記録のあれこれ 174 「丹那隧道工事の風景」と丹那トンネルの殉職碑

新幹線が吸い込まれるように入っていく新丹那トンネルの向こうにレンガ造の丹那トンネル口が見えてきました。その上の森のような場所が丹那神社のようです。

 

海側への道へ曲がると、散策する人の数が増えてきました。

丹那神社を訪ねているのかと思ったら、どうやら熱海梅園の駐車場があるようです。

1月下旬ですが、今年は梅の開花が早いようで沿道にも美しく咲いている場所がありました。

梅はまだかと毎年楽しみにしている花の一つで熱海梅園も計画に入れてみたけれど、人が多いようならやめようかと逡巡しながらひとつ手前の誰もいない道へと曲がりました。

 

 

*熱海水力発電所*

 

「丹那神社」と書かれた敷地に入ってすぐにあったのが、熱海水力発電所の説明でした。

 熱海水力発電所由来記

明治二十八年十月二十日送電

日本で八番目の発電所

名称 熱海電燈株式会社

持主 国府津村 杉山仲次郎

場所 熱海町字谷戸六八五番地

出力 三十馬力(二十二KW)

電圧 一千Vを百Vに変圧

電灯数 三百灯(但し十六燭光)

熱海の旅館、民家に送電した

 

平成六年四月吉日 熱海電気協議会 会長 内藤弘

 

その隣に「明治28年 当時 熱海電気灯会社水力発電所」の絵図があり、熱海梅園の上の「邪馬渓」の滝から22mの落差を利用してその下にある水車を回して発電していた様子が描かれていました。「谷戸六八五番地」、これまでの散歩から「谷戸」というのは人の生活にとってさまざまな意味がある場所だとつながりました。

 

明治時代に入ってわずか四半世紀で、地域に送電するのですから本当に驚異的に変化する時代ですね。

そこにはたくさんの先覚者たちが各地に出現したことと、「明治期になってとたんに近代的進歩が始まったわけではなく」それ以前の時代からの積み重ねであったことも、この数行の由来の行間にあることでしょう。

 

 

*「丹那隧道工事風景写真」*

 

トンネル口の上が鎮守の森のようになっていて、奥まったところに小さなお社が見えます。

そこへ歩き始めると、手前に11枚の写真が飾ってありました。

丹那トンネル延長25,754尺(7,804m)

丹那トンネル熱海側坑口(1)

丹那トンネル熱海側坑口(2)

坑内6,045尺(約1.8km)地点での掘削工事の状況

 大正13年9月上旬 掘削 完成

 大正13年11月上旬 覆工 完成

坑内6,600尺(約2.0km)地点での巻き立て工事の状況

 大正14年1月下旬 完成

坑内7,233尺(約2.2km)地点の巻き立て工事完成の状況

 大正14年7月下旬 覆工 完成

坑内7,200尺(約2.2km)地点での工事の状況

 火薬置き場及び見張り所の様子(大正14年冬)

坑内7,893尺(約2.4km)地点での掘削工事の状況

 大正14年11月下旬 掘削 完成

 大正15年2月中旬 覆工 完成

水抜き坑(排水用トンネル)600尺(約183cm)附近

非常に固い岩盤に到達

水抜き坑(排水用トンネル)と第一連絡口との分岐点

坑内約300mにわたって土砂が流出し埋没。

なお盛んに土砂が流れ続ける状況

 

昭和2年に発行された「熱海線丹那隧道工事写真帳」から抜粋された写真とのことです。

大正の終わり頃になるとドリルのような機械が使われていたようですが、それでも人海戦術のような様相に見えます。それぞれが「完成」と記録された後の「坑内約300mにわたって土砂が流出し埋没」の一文に、当時の人たちの思いはいかばかりだったことでしょう。

 

読んでいる間にも東海道新幹線の走行音が頻繁に聞こえ、そしてこの真下を東海道本線が通過していきました。

 

*慰霊碑と丹那神社*

 

そばに土木学会推奨土木遺産の記念碑がありました。

旧熱海線鉄道施設群 丹那トンネル(熱海口)

           延長7,804m 昭和9年12月竣工

 当初の東海道線を輸送強化するために、御殿場線廻りから熱海廻りの旧熱海線が計画され、その最難関工事である丹那トンネルの工事が大正7年から始まった。

 破砕帯の出水事故などで多くの犠牲を払い、困難を克服して、ようやく昭和9年に完成した。その過程では丹那方式と呼ばれる水抜き坑、圧搾空気掘削法など日本の工事で初めて実用化された工法が数多くある。

 このため、世界に誇る日本のトンネル技術の発展を物語る貴重な土木遺産であることから令和元年度の土木学会推奨土木遺産に認定された。

 

トンネル口のちょうど真上に、線路と真っ青な海を眺めるかのように慰霊碑がありました。

丹那トンネルの殉職碑

この碑は丹那トンネル開通にさいして鉄道省によって建てられました。

この工事の際、67名の尊い犠牲者が出ました。碑には尊い犠牲者の姓名が刻まれています。この工事は足かけ16年の歳月を要した世界的な難工事でした。完成まで大事故は6回を数え、死者67名、重症者610名という多大な犠牲をはらって昭和9年に開通いたしました。

