仕事とは何か 18 虚業と実業

ブログを書き始めてから、いつか頭の中を整理して書いてみたいと思っていたのが今日のタイトルです。

 

渋沢栄一氏の「我が人生は実業にあり」の「実業」はどんなイメージだったのだろうと想像しているうちに、少し雲が晴れてきました。

 

 

コトバンクの「精選版日本国語大辞典」の②の説明が、私の「実業」のイメージに近いものだったかもしれません。

①⇒じつごう(実業)

②農業、工業、商業、水産などのような生産、製作、販売などをする事業

 

「じつごう」と読んで「(仏語)。身・口・意で善意などの行為をすること」という意味や、「まめわざ」と読んで「実務的、実用的な仕事。裁縫など、生活次元の仕事」という使い方もあることを初めて知りました。

 

1960年代初頭生まれの私にとっては、「実業高校」「進学校」あたりで漠然と線引きがあるぐらいの言葉でしたが、「生活上で必要な『地に足ついた仕事』」という感じでしょうか。

医療や福祉も「実業」かと思っていましたが、よくよく考えれば明治以降の新種の「実業」ですね。

 

「世界大百科事典」の「実業学校」の説明に、「明治初年以来、鉱工業、農業、商業などの産業を実業と総称する習慣が生まれ」とあるので、渋沢栄一氏の「実業」はこの時代の雰囲気から来ていて、私の「実業」はそこから生まれたさまざまな仕事も含まれるようになった時代の影響でしょうか。

 

いずれにしても「生活上必要で『地に足ついた仕事』」とそれ以外の仕事があるという漠然としたものでした。

あの頃、もっとしっかりと考えておくべき言葉でした。

 

 

1970年代ごろになると経済的余裕から、芸能・娯楽や観光あるいは飲食業など「生活上に必要な仕事」の意味も広がったのかもしれません。

そしていつの間にか縁の下の力持ち的な仕事も格段に増え、してみたい事を仕事にして地に足ついた生活をすることも可能になってきました。

ただ、まだ私にとってはさすがにユーチューバーとか活動家を実業に含めることはできないのですが。

 

 

虚業とは何か*

 

職業に貴賎はないとはいえ、「虚業」としていろいろと思いつくものはあります。

「性的な労働」あたりはまだまだ気持ちの問題を整理している段階です。

 

「精選版日本国語大辞典」の「虚業」によれば、「実業に対して、堅実でない事業をいう語」とあり、何をもって「堅実」とするか時代によっても変化するので禅問答のようですね。

それに対して「デジタル大辞泉」ではもう少し踏み込んで、「投機相場などのように、堅実でない事業」とあり、ああやはりと思いました。

 

そんな私が投資と「投機」の違いを少し理解できたのは、「国債は堅実そうで素人でも何とかできそう」というあたりからでした。

 

 

*「堅実ではない仕事」とは*

 

経済にうとい私ですがまるで占いか何かのように感じるのは、経済学というのは仮説をそのまま社会に実験していくかのようで、さらに失敗が社会に対して与えた影響に責任をとる仕組みがないと感じることが増えたからでした。

 

おそらくさまざまな分野にリスクマネージメントが浸透し始めて、信念やイデオロギーを超えた問題解決方法を模索する社会になったからかもしれません。

リスクマネージメントとはシステムで事故を防止することや、失敗から再発防止の教訓を得ることが基本ですから、占いのような投機を基本とした経済界とは相性が悪そうですね。

 

最近では「政治家」も虚業だと思うようになりました。

失敗を認めてより良いものにしていくとリスクマネージメントが浸透しにくそうなのも、派閥を政策集団と言い換えるのも、誰かの思いつきの一言が政策になって国会を通さずに閣議決定してしまうのも、堅実な仕事ぶりとは全くいえないですからね。

 

政治活動に使っているとか「引き出しに保管していた」というお金、もしかして投機へ使ったのではないかと疑いたくなることが今までもありましたからね。

ああ、だから「政治活動資金」には領収書も不要でしかも非課税になっているのでしょうか。

そして国民にまでもっと貯蓄がないと老後は生きていけないから自分で投資して稼げと政府に言われるようになりました。

いやはや。

 

 

「骨太の方針」とか「背骨」とかなにかと最近かっこ付きの「文学的表現」の政策が多いのも、のらりくらりと言い抜けする滑っとした態度も、政治家が投機を中心にした虚業になってきたからかもしれないと思えてきました。

 

 

明治時代の先覚者たちの生きた時代の「実業」とは何をさしていたのでしょう。

 

 

 

 

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あの日(2022年7月8日)から考えたことのまとめはこちら

 

 

水の神様を訪ねる 96 利根川の氾濫原に開けた集落の神社

散歩の1日目のメモを読み返していたら今回の散歩はなんと「前夜急遽決めた散歩だったが大満足」と書き残していました。

そうでした。前日なのでもうホテルは取れないかなと思いつつ予約できたので決行し、本庄に宿泊。

見晴らしの良い部屋から新幹線の高架橋が遠く見えました。

さすがに通過しているのが北陸新幹線なのか上越新幹線なのかは見えませんでしたが、夕日が沈む美しい秩父の山並みと時々通過する新幹線をしばらく眺めたのでした。

 

 

二日目はいよいよ、備前渠用水の取水口を訪ねます。

7時40分、ホテルをチェックアウトした時には12度でしたが、秋晴れになりそうです。

地図で見ると本庄駅のあたりは利根川の堤防からわずか3kmほどですが、その間に川が水路が何本も描かれています。

どんな場所なのでしょう。

 

駅前から少し離れると美しい屋根瓦の家が残り、そのつきあたりに安養院という大きな瓦屋根のお寺がありました。

文明七年(一四七五)の創建をいわれる安養院は、江戸時代、徳川家光より二十五石の御朱印を拝領された。総門、山門、本堂、三棟の木造建築の伽藍は市指定文化財で、本堂は本庄最大の木造建築物としてそびえ立つ。

