河岸駅から新河岸川へ*

 

新河岸駅の案内板で、私の地図には描かれていなかった氷川神社があることを見つけました。

 

駅からまっすぐ歩くとじきに広い畑があり、今が旬のブロッコリーが植わっていました。

そのあたりから新河岸川の方へと下り坂になっている途中に、氷川神社がありました。由来は書かれていなかったのですが「砂氷川神社」で、境内はきれいに手入れされていました。

緩やかに下り坂を降りていくと新河岸川のそばに出ました。

そこから新河岸川の美しい堤防の左岸側を歩きました。

あの川越線の車窓から見えた水田地帯が広がっている場所です。

 

しばらくすると「扇河岸」という場所で、不老川と合流する場所が見えてきました。

川越線を越えると高台の部分が近づいてきて、左岸側には仙波浄水場新河岸川上流水循環センターがみえてきました。

この辺りになると、新河岸川は運河のように護岸されて、川にはそれほど水量はありませんでしたから、水田地帯の真ん中にあるあの浄水場はどこから取水しているのでしょうか。

 

*仙波河岸史跡公園と氷川神社

 

高台側の右岸を歩くと、住宅街の中に森が見えてきます。入り口を見落としそうになりましたが、そこに仙波河岸史跡公園がありました。

木板の遊歩道が、周囲とは別世界のような雑木林の中へと続いています。

公園内は段丘の端にあり、以前は湧水が豊富だったようです。

園内の池のそばに説明書きがありました。

昔この場所には「仙波の滝」と呼ばれる滝がありました。これは愛宕神社のがけ下からの豊かな湧水による滝で、昭和の中頃まで流れていたそうです。

「仙波河岸」は明治の初めごろにこの仙波の滝を利用して開設されました。

 

国道16号線を渡ると、見上げるような石段を登り、仙波氷川神社があります。

当社の起源は古く、平安時代中期にまでさかのぼる。社伝によれば、後三条天皇の御代の延久元年(1096)、当地の武士仙波氏の創建とされ、代々にわたり、同氏の篤い崇敬を受けた。

 

*川越氷川神社まで*

 

仙波氷川神社のある高台から再び下って、また新河岸川沿いに歩きました。この辺りになると新河岸川中流域の美しい土手とは異なり、都市部の小さな川の様相になり、近くの道路にも車が多くなりました。

そして川沿いの道は途中で細い車道になって忽然と歩道部分がなくなったり、道も途切れて迂回しなければならなくなったり、あちこちに投げ捨てられているゴミが増えたり、バイパス沿いのモーテルに入る車に乗っている人と目があってしまったり、いやはや歩くのにもちょっと疲れました。

 

ただ、左岸側の田畑の多い平地にそうしたバイパスができた開発の歴史や、右岸側は住宅地とは雰囲気が違うのも、地形が関係しているのだとわかっただけでも面白いものです。

 

しばらく歩くと、右岸側に森が見え川越城がある公園地帯が近づいてきましたが、ここで右岸側の歩道がなくなってしまい、公園を迂回してまた新河岸側沿いへと戻りました。

そろそろ歩き疲れてきましたが、もう少しで川越氷川神社です。

元気を出して緩やかな坂を上り川越氷川神社に入ると、なんと境内はいっぱいの人で、大半が若い女性の観光スポットになっているようでした。

由来を探すのはやめて、そのまま新河岸川へと戻りました。

ここからしばらく桜並木が続きます。

 

観光向けの並木道が途切れると、また住宅と畑に挟まれた新河岸川沿いの風景です。

あの円を描くような場所になり、少しずつ左側へと流れが変わるあたりで、また水量が増えはじめ、古い農業用水用の取水堰がありました。

このあたりで、私が子どもの頃に遊んだ秘密基地を流れる沢を思い出すような美しい水になりました。

 

次第に川幅も狭くなり、川に沿った道もなくなって住宅の間に新河岸川が見えなくなりました。

星野高校の裏手あたりで「赤間川」という表示を見つけたので、このあたりが新河岸川の始まりでしょうか。

 

