行間を読む 106 「クラボウヒストリー」

三河安城にあるクラボウの工場はいつ頃できたのだろうと興味が出て検索していたら、クラボウのホームページの「クラボウヒストリー」を見つけました。

 

豊かさとか貧しさとかに書いたように、子どもの頃から「倉紡」や「大原一族」を耳にしていたので、倉敷の大富豪、そして江戸時代からの天領としての経済的に豊かだった歴史が書かれているのだと思ったら、全く世界が違っていました。

江戸時代、干拓地であった倉敷一帯では、塩分に強い綿花を栽培し綿商品などの交易によって大いに栄えていました。しかし、米と綿花の集散のほかに取り立てた産業を持たないまま明治時代を迎えた倉敷村は、税金高や水禍、疫病により、働く場もない貧村へと陥ることに。そんな状況の中、国内では政府主導で次々と紡績工場が設立されていました。そこで「倉敷の地こそ紡績会社を設立すべき」と、倉敷の現状を憂えていた20代の青年3人が計画を立て、倉敷随一の豪家であった大原孝四郎がそれに賛同、出資。新しい事業の設立を知った多くの県民が共鳴して多数の株式引受の申し込みが相次ぎ、不足分を孝四郎が引き受けることで事業化の目処が立ちます。1888年3月9日、孝四郎を初代社長とする「有限責任倉敷紡績所」が創設。翌年には英国式最新鋭の紡績設備を備えた倉敷本社工場(現・倉敷アイビースクエア)が竣工され、ここにクラボウの大きな一歩が踏み出されました。 

 

「米と綿花の集散の他に取り立てた産業を持たないまま明治時代を迎えた倉敷村は、税金高や水禍、疫病により、働く場も持たない貧村へと陥ることに」

そんな時代があったとは、思いつきもしませんでした。

 

1888年明治22年)に倉紡が設立され、その23年後の1911年に私の祖父は生まれています。

四半世紀も過ぎれば、祖父が物心ついた頃には貧村だったことさえ信じられないくらいの発展をしていたのかもしれません。

 

祖父の水田の歴史を知りたくなって、倉敷や岡山の干拓地を尋ねるようになりました。

昨年は母の記憶にある鶴形山に登りましたが、そこからアイビースクエアーの煉瓦の建物が見えます。

江戸時代からの倉敷の栄華の象徴だと、ずっと思っていたのでした。

 

 

「貧しくはなかった」という一言も、母や祖父母が生まれる前からの歴史がどこかに影響しているのかもしれません。

 

そういえば、美観地区で夕食をとった時に、私よりひと世代ぐらい上の方に「祖父母の家は〇〇にありました」と伝えたら、「ああ、あの辺りは裕福な土地だから」と言われたことが気になっていました。

貧村から今の繁栄に至るまで、地域によっても温度差があったのでしょうか。

 

 

三河安城を訪ねていなかったら、クラボウヒストリーを知らないままでいたかもしれません。

そしてふと、鶴見良行さんの「中央歴史主義史観への批判」を思い出しました。

 

 

 

「行間を読む」まとめはこちら

水のあれこれ 167 明治用水を歩く

吉良吉田駅から名鉄西尾線に乗り換えて、いよいよ明治用水へと向かいます。

車窓には、矢作川左岸側の広い平地に田畑が広がった風景が続きます。春を待っている美しい水田の風景です。西尾線は旧矢作川矢作川そしてたくさんの川や水路を超えるので、途中下車をしてみたい場所がいくつかありましたが、先を急ぎました。

 

*南安城駅から安城公園へ*

 

どこから明治用水を歩こうかと地図を眺めていたときに、安城公園とその公園にある水色の線に、ふと目がとまりました。

名鉄安城駅で下車し、まっすぐの道を安城公園へ向かって歩きました。

いつもなら、こういうまっすぐな車道を歩くのは疲労感があるのですが、もともと明治用水によって開拓された土地だと思うと、今回は全然苦になりません。

途中の小さな川や側溝も分岐された水路だろうかと、一つも見逃してはいけない気分です。

 