 

そこから少し山側へと歩いた所に、トンネル口と線路を眺めるように丹那神社がありました。

そばに「救命石」が祀られて、説明がありました。

救命石の由来

大正10年(1921)4月1日午後4時20分頃、熱海口の坑口から約300m奥に入った所で、一大音響と共に、約2チャイン(40m)位崩壊しました。

丁度この大崩壊の数分前です、ずり(残土)出しの者達が頂設盤のずりを漏斗(じょうご)にあけ、下でトロに受けて居りますと、この大石が漏斗にひっかかった、さあ大変、何とかして、これを取り出さなければいかんというので、ほかのトロ(トロッコ)と共に坑外に出る筈の作業員一同が手伝って、大石の取り除きに従事しました。

そのうちに大崩壊がやってきて一同奥に閉じ込められたのです。

もしこの大石が漏斗に引っかからず、仕事が順調に進んでいたらとすれば、丁度この石にかかっていた多数の作業員はトロと共に崩壊の箇所を通っている時分で、当然埋没される事になった筈です。

この石の為に、一同の命が助かったというわけで、救命石と命名して坑門の上の山神社のところに保存してあるのです。

    「丹那トンネルの話」より 丹那神社奉賛会

 

 

1921年(大正10年)当時も、奇跡的に助かったことの神頼みだけでなく、重大事故から再発防止という視点はもちろんあったことでしょう。

それから半世紀ほどで、現代の運輸・土木・製造・医療などに共通するインシデントを認め報告する、失敗から学び事故を防ぐリスクマネージメントの根幹ができたのでした。

 

丹那トンネルの歴史資料館を歩いているかのような、数十メートルほどの場所でした。

 

 

 

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失敗とかリスクについての記事のまとめはこちら

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散歩をする 505 丹那神社から伊豆山神社へ、熱海の急峻な地を歩く

昨年6月初旬に丹那トンネルの上の水田地帯を歩いて以来、新幹線でそこを通過するときにはその風景が思い出されます。

大和川沿いを歩く散歩から戻るときにトンネルの中でやり残したままの宿題が気になり、1月下旬に出かけてみました。

 

それは来宮駅にある殉職者慰霊碑を訪ねようというものでした。

遠出をするようになり、また災害の記録や記憶を訪ね歩くようになって各地のさまざまな慰霊碑の存在が大きくなりました。

 

もうひとつ、2017年ごろから、記憶がなくなっていった父の記憶を訪ね歩くようになったのですが、伊豆山(いずさん)にもどうやら関連のお寺があることを聞き、いつか訪ねてみようと思っていました。

熱海のあたりを通過する時のあの急峻な山肌と深い谷に家が建つ風景と地図を重ね合わせていたのですが、2021年7月3日土石流がその谷を抜けて甚大な災害が起こりました。

 

ニュースでは大きく傷跡のような住宅地が今も映し出されるのですが、そろそろ父の記憶の場所を訪ねてみようと思いました。

 

 

熱海駅から来宮駅へ歩く*

 

平日の日帰りの散歩でしたが、計画の段階では来宮駅までどうやって行こうか地図を眺めてあれこれと考えるのが楽しい時間でした。

せっかくだから湯河原駅からは海沿いを走るバスに乗ってみようとか、そういえば渋谷駅で見た踊り子号だと熱海まで直通だからそれに乗ってみようとか。

ところが、残念ながら新宿から熱海の踊り子号は休日のみだとわかり、また海沿いを走るバスも本数が少ないのでなかなかスケジュールが立てられませんでした。

 

ということで無難に小田急線で小田原に出て、そこから熱海駅来宮駅というルートにしました。ところがJR伊東線は1時間に1本か2本のようです。

えい、それなら熱海から来宮までは歩いてみようということに決めました。

1.6km、23分程度とマップに表示されましたが、相当のアップダウンは覚悟したほうが良さそうです。

 

平日だというのに熱海にはたくさんの観光客が歩いていました。

商店街を抜けると人はまばらになり、さらに来宮方面へ歩く人はほとんどいなくなりましたが、急斜面に家が建っています。細い路地の向こうはすぐ山のような道のそばに細長く続く住宅地です。

冬晴れの青空に、真っ青な海原が輝いていました。歩くのは大変だけれど、住んでみたくなるのもわかります。

 

来宮駅が近づくにつれて、また散策する人とたくさんすれ違うようになりました。

右手に東海道本線が近づき、昔ながらの石積みのトンネルがありました。まるでメガネのように見える2本のトンネルの高架橋の向こうには来宮神社の鎮守の森が見え、歩く人はそちらへと惹きつけられるように流れていました。

 

まずは来宮駅へ向かいました。Macのマップでは駅舎の西側に「丹那トンネル殉職者慰霊碑」と表示されていますが、そのあたりには何もありません。もう少し西へと歩くとJRの敷地になってしまい、見つかりません。