今回は、新河岸川上流の3つの氷川神社を訪ねることができました。

 

 

 

そうそう、以前川越について何か書いた記憶があると思ったら、「ウォーターボーイズ」はこの川越を舞台にしていたこととつながりました。

あのプールの水はどこから来たのでしょうね。

 

 

 

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散歩をする 263 新河岸川の上流を歩く

テレビでよく観る川越市ですが、少し前まではどのあたりに位置するのか、私の頭の中の地図ではぼんやりとしていました。

一度は行ってみたいと思っていたのですが、2年前に首都圏外郭放水路を見学に行った帰りに、そうだ川越を通過してみようと思いました。春日部から大宮に出て、川越線で川越に行き、西武線で都内に戻るルートです。

 

大宮を出てからしばらくして荒川を渡ると、広い水田地帯が広がり、その向こうに少し高台に見える場所が川越でした。これもまた昔、海底だった地形なのかと印象に残りました。その日は駅周辺だけ少し歩き、いつかゆっくり歩いてみたいと思いながら2年以上がすぎました。

 

最近、野火止用水と新河岸川との関係を知り、新河岸川をぼちぼちと歩いています。

その新河岸川上流が川越であり、あの高台に見える川越の地形とつながりました。

武蔵野台地北部に降った雨を集めた伏流水や入間川(笹井堰)からの水田用水を水源とする赤間川が、埼玉県川越市上野田町八幡橋付近で新河岸川と名前を変え、起点となる。川越の市街地の北側を回り込むように流れた(ここは途中の田谷橋まではかつての赤間川である)後で、川越市大字砂付近で不老川、川越市大字南田島付近で九十川と、次々に流れ込む支流を合わせながら荒川の西岸沿いを流れて、東京都北区の岩渕水門先で隅田川に合流する。上流から川越市ふじみ野市富士見市志木市朝霞市和光市板橋区、北区を流れる。

Wikipedia新河岸川」、「地理」)

 

 

地図で新河岸川の上流へとたどっていくと、川越市の中心部をまるで円を描いて囲むように流れています。そして、同じようにその外側を入間川がやはり円を描くように流れています。

「台地」といっても、なんだか岬のような不思議な地形のようです。

 都心から30km圏に属し、北緯35度55分30秒、東経139度29分08秒(市役所のある元町)、市域は東西およそ16.3km、南北およそ13.8km、標高は元町で海抜18.5m、市の南端が最も高く50.7m、東部が最も低く6.9m、標高差およそ44mである。

 

「標高差44m」これが、あの川越線の車窓から見えた高台の意味だったようです。

長水路プールを縦にした高低差ですね。

 

荒川と多摩川に挟まれた地域を武蔵野台地と言い、川越はその北端に位置する。武蔵野台地は奥秩父山地を水源とする多摩川が形成した扇状地である。太古の多摩川(古多摩川)は東京都と神奈川県の都県境方面ではなく埼玉県西武の入間郡を横断して流れていた(今の入間川の流路とほぼ同じ)。武蔵野台地は柳瀬川以北を特に川越台地と呼び、さらに入間川を超えた北西側を特に入間台地と呼ぶ。南西には狭山丘陵が接する(狭山丘陵も古多摩川が土砂を堆積してできた丘陵で、狭山丘陵の形成によって多摩川は後に流路を南に変えることとなった)。 

Wikipedia川越市」、「地誌」)

 

新河岸川上流と入間川が同心円のように流れているのは、「古多摩川」が関連しているということでしょうか。

「古多摩川」、また初めて聞く言葉が増えました。

 

新河岸川の水源地近いところまで、あの台地との境を歩いてみよう。

北陸道の散歩から戻って10日ほどで都内の感染者数が500人を超え、遠出の散歩がまたしにくくなりそうな雰囲気になってきた11月下旬に出かけてみました。

 

 

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鵺(ぬえ)のような 1 賛美した人はどこへ行ったのだろう

財務大臣の「野党時代の反緊縮・積極財政論を熱弁された動画」を観ました。

2012年(平成24)のものだそうです。2分ほどなので、その内容を書きとどめておきました。

 