安城神社の先に公園がありました。

整備された遊歩道に、水が流れています。

パソコンの地図では明治用水とは書かれていませんでしたが、途中、「明治用水 東井筋 取水口から15.1km」と書かれていて明治用水の一つであることがわかりました。正解でした。

 

公園の先からは暗渠になって、その上が歩道と自転車道になって北へと続きます。

JR東海道本線の線路をくぐると、その先には玉川上水のように木が生い茂った中を明治用水が流れていました。

そのそばにクラボウの工場があります。地図でそれを見つけたときに、子どもの頃から耳にしていた倉紡ですから、明治用水のそばにあることがうれしい偶然で、ぜひこの横も歩こうと計画しました。

このクラボウ安城工場は、1951(昭和26)年に設立されたようです。当時のこの辺りは、どんな風景だったのでしょうか。

 

明治用水記念館*

 

クラボウの敷地沿いに明治用水の遊歩道を歩き、しばらくするとまた暗渠になる場所から北西方向に大池公園があり、そのほとりに明治用水記念館がありました。

たくさんの資料が展示されていましたが、その中で印象に残ったのが、「明治まで村がなかった」ことと「愛知県内の七つの用水のうち、民間のお金だけで作られたのは明治用水だけ」ということでした。

 

行く前にはWikipedia明治用水をざっと読みましたが、最初のこの箇所でさえ本当に理解できてはいなかったのでした。

明治用水(めいじようすい)は、西三河地方南西部に農業用、工業用の水を供給する用水である。幕末・明治維新期に、全国に先駆けて測量・開削が行われた近代用水だったため、明治という元号を冠するエポックメイキングな命名がされた。大正時代には、農業王国として、中原に位置する安城市が「日本デンマーク」と称して教科書に掲載されるほど、画期的な成功を収めた。安城ヶ原の開発により、10万石以上の収量となった。(当時、岡崎藩が5万石)

 

そして碧海台地を初めて知りました。

かつては安城ヶ原や五ヶ野が原などと呼ばれる原野があり、小規模な開析谷で細々と稲作が営まれていた。台地上は水の乏しかったため、ため池が数多く築かれ、ため池の延面積は488町歩、1町歩以上もある大きなため池は84か所にも上った。

 

幕末には碧海郡泉村(現在の安城市泉町)の豪農である都築弥厚が用水の導入による新田開発を企てるが、既存の権益に固執する農民の妨害などに遭って失敗。幕府から一部の開発許可を得ていたものの、都築は膨大な借金を背負ったまま失意のうちになくなった。明治維新後には岡本兵松が都築の計画を引き継ぎ、別の方法で新田開発を計画していた伊予田与八郎も合流して、愛知県も関与した用水導入の計画を進めた。1879年(明治12年)に着工し、1884年明治17年)に明治用水が完成した。

 

子どもの頃から新幹線でこの三河安城あたりを通過するときには、倉敷の風景と重ね合わせて、昔からの豊かな農業地帯なのだと思っていました。

まさかそこが、私が子どもの頃なら半世紀ほどまえはまだ水の乏しい台地だったとは信じられないほど、広々とした豊かな平野と落ち着いた街に見えましたから。

 

半世紀以上、私は車窓の風景を勘違いしていたのでした。

この歴史を知ることができてよかった。

安堵に近い思いで、明治用水記念館を後にしました。

 

 

 

「水のあれこれ」まとめはこちら

 

 

散歩をする 283 名鉄蒲郡線で海岸線を行く

新幹線に乗るのは11月中旬に北陸道をまわった時以来なので、3ヶ月ぶりです。

見ているだけでなく、このままどこかへ行ってしまいたいという衝動が時々ありましたがこらえました。

まだ緊急事態宣言の最中ですから、がらがらの新幹線にひっそりと乗りました。

 

豊橋駅までこだまだと2時間かかります。のぞみだと名古屋まで1時間半で行けますから、ずいぶんとゆっくりに感じますが、東海道本線を利用していた時代を考えると、ほんと、夢の超特急ですね。

