落ち着いた街 13 郷地町の崖線と水路を歩く

立川崖線と昭和用水を訪ねるために、西立川駅に降りました。

小さな駅なのに広いホームがあるのは、北側に国立昭和記念公園があるからで、1990年代と数年前の2回行ったことがあります。四季折々の草花が広大な敷地に植えられていて美しい公園です。この日は、緊急事態宣言で休園のため、駅はひっそりとしていました。

 

駅を出て、細い路地を選びながら南側へと歩くと、「想定浸水深 0.5m   この場所は残堀川が氾濫すると 0.5m浸水する可能性があります」という表示を見つけました。

まだこの辺りは段丘の上側なのになぜ?と思いましたが、国立昭和記念公園内に残堀川が通っています。あの瀬切れを頻繁に起こす残堀川なのに、氾濫するとこの辺りまで影響を受けるのですね。

 

蛇行する道を進むと、古い瓦屋根の家がところどころ残り、広くなったり狭くなったり道幅が凸凹に入り乱れた道があるので、畑や家が点在していた昔のままに道を作ったのかなと想像しました。

夏日になりそうな暑い日でしたが、道路工事現場で案内をしている方をふと見たら、80代ぐらいの女性でした。この方は、どのような人生を送り、どのような生活をされているのかなと話しかけたくなってしまうのをこらえて、先を急ぎました。

 

*崖線沿いの水路を歩く*

 

前方に竹やぶが見えてきました。おそらくその辺りから下り坂だろうと予想した通り、常楽寺の横に坂道がありました。下りると、目の前に水田があります。これから水を張るようで、まだまだ現役の水田のようです。

 

その水田に水を入れている水路を西側へとたどってみました。住宅の前を通っていて、その家から道路に出るにはそれぞれの家にある小さな橋を渡ります。こんな風景がとても羨ましいですね。

 

右手は少し小高い場所が続き、その崖を利用して1階を駐車スペースにした住宅が新たに建てられています。

 

水路は少しずつ幅が狭くなりながら、切通しの新しい道路の下をくぐった後は暗渠になり、遊歩道が整備されていました。振り返ってみると、もう一本南側を通る水量の多い水路が遠くに見えました。

この暗渠の下で分水されているようですが、地図で見るとその先には昭和用水からの水路も描かれています。どこが水源なのか、どこで水路が合流したり分水して、この地域の田畑に水を行き渡らせてきたのでしょう。

そして水が足りないことだけでなく、洪水にも対応してきた歴史を考えるだけで、ちょっと気が遠くなりますね。

 

 

右手に続く崖線は竹が植えられ、斜面は一部、畑として利用されていました。

そこを過ぎると、福島神社の鬱蒼とした鎮守の森が見えてきました。水の神様かもしれないと気になったのですが、蜂が活発になってきた季節なので、森を歩くのはためらわれました。

 

鎮守の森の前の畑の横を通り、共成小学校の横を過ぎると、小さな公園があり一休みしました。

この辺りの「想定浸水深」は1.3mから1.7mのようです。

 

 

郷地町の崖線に沿った地域を歩くと、豊富で美味しい水がある地域なのだろうなと思える美しい風景があちこちに残っていました。

こんな風景の中で生活する東京の子どもたちがいるので、きっと多摩川由来の崖線の緑を保存することは一世紀後とか二世紀後にも引き継がれていくだろうと思います。

 

 

その先に昭和用水の水路が見えてきました。

ここからは昭和用水沿いに歩きます。

 

 

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ハケや崖線の散歩のまとめはこちら

 

 

 

 

散歩をする 308 立川崖線の湧水と昭和用水

都内の農業用水を読んでいたら「昭和用水」がありました。どこから取水しているのだろうと地図を見ると、5月初旬に歩いた高月町の対岸に取水堰がありました。

 

そこから水路をたどると、2017年から2018年にかけてその辺りを散歩した記憶とつながりました。当時は「東京湧水せせらぎ散歩」という本に出会った時で、 福生のあたりから武蔵野台地の崖線沿いにある湧水や水路を歩き始めていました。

 

その時に、龍津寺(りゅうしんじ)の湧水を訪ねてから、水田や畑、そして住宅の中を通る水路沿いに歩き、中神駅から帰宅しました。

拝島丘陵 龍津寺

 龍津寺(りゅうしんじ)は拝島丘陵が多摩川に落ち込む際にあり、多摩川までは400mほど。湧水は寺の裏側の崖地に湧き、昭和用水堰から取水した水量豊かな流れに落ちる。奥多摩から選んだ巨石を積み上げて作られた水路は、途中に休憩スペースもあり、人々の憩いの場となっている。湧出は3カ所に見られ、いずれも水量はあるが、一番上流の湧出が多い。

 

地図では多摩川の河川敷にほど近い平地のような場所と想像していたら、そこに崖線があり、本当に豊かな水が湧き出ていました。

そして近所には水田が残っていたことにも驚きました。

あの日の散歩をブログに残していなかったのは残念です。記録は大事ですね。

 