戦後不況を立て直した大蔵大臣「高橋是清」の話

日銀に向かって「金を刷れ」

「ジャンジャン刷れ」「俺が使う」「俺が使うから文句言うな」「黙って刷れ」と

彼(高橋是清)は「政府がドンドンお金を使う」という事をやって  今でいう「財政出動」というんですが、それ(財政出動)をやって 道路を作ります 港を作ります 雇用も増やしますてのもバンバンやって 結果として世界は日本が一番早くデフレ不況の脱却に成功したと褒めざるを得ない結果を出したわけです

お答えしておきますが この人は一円も増税していないからね

増税していないんだよ!

増税しないで財政出動だけで賄った

お金を借りているのは政府です

1000兆借りているじゃないですか 必ず貸している人が1000兆いかないとおかしい

誰が貸しているんですか?

皆さんが貸しているんです

その政府の借金が多いからとんでもねぇなんて言っている人がいっぱいいるけれど 何が問題なんです?

借金が多きゃそんな大変なんですか?

皆さん何か間違えてんじゃありませんか?

皆さんの家計簿 皆さんの事業会計と国の国家会計は全く違うもんです

何が違うか

一番違う所は 国はいよいよになって金が無くなったらどうすりゃいいか

簡単です

刷ればいい

(会場から爆笑)

簡単だろ? すべて円建てヨ したがってヨイヨイになったら円で刷って返せばいい

勿論その時になれば円が大量に発行されますから そりゃデフレがインフレに変わりますよ

しかし今はデフレなんだから!

したがって(国民が)お金を使ってくれるようになるには そのためには今は何といってもここは

財政出動です

(会場から大拍手)

 

「国の借金のために」「少子高齢化で財源がないから」と増税や国民の負担増は仕方がないという雰囲気に変わり始めてすでに20年ぐらい経っている気がしていたのですが、なんだ、わずか8年前には現財務大臣はこういう考え方だったのですね。

どこで、どう変節したのでしょうか。

 

経済に疎い私には、経済学というのは、その方法が失敗して国民に与えた影響について責任をとる仕組みが確立されていないのだろうなぐらいしかわからないので、どちらの考えがより良いのかわかりません。

 

ただこの動画の中で爆笑し、大きな拍手をしていた人たちは今、どこにいるのだろう。

政治家と一緒に、考え方を翻してしまったのでしょうか。

 

 

あの人口についての話も同じ。

どこかで急に、それまで賛美していた雰囲気が変わる。

その時にはなかなかその変化が見えづらいものですね。

 

 

ということで新しいテーマを思いついたのでした。

「鵺(ぬえ)のような」です。

 

 

「鵺(ぬえ)のような」の記事のまとめ。

<2021年>

2.   「自由な働き方」と非正規雇用

3.   観測気球

4.   印象に残すことと印象が強すぎることのジレンマ

5.   「勝利よりも大切なことがある」

6.   誰が「不満」を生み出しているのか

7.   「緊急事態宣言は意味があったのか」

8.   「大和魂」

9.   歴史の葛藤が感じられない動きに注意が必要

10.   急に何かが動く瞬間がある

<2022年>

11. 「実証実験」という感覚の広がり

12. 脛に傷を持つのもの同士

13. 目が泳ぐ

14. なぜ抗議の意思を表さなくなるのか

15. ねじれる

16. しがらみ

17. 都市伝説がまたひとつ

18. 「黒を白に、白を黒に」

19. 未曾有時に大丈夫と思いこむ

<2023年>

20. 息を吹き返した

21. 前首相の発言だけで制度が変わる政治とは

22. 民よりむしりとり、暴君と豹変す

23. 「裸の王様に服を着せる」にはどうしたら良いか

24. 「遅れている」という世の中の不安

25. 「胆力」と賛美する正体

<2024年>

26. 正義の熱狂を車窓から思い出す

 

 