今回は、むしろこだまでゆっくりと行くことが楽しみでした。

あちこちの駅でのぞみとひかりの通過待ちもあるので、なんとこの2時間で33本の東海道新幹線を見ることができたのでした。

満足して、豊橋駅で下車しました。

 

三河湾の海岸沿いを走る*

 

愛知県に入ると、なんだか陽の光が明るいような気がします。

三河湾が見え、海面が光っているからでしょうか。新幹線でここを通過するときに、ちょっとだけ見える三河湾の雰囲気が、瀬戸内海に似ていて好きな風景です。

 

いよいよこの海岸線を回るのだと、蒲郡(がまごおり)駅へと向かいました。

名鉄線に乗り換え、西浦駅を過ぎたあたりからはずっと左手に海が見えます。

少し風がある日で白波が立っていますが、2月下旬はもう春を感じさせる陽光です。

 

ところどころ切通しに線路が造られていて、小高い場所が近づいたり離れたり、海岸線に鉄道を敷くことは大変そうですね。

1929(昭和4)年に前身の三河鉄道として開業したそうです。

 

田畑や落ち着いた住宅地、そして三河湾と、美しい風景が続いていました。

 

さあ、いよいよこの目で確認したかった「古新田」がある三河鳥羽駅が近づいてきました。

地図で見ると、干拓地と思われる水路が海岸沿いにありましたが、それが見えてきました。

どんな水田と用水路なのだろう。

ああ、ソーラーパネルで一面覆われていました。

時代の変化ですから致し方ないですね。

 

それでも、ここを見るためだけに日帰りで来ても、落胆はしなかっただろうと思う海岸線の風景でした。

このあたりには、どんな干拓の歴史や生活の変化があったのだろう。

それぞれの地域の歴史を知るには、時間が足りなさ過ぎますね。

 

 

「散歩をする」まとめはこちら

 

 

散歩をする 282 ただひたすら川と海を見に〜矢作川と明治用水〜

お正月の三が日に日帰りで行ってみたいと思っていた場所があります。

 

2年前に豊川放水路を見に豊橋から豊川を歩いた時に、時間があったので渥美半島まで足を伸ばしました。子どもの頃から地図で見る愛知県というと「蟹にそっくり」というイメージでした。

いつか蟹の左手(渥美半島)から右手(知多半島)まで歩いてみたい、そう思っていて時々地図を眺めていました。

名鉄蒲郡線に乗ると、「蟹の口」のあたりの海岸線を車窓から見ることができそうです。

そして吉良吉田駅でぐいと北へ直角に線路が曲がるのは、矢作川が作り出した地形かもしれません。

 

その辺りが気になって眺めていたら、三河鳥羽駅の前に「古新田」「未新田」という地名を見つけました。

新田という言葉に惹きつけられて、ここに行ってみようと思ったのでした。

ここを訪ねるだけの、大人の贅沢な日帰りの散歩です。

 

ところが、お正月にはとても都県境を超える雰囲気ではなくなったのでした。

 

*一泊二日の散歩へ変更*

 

東海道新幹線の車窓の風景はだいぶ覚えたのですが、豊川放水路あたりまで集中して川を眺めたあとはちょっと気が緩んで、はっと気づくと「ただいま三河安城を定刻通り通過しました」というアナウンスが流れます。

その少し手前に矢作川が流れていて、田園風景が広がっています。

 

名鉄蒲郡線がなんで吉良吉田駅で曲がっているのだろうと地図を眺めていると、矢作川と旧矢作川を始め、たくさんの水色の線が描かれています。

その中に、明治用水がありました。

 

豊川放水路を訪ねた頃に、明治用水の名前も記憶に残ったのですが、愛知県内の用水路がどうなっているのか時々地図の中で追っていました。

新幹線の三河安城駅のそばをまっすぐな用水路が通っていて、これも明治用水です。この周辺をあちこちみていると、JR安城駅のそばに明治用水会館があります。

明治用水の水源はどこなのだろうと、矢作川に沿ってみていくと、三河豊田駅から歩いて20分ほどのところに水源町があり、水源公園、水源神社そして水源管理所があります。

ここが取水口のようです。

 