*立川崖線と昭和用水を歩く*

 

その龍津寺の前に拝島ポンプ所があり、その多摩川側に水路があります。地図で上流へとたどると、啓明学園の校内に水路があってその先で多摩川につながっています。ここがちょうど高月町の対岸で、取水堰だったようです。

 

なんとなく水源と途中の水路がどの辺りを通っているか想像できたのですが、郷地町の辺りで昭和用水はぐいと内陸よりに曲がり、いくつかの小さな川が合流して最後はあの残堀川に流れ込んでいます。

4年前と違って、この小さな川の線を見ただけでここに崖線があることが想像できます。そして地図には載っていない、湧水や水の流れがあることも、そしてその恩恵を受けた風景や生活があることも想像できました。

 

そういえば、30年ほど前にこの郷地町に知人が住んでいて、「昭島の水道は地下水が豊富だから本当に美味しい」と誇りにしていたことを思い出しました。

「清潔な水を安く、不足なく得る」ことが叶い、美味しいことも求められ、高度浄水施設が造られた時代に入っていた頃でした。

そして都内から田畑が消えて、住宅地へと開発が進んだ時代でした。

 

ここをぜひ歩いてみよう。

5月下旬に出かけました。

 

 

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散歩をする 307 谷地川から滝山、高月用水へ

雷雨になりそうで引き返した日野用水から谷地川の散歩ですが、もっと谷地川の中流域の風景を見たくなり2日後にまた出かけました。

もともと多摩川右岸の水田を見たいと思って計画した散歩でしたが、日野用水沿いは畑地でした。もう少し多摩川近くまで行けば水田があるのでしょうか。

 

東京都産業労働局の「田んぼの生き物調査」の中の高月用水に目が止まりました。

「高月」どこだろうと思って地図を見ると、谷地川に近い場所です。

5月初旬、まだ田植えは始まっていないかもしれないけれど、水田に水が張られ始めているかもしれません。ここを目指すことにしました。

 

*宇津木から滝山へ*

 

再び日野駅に降りて、宇津木台行きバスに乗りました。先日歩いた場所をバスで通過しながら谷地川を越え、八高線を越えるあたりから小高いところへとバスは登り始めます。このもう少し先に日野用水の取水堰があるようですが、また次回にということで。それでもバスで近くを通ったことで、取水堰が造られた場所の地形をイメージすることができました。

 

オリンパスの工場のあたりから、バスはさらに急な登り道を上がって行きますが、両側には住宅地が広がっています。おそらく1980年代から90年代ごろから開発されたのだろうと思われる、整然とした街並です。

小高い場所の終点で降りると、目の前にはまだ雑木林が公園として残されていて、その森に沿って下っていくと目の前が開けて先日の谷地川の右岸に出ました。対岸にも低めの丘陵地が川に沿ってあるようです。

 

先日の続きの遊歩道を歩き始めました。蛇行した旧河道と思われる場所がまた遊歩道になり、公園が整備されています。

あるいは、浸水しやすい場所だったのか広めに河岸が芝生で覆われていて、コンクリートでの護岸とは違う風景もありました。

 

水量はそれほど多くないのですが、水草など植物が茂り、魚もいました。

ホトトギスが鳴き、ハゴロモジャスミンの香りが漂い、ところどころに大きな木や畑も残ってのどかな遊歩道です。

20~30分ほど歩くと、両岸の小高いところに大学がある少し賑やかな場所になり、そこを過ぎるとまた畑や住宅が続く静かな遊歩道で、その先にひとつめの目的地である神社がありました。

「勝手神社」という名前に惹かれて訪ねてみましたが、由緒は残念ながら書かれていませんでした。

 

 

*滝山街道から高月への切通し*

 

ここから一旦、谷地川を離れ、今日は高月町へと向かいます。

地図で見ると、滝山城址のある丘陵地の反対側になるようで、山道を越える必要があります。

幸いにして拝島方面へ向かうバス路線があり、それに乗ることができそうです。

 

バス停に向かう途中の舟木町三丁目の交差点に、大きな石碑がありました。

道路開通記念

思う一念中央を貫く

加住地区中央部の市民が永年要望した道路を十一ケ年の歳月を費やし、竣工した 関係者によって記念碑を建てる

昭和三十九年九月秋  発起人代表 村内萬助書

 

この交差点から山を貫いて高月町へ向かう道は、1964年につくられた切通しの道だったようです。

航空写真で事前に確認した時には人通りも少なさそうな山中の道に見えたので、バスを利用した方が安全そうだったのですが、案外、車がひっきりなしに通っています。

私が幼児の頃に熱望されて造られた道を歩いてみようと、石碑を見たら気持ちが変わりました。

 

最初は歩道があったのですが途中でなくなり、前から後ろから大型車もひっきりなしに通るので怖かったのですが、もう後戻りもできません。

あまり森側に寄って歩くと、そこは湧き水か何かで湿った地面ですし、蛇行する道を歩くのは好きなのですが蛇が苦手なので、どこで遭遇するかとヒヤヒヤしながら歩きました。

ようやく下り坂になり、田地が広がっているのが見えました。

十数分で高月側に到着した頃、乗るつもりだったバスが私を追い越して行きました。

 