駅に戻って駅構内の地図を確認してもやはりどこにも慰霊碑がないのですが、トンネル口の上のあたりに丹那神社とありました。

もしかするとここかもしれません。

 

先ほどの石積みの高架橋をくぐり、新幹線の線路沿いの県道20号線を歩いて、トンネル口へと向いました。

 

何本も新幹線が通過していきます。美しい風景ですね。

熱海駅を通過して短いトンネルを出ると山肌にぎっしりと建つ住宅が迫ってきてあっという間に丹那トンネルへ入るのですが、こんな風景だったのですね。

 

県道20号線がトンネル口の上あたりで山側と海側へと道が分かれ、丹那神社の文字が見えました。

慰霊碑はそこにあるのでしょうか。

海側への道と曲がってみました。

 

 

 

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水のあれこれ 355 名張川の高岩井堰

散歩の最終日は疲れも溜まっているのでもうこのまま名古屋へ向かおうかと思っていましたが、やはり宇陀川が名張川に合流する場所を見てみたくなりました。

 

12時6分の榛原駅発青山行きの近鉄線に乗りました。

奈良と三重を行き来する人はけっこう多いのですね。沿線はまだ灰色の屋根の集落と水田で、奈良の風景です。榛原駅から次の室生口大野駅までは少し距離があるのですが、この右手の山中に宇陀川が流れ込む室生(むろう)湖があるようです。

Wikipediaの説明に、明治時代には大和盆地への「宇陀川分水構想」もあったことが書かれていました。

 

宇陀川の流れに沿って近鉄線が進み、室生口大野駅のあたりでも美しい街並みが続いていました。しだいに県境の山あいへと入ると、三本松駅のあたりでは斜面に集落がある風景です。

蛇行する宇陀川を2回ほど渡ると、赤目口の手前からは平地になり水田地帯が広がっています。三重に入っても灰色の屋根瓦の美しい街並みでした。

 

名張駅の手前で名張川を渡りましたが、その右岸に水路があるのを見逃しませんでした。

予定していた宇陀川との川合は少し離れているので、あの水路を見てみよう。

車窓から見えた宇流富志祢(うるふしね)神社の鎮守の森から下り坂になり、名張川の河川敷の手前にその水路がぐいと蛇行して流れていました。

そばに「高岩井堰(取水施設)」と表示板がありました。

 

豊かな水が流れています。なんと美しい水路だろうと、名張川と水路を眺めながら宇陀で購入しておいた巻き寿司を食べて今回の散歩が終わりました。

 

 

*江戸時代からの水路だった*

 

あの車窓から見つけて大正解だった美しい水路のことがわかるかなあと、ためしに「高岩井堰」で検索したところ、名張市の「まちなかの見方」を見つけました。

 

 まちなかの新町橋名張川護岸などからは、名張川の流れや山並みを背景に美しい風景が望めます。

 これらの構造は、まちなかの貴重な自然的景観資源といえます。

 江戸時代の錦絵(二代目広重作)である「諸國六十八景・伊賀名張」には、豊かな名張川の流れや小高い丘を背景に、街道沿いのまちが描かれています。

 名張地区西部の市街地周縁部には、古くは黒田庄と呼ばれるまとまりのある田園地帯があり、その背景となる山並みやそれらを明確に区切る名張川沿いの竹藪などが折り重なり、特徴的な景観を形成しています。

 これらは、まちなかの貴重な自然景観資源といえます。

 

ああ、やはり美しい水田が健在のようです。

 

 まちなかを網の目のように流れる簗瀬(やなせ)水路は、1636年、藤堂高吉の城下町建設の時にさかのぼります。高岩井堰取水口から、名張川の水が取り入れられ、名張地区を貫流し、末端で7ヶ所に分かれて名張川へ流れ出ています。現在も豊かな水量が確保され、農業用灌漑用水としてだけでなく、生活に密着したまちの景観資源の一つにもなっています。

 また、この簗瀬水路では、自然石積みの護岸構造が残る部分も見られ、歴史的構築物とともに、まちなかの貴重なまちづくり資源ですが、交通事情や生活様式の変化により、暗渠化が進み、名張らしさのある水路の景観が失われつつあります。

 まちなかの平坦地には城下町・宿場町として栄えたまちなみが広がり、台地には名張藤堂家邸跡や名張城址の石積みが残るなど、桔梗ヶ丘や平尾山の地形的特徴を活かした都市構造が現在でもみられます。

 

航空写真で地図を確認すると近鉄線の線路の東側200mほどの右岸に取水堰があり、ここから神社の高台の下をぐいっと曲がって流れたあと、台地へと水路が続くようです。

誰が、どうやってこの場所を見極めて、水路を台地へと乗せたのでしょう。

 

同じように多摩川の水を武蔵野台地へと流した玉川上水は1653年ですから、その17年前にはこの地域で水路建設が行われていたようです。

 