 

静かな門前町という雰囲気の中、中学生の姿が増えてきました。お寺の西側に中学校があり、そこからは下り坂になっています。

 

阿夫利(あふり)天神社がその崖のような場所に建っていました。

 阿夫利天神社の祭神は大山祇命(おおやまづみのみこと)、大雷命(おおいかづちのみこと)、高靇神(たかおかみ)、菅原道真(すがわらのみちざね)、天手長男命(あまつてながおのみこと)の五神である。

 社伝によると、寿永年間(一一八二〜八五)に本庄太郎家長が城を当地に築いた時、厚く信仰していた相州大山(神奈川県伊勢市)の石尊大権現をこの地に勧請したのが始まりと伝えられ、戦国時代の本庄宮内少輔も深く崇敬したという。

 その後、天明三年(一七八三)七月の大かんばつの時、石尊社を池上に遷して降雨を祈ったところ、たちどころに霊験を得たといわれる。

 寛政三年(一七九一)に社殿を再建、大正二年に天神社ほかを合祀し、社号を阿夫利天神社と改称した。

 

「大かんばつ」、どんな状況だったのでしょう。

 

境内からは石段で、崖に造られた切り通しの道に出るようになっていて、崖の下は水路のそばに美しい公園があり、欄干に「登録有形文化財」がはめ込まれた橋の説明があるので立ち止まってみました。

賀美橋(かみばし)

 この橋は、大正十五年に元小山川に架けられた鉄筋コンクリート桁橋(けたばし)です。従来の伊勢街道の幅員は狭く、「寺坂」と呼ばれる急勾配の屈曲した道であったため、荷車や自動車等の増大する交通量に対応できませんでした。また利根川には仮設の木橋が架けられているのみであったため、当時の基幹的な産業であった生糸・織物関係者の通行に不都合が生じ、坂東大橋の架設を伴う伊勢崎新道の開設に際して架橋されたのがこの橋です。この橋は、近代的な意匠を凝らした装飾をもつ親柱やタイル張りの高欄など竣工時の様相を残す貴重な近代化遺産です。

 

道に歴史あり、ですね。

 

本庄市、今まで通過するだけでしたが、落ち着いた街の雰囲気に訪ねてみてよかったと思いながら歩いていると、元小山(こやま)川沿いになりカワセミを見つけました。

 

*医王寺と一之(いちの)神社へ*

 

ここから住宅地を抜けると国道17号線を境に、利根川にかけて水田や畑が広がる地域になりました。離れた場所に利根川の堤防と大きな橋が架かっているのが見えます。

一世紀ほど前は、木で造られた橋だったとは。

 

広い田園地帯を歩き、備前渠用水まで数百メートルほどのところの集落に鎮守の森が見えてきました。

医王寺の敷地に一之神社があり、立ち寄ってみました。

一之神社 御由緒

◻︎御縁起(歴史)

 当社の鎮座する田中は、間近に烏川・利根川が流れる氾濫原に開けた集落で、寛永年間(一六二四〜四四)に烏川の瀬替えによって、上野(こうずけ)国那波(なわ)郡より武蔵国に所属したという。

 その創建については『児玉郡誌』に「当社創立年代は詳らかならざれども、往昔利根川大洪水のとき、上野国一の宮貫前(ぬきさき)明神の御神体流れ来り、当地川岸に打寄せられ有しを発見し、里人小祠を造りて一宮明神と称し、鎮祭せりと云伝ふ」と記されている。また『本庄市史』には、田中の地内にある「古社(ふるやしろ)」の地は現在の一之神社があった所と伝える旨が載せられている。

 『風土記稿』田中村の項には「医王寺 新義真言宗賀美郡七本木村西福寺末、蓮台山弥勒院、本尊は不動、一宮明神社 村の鎮守 稲荷社 薬師堂 大日堂」と記されており、化政期(一八〇四〜三〇)には医王寺の境内に祀られていたことがわかる。また、享保十七年(一七三二)の「(梵字)奉造立一宮大明神御神宸殿一社」と記される棟札には、医王寺の住職と思われる「願主法印賢清」の名が見える。

 社頭に掲げられている江戸期の社号額には、「正一位稲荷大明神 一宮大明神」と二社が並記されているが、明治初年の書き上げの際に一宮明神社の社名では本社の一宮貫前明神に対して恐れ多いとの村人の意見で一之神社に改められたという。

 

ああ、確かに、現代でも間近に烏川と利根川が合流したすぐそばです。

「氾濫原」だったとか「烏川の瀬替え」とか「利根川大洪水」とか、あるいは「大かんばつ」とか、そこに備前渠用水の取水口を造ったとか、現代の平和な田園風景からは当時の様子は想像もつかないものでした。

 

何だか圧倒されながら、真っ青な秋空のもと、秩父山脈そして赤城山から遠く日光の山々まで遮るもののない畑の中の道を堤防に向かって歩きました。

 

 

 

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散歩をする 490 血洗島から岡部駅まで歴史を歩く

美味しい煮ぼうとうに満足し、渋沢栄一氏の生家から駐車場のトイレの中まで、渋沢栄一氏の生きた時代について考える場所でした。

 

13時20分に散歩を再開し、いよいよ「血洗島」という地域へと向かいました。

薬師堂を曲がると、昔懐かしい住宅地と広い畑に祖父母の家の周辺を歩いているような錯覚に陥りました。水田はないのですが、畑が白っぽい土だからでしょうか。

 

どこまでもどこまでも広く平らな畑地が続いています。真っ青な秋空を遮るものもありません。

「ああ、これが関東平野だ」と思ったのですが、ほんの少し前は「大昔の人がこのだだっ広い水も豊かな場所を見つけて住み始めた」のだと思い込んでいました。

 