今ならバスで2分ほど、歩いても十数分で越えられる場所ですが、60年前は山道を心細く歩くか、かなり迂回していたのでしょうか。

 

*高月の水田と高月用水*

 

水田地帯に沿って広い歩道が整備されていました。車から解放されて、ホッとしながら歩きました。一面、まだ土だけの風景でした。まだまだ東京の田植えの風景には早かったのかもしれません。

水路に流れている水に癒されながら歩いていると、途中、少しずつ土に水が浸み込んでいるところがありました。こうして水を張り始めるのですね。

高校生まで過ごした地域では毎年見ていたはずなのに、何も知らないまま人生を過ごしてしまいました。

 

水田の風景を見ることができたら、俄然、元気が出ました。

秋川と多摩川の合流部に近いところにある取水堰をみて、秋川を渡り、今度は多摩川を渡って拝島駅まで歩いてから帰路につきました。

 

 

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あわせて「米のあれこれ」もどうぞ。

 

 

 

 

 

水のあれこれ 177 日野用水

日野用水について詳しい説明を探してみたところ、国土交通省の「多摩川の見どころ」に「20.日野用水(東京都八王子平町〜日野市)がありました。

ちょっと長いのですが、そのまま記録しておこうと思います。

 

 日野市域は、 江戸時代に多摩川と浅川から引かれた農業用水路が市内を網の目のように流れ、崖線からの湧水群が現存する大変水に恵まれた地域です。このような特徴を生かした街づくりを進めていることが評価されて国土交通省選定の「水の郷百選」にも選ばれています。

 

日野用水の始まり 

 日野用水は、美濃國(岐阜県)から移住してきた佐藤隼人によって室町時代後期の1567年(永禄10)に開拓された用水です。

 この頃、日野市域は小田原北条氏の支配下に入り、滝山城(のちの八王子城)の城主であった北条氏照多摩地域の開発を積極的に進めていました。佐藤隼人は北条氏照から許可を得ると、罪人を使役して日野用水を開削しました。

 

江戸時代の日野用水 

 江戸時代の日野用水は、日野本郷・万願寺・下田村・新井村・石田村・宮村・上田村の七ヶ村を灌漑しており、日野領七ヶ村用水組合を結成していました。「旧高旧領取調帳(関東編)」によると、これらの村々のほとんどは、江戸幕府直轄の幕僚だったようです。

 日野七ヶ村用水(現在の日野用水)は右図のような灌漑流路を辿っていました。取水口のある平村(現在の日野市南平)から日野本郷(現在の日野駅付近)に引き入れられた水は、宮村に入り万願寺村を流れ、新井村・石田村に流れます。下田村は宮村から流れてきた水を新井村へ流しています。上田村については七ヶ村用水ではなく浅川支流と堀の内村から水を引いていましたが、上田村が所属していた三ヶ村用水組合に宮村と万願寺村が含まれておりこの二村が七ヶ村用水組合の構成村であったこと、また元々「田村」という一村が「上田村」と「下田村」に分かれたという記述が「新編武蔵風土記稿」にあることから、「上田村」も七ヶ村用水組合に編成されたと考えられます。

 

日野市の幹線水路 

 日野市域はちょうど西側を向いた犬の横顔のような形をしていて、犬の耳から後頭部を通り首に当たる部分を多摩川が、犬の口から顔の中心を通り首に当たる部分を浅川が流れています。この二つの大きな河川である多摩川と浅川によって発達した「沖積低地」、これらの河川の河岸段丘によってできた市域の西側に広がる「日野台地」、そして市内南側に位置する「多摩丘陵」の三つの特徴ある地形によって形成されています。

 日野市には日野用水の他にも多摩川・浅川・程久保川から取水している水路が多く存在し、市内を川とほぼ平行に流れるその総延長は約177kmに及びます。日野市を取水口とした用水幹線は9つあり、程久保川からの一宮関戸連合用水をはじめ、浅川からの向島用水・高幡用水・新井用水・上田用水・豊田用水・平山用水・川北用水・上村用水がそれにあたります。水に恵まれた日野市域では稲作が進んで「多摩の米蔵」と呼ばれていました。

 

現在の日野用水 

 1605年(慶長10年)、甲州街道と同時に日野宿も整備され、1716~35年の享保年間には新田開発奨励により農地拡大が進みました。1889年(明治22年)に甲武鉄道(現在の中央線)の新宿ー八王子間が開通し、翌年には日野駅が開設されました。1893年明治26年)に多摩地域東京府に返球され、日野宿は「日野町」に改められました。