以来500年近く水を台地に乗せているのですから、江戸時代以前の土木技術の水準や歴史を知らなさすぎました。

 

 

 

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水の神様を訪ねる 98 宇陀の菟田野の水分神社

また読めないタイトルですね。

「宇陀(うだ)の菟田野(うたの)の水分(みくまり)神社」です。

 

どこにあるのかも知らなかった宇陀を地図で眺めていたら、西側には宇陀川、東側には芳野川が流れてそれが榛原(はいばら)駅の近くで合流しているようです。

 

宇陀川に沿って「大宇陀」、芳野川は「榛原」と「菟田野」という地名が広がっていました。

大宇陀の方が観光客が行きそうな場所であるのに対して、菟田野は水田地帯が広がっているようで、その二つの地域はおそらく低い山で隔てられているようでした。

 

どちらに行こうか、宇陀らしいといえば宇陀川沿いかもしれないけれど、菟田野という地名と吉野川ではない「芳野川」にも惹かれます。

地図を何度かみているうちに、芳野川沿いに「水分神社」があるのを見つけました。

2022年の秋に吉野川の里に水を行き渡らせる神様を訪ねました。

菟田野を訪ねようと決まりました。

 

 

*古市場の宇太水分神社へ*

 

榛原駅からバスに乗り、芳野川沿いに冬でも美しい水田地帯や点在する集落を眺めながめました。

15分ほどで古市場水分神社前バス停に到着し、神社へ向いました。

灰色の屋根瓦と木の古い家並みが残る旧道で、朝の静寂と日差しがなんとも神々しい街並みです。どうしてこんなに落ち着いた街が日本各地に忍耐強く残っているのだろうと、我と彼の差はこれからどんな感じで現れてくるのだろうと同じはずの半世紀の行く末を思うのでした。

 

鬱蒼とした鎮守の森の中に鮮やかな朱色の建物が見え、「宇太水分神社本殿 三棟 鎌倉時代(1318年)創建」とありました。

周囲も静寂ですが、どこからか何かを修理しているような音が聞こえてきます。

静かに静かにここで暮らす生活があるのだ、なんだかかなわないなあと、こんな時にふわりとめまいのような感覚になることが増えました。

 

南東へと続く街並みを歩き、芳野川を渡って右岸沿いに歩きました。後ろから自転車に乗ったお坊さんに、「お先に」と声をかけられました。

芳野川の美しい水面に、青鷺が佇んでいます。美しい桜並木に、川を眺められるようにベンチもあります。

途中に石仏が並んでいました。

「石仏の由来」には1935年(昭和10)に造られた石仏で、1959年(昭和34)の伊勢湾台風の際に大師堂が崩壊、その後古市場地蔵の辻地蔵堂に祀られていたが、1966年(昭和41)の国道166号線建設のためにこの堤防に引っ越されたことが書かれていました。

 

水分桜という桜並木は、伊勢湾台風の後に植えられたことを帰宅してから知りました。

 

菟田野は芳野川上流まで続いて水源の近くにも惣社水分神社があるようですが、バスもないのでここからまた榛原駅行きのバスに乗りました。

 

 

*川合のそばの宇太水分神社

 

芳野川が宇陀川に合流するところにかかる榛原大橋のバス停で下車し、少し南へ戻ると小高い場所にもう一つ水分神社があります。

 

滑りやすそうな坂道の参道を上ると、大きな木が鬱蒼とした中に古市場水分神社よりは新しそうな拝殿がありました。

りっぱなパンフレットがあったのでいただいて来ました。

 当神社の創祀年代は、太古の国史「三代実録」(奈良時代平安時代に編集された六国史本)によれば「貞観元年(859)9月8日宇太水分神社へ風雨祈願に勅使を遣わし幣(お金や織物等)を奉った」とあるから、その由来は実に古く、水分神は「ミクマリ」と読まれ、五穀豊穣と生命を宿す御神徳の高い農耕神として、人々の崇拝の対象とされてきたことが物語っている。

 延喜式神明帳では、当水分社は葛城、都祁(*つげ)、吉野水分と共に大和の四水分の大社とされてきたが、応保年間(1160年)頃より芳野川に沿って三所三座(当社・古市場社・芳野社)に祀られている。

 一説には、古市場には天水分神、当社には国水分神、上芳野には若水分神を祀ったとも。あるいは、古市場には男神、当社には女神、上芳野には童神を祀ったとも伝えられている。一般には、上芳野の社を上社、古市場の社を中社、当社を下社と区別している。

 社殿は、明治のはじめ頃までは春日造りでしたが、明治11年に「神社形式令」により県社の指定を受け現在の神明造りになりました。

(*引用者による)

 

<神社を知るためのメモ>

水分神(みくまりのかみ)とは、神道の神である。

神名の通り、水の分配を司る神である。「くまり」は「配り(くばり)」の意で、水源地や水路の分水点などに祀られる。

日本神話では、神産みの段でハヤアキツヒコハヤアキツヒメ両神の子として天水分神(あめのみくまりのかみ)・国水分神(くにのみくまりのかみ)が登場する。

水にかかわる神ということで祈雨の対象灯され、また田の神や、水源地に祀られたるものは山の神とも結びついた。

 