過去に「鵺のような」について書いた記事はこちら。

現場の狂気

カンガルーケアを考える 13   鵺(ぬえ)のような雰囲気にあらがうむずかしさ

事実とは何か 27  「風に吹かれて」

気持ちの問題 43    何かをしているように見える人

運動のあれこれ 11   「イクメン」という運動がもたらしたもの

記録のあれこれ 16    新生児についての記録

運動のあれこれ 20   森林の万能論

思い込みと妄想 41    ほうれん草とポパイ

行間を読む 77    言葉にならないものが言葉になるまで

記憶についてのあれこれ 153   非正規雇用が広がった時代

記憶についてのあれこれ 155   ブルーインパルス

 

簡単なことを難しくしているのではないか 12 会話厳禁のお店があったら

夜勤もある不規則な勤務なので、友人とは年に2~3回、奇跡的にスケジュールが会うとエスニック料理を食べたり、ギネスビールを飲みにアイリッシュパブに出かけていました。

今年も3月ごろに「奇跡の再会」が実現しそうだったのですが、誰からともなく「やっぱり危なさそうだからやめておこう」ということになりました。

まだ、新型コロナウイルスの感染経路などよくわからず、都内でも陽性者が少し出始めていたぐらいの時期でした。

 

でもなんとなく「ワイワイと喋って混み合っている店は危険そう」と、限られた情報から判断しました。

それからほどなくスタッフの休憩室での感染を聞いて、久しぶりの再会を中止したのは適切な判断だったとヒヤリとしました。

 

少しずつこの感染症との付き合い方が見えてきて、遠出の散歩を再開してからも、飲食店を利用する時にはほとんど他の客がいない時間帯とか、喋らずに食べているような客の多い店を選んでいます。

 

喋る時に唾が飛ぶのを防ぐという、お金もかからず難しくない対策で対応できそうなはずなのに、なんだかどんどんと複雑になり、これまで頑張ってこられた地元の飲食店が窮地にたっていったり閉店されるのを見るとつらいですね。

 

「大勢でワイワイ飲んだり騒いだりしたい」という人が、そんなに世の中多いのでしょうか。

喋らずに食べるというのは、そんなに難しいことでしょうか。

 

「おひとりさま専用」「店内では会話厳禁」というお店があったら、外食したいという人もそれなりに需要があるのではないかと思うのですけれど。

そういうお店なら、時間短縮する必要もないのではないかと思います。

 

たまに外食したいなあと思っても、店内から賑やかに話し声が聞こえると、ビビって入るのをやめています。

こんな状況でも、店内で大きな声で喋らずにいられない人もいるのですね。

喋らなければだいぶリスクは減るでしょうから、発想を変えて、喋らないことを売りにしたお店なんてどうでしょう。

 

なんだか、飲食店や旅行関連の対策が、簡単なことを難しくしているように見えて仕方がないですね。

まあ、政府が国民に「喋るな」なんて指示はできないですから、自主的にそういう流れにしていくことが難しいのでしょうね。

 

 

「簡単なことを難しくしているのではないか」まとめはこちら

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食べるということ 62 北陸道で食べたもの

北陸道の海辺をまわって、さぞかし美味しいものを食べたかと思われたかもしれませんね。

散歩のメモを読み返して、自分でもあちゃーと思うほど「北陸道で食べられなかったもの」の記録になりそうです。

 

散歩の1日目、東京駅の焼き立てのパンの香りに、すでにお腹が空き始めましたがまだお店は開いていません。

いやいや、今日は北陸で美味しいものを食べるのだ、そのためには空腹も大事と北陸新幹線に乗り込みました。

 

穴水でちょうどお昼ご飯どきだったので、ふらりと見つけたお店で地元のご飯を食べられたらと期待していました。

でもお店で食べると、少なくとも30〜40分は時間が必要ですね。

「腹が減った」とテーマソングが頭の中で流れながら、これから能登半島の海岸線を回るバスの時間に間に合いそうにありません。

駅の中に道の駅が隣接されていたので、おにぎりでもと思って立ち寄りました。

地元のお店が作っているにぎり寿司とのり巻きのセットで、なんと500円、道の駅内のイートインで食べました。とても美味しかった!