 昭和に入り、世界恐慌のあおりを受けて昭和恐慌に陥りますが、日野町はこの打開策として工場誘致を展開し、1934年(昭和9年)頃から「日野五社」を始めとする企業の進出が始まると、次第に都市化傾向となり急激に人口も増えてきました。土地利用についても、農地が減少し宅地が増加してきたことで、生活雑排水が用水路に多く流れるようになり、1968年(昭和43年)ごろから用水の水質が低下してきました。そのため、水質改善を目的として、1976年(昭和51年)に日野市公共流域の流水化に関する条約である「日野市清流条例」を施工し、市内8用水団体と「用水路年間通水業務委託契約を結んで、日野市内の用水路に年間通水を行うことにしました。

 1985年(昭和60年)頃からは、ビオトープや親水公園等市民が親しめる施設を整備を始めました。1980年(昭和55年)には各団体の役員による「清流監視員(清流レンジャー)」制度を設け、用水に関する日常的な管理・監視は住民に委託し、水路施設の補修・改修は市が行うといった役割分担がされています。

 

 

よそう森公園の碑文はこういう歴史があったのですね。

1990年代に私が初めて日野市を訪ねて「市内のあちこちに清流が流れる小さな水路がある」と印象に残ったのは、川や水辺をきれいにしようという社会のうねりが実を結び始めた頃だったのかもしれません。

 

そういえばあの頃は、街のあちこちに「清流の街」といった幟(のぼり)を見かけた記憶があります。

あの時にも十分に美しい水路の街だと思ったのですが、30年前、40年前の人たちの熱意がなければ今の風景はなくなっていかもしれませんね。

 

 

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散歩をする 306 谷地川の遊歩道を歩く

日野駅から多摩川に並行して何本かの水路があり、それをたどっていくと途中で谷地川があります。

今回、計画の段階で、一本の水路がその谷地川と交差していることにも関心が湧いたのでした。

 

そしてその谷地川は、以前から散歩の計画ノートに書かれていました。

川の左岸側にところどころ蛇行した場所が緑色に描かれて、おそらく旧河道を遊歩道にしたのでしょう。いつか歩いてみたいと思っていました。

あの一世紀前までは利根川も荒川も河道が安定していなかったために放水路が造られた歴史を思い出させるような地図でした。

 

日野の美しい水路の記憶をたどり、途中からは谷地川を歩けるところまで歩いてみよう、というのが今回の散歩の計画でした。

 

*日野用水と谷地川が交差する*

 

散歩の途中で立ち寄ったよそう森公園で、私が記憶していた水路はこの日野一帯を潤してきた日野用水だとわかりました。

水源は多摩川です。

 

今でも轟々と水が流れているこの水路は途中、どうやって谷地川を超えているのでしょう。

あの玉川上水と残堀川のマジックのような仕掛けでしょうか。

 

谷地川が近づいてきました。

橋の左横に、幅1mぐらいでしょうか、コンクリート製の樋が架けられてその中に先ほどまで水路を通っていた水が流れていました。

まさに、川の上に川でした。

 

そしてこの川は、「やじ川」と読むことが表示されていました。「川」は「がわ」と読むのでしょうか。日本語は難しいですね。

 

*谷地川遊歩道を歩く*

 

橋を越えて150mほど歩いたところに、遊歩道の入口がありました。

谷地川の旧河道と思われる川が残っていて、さらにまたここでも日野用水が交差しています。

ただ、ここには特別の仕掛けもなさそうで、二つの流れが静かに混じり合ってそして別の方向へと別れて行くあの不思議な運河の流れのようです。

 

蛇行した遊歩道の周囲は草木がよく手入れされていて、散歩をしている人もいました。

旧河道と現在の谷地川との間の土地には、工場がありました。

 

その工場の横を歩くとじきに谷地川の本流で、両側に遊歩道が続いています。

右岸側は以前は崖だったのだろうと思われる場所が続き、ところどころ住宅地になっています。川には水草が生え、水鳥が遊び、周囲の森からはウグイスの鳴き声と、のどかです。

川の水は少ないのですが透き通っていて、ハヤでしょうか、たくさん泳いでいました。

両岸は川底から3mほどの高さがあるので、一旦、水量が増えると、あの右岸側にぶつかりながら多摩川までこの辺りを浸水させていたのだろうと想像しながら歩きました。

 

本流の遊歩道に沿って歩くと八高線の下をくぐり、さらに300mほど歩いたところで,また、旧河道を遊歩道として整備した場所がありました。

竹やぶと木々に囲まれ、涼しい空間にホッとしながら歩くと、右側は川の流れで崩された地形であることがわかるような崖が続いています。

蛇行した遊歩道を道なりに歩いていると、今度は左手が少し高くなり、そこに今でも地形のまま畑が残っています。

 

遊歩道の幅はそれほど広くないので、昔はここを大水が流れ、畑や家を流していたのでしょうか。

そんなことを考えていると、また本流の遊歩道に戻りました。

 

まっすぐな本流の遊歩道は味気ないかなと行く前は想像していたのですが、両岸の変化のある起伏や風景に飽きることがありません。

さらに300mほど歩くと、また旧河道が児童公園として整備されていました。

 