芳野川が宇陀川と合流するこの地点には、どんな水の歴史があったのでしょう。

 

それにしても美しい水田地帯でした。

 

 

*おまけ*

 

吉野川と同じく芳野川(よしのがわ)と読むのだと思い込んでいたら、今になって「ほうのがわ」と読むことを知りました。

ちなみに九頭龍川(くずりゅうがわ)の支流にも芳野川があって、そちらは「よしのがわ」と読むそうです。

 

 

 

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散歩をする 504 近鉄大阪線で桜井駅から榛原駅へ

近鉄線の駅にいると、「名古屋行き」の特急を頻繁に目にします。奈良と名古屋は近いのだと思いながらもなかなか乗る機会がありませんでした。

滋賀の水田地帯や集落の息を呑むような美しさ木曽三川の風景を眺めたいと、ついつい京都から東海道新幹線に乗るのを選んでいました。

 

ところが2023年9月に出かけた遠出の帰りに京都駅の混雑ぶりにびびり、京都のオーバツーリズムの状況を実感しました。

奈良に行くのに京都での乗り換えを避けるにはどうしたらよいか、が目下の私の課題です。

 

そうだ、この手があったと、今回の散歩の最終日は宇陀から名張の間の川の流れを追ってそのまま近鉄線で名古屋駅まで乗ってみることにしました。

 

1月中旬、朝のニュースは七尾の干拓地の排水ポンプと排水路が地震で壊れて大打撃を受けていることを伝えていました。2022年秋にのと鉄道で穴水へ向かった時に車窓から見えたあたりでしょうか。畑も水浸しでキャベツ畑の畝から水が引かないとのことでした。

地震から2週間ほどで、地理的な複雑さから全体像も見えず、復旧も遅れているようでしたが、牧場での生産再開とか、牡蠣の養殖場に手が空いた人から戻って作業をしているというニュースもありました。

仕事とは何か、こういう時にこそ聞こえのよい言葉ではない、真の意味が見えてくるものだと思いました。

 

古代から何度もさまざまな困難に遭いながら現代へとつながってきたことを知る散歩の最終日、絶対にいつか能登半島をぐるりと回ろうと思ったのでした。

 

8時過ぎにチェックアウトし、桜井駅に向かうと高校生の通学時間で近鉄線から途切れることなく大勢の高校生が下車してきました。

 

 

 

近鉄大阪線で榛原駅へ*

 

JR万葉まほろば線は1時間に1~2本という本数に比べて、近鉄線は日中でも1時間に数本はありますから、途中下車も気軽にできそうです。

通学の流れを邪魔しないように人波が引くのを待って改札に入り、榛原行きに乗りました。

 

大和朝倉駅を過ぎると大和川沿いに列車は進みます。両岸に灰色の瓦屋根の集落や水田地帯が美しい景色です。

長谷寺駅で途中下車をして大和川のそばを歩いてみようと思ったのですが、駅は大和川を見下ろすような高台にあり今回は無理そうだと悟りました。

 

そこからさらに山肌の高い場所を列車は走り、棚田や集落が見えては切り通しやトンネルを越えて、榛原駅に到着しました。

 

気温は1度ですが、日差しが暖かくそれほど寒く感じません。

 

「宇陀」どんな雰囲気なのでしょう。

9時34分発の東吉野村行きのバスに乗り込みました。

 

 

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水のあれこれ 354 大和川水系と淀川水系の分水嶺

今回の散歩の最終日は、天気予報で耳にした「宇陀」を訪ねてみようと思いました。

だいぶ奈良県の地図を思い浮かべられるようになったのですが、1年ほど前はまだ「奈良」「橿原」「五條」「宇陀」「吉野」「十津川」のうち宇陀だけ場所がわからないままでした。

 

帰宅して早速地図で確認すると、なんと2022年秋に三輪から大和川沿いに歩いた大和朝倉駅の二つほど先ではないですか。

榛原(はいばら)駅から南へと盆地が広がって、宇陀川が流れていました。

てっきり大和川水系の支流だろうと思いながら地図を拡大していくと、流れが逆の方向へと向かっています。

長谷寺駅と榛原駅のわずか5kmほどの間に分水嶺があるようです。

 

宇陀川は東南へと流れていますから、そのまま伊勢湾へと流れ込むのかと思ったら違いました。

近鉄名張駅の少し手前で名張川に合流し、蛇行しながら北へと向かい、月ヶ瀬ダムの下流で東から流れてきた木津川本流と合流し、桂川と琵琶湖から流れてきた宇治川と合流して淀川になり大阪湾へと流れるようです。

まるで奈良盆地の外周をぐるりと流れるかのような川があることに、ぜひこの地を訪ねてみたいと思いました。

 

ところで、紀の川の上流の吉野川の水源地に近い地域は高見川のようですが、その旧東吉野村に「木津」「木津川」という地名があります。

ところがこのあたりは紀の川水系のようです。なぜその地名になったのでしょう。

 