河道が安定しない利根川は江戸の中心部まで洪水の影響を与える暴れ川で、江戸時代の利根川東遷事業によって川を付け替え新田開拓が進んだものの、1738年の浅間山の噴火による大量の火山灰が利根川に流れ込むなど災害をなん度も乗り越えながら、関東平野を流れる川を付け替えながら17世紀に始まった関東平野への用水路網が何世紀もかけて現在のような地形へと変えていったと、おぼろげながら理解できるようになりました。

 

畑や家がどこからともなく押し寄せてくる洪水に流されるなんて、昔の人はなんと怖い思いをされていたのでしょう。

川がどこを流れるかわからない時代があったとは。

そして土地があっても水を得ることができなければ生きることもできない。

 

現在の「血洗島」は真っ青に育った広大なネギ畑が美しく、農家の方が散水されていました。

ああなんと得難い風景なのだろうと思いながら歩きました。

 

 

備前渠を渡り、中宿歴史公園へ*

 

沿道や庭先の秋の花を楽しみながら歩き、町田という住宅地を抜けると土手が見えてきました。

 

幅2~3mの川に水が滔々とながれています。「喜七八橋」と名前が入った橋のたもとに「備前渠川の草刈り」の日程が書かれていました。

これが今回の散歩の目的でもある備前渠です。翌日はいよいよこの取水口を訪ねるのだと思うと心が弾みながら渡りました。

 

ここから県道259号線沿いにまっすぐ300mほど歩くと一級河川小山(こやま)川で、先ほどの備前渠の2倍ぐらいの川幅でしょうか、こちらも土手や水が青空に映えて美しい川です。

数百メートル下流で先ほどの備前渠は一旦小山川に合流し、1kmぐらい下流でまた備前渠として分かれていくようです。

 

小山川の右岸側には広い水田が広がっていました。そこから緩やかに上り坂になる手前に公園と道の駅があります。

 

河岸段丘の地形をそのまま利用した中宿歴史公園に入ると蓮の葉が揺れる小さな池があり、それを眺められるように東屋が建っていました。しばらくそこで休憩し、公園の南側へと歩くと中宿古代倉庫群跡がありました。1991年(平成3)に発掘されたそうで、校倉造の建物が再現されていました。

 

高台の少し手前の斜面に建てられていましたが、7世紀末から10世紀頃はどのあたりまで洪水が押し寄せてきたのだろう。

そんなことを考えながら坂道を上ると、古い家屋が残る落ち着いた街に入りました。

 

 

中山道沿いの岡を歩く*

 

その前に立ち寄った道の駅で見た岡野藩についての説明ではこの辺りに旧中山道が通っていたようですから、それで石垣や生垣の美しい家々が残っているのでしょうか。

 

岡部藩について

岡部藩は、天正18年(1590)徳川家康の関東入国に際して、家臣の安倍信勝が武蔵国榛沢群岡部などを拝領した計5,250石を基に発展しました。

信勝の遺領を受け継いだ嫡男・信盛は、上杉景勝討伐や大阪の役で功を挙げ、大番役などの役職を勤めました。江戸幕府初期のこの間、寛永13年(1636)に三河国内4,000石増、次いで慶安2年(1649)摂津国内に10,000石を加増されて信盛は大名となりました。

その後、所領高20,250石となった岡部藩は、現在の深谷市岡部を本拠地にしながら、摂津国桜井谷(現在の大阪府豊中市)や三河国半原(現在の愛知県新城市)に当地よりも大きな所領を有し、これを分割統治して幕末まで続きました。安倍家は、江戸時代の全期間を通じて、移封・転封なく、岡部藩を治め続けたのです。

慶応4年(1868)に最後の藩主となった信発は、半原へ本拠移転を願い出て半原藩となり、岡部藩の歴史は幕をおろすこととなったのです。

 

以前ならこうした歴史の記述はなかなか頭に入ってこなかったのですが、最近は川の歴史や新田開発の年表と重ね合わすことで読みやすくなってきました。

 

それにしても、新幹線の沿線を歩くだけでも時間がかかるのに、昔の人は日本各地をダイナミックに移動していたのですね。

 

この古い家が残る地域は「岡」という地名のようで、国道17号線を渡ると台地の上に広がる畑がありました。

ブロッコリーが植えられていて、視界をさえぎるものもなく遠くの山並みまで見えます。

ところどころ大きな木がランドマークのように立っている風景は、どこを映しても絵になりそうです。

 

60年ほど前の都内の武蔵野台地もこんな感じだったと、かすかに残る幼児の記憶を重ね合わせながら歩いていると、本日最後の目的地らしい場所が見えてきました。

 

畑の隅にお椀を伏せたような場所があり、その上に大きな木が育っているのが見えます。

お手長山古墳(おてながやまこふん)

 

 お手長山古墳は、深谷市岡に所在する。所在地の標高は、約五四メートルであり、櫛挽(くしびき)台地北西部にあたる。古墳の頂部には、天手長男(あめのたながお)神社が鎮座し、古墳名称の由来ともなっている。現存する墳丘は、長軸四三・五メートル、短軸二二・五メートル、高さ三・五メートルを測る。

 後の時代の耕作等により原形は失われているが、昭和五〇年の本庄高校考古学部による墳丘測量調査、昭和六三年及び平成二年の岡部町教育委員会(当時)による発掘調査等により、古墳築造当時の姿が判明した。

 調査結果によれば、古墳の規模・墳形は、後円部径三七メートル、前方部長一二・五メートル、全長四九・五メートルの帆立貝式古墳である。主軸方位はNー一一六度ーEを示す。周溝からは、土師器(はじき)・須恵器(すえき)等が検出されたが、古墳の時期を示す明確な遺物は少ない。ただし、古墳周辺に散乱する石室の石材(角閃石安産岩、かくせんせきあんざんがん)が六世紀後半以降、頻繁に使用されるものであること、周溝内より埴輪が検出されず、当地域の古墳に埴輪が樹立されなくなる時期が六世紀末頃であること等の理由から六世紀末を前後する年代が想定される。