左手の高台に東海大学八王子病院の大きな建物が見え始めた頃、遠くで雷鳴が聞こえ始めました。

空を見ると、なんとなく積乱雲が大きくなっているようです。

あわてて東京アメッシュで確認すると、今のところ雷雲は描かれていないのですが、10分もすると変化するのがこの季節です。

 

今回は八王子バイパスの手前で散歩を中止して、バスに乗って八王子へと向かいました。

 

 

帰宅してWikipedia谷地川(東京都)を読んでみました。

八王子市上戸吹に水源を発し、やや南東に流れて行く。途中日野用水と立体交差する。一部流路は直線化され、屈曲した旧河道も一部、残っている。

また、日野台地の北限にもなっており、この川以北は加住丘陵となっている。

実際に歩いたあとにこの一文を読むと、写実的で無駄のない文章だなあと風景が蘇ってきたのでした。

 

 

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散歩をする 305 日野用水沿いに歩く

30年ぶりに日野駅に降りました。

駅の西側には日野台地の端の崖のように高い場所があるのは、記憶通りでした。改札を出て甲州街道沿いに少し歩くと、最初の交差点の反対側に小さな公園があり、さっそく水音が聞こえてきました。

30年前もこの辺りを歩いたのだと思うのですが、風景に全くと言って記憶がありません。

 

本当に日野を訪ねたのだろうかという記憶さえおぼつかなくなったのですが、そのまま団地の中を歩いていくと、右手に畑が広がり、小さな水路に水が勢いよく流れています。

石積みの水路が続き、畑から住宅地になり、また畑と公園が見えてきました。その公園の手前では、公園の北側から小さな水路が来て合流しています。

こんな風景を見ると、どうやって分水したり合流させたりしているのか、その地域の水の歴史が気になりますね。

 

*よそう森公園*

 

その公園は「よそう森公園」で、「『水の郷日野』用水路マップ」がありました。

今まで歩いた水路は、この公園の端で日野用水上堰から分水された水路で、さらにいくつかの分水を甲州街道沿いのさきほどの「池端公園」の辺りでまた合流しているようです。

 

「よそう森公園」に「碑文」がありました。

 本地区は、日野市の北西部、多摩川沿いの沖積地に位置する。

そのため、古くから東京の米どころとして、日野用水をはじめ、中小の農業用水網のある水田地帯として発展して来た。

 JR中央線日野駅の徒歩圏にあり、無秩序な乱開発の波が進行してくるとの懸念から、日野市の原風景である水路のある街並みや田畑が消えていくなか、農あるまちづくりを進めていこうと、組合施行による区画整理事業を行うこととした。

 平成6年十月三十一日東京都知事より組合設立の認可を受け、以来十年の歳月を経て、道路、水路、公園の築造を行い、本事業の完成となった。

 ここに事業の竣功に伴い、関係者ならびに地元住民各位のご協力であることを記すと共に新町地区の新たな発展と末永い繁栄を祈念し、この碑を建立する。

平成十六年十二月吉日 

 

住宅と畑が途切れた向こうに広がっていたよそう公園は、まるで絵画の中の田園風景のような場所でした。

 

三十年ほど前、私が初めて日野を訪れた頃に始まった運動が、落ち着いた街並みを残したのですね。

 

*日野用水上堰沿いを歩く*

 

公園を出ると、幅3mはあるでしょうか、水量の多い日野用水上堰の流れがありました。

日野台地の小高い場所のすぐそばを掘り進んだように見えます。

この流れに、「ああ、やはり日野市内を歩いたことがある」という記憶が蘇りました。どこへ向かったのかは忘れたのですが、確かにこの水路沿いを歩きました。

多摩川側へは少し低地になって、畑が広がっています。かつては水田だったのではないかと思うような場所でした。

 

地図には緑色の帯状に描かれていた東光寺第一緑地は崖線で、その森がぐっと近づくところで、八王子方面への切り通しの道がありました。

そこにまた説明がありました。

日野市指定史跡 東光寺大橋の碑

昭和三十六年十月一日指定

 

 日野市栄町と新町の一帯は、東光寺とも呼ばれ、日野宿と八王子を結ぶ、通称「東光寺道」が通っていた。

 右側にある「東光寺大橋の碑」は、東光寺道が日野用水上堰堀を渡る場所に架けられた石橋(現存せず)の架橋を記念して、弘化三年(1846)に建立されたものである。

 碑文には、天明六年(1786)に土橋から板橋に架け替え、文化五年(1808)には石橋にしたが、天保年間(1830〜44)に崩落したこと、このため村民が協力して弘化三年に伊豆石を用いて架橋したことが記され、端の変遷を知ることができるものとして、市史跡に指定された。

 また、この碑の左には、大正時代に建てられた「東光寺大坂の碑」がある。碑文には、八王子に向けて台地を登る坂道が険しかったため、崖を開削し、排水溝を設けたことなどが記されている。

 これらの碑は、往時の交通を支えた村民の姿を今日に伝えるものとして、貴重なものである。

日野市教育委員会

 

 