その吉野川の水源地や途中の東吉野村と宇陀は山を隔ててわずか数キロぐらいですから、この山の中に淀川水系紀の川水系分水嶺もあるのでしょうか。

 

奈良盆地の南東には複雑な水の流れがあり、わずか数キロから10キロぐらいの差で一方は多雨地域でもう一方は水に乏しい地域になり、長い年月をかけて水を制してきたことにまた気が遠くなりますね。

 

宇陀地方、どんな川と水田の風景があるのでしょう。

 

 

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生活のあれこれ 43 同じ時代だったはずの半世紀

山々と川と田んぼが夕日に照らされる神々しい風景に、古代から同じような風景を眺めながら生活をしてきたのだろうかと、疲れているはずなのにふわふわとした足取りでホテルへと戻りました。

 

テレビをつけると古墳群の展示や木造建築密集地域の防火対策のニュースをしていて、ああやはり私は奈良にいるのだと実感しました。

そうそう、環濠集落のある田原本町は靴下の生産が盛んで、能登半島地震の被災地へ靴下を送るニュースもありました。

 

朝は1度だったけれど案外奈良の冬は寒くないし、ツルボが咲くのを見逃さないように、そして周濠や水路を歩き回るのに奈良に住む夢も難しくないかもしれないと思いましたが、雪の奈良は未経験ですしね。

まあやはり奈良に引っ越すのは叶わない夢ですけれどね。

そんなことを考えていたら、高齢者の屋内での低体温症に注意というニュースがありました。

どの地域でも最近高齢者の低体温症は注意喚起されているのですが、古い家屋を維持している落ち着いた街並みではさらに寒いかもしれないですね。

 

半世紀以上前の私の子どもの頃の祖父母の家を思い出すような家屋ですからね。

みなさん、どう対応しているのでしょう。

 

 

*同じ半世紀のはずだったのに*

 

 

 

この半世紀は日本の住宅は驚異的に変化した時代で、ひとりに一部屋からひとりに一軒まで可能になり、崖っぷちのような場所から水辺のような場所まで家が建つようになりました。「家を持つ」かどうかが人生の大事な部分になっていった半世紀ですね。

 

ところが遠出をするようになって、水田が健在なのと同じように半世紀前の住宅がどっしりとあって、きっとまた半世紀後も同じ風景を維持しているのではないかと思う場所が多いことを知りました。

 

同じ半世紀のはずなのに、何がここまで違うのだろう。

神々しい夕日に輝いていた街並みを思い出してちょっと眩暈のような気分になったのでした。

 

 

*おまけ*

 

今日のタイトルは「時空を超えて」にしようかと思ったのですが、改めてその言葉を検索すると案外と説明がないことを知りました。

自己啓発の流れで使われているようですから、あぶないあぶない。

唯一、Weblio類語・同義語辞書に「時間や空間の隔たりを飛び越えてくるさま」という説明とともに「異次元からやってくる」とありました。

 

ああ、やはり自分探しの世代が政治家になって国を動かすようになったから、「異次元の」なんていう政策が出てくるのだと思わぬところでつながりました。

 

 

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あの日(2022年7月8日)から考えたことのまとめはこちら

米のあれこれ 85 三輪山と大和川の田んぼを歩く

もう一歩たりとも歩きたくないと思ったのに、平城宮跡の心が広々とする風景と、どこ歩いても歴史を知ることができそして幻のため池や水田が見えたことで何だかもうひと頑張り歩けそうな気がしてきました。

 

1月中旬、少し日が長くなって日没の17時9分までまだあと1時間ちょっとあります。

予定では巻向駅で下車して箸中古墳の周濠をみたいと思っていたのですが、さすがにこれは無理そうなので、三輪駅から宿泊先の桜井まで「1.7km、約23分」のひと駅を歩くことにしました。

 

2022年11月に晩秋の山辺の道から大神神社までの水田地帯を歩いた時のあの美しさに、いつか三輪周辺をもっと歩いてみたいと思っていました。

 

 

*三輪の神々しい風景*

 

15時58分にJR奈良駅から万葉まほろば線に乗り、三輪駅で下車し西口へ出ました。参拝客の多い東口の大きな駅舎とは違い、西口はこじんまりとしています。そばに大きな木があり、鄙びた駅舎にちょうど夕日が当たって、なんとも神々しい風景でした。

 

駅前の商店街を抜けて、三輪児童公園の前の道を歩きました。

ひっそりと神社があり、ふらりと立ち寄って読んだ御由緒にまた「かなわないなあ」と思いました。

日本最初市場 三輪坐 恵比寿神社由緒略記

 御由緒

当神社は八重事代主命三輪明神御子神)他二柱を奉斎し、日本最初の市場海柘榴市(つばいち)の守護神として、悠久の昔創祀せられ「つばいちえびす」と称えられエビス信仰の本源をなす大和の古社であります。

顕幽両界に亙って働かれるご神徳が敬仰されています。

 