 当古墳の北西には四十塚(しじゅうづか)古墳群があり、古墳群中には、横矧板鋲留短甲(よこはぎいたびょうどめたんこう)・五鈴付鏡板(ごれいつきかがみいた)などが出土した四十塚古墳(五世紀末)、当地域最大級の前方後円墳(全長五一メートル)である寅稲荷塚(とらいなりづか)古墳が存在する。

 お手長山古墳は、これらの古墳と同様に、櫛挽台地北西部を代表する首長墓と言う事ができる。このような有力古墳の集中地帯に、七世紀後半以降は、中宿・熊野遺跡をはじめとする律令期の重要遺跡群が分布することから、古代榛沢郡衙(はんざわぐんが、郡役所)は古墳時代首長層の伝統的勢力基盤を継承した形で成立すると考えられる。

   深谷市教育委員会

 

これまた以前だったら素通りしていたような場所ですが、奈良で周濠という言葉を知ったことから古墳まで訪ね歩くようになりました。

 

思えば遠くに来たものだと思いながら、JR岡部駅へと向いました。

 

何度か高崎方面への湘南新宿ラインでこの駅を通過していたのですが、その車窓の向こうにはまた圧倒される歴史がたくさんありました。

そして1.5キロメートルほど南東を新幹線が通っています。平地ですからこの辺りまで見えていたのでしょうか。

いつかそれを確認するために今度は新幹線の線路沿いを歩いてみよう、また計画ができました。

 

 

 

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シュールな光景 34 政治家は「骨」がお好き

ニュース記事に忽然と「背骨勉強会」なんて言葉が表れたので、びっくりしました。

 

自民党の人材養成組織「中央政治大学院」が中堅や若手議員などに向けた勉強会を4日から開始する。党派閥の政治資金パーティ収入不記載事件を受けて6派閥のうち4派閥が解散を決めたことを受け、派閥が担ってきた役割の一つである議員の教育機能を代替する狙いだ。

政治と金の問題があったときに、政治家としてどうあるべきか、根本の話をしたいと考えていた。派閥がなくなり、勉強する場所がなくなった。(それに)加わってくれれば、良いと思っている」

同大学院の学院長を務める遠藤利明前総務会長は2月20日、官邸で岸田文雄首相に勉強会について報告した後、記者団にこう語った。報告を受けた首相は「面白そうだね」と応じたという。

「背骨勉強会」と題し、思想史や地政学などについて学ぶ。対象は当所属の衆院当選4回、参院当選2回以下の国会議員のほか、元職や新人の選挙区支部長も含める。(以下略)

 

「自民『中央政治大学院』が4日から勉強会』、派閥の人材育成機能の代替狙う」(産経新聞、2024年3月3日)(強調は引用者による)

 

「政治と金の問題があったときに、政治家としてどうあるべきか」

ああ、やはり今の時代の雰囲気がわかっていないようですね。

「政治と金の問題を起こさないように政治家はどうするか」を求めているのに。

世襲の禁止や選挙区の制限とか、任期の制限や定年制とか、政治家のお金にもきちんと納税の義務を明記するとか、政治家の失敗に対するリスクマネージメントとか、「人事」という権力の集中の再発防止とかなのに。

 

 

*中央政治大学院?*

 

ところで、そんな大学院があるのかとググったら自民党の私塾だそうで、「面白そうだね」と人ごとのように反応した首相が総長のようです。

学院長と副学院長のWikipediaを読みました。

政治資金問題や統一教会の問題で禊を済ませていた人たちや、思想に偏りを感じる人も多いですね。

 

一番驚いたのは医師でありかつて厚労省保険医療課勤務の経験があるのに「なかなかみんなマスクを外さない。それを乗り越えていくためにも、今日皆さんのディスカッションで世論をどんどん広げていくことが大事だ」と、反ワクチン・反マスク・陰謀論団体でのイベントで挨拶をした人が、副学院長ということでした。

2023年2月といえば、「息を吹き返させる何かがある」と政治の変化に感じた頃でした。

なんだかなあ。

 

ああ、だからこの「大学院」には「思想史」が大事なのか。

 

 

 

*「骨」とは「投資」のことらしい*

 

骨太の方針」が気になり出したのは、2007年になぜか「経済財政諮問会議」で「助産師による正常分娩時の会陰切開、縫合」を「解禁」させようという動きがあったからでした。

 

「聖域なき構造改革の着実な実施のために経済諮問会議にて決議させた、政策の基本方針」がなぜ「骨太の方針」という変な名前なのだろう。なぜ助産師に会陰切開縫合を解禁させることが「聖域なき構造改革」なのだろう、何よりも医療のことなのになぜ勝手に経済諮問会議が決めてしまうのだろうと腑に落ちないことばかりでした。

そして2013年には現場での産後の対応もまだ暗中模索なのに、「骨太の方針」で産後ケアセンターが始まりました。

 

2022年には骨太の方針で「保険証の選択制」が決められたそばから保険証の廃止になったのはなぜだろう。

 

と、この政府の「骨太」とは何か気になって十数年、昨年、閣議決定された「経済財政運営と改革の基本方針2023」に「官の投資を呼び水に過去最高水準の国内投資115超円の早期実現」「投資の拡大と経済社会改革の実行」とありました。

 

ああ、なるほど。

政府の「骨」は投資のことだったのかと遅まきながら気づきました。

 

最近よく耳にするようになった「地政学」の定義はなんだろうとググったら、こんな説明が目に入ってきました。

地理学と政治学を合成したものを地政学といい、そのリスク要因のこと。地理的な位置関係による、政治的や軍事的、社会的な緊張の高まりが、その地域や世界経済に与える悪影響のことを指し、近年では投資判断に大きな影響を与える要因となっています。

地政学的リスク。三井住友DS)

 

ああ、だから地政学なのか。

「リスク」と表現しても、より高度で正確性が求められるようになった社会でのリスクマネージメントと政治や経済とは違うものを指しているのかもしれませんね。

 