水路には轟々と水が流れていて、たくさん鯉がいるのですが、頑張らないと水流に負けて流されていました。

日野市内の多摩川右岸沿いの農地を潤すための用水路ですから、人喰い川の様相だったのかもしれませんね。

橋を架けるのも、維持するのも大変なことだったのでしょう。

 

その反対側の多摩川の河岸に日野用水下堰の取水口があるようで、日野用水上堰よりもう少し日野市内の北側の地域を流れているようです。

 

 

しばらく歩くと、崖状の小高い場所が途切れ、谷地川が流れています。

日野用水上堰の流れはどのようにこの川を交差しているのだろうと、期待しながら近づいて見ました。

 

 

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散歩をする 304 多摩川右岸の田んぼを訪ねる

また5月の散歩の記録に戻ります。

 

5月初旬、そろそろあちこちで田植えのニュースが聞こえる頃です。昨年に続き、田植え後の田んぼの風景を見逃したくないと思いました。

ただ、絶対に都県境を越えない散歩を実施中です。都内の田んぼとなると、まず思いついたのが羽村の根がらみ前水田ケルネル田圃です。

 

ケルネル田圃は田植えの時期がもう少し遅いこと、そして、まだ見たことがない場所を訪ねてみようと「東京、水田」で検索して見ました。

東京都産業労働局の「田んぼの生きもの調査」が公開されていました。

「東京に田んぼがあるの?」と驚かれる方もいらっしゃるかもしれませんが、都内には平成30年現在256haの水田が残っています。そして水田や樹園地、畑等で66の農業用水が今もなお現存しています。

(平成30〜令和元年(2018〜2019年)関東農林水産統計年報 令和2年3月農林水産省

 

 

その「田んぼの生きもの調査」はなんと農業用水別に実施されていて、都内の農業用水を知ることができました。

 

その中に「日野用水」と書かれていて、30年ほど前の記憶とつながりました。

日野台地と清流に書いたように、1990年代に日野を何度か訪ねる機会があって、「市内のあちこちに清流の流れる小さな水路があった」ことが印象に残っていました。

そして2019年に豊田駅前の黒川清流公園を訪ねて、日野台地の崖線と湧き水の豊富さに、やはり日野のあの記憶は間違いではなかったと思っていました。

 

ところが日野用水の存在を知り、私が見た清流はもしかすると多摩川からの用水で、その水源について大きな勘違いをしていたのではないかと気づいたのでした。

日野駅豊田駅は隣同士ですが、水の得かたは全く異なっていたのではないかと、確認して見たくなりました。

 

そうだ、今年は多摩川右岸の田んぼを訪ねてみよう。

30年ぶりぐらいに、日野駅に降りて見ました。

 

 

 

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小金がまわる 26 蛸は身を食う

「蛸は身を食う」

資本や財産を食い減らすたとえ。蛸は空腹になると自分の足を食うといわれるところから

(「ことわざ辞典ONLINE」)

なんとなく子どもの頃から知っていた諺ですが、本当に蛸の生態はどうなのだろうと思ってもなんだか有耶無耶のようです。薀蓄には要注意のようですね。

類語の「身で身を食う」の方がよいのかもしれません。

 

なんでこんな諺をを思い出しているかというと、生きて活動していくのに最近はなんだかこんな話ばかりだなというところです。

 

レジ前でのあたふたもなかなか慣れませんね。

マイバッグを手元に見せて「レジ袋は入りません」と言ったのに、会計の最後に「レジ袋は入りますか?」ともう一度聞かれることもしばしばです。

状況によってレジ袋も購入するのですが、「Mで」と言ったのにマスクでうまく聞き取れないのか「L」になっていて、二円ほど高い袋で「(まあいいか)」となったり。

店員さんだってレジ打ちだけに集中できなくて、大変そうですしね。

 

これにさらに「プラスティックスプーンなどの有料」が実施されると思うと、どんよりです。

今までなら「必要なら前からお取りください」で済んでいたのに。

また双方にストレスなことが増えるし、こういう構造が一気に変わることで誰かが仕事を失わなければいいのですけれど。

「スプーン有料、コンビニ店主の本音『エコより経費削減が大きい』『レジ袋でかなり浮いた』」(弁護士ドットコムニュース。2021年4月4日)なんていうニュースは、どう受け止めたらいいのでしょう。

 

何もこんなに誰もが感染症でストレスが増え、生活の先行きも見えずに気持ちが落ちている時に、今まで社会の中で築いてきたものを壊さなくてもいいのにと、ほんと人心というか人の生活を知らなさすぎるタイミングの悪さではないかと思いますね。

 

*混雑緩和と差額運賃*

 

もうひとつどんよりしているのが、鉄道の差額運賃の話です。

大都市圏で、鉄道運賃の仕組みが大きく変わるかもしれません。曜日や時間帯で運賃が変わる『ダイナミックプライシング』を鉄道にも導入できないか、国が検討することになりました。

「電車賃が時間帯で変わる?」(NEWS WEBニュース 「サクサク経済Q&A」、2021年4月14日)

 