事代主神(ことしろぬしのかみ)とか「海柘榴市」とか「亙(わた)って」とか、街を歩いているだけで歴史と漢字の勉強になりますね。

 

 

地元の酒蔵もある静かな古い街並みで、家の前の水路にはきれいな水が流れています。

ふと1960年代ごろの近所を歩いているような気持ちになりました。当時は、日本の文化から西欧的なものへと魅力を感じていた時代の雰囲気だったので気づかなかったのですが、なんとすてきな街並みがあちこちにあったことでしょう

長い間、手入れをして守ってきたものには代え難い魅力があるものですね。

 

この日の朝に歩き始めた大和川のそばに出ました。

ちょうど橋を渡ろうとした時に夕陽が沈み始め、橋と大和川一帯が黄金色に輝きました。

まさに神々しい風景です。

 

橋は「昭和橋」で、朝通った時には寒風の中近くの堤防の改修工事が行われいました。今日の仕事が無事に終わって、工事に携わる方々が帰った後でした。

古代からこうして大和川の両岸を守ってきたのですね。

 

 

*振り返ると三輪山

 

大和川左岸へと橋を渡ると神明社の鎮守の森があり、集落の中の道を南へと曲がると田んぼが見えてきました。

真冬でしたが、水路には勢いよく水が流れています。

あの大和朝倉駅まで歩いた時に、仏教伝来の地の少し上流にあった堰からの水路のようです。

 

大和川の水によって潤されてきた田んぼの、いつか田植えから稲刈りまでさまざまな季節の風景も見てみたいものです。

ふと後ろを振り返ると、夕日に輝く三輪山が田んぼの向こうに見えて鳥肌が立ちました。

 

もう「神々しい」としか表現しようがない風景でした。

 

 

 

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水のあれこれ 353 奈良駅前の幻のため池と水路と水田

神功皇后陵の周濠と周囲の水田を見ることができて満足しました。もう一歩たりとも歩きたくない疲労感で、その日の宿泊予定の桜井へ向うのには近鉄橿原線大和八木駅乗り換えが一番楽ではありました。

 

でもせっかくここまで来たのだからやはりあの風景を見たいと、大和西大寺駅近鉄奈良線に乗り換え平城宮跡内を列車が突っ切り、その広大な草むらの向こうに見える大極殿正殿を眺めて満足し、近鉄奈良駅に到着しました。

 

近鉄奈良駅とJR奈良駅は1kmほど離れているというのが、奈良の乗り換えのトラップですからね。

万葉まほろば線で桜井へ向かうのには、最後の力を振り絞ってJR奈良駅まで歩く必要があります。

 

 

*より蛇行した道を選ぶとその先に*

 

 

駅前の行基さんに挨拶をして、さてできるだけ人通りの少ない道を歩くにはどこがいいだろうと地図を眺めました。

 

柳町のあたりに西へ向かってくねくねと蛇行した路地が目に入りました。東へと辿ると、猿沢池の下あたりにつながっています。散歩に慣れてきた近頃は、どこを歩くか悩むときにはより蛇行した道を選ぶことが増えました。

 

観光客が多い三条通りから一本入るとそこで暮らす方々の生活の道の雰囲気になり、ひっそりと建つ隼人神社の前に小さな説明板がありました。

中街道

角振町から椿井、東城戸、南城戸…京終町に続く道路を中街道と呼ばれている。上街道、下街道とともに大和盆地を南北に通ずる重要産業道路として県道に指定された江戸時代から明治、大正、昭和の初期まで豪商が軒を並べていたところである。

なんとなく撮っておいた写真ですが、記録をまとめているうちに大和の古道とつながりました。

 

奈良はどこを歩いても古代から現代につながり、街全体が歴史資料館のようですね。

 

その豪商の屋敷の名残か黒い板張りの家と白い土蔵の残る道を西へと向かうと、開化天皇陵の近くの南北に通るやすらぎの道に出る手前で、住宅を挟んで二手に道が分かれていました。

よく見ると、「率川橋」と掘られた石が二つ並び、暗渠のようです。この流れがやすらぎの道の西側の蛇行した道へとつながっているようでした。

そして住所は「奈良市小川」のようです。

 

道を渡り、伝香寺に雅楽の奏者が住んでいた「楽人長屋」の跡の説明がありました。

南側の細い路地を入るとすぐに道は南へと曲がり、柳町のあたりでまた暗渠らしい道があり「長幸橋」と掘られた石が残っていました。

ここからが蛇行した道のようです。

1970年代か80年代以降から開発された住宅地のような面影を感じる地域の暗渠の上を歩いていると、奈良駅周辺のマンションがすぐ近くに見えてきたところに煉瓦造りの煙突のある工場の敷地の間を蛇行した道が通っていました。

何の工場だろうと思ったら、どうやら墨汁の工場のようでした。

 

 

奈良駅前にも大きなため池があった*

 