だから平気で国民に投資を勧め投資で財産を増やすことが政策になった結果は、労働の対価には見合わない持つものと持たざる者の差が開き、能力を持っていてもその階層を越えることが容易ではなくなった社会でした。

 

成功は社会のおかげ、成功者は必ず社会に還元すべきと明治時代の先覚者たちが築いた遺産、現代の政治家はその骨をしゃぶりながら自分の資産を増やしているのだと漠然ながら見えてきました。

まあ、本当に「成功する」とは何かもわかりませんけれど。

 

そうそうこの「背骨勉強会」、国民の声とはほどとおい政策を繰り返しそうな予感がしました。

「骨」には注意ですね。

 

 

 

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行間を読む 201 「成功は社会のおかげ」

「渋沢栄一が好んだ煮ぼうとう」を食べたら気が変わって生家に立ち寄ったのですが、その駐車場にもまた渋沢栄一氏の説明がありました。

 

我が人生は実業にあり。 渋沢栄一

 

天保十一年(一八四〇)豪農、渋沢市郎右衛門の子として誕生。昭和六年(一九三一)九十二歳の大生涯を閉じるまで、実に五百にものぼる企業設立に携わり、六百ともいわれる公共・社会事業に関係。日本実業界の祖。稀代の天才実業家と呼ばれる所以である。

男の転換期。慶応三年(一八六七)十五代将軍・徳川慶喜の弟、昭武に随行してヨーロッパに渡る。

二十八歳の冬であった。栄一にとって、西欧文明社会で見聞したものすべてが驚異であり、かたくななまでに抱いていた攘夷思想を粉みじんに打ち砕かれるほどのカルチャーショックを体験。しかし、彼はショックを飛躍のパワーに換えた。持ち前の好奇心とバイタリティで、新生日本に必要な知識や技術を貪欲なまでに吸収。とりわけ、圧倒的な工業力と経済力は欠くべからざるものと確信した。

他の随員たちの戸惑いをよそに、いち早く羽織・袴を脱ぎ、マゲを断った。己が信ずる道を見つけるや、過去の過ちと訣別、機を見るに敏。時代を先取りするのが、この男の身上であった。

二年間の進学を終え、明治元年(一八六八)帰国。自身の改革を遂げた男は、今度は社会の改革に向かって、一途に歩み始めた。

帰国の同年、日本最初の株式会社である商法会所を設立。明治六年(一八七三)には、第一国立銀行を創立し、総監役に就任した。個の力、個の金を結集し、システムとして、さらなる機能を発揮させる合本組織。栄一の夢は、我が国初のこの近代銀行により大きく開花した。

以降、手形交換所・東京商法会議所などを組織したのをはじめ、各種の事業会社を起こし偉大なる実績を重ねていった。

栄一はまた、成功は社会のおかげ、成功者は必ず社会に還元すべきという信念の持ち主でもあった。

私利私欲を超え、教育・社会・文化事業に賭けた情熱は、生涯変わることなく、その柔和な目で恵まれない者たちを見守り続けた。

失うことのなかった、心の若さ。そこから生まれた力のすべてを尽くして、日本実業界の礎を築いた渋沢栄一。並外れた才覚と行動力は、今なお、人々を魅了する。

 

昭和五十九年九月一日

 

 

1984年(昭和59)、日本が「先進国入り」し、私も「豊かな国が貧しい国を助けるのは当然」と意気揚々と東南アジアへと向かった頃ですね。

 

それからわずか10年もしないうちに、自分の労働の対価にあった身の丈にあった生活とは違う生活形態の人が急激に増えました。その後じきに経済が低迷し持つものと持たないものの差が広がったというのに自己愛や自己実現のブームは続いてその成れの果てのような「自分を大きく見せたい」「人に影響を与えたい」という虚の世界は続き、とうとう政治家までも自分の権力と利益を守ることを隠さない人たちになってしまいました。

 

「過去の過ちと訣別、機を見るに敏。時代を先取りするのがこの男の身上」

サウロの回心はどの時代にも誰にも起きる可能性があり、それが時に大きな変化へとつながっているのでしょうか。

 

そして昭和59年に描かれた渋沢栄一氏と、現代の「機を見るに敏。時代を先取りするのがうまく見える人」との違いは、やはりここかもしれませんね。

栄一はまた、成功は社会のおかげ、成功者は必ず社会に還元すべきという信念の持ち主であった。

私利私欲を超え、教育・社会・文化事業に賭けた情熱は、生涯変わることなく、その柔和な目で恵まれない者たちを見守り続けた。

 

そのまた父からの「藍で村全体が豊かになれば」という思いをひきついだのでしょうか。

 

もちろん渋沢栄一氏も良い面だけではないことでしょうが、あちこちに出現した明治以降の先覚者の話に、1980年代のあの希望に満ちた社会を経験できたのはこの時代が原点だったのかもしれないと思い返しています。

 

 

もし、この信念が途切れずに受け継がれていたら、日本の社会保障制度や社会福祉はもっとすごいものになっていたのではないか、生きることに絶望する人が減っていたのではないかと、ここ30年ほどの寄り道というか逆行が残念に思えることが増えてきました。

 

まあ、こうやって時にが解体される流れがきて、人間の歴史は普遍性のある方向へと向かうことを繰り返すのかもしれませんね。

 

 

 

*おまけ*

 

駐車場のそばにあった休憩所のトイレ内はきれいに清掃されていて、その中まで渋沢栄一氏の説明板があちこちに掲げられていました。

ほんとうにこの地域で生き続けている人なのかもしれませんね。

 

 

 

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食べるということ 95 渋沢栄一が好きだった煮ぼうとう

渋沢栄一氏の生家の隣にあるお店で、煮ぼうとうを食べることにしました。

 

ほうとうといえば山梨県ですが、子どもの頃に山梨を訪ねて食べた記憶があります。母の好みに合ったようで、その後時々食卓にのぼるようになったのでした。野菜がたっぷり入ってかぼちゃが味噌味を引き立てて、当時は肉はまだ贅沢だったので油揚げがコクを出していました。