 

その日の夜は和倉温泉で宿泊と書くと、さぞかし豪華な料理と思われるかもしれませんが、私の散歩はいつも素泊まりのビジネスホテルです。

夜はもともと軽くですし、歩きまわったあとは疲れているので部屋でのんびりしたいという感じ。

 

*幻のサバ焼き定食*

 

せっかくの北陸の散歩ですから、2日目にはぜひという食事を考えていました。

小浜ではちゃんとお昼ご飯をお店に入って食べる計画でした。

 

小浜といえば鯖街道です。

1990年代半ばに村井さんたちと小浜を訪ねた時に、初めてこの言葉を知りました。みんないろいろなことを知っているのだと驚きましたし、歴史を知って訪ねると楽しいのだろうなと、うらやましく思ったのでした。

あれから四半世紀経っても、鯖江と間違うぐらい表層的な知識のままです。

 

今回も最初は「小浜で美味しい鯖を」と思って、Wikipediaを読み返しました。

鉄道や自動車が普及する以前の時代には、若狭湾で取れたサバは行商人に担がれて徒歩で京都に運ばれた。冷凍技術のなかった当時は、生サバを塩でしめて陸送する方法が取られ、京都まで輸送するのに丸1日を要したが、京都に着く頃にはちょうど良い塩加減になり、京都の庶民を中心に重宝されたといわれている。

そうそう、こんな話を25年前に知ったのでした。

夏期は運び手が多く、冬期は寒冷な峠を超えることから運び手は少なかったといわれている。運び手の中には冬の峠越えのさなかに命を落とす者もいた。しかし、冬に針畑峠を越えて運ばれた鯖は寒さと塩で身をひきしめられて、特に美味であったとされている。 

小浜の鯖は新鮮さ、運び込まれた京都ではさらに旨味が増すわけですから、食べるのなら京都なのでしょうか。 

 

それでも、25年前の活気のあった魚市場のことが思い出されて、美味しい魚を食べようと歩き始めました。

駅から10分ほど歩いたところで、「鯖焼き定食」の看板とともに良い香りが。

ここに入れば良かったのですが、ついつい河口付近まで歩こうと思ったためにこの機を逃しました。

あの時、まずここでお昼ご飯を食べて、そして小浜湾を眺めていたら・・・。結局は幻のサバ焼き定食になり、河口まで歩く計画も逃したのでした。

 

空腹と歩き疲れとで、ふらふらになりながら、コンビニで押し寿司とおにぎりを購入。

これが2日目のお昼ご飯になりました。

 

駅のロータリーで、近江今津行きのバスを見つけました。

ここから琵琶湖までのバスがあるようです。Wikipediaの「鯖街道の経路」に書かれている「琵琶湖経由のルート」を通るのでしょうか。また、次の散歩の計画ができてしまいました。

 

*2日目に食べたもの*

 

2日目の朝、金沢駅で「能登ブリ角煮むすび」を見つけました。

「小腹が空いたときのために」と購入し、特急しらさぎに乗り込みんだのですが、誘惑に負けて敦賀までの間に食べてしまいましたが、これは美味しかったです。

これを食べていなかったら、小浜で空腹に耐えながら歩くことはできなかったかもしれません。

 

そしてコンビニで買ったおにぎりも、本当に涙が出るほどありがたくいただきました。

おにぎりはありがたいですね。

新鮮な海の幸は幻となりましたが、それもまた散歩の思い出の醍醐味ということで。

 

西舞鶴駅から特急まいづるに乗って京都へ向かい、夕飯は京都で何かお弁当でも買って帰ろうと思っていたのですが、この特急の中が少々寒くてむしょうに温かいものが食べたくなりました。

以前、京都駅で見た駅そばのお店を思い出し、特急を降りた後に直行しました。

 

なんととり天のうどんがありました。関西風の出汁ととり天、からだも温まったし、ほんと美味しかった。

 

北陸道で食べられなかったもの」ではなく、やっぱり「食べられたもの」の記録ですね。

 

 

 

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