しばらく緩やかに蛇行を繰り返す道を歩くと、西側からもう一本暗渠が合流したような道になりました。その先に緑のフェンスで囲まれた緑地帯がまっすぐ150mほど続いたあと、南西へと暗渠が曲がるところに比較的新しい石碑が立っていました。

 

旧三条池(当地)埋立により犠牲となりし「一切の生物之霊」を此処に祀る

 当地は元々三条池と称し、周辺の農業用水の役目を果たしてきたるものなるが、人口の過密化に伴ひ、環境整備の必要を余儀なくされ、昭和五十四年九月敢えて埋立し、依って宅地に転用せるものなり

 斯かる人間本位の事業により、犠牲となりたる本池に棲息せし「萬物之霊」を茲に永久に祀り以て此を慰むるものなり

昭和五十九年六月  宗教法人公道社精神道

 

 

1979年(昭和54)に埋立されたということは、私が中学校の修学旅行で訪ねた時には奈良駅東側のすぐそばにはまだため池があり水田があったはず。

そしてアメリカの友人を連れて奈良を歩いたのが1980年代半ばですから、その頃にこの怒りが文章から伝わる石碑が建てられたようです。

 

いにしへより水に乏しい土地柄であったということが急速に忘れられた時代だったと言えるのかもしれません。

 

 

石碑からわずか100mほどでJR奈良駅になり、また観光客で溢れる風景になりました。

ふと交差点の信号を見ると「三綱田(さんごで)」とあり、この辺りは「三条池町」のようです。

 

 

 

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米のあれこれ 84 山陵町の神功皇后(じんぐうこうごう)陵の田んぼ

念願の保津の環濠集落を歩くことができました。

桜井市から大和川沿いにここまですでに2万歩を超えていて足の疲労感は半端ではなかったのですが、同じ道をまた1キロほど歩かないと列車にも乗れない水田地帯の真ん中です。

足を引きずるように歩き、駅に着いた時にはしばらくベンチに座り込みました。

 

まだ13時半ですから時間はたっぷりあり、「奈良は案外歩ける距離なのだ」とたてた無謀すぎる今日の計画もまだ半分残っています。

 

それでも水路と田んぼを見ていると、歩きたくなってしまうのですね。

やり残した宿題のあの場所へ行こうと、近鉄橿原線に乗りました。

 

 

神功皇后陵の周濠と田んぼ*

 

何度乗っても水田地帯が美しいこの路線にまた疲れが吹き飛びます。車窓の風景に集中していたら、大和川を越える直前に竹林とお寺の美しい風景が目に入りました。地図で確認すると、「白米寺」とあります。「米」がつく由来が気になりますね。いつかこのあたりも歩いてみたいと新たな宿題ができました。

 

懐かしい垂仁天皇陵の周濠と水田が見えて大和西大寺駅に到着。ここで近鉄京都線に乗り換えてひと駅の、平城駅で下車しました。

2023年3月に山上町の3つの周濠を訪ねて、平城駅から京都に向かった時に沿線に見えた水路と水田に、やはりもうひと頑張りしてこの周濠も訪ねれば良かったと後悔していました。

 

駅からすぐ近くですが、手前にある神社の20~30段ほどの石段も疲れている時には決心が必要ですね。

エイッと歩き始めて境内に入るとそこからは周濠にはいけないことがわかり、また石段を降りて左横の別の石段をのぼりました。

車窓からは気づかなかったのですが、古墳の西側にも水田が広がっていました。

 

境内の裏手に、古墳の入り口の鳥居があり、周濠がありました。

奈良盆地北部の佐紀丘陵において、丘尾を切断して築造された巨大前方後円墳である。

Wikipedia「五社神古墳(ごさしこふん)」、「概要」より)

丘陵の先端部を「丘尾」と呼ぶらしく、古墳の説明によく見かける用語でしょうか。

 

墳丘周囲には周濠が巡らされているが、元来は周濠を伴わず、現在見られるものは後世に形成されたものと推測される。

(同上)

 

古墳自体は「4世紀末葉の築造」で、その後周濠が造られた「後世」というのはいつ頃なのでしょう。

丘陵の先端に造られた古墳の東、南そして西側の水田へと水を送りやすい場所だったので、ため池としての周濠が造られたのでしょうか。

その時代はどんな雰囲気だったのでしょう。

歴史というのはわからないことだらけですね。

 

周濠の東側へと緩やかな坂道を降りると、近鉄京都線との間のあの車窓から見えた田んぼがありました。

道路の端には暗渠が通っていて、「駐車禁止 用水路に付  山陵町水利組合」と注意書きがありました。

 

ここから京都との府県境の山あいには大小のため池が散在し、京都側に入ると木津川右岸の平地になるので田園風景が一変します。

田んぼと一口に言っても、水を得てきた歴史は本当にそれぞれの地域で違いますね。

 

真冬の茶色の田んぼの景色でしたが、水路には水が流れていてまた疲れが吹き飛びました。

長いことこの山陵(みささぎ)町の水路を管理されてきた生活はどんな感じだったのだろうと思いながら、平城駅から電車に乗りました。

 

 

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