今回、深谷を訪ねる計画を立てている時に煮ぼうとうがあり、時間が合えば食べてみようと思ったのでした。

 

ちょっと奮発して煮ぼうとうととろろご飯を頼みました。次から次へと生家を訪れる人が食べに入るので、観光地のそれなりの内容だろうと思いながら料理が来るのを待っていました。

煮ぼうとうは想像をはるかに超えて、ていねいに料理されていてそれはそれは美味しいものでした。

そして食べ物がたくさんある現代では質素なのに、あの子どもの頃の満たされる美味しさが蘇ってくるものでした。

 

箸袋に「渋沢栄一翁 夢七訓」が印刷されていて、記念に持ち帰りました。

夢なき者は 理想なし

理想なき者は 信念なし

信念なき者は 計画なし

計画なき者は 実行なし

実行なき者は 成果なし

成果なき者は 幸福なし

故に幸福を求める者は夢なかるべからず

 

*生家を訪ねて、「渋沢栄一が好きだった煮ぼうとう」の意味を理解した*

 

この箸袋と当日の散歩の記録のメモから、そうだあの日は渋沢栄一氏についてはネット上でもその人を知ることができるだろうからと生家は素通りしようとしていたのだと思い出しました。

お腹も空いたので「渋沢栄一が好きだった煮ぼうとう」を食べて、そのあとは次の場所に向かうつもりでした。

 

ところがその箸袋を読み煮ぼうとうを食べたら気持ちが変わってふらりと生家に立ち寄り、こんなことをメモしていました。

江戸時代中頃、暴れ川によって藍が育っていた

父、藍で村全体が豊かになればと栄一の自由を許してくれた

世襲とは対極

ただの偉人物語ではなかった

国民全体が平等で役人が上ではない

個人の富はすなわち国家の益である

 

やはり明治というのは、とてつもない変化が起きた時代だったようです。

私が高校時代までに学んだ「江戸幕府を倒し明治時代になった」「文明開花」といったことでは言いあらわし尽くせない普遍性が広がった時代だったのですね。

 

煮ぼうとうを食べに立ち寄っていなかったら、客寄せのための観光地メニューと思い込んでいたことでしょう。

そしてこのあとネギ畑が広がる血洗島を歩いてもただの田園風景にしか見えなかったかもしれません。

 

 

あれはやはり渋沢栄一氏が好きだった煮ぼうとうなのだと、生家に立ち寄って理解できたような気がしました。

 

 

「食べるということ」まとめはこちら

あの日(2022年7月8日)から考えたことのまとめはこちら

 

行間を読む 200 渋沢栄一が生まれ育った血洗島

たしか「ブラタモリ」で深谷の回があった記憶があるのですが、2021年5月1日の放送だったようです。

「埼玉・深谷〜"近代日本経済の父"はなぜ深谷で生まれた?〜」

渋沢栄一の原点はふるさと・深谷にあった!?その秘密をタモリさんがブラブラ歩いて解き明かす!

 

この頃はあちこちを歩くようになって偉人伝から解放されつつあったのですが、逆に世の中で賛美されている人に警戒心が強くなっていたので渋沢栄一氏についても斜に構えていたところがありました。それで、サラッと番組を見ただけでした。

 

今回の散歩の計画も最初備前渠を地図でたどっていたら「血洗島」というおどろおどろしい地名が目に入り、検索したところ渋沢栄一のゆかりの地だったことを知りました。

たしかに近くに渋沢栄一の生家と渋沢栄一記念館があり、そこをつなぐように青淵公園と川がありました。

 

 

渋沢栄一記念館から青淵公園を歩いて生家へ*

 

コミュニテイバスは途中から一人になり、渋沢栄一記念館に到着しました。

平日の午前中でしたが、記念館内はけっこうな人が見学しています。

 

名前は知っているぐらいの人でしたが、明治時代の医療にも深い関係があることを知りました。「1907年 慈恵会顧問、1911年済生会顧問、1914年聖路加副会長、東京市養育院」とメモしていましたが、「病院という施設と看護」を中心に発達した近代医学もこうした方がいなければ根付くことはなかったかもしれませんね。

また、「埼玉学生誘掖会」で日本の林業や公園に大きな貢献をした本多静六氏とも出会っていたようです。

 

ここから渋沢栄一氏の生家までは、清水川沿いの青淵公園を歩いてみました。堤防のような道で公園側が一段低くなり、洪水のための調整池であることが書かれています。

美しくのんびりと歩ける道で、あっという間に1kmほど歩くと左手に「青淵(せいえん)由来跡」と書かれた大きな石碑のそばに池がありました。

 

池のそばの竹藪の向こうに生家があり、敷地に「血洗島の由来」がありました。

「血洗島」の由来

 「血洗島」、誰もがこの地名に驚くことと思います。

 江戸時代の文献には「血洗島村」という村の名前で見ることができますが、いつからこの場所がこう呼ばれるようになったかについては、はっきりしていません。

 「〇〇島」という地名は深谷市内でも多く見られ、利根川の氾濫によって形成された自然堤防の上や、島のようにわずかに高まった土地の名前に付けられています。

 肝心の「血洗」の由来ですが、荒地を示す「地荒れ」や、常に川の水に洗われる土地を表す「地洗れ」が変化したとも、アイヌ語で「下」「終」「端」を意味する「ケシ」が「下の外れの島」を意味する「ケセン」に変化したとも言われ、これに「血洗」の文字が当てられたとされる説があるようです。

 渋沢栄一は、赤城の山霊が他の山霊と闘って片腕を怪我した際、その傷口をこの地で洗ったため「血洗島」という村名になったという伝説のひとつを語っています。

 このように定説が無く諸説があり、その由来については、はっきりしたことがわかっていません。

 

古い大きな家に入ると、渋沢栄一のアンドロイドが語りかけてビデオを上映していました。

少しだけのつもりでしたが、ついつい惹き込まれて全てを観て生家をあとにしました。

 