「なぜ、鉄道に?」はこんな理由が書かれていました。

大きなねらいは『混雑の緩和』です。

通勤・通学で混み合う時間帯の方が高い状態にすれば、日中の空いている時間帯に移動する人が増えて、利用者を分散できるのではないかというわけです。

また、今のような状況には、感染症対策としての効果も期待されています。 

 

通勤電車ではマスクの着用、換気そして会話を控えることで現状では問題ないようですし、 「ダイナミックプライシングの本格的な導入までには数年かかる」らしいのですが、その頃にはワクチン接種で終息しているでしょうから「感染症対策」は後付けのような印象ですね。

 

通勤時間帯の混雑というのは、都心へ向かう列車だけでなく都心から郊外へ向かう列車でも激混みの路線もありますし、山手線でも内回りは激混み、外回りはがらがらだったり、区間によってもさまざまではないかと思います。

また平日でも曜日によって差があったり、学生が休みに入ると混雑度も変わります。

 

 

昨年から「リモートワーク」と華々しく言われているけれど、それが可能な業種の人はいったい全体のどれくらいでしょう。

特に6時台の通勤電車に乗っている人は、あまり関係がない仕事ではないかと思います。

そして昨年、その6時台に列車を増発したのに混雑したのは、「その時間が空いているだろう」と出勤を早めた人が多かったことがありました。

 

乗車率が下がって経営も大変な中、感染症が広がり始めた時期から、本数を減らさずに運行している鉄道会社には本当に感謝です。

だからこそこうした策には、なんだか「身で身を食うような話」に感じますね。

 

もしかすると、災害史という視点を持つと、理不尽に重税や使役を課された時代も見えてくるかもしれません。

 

 

 

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行間を読む 113 安政の大地震

1970年代半ばの高校時代に受けた日本史と世界史の授業では、時間が足りなくて十九世紀後半から二十世紀初頭の歴史は駆け足で習いました。

その時代が、まだ歴史として検証されていない時期だったのかもしれません。

 

先日の散歩から安政2年(1855年)の大地震が、湧水地帯であった地域の生活を一変させ、それが深大寺用水建設に繋がったことを知り、きっかけとなった安政の江戸地震を読みました。

安政江戸地震(あんせいえどじしん)は、安政2年10月2日(1855年11月11日)午後10時ごろ、関東地方南部で発生したM7クラスの地震である。世にいう安政の大地震(あんせいのおおじしん)は、特に本地震を指すことが多く、単に江戸地震(えどじしん)とも呼ばれる。 

 

高校時代の「歴史」は主に政治や経済の出来事を中心にしたものでしたから、災害の歴史はほとんど記憶にありません。

 

この「安政江戸地震」にリンクされていた安政の大地震を読んでみました。

安政の大地震(あんせいのおおじしん/だいじしん)は、江戸時代後期の安政年間に、日本各地で連発した大地震である。

 

世にいう「安政の大地震」は、特に1855年安政2年)に発生した安政江戸地震を指すことが多いが、この前年にあたる1854年安政元年)に発生した南海トラフ巨大地震である安政東海地震および、安政南海地震も含める場合もあり、さらに飛越地震安政八戸沖地震、その他伊賀上の地震に始まる安政年間に発生した顕著な被害地震も含めて「安政の大地震」と総称される。 

 

添付されている年表で初めて、幕末から明治に入るまでは大きな地震が頻発していた時期だったことを知りました。なぜ、こんな大事な時代の背景をいまに至るまで知らなかったのか、不思議なくらいです。

 

「幕末に連発した大地震」を読みました。

1853年7月8日( 嘉永6年6月3日)にはアメリカ合衆国の黒船来航、同年8月22日(7月18日)にはロシア海軍のディアナ号が来航し、江戸幕府は相次いで開港を迫られる時勢にあった。ディアナ号で来航したプチャーチン嘉永7年11月4日の安政東海地震に遭遇する直前の11月1日に下田の福泉寺で幕府から派遣された川路聖謨らと会見し下田が安全な港でないことを力説し代港を強く求めていた。

 

東海地震津波で荒廃した下田はその後、長崎を凌ぐ日本の外交の最前線となり、1856年にはハリスが着任して幕府との交渉に当たった。ハリスの妾となった唐人お吉も支度金25両、年俸125両で身売りせざるを得なくなったのは、生家が東海地震津波で流され貧苦のどん底に落とされた背景があったとされる。

 

安政の大地震」はこのような幕末の多難な状況下で討幕運動に呼応するかの如く連発した大地震であった。

 

 

2019年にハリスらが江戸に向かう途中で宿泊した修善寺の弘道寺を訪ねた時に、あえてこの山中の道を歩いたのは「下田から海沿いに行く道はなかったか、あっても危険なので、天城山を越えて遠回りをしながら江戸へ向かったのだろうか」と想像したのですが、まさに安政の大地震の最中だったのですね。

 

地震が続き、地元の人たちの生活はどんな状況だったのでしょう。

それまで出会ったこともないような外国からの要人を受け入れたのは、被災まっただ中の人たちだったとは。

生活を立て直すだけでも大変な中、幕府からどれだけの税や使役が課されたのでしょうか。

 