 

*後の世の「先覚者」は何を見ていたのだろう*

 

いただいたパンフレットに、渋沢栄一氏がヨーロッパに派遣されたことが書かれていました。

 慶応3年(1867年)、栄一は、パリ万国博覧会に招待され将軍の名代として参加する徳川慶喜の弟、徳川昭武使節団に庶務・会計係として随行しました。

 好奇心旺盛な栄一は、ヨーロッパに滞在中にチョンマゲを切り、洋装に変え、議会・取引所・銀行・会社・工場・病院・上下水道などを見学しました。進んだヨーロッパ文明に驚き、また、人間平等主義にも感銘を受けました。

 このヨーロッパを見聞きした経験が、渋沢栄一の人生を大きく変えたのです。

 

やはり渋沢栄一氏は明治時代に各地に出現した「先覚者」の一人だったと、生家を出る時には私のものの見方が変わりました。

 

こうした人たちはどんな時代を見ていたのでしょう。

当時の雰囲気を経験してみたいものです。

 

 

*おまけ*

 

それまで「資産家」「実業家」としての渋沢栄一氏という見方しかしていなかったのですが、改めてブラタモリの説明を読んで是非是非再放送をしてほしいものだと思いました。

 

ブラタモリ#177」で訪れたのは埼玉県の深谷市。旅のお題「"近代日本の経済の父”はなぜ深谷で生まれた?」を探る▽大河ドラマ「青天を衝(つ)け」主人公・渋沢栄一深谷との関係を掘り下げる▽渋沢のアンドロイド登場!彼の信念「みんなが豊かに」とは?▽藍やねぎの栽培に適した血洗島の「砂礫土」はどうできた?▽「青天を衝け」にも登場した貴重な版木を発見!▽深谷の発展のかげに浅間山?▽深谷のレンガと瓦の関係

(強調は引用者による)

 

今回「地図で見つけた血洗島」についても、すでにブラタモリで取り上げていました。ぼーっと観ていたようです。

 

 

 

 

 

「行間を読む」まとめはこちら

水のあれこれ 341 深谷駅近くの下台池公園

20分ほど遅れの湘南新宿ラインに乗り、休日の遠出は車窓の風景に集中できるグリーン席を奮発して出発しました。

2階席の眺めは、いつもの沿線の風景がまた違って見えるのも面白いですね。

住宅が密集して崖線もわからなくなった都内の風景から荒川を越え、北本から北鴻巣あたりのここ最近訪ねた懐かしい風景に水路の地図を頭の中に重ね合わせました。

 

ところどころ新幹線の高架橋と並走するのですが、残念ながら一本もまだ出会いません。

気を取り直してまた風景に集中していると、あの六堰頭首工からの水路が見え、水田地帯が増えてきました。

 

10時32分深谷駅に到着しました。

改札を出て深谷駅を外から見ると、真っ青な秋空にレンガ色の駅舎が映えていました。

駅舎の壁に小さな説明板がありました。

深谷駅の経緯

 昭和40年代、昭和9年に改築された駅舎の老朽化が指摘され、駅舎の改築計画が必要となりました。当時は、地方分権が叫ばれ、特徴ある「まちづくり」が各地域で進められており、深谷市でも多くの人々から、歴史と文化のまちである深谷市の玄関としてふさわしい駅舎の建設が求められました。

 そこで、郷土の誇る偉人、渋沢栄一翁にゆかりのある煉瓦に着目し、深谷の工場で生産された煉瓦で建築された東京駅を彷彿させる駅舎を建設することとなりました。

 

昭和40年代、どちらかというと私は都内にでき始めた高層ビルに心を弾ませていた頃で、こうした歴史を見直す動きがあったとは想像もしていませんでした。

渋谷駅はどんな外観になり、どんな歴史が書き込まれるのでしょう。

 

一世紀後の風景というのは、さまざまな思いが反動のように積み重ねられて出来上がっていくのでしょうね。

 

 

 

*なぜ深谷なのだろう*

 

さて、今回深谷を歩いてみたいと思った理由のひとつに、新幹線で通過する深谷はネギ畑が広がる真っ平な土地なのになぜ「深谷」なのだろうと気になっていたこともありました。

地図を見ても、利根川に向けてあの熊谷のように平坦な田園が広がっているように見えます。

 

深谷駅の南側に線路に沿って川が流れ、下台池公園の先で南東から流れてきたもう一つの川と合流して唐沢川になりそのまままっすぐ北へ流れます。途中であの備前渠がサイフォンで交叉する川ですが、もしかしたらこの合流部あたりから深い渓谷のようになっているのではないかと想像していました。

Wikipediaの深谷市の概要にも「上杉房顯が櫛引台地の北端部付近に深谷城を築き」とあり、現在の唐沢川沿いです。

 

推測した「深谷」の由来もいい線を行っているかもしれないと、まずは下台池公園を訪ねました。

多少は下り坂に見えましたが、その先の唐沢川も平地を流れていて谷らしい場所もありませんでした。

 

検索していたら「深谷断層」という言葉を見つけました。

深谷 断層崖の宿場町とレンガ工場、ネギ畑

 

①滝宮神社・深谷断層

深谷市のJR深谷駅南口のすぐ近くにある神社で、その昔この地に現れた湧き水が様々な幸を授け、神様からの地と崇められてきました。その後唐沢川の谷に流れ落ちる様子を滝に因んで「瀧の宮」と称して神社を祀ったそうです。桜の名所としても知られている場所です。

 

深谷断層>

埼玉県には群馬県の高崎から深谷、熊谷、上尾にかけて顕著な活断層帯があることが知られている。そのメンバーのひとつが深谷断層である。

深谷断層は、熊谷市三ヶ尻から岡部町岡まで続く活断層で、荒川の扇状地を北西〜南東に切るように伸びていて、段丘地形のずれから位置および変移速度が推定される。そのずれは深谷市緑ヶ丘から西の6~8万年前の櫛引面では比高5~6mの段差を持ち、北下りになっている。

東京駅を模した深谷駅を出るとすぐ南に深谷断層がある。駅から南に下台池公園に向かうとその途中に坂を下ってくる車道がある。これは深谷断層の断層崖(撓曲崖)を崩した坂である。そのすぐ東に断層崖からの湧水で作られた下台池が見られる。池の周辺は整備されているが、その一角に現在でも水が出ている部分がある。

滝宮神社は断層崖の段差を利用して作られた神社でその上下の比高差は10mに達する。この神社には断層崖からの湧水を水源とする池があり現在でも湧出している。

さくらインターネット

 

ああ、なんと。当たらずとも遠からじですが、バスに乗るために滝宮神社を訪る時間がなかったことが悔やまれます。

そしてやはりあのあたりが「谷」だったのかもしれません。

 

 

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落ち着いた街 49 落ち着かない街になっていくのは

深谷へ向かうのに渋谷駅から湘南新宿ラインに乗るつもりでしたが、どこかの駅で人が転落したとのことで大幅に遅れていました。

 

列車を待つ間、ぼーっと渋谷駅にたたずんでいると、あの山手線の外回りと内回りのホームを一緒にするための線路付け替えで歴史的な運休になったのも遠い昔のように思えるほど、当たり前の風景になりました。

湘南新宿ライン埼京線のホームだって、以前は長いコンコースを歩いて山手線に乗り換えなければならなかったのがわずか3年半前というのも嘘のように感じます。

エレベーターやエスカレーターも劇的に増えて路線が複雑に交わる重層的な駅の高低差とその駅間の移動への動線の配慮がされて、工事中の駅でも歩きやすくなりました。

 

ただ、少し前までは目の前に渋谷川の河岸段丘がはっきりわかるような空間があったし、10年前まではターミナル駅だった東急東横線のホームは山手線の上にあって、出発するとぐーんと弧を描きながら清掃工場の横を通過して見晴らしの良い風景でしたが、最近の渋谷駅はすっかりビルの谷間になってしまいました。

 

最近は青白いガラス張りのビルが流行りなのでしょうか。

街が統一されていく感じはあるのですが逆にそれしかなくて、なんだかちょっと冷たくそして壊れてしまいそうな不安定さを感じるのは好みの問題なのかもしれませんが。

 

そして駅周辺にあったデパートやショッピング街も東急東横店閉店のように、通勤途中などに立ち寄れる日用品を手頃に買える便利なお店がなくなりだいぶ生活が変わりました。

 

 

そんなこんなで、渋谷駅周辺の1960年代頃からのセピア色の風景は年がら年中工事中ではあるのですが、この10年ほどが一気に風景が変わった時代でした。

 

事故もなくすごい工事が行われていることへの敬意もあるし便利になっていくし時代の変化にもついてく必要があるし、あまり回顧ばかりではいけないかなと思っていたのですが、何に引っ掛かっているのだろうと少しずつ葛藤がひもとけてきました。

 

駅周辺のビルなどはもちろん誰かの私有地なので開発は自由なのかもしれないのですが、そこを歩き利用する人もまたその地域を作ってきたのに、その風景や機能が大きく変えられていくことに意見をすることもできない無力さとでもいうのでしょうか。

 

誰の力で、誰が街の風景や生活を大きく変えていくのだろう。

それはなぜ許されるのだろう。

 

これからもずっとこんな感じであっという間に風景が壊れ、新しい何かで表面が埋め尽くされていくのでしょうか。

河岸段丘の残る渋谷の地形がわからなくなるほどに。

後世に遺跡は出ても、そこに生活した人の思いは出てきませんからね。

 

そして人だけが増えてまた見せかけの雑踏が作られていく。

 

なんだか落ち着かない街になったなあと思いながら、20分遅れの列車に乗り込みました。

 

 

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散歩をする 489 ただひたすら利根川沿いの水路を歩く〜深谷から本庄へ〜

昨年の秋は熊出没のニュースが多く遠出をためらっていましたが、台風や秋雨前線の季節なのにほとんど雨が降らず秋晴れ続きでしたからなんだか出かけないのはもったいなくて、エイっと1泊2日の散歩を決行しました。

 

利根大堰から利根川への関心が広がり、これまでもその両岸のあちこちを歩きました。

これまた河口まで全ての地域を歩きたいという無謀な計画があります。

 

2019年に上越新幹線の車窓から見えた本庄から藤岡のあたりの麦秋に、いつかあのあたりを歩いてみたいと地図を眺めていくつか計画がありました。

その一つが備前渠で、深谷市を流れる唐沢川をたどっていた時にサイフォンで交差する水路を見つけました。用水路に違いないと辿っていくと、途中小山川(こやまがわ)と一体になってその先に「備前渠」と地図に名前が書かれていました。

さらに上流へと辿ると、利根川右岸に御陣場川が合流するあたりから取水されているようです。

 

備前」といえば岡山ではないですか。なぜここに備前という名前が残るのだろう、備前堤のようなものなのだろうかと興味が出たのですが、あの伊奈備前守忠次が由来だったようです。

 

いつかこの水路沿いを歩いてみたいと地図を眺めていたら、深谷市渋沢栄一記念館とその生地である「血洗島」はどんなところか見てみたいという計画もつながりました。

その渋沢栄一記念館から北へ数百メートルのところに、埼玉県と群馬県の県境があって「境島村」という群馬県側の飛び地があり、さらにその飛び地の中に埼玉県の地域があるという不思議な場所があります。

対岸には群馬県伊勢崎市の「境平塚」「境米岡」と、もしかすると利根川によって袂を分つような場所だったのでしょうか。

 

いつか深谷から本庄のあたりを歩いてみたいと思っていた場所がつながり、10月下旬に出かけてみました。

 

ということで、しばらくこの散歩の4ヶ月遅れの記録が続きます。

 

 

 

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