幕末から明治の驚異的に変化する時代を、災害史からみてみると何か違うものがみえるかもしれませんね。

 

 

 

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水の神様を訪ねる 38 波除碑と洲崎神社

地図で古石場川親水公園の東側のあたりを見ていたら、「波除碑 平久橋碑」という表示を見つけました。

昔の埋立地の防波堤か何かかなと想像しながら地図をたどると、東西線木場駅の近くにある洲崎神社の境内に「津波警告の碑」を見つけました。

東京湾での津波記憶にありません

 

6月に入っていきなり連日真夏日になりましたから、散歩もどれくらい歩けるか不安はありましたが、古石場親水公園のあと体力が持ちそうならここを訪ねようと計画しました。

 

*波除碑(なみよけひ)*

 

旧運河の底に造られた公園からスロープを登って道に戻り、少し東へ歩くと水色の鉄橋が見え、「平久橋」と鉄骨にペンキで書かれていました。

狩野川の大仁橋に似ているなと、ふと「トラス橋」という言葉を思い出したのですが、帰宅して検索すると平久川に架けられた「単径間鋼製トラス橋」で、現在の橋は1993年(平成5年)に架けられたもののようです。

 

さまざまな形の橋がある風景も運河の街の魅力で、しばらく橋に見入っていました。

 

その手前に、壊れたコンクリートの柱のようなものと石柱があり、近づくとそれが「波除碑」でした。

 寛政三年(千七九一)九月、深川洲崎一帯に襲来した高潮によって付近の家屋がことごとく流されて多数の死者、行方不明者が出た。

 幕府はこの災害を重視して洲崎弁天社から西のあたり一帯の東西二百八十間、南北三十余間、総坪数五千百六十七余坪(約一万八千平方メートル)を買い上げて空き地とした。そして空き地の両端の北地点に波除碑を二基建てた。当時の碑は地上六尺、角一尺であったという。

 碑はほとんど旧状を失っており、特に平久碑は上部三分の二を失っている。位置は旧地点を若干移動しているものと思われる。

 建設は寛政六年(千七九四)頃、碑文は伝屋代弘賢、品質は伊豆五ケ村石(砂岩)。

 総高百三十・八センチメートル。

 

Wikipedia高潮を読むと、「古来は高潮のことを『風津波』や『暴風津波』、『気象津波』などと呼んだこともあった」と書かれています。洲崎神社津波警告の碑も、地震ではなく高潮のことだったのでしょうか。

 

 

*海中の島にあった洲崎神社

 

平久橋を渡りしばらく歩くと、首都高深川線の高架橋の向こうに真っ赤な鳥居が見えました。

洲崎神社です。

境内は少し周囲より高くなっていて、東側はまた別の運河のそばに建てられていました。

 

ここにも「波除碑」の同様の説明書きがありましたが、以下の部分が補足されています。

東京市史橋』によれば、「 葛飾郡永代浦築地 此所寛政三年波あれの時家流れ人死するもの少なからす此後高なみの変はかりがたく流死の難なしといふへからす是によりて西は入船町を限り 東ハ吉祥寺前に至るまて 凡長二百八十五間余の所 家屋とり払ひあき地になしをかるゝもの也 寛政甲寅十二月日」と記されていたという。

 

Wikipedia波除碑の「歴史」に、「江戸幕府は洲崎弁天から西側一帯(1万8千平米)を買い上げて、以降家屋を立てるのを禁止して空き地とした」と書かれています。

 

現在は運河沿いまで大きなビルや住宅が立ち並び、首都高速の高架橋が通っている風景からは230年ほど前の様子が想像できませんね。

 

洲崎神社の「由緒」もありました。

 当洲崎神社は元弁天天社と称し厳島神社の御分霊祭神市杵島比売命を祭祀しております。創立は徳川五代将軍綱吉公の生母桂昌院の守り神として崇敬するところとなり、元禄十三年、江戸城中、紅葉山より此の地に遷して宮居を建立してより代々徳川家の守護神となっていた。当時は海岸にして絶景、殊に弥生の潮時には城下の貴賤袖を連ねて真砂の蛤を捜り楼船を浮かべて妓婦の絃歌に興を催すとあり文人墨客杖を引くという絶佳な所であったという。浮弁天の名の如く海中の島に祀られてありました。

 明治五年御由緒により村社に列せられ世間より崇敬厚かった。対象の震災、昭和の戦災に社殿は焼失されたが弘法大使作の御神体は幸いにして難を免れ、当時は仮社殿に奉斎しておりましたが昭和四十三年現在の社殿を造営し斉祀して現在に至っております。

 

 

現在は都心の鎮守の森という風景ですが、以前は海の中にあった島だったのですね。

沖へ沖へと平地を少しずつ広げて数百年。

埋立地との境界の歴史が記録されている神様のようです。

 

境内を出て木場駅に向かう頃から、川風いえ海風でしょうか、風が強くなってきました。

 

 

 

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