せっかく「蟹の口」のあたりを訪ねるのなら、一泊二日にして明治用水の取水口と、さらに矢作川の上流まで行こう。

散歩の計画ノートに書いておいたルートを追加して、日程が決まりました。

自分でもなんでこんなに水に惹かれるのかよくわからないのですが、2月下旬に出かけたのでした。

 

しばらくこの散歩の記録が続きます。

 

 

「散歩をする」まとめはこちら

 

 

 

散歩をする 281 散歩とリスク比較

「リスク比較」という言葉を初めて知ったのは、10年前の放射線被曝の混乱からでした。

 

公害問題から環境という言葉が定着した半世紀ほどを振り返ると、1996年のダイオキシン問題も同じような状況だったのですが、当時はまだ「リスク比較」という言葉を耳にしたことはなかったし、情報の広がり方がゆっくりだったので、「何が危険か、何が大丈夫なのか」見極める時間もありました。

ただこの頃は、マスメディアで大きく取り上げられたことや正義と理想から運動をする人たちの声が全体像のように見えてしまっていました。

 

放射線被曝の時には、そこまで恐れることはないのにと思うような言動が広がり、反対に今回の新型コロナウイルス感染拡大ではもう少し唾を飛ばさないように慎重にすればと思うのですが、初めて遭遇する状況では何を恐れ、何を大丈夫と思うかの個人差が大きいことで混乱するのかもしれませんね。

 

実は、2回目の緊急事態宣言の最中に、2回ほど遠出の散歩をしました。

ずっと感染者数と重症者数、医療機関の状況を見ながら、「今なら大丈夫」「こうすればリスクが少ない」と出かけるタイミングを見計らっていました。

 

本当はお正月の人の少ない時期に静かに回って見たい場所がありましたが、都内では年末から数百人台の感染者数になり、これは年明けには大変な数になりそうと思ったら2000人台になり、1月8日から2回目の緊急事態宣言になりました。

 

当初は2月7日まででしたから、2月中旬か下旬にはその場所を訪ねようと思っていたのですが、今回は冬場ということもあってなかなか感染者数、重症者数が減りませんでした。

そして周囲にも発熱する人が出てきたので、とても都県境を越えて出かける状況ではなくなりました。

そして2月21日には、緊急事態宣言が3月8日まで延長されることが決まりました。

 

ただ2月中旬になると、都内の感染者数が500人を下回り、200人台の日が出始めました。

このまま減るのかと期待したら、そこからは数字が動きません。

これはきっと、しばらくこのままか、3月4月にまた人の移動や交流が増える時期に増える可能性がありそうです。

そういえは、昨年6月11日に東京アラート解除後に、むしろ徐々に感染者数が増えたということもありました。

 

今なら新幹線やホテルも空いていて、むしろ混雑を避けられるかもしれない。

ほとんど人が歩いていないような場所を訪ね、食事も一人で黙々と食べますから、繁華街に出かけたり大勢の人がしゃべっている中で食事をするよりは感染のリスクは低いだろう。

そう判断して、2月下旬に出かけたのでした。

 

 

まあ、言い訳と言えば言い訳なのですが、出かけるのにもこんなに葛藤があった年の記録ということで。

 

決めたら即実行。

前日にホテルを予約し、みどりの窓口でサクサクとチケットを購入し、10分ほどで旅の準備をしたのでした。

もう何度も考えていた計画ですから。

 

 

「散歩をする」まとめはこちら

新型コロナウイルス関連の記事はこちら

失敗とかリスクに関する記事のまとめはこちら

 

 

 

客観的のあれこれ 8 危険と大丈夫の差

電車通勤歴も30年ほどになり、通勤途上の風景、この場合は文化的な風景とでもいうのでしょうか、人の行動の変化をいろいろと感じています。

 

新しい何かが広がると、その危険性が増すような行動が増えることもその一つですね。

ずっと前からあったような気がしてしまう夢のような世界ですが、10年ほど前は今ほど「ながらスマホ」の人は少なかったのも当然ですね。

最近では、追い越しざまにちらりと目に入るのは、スマホでテレビやゲームに集中しながら歩いている人が増えたことです。階段を上り下りしながらも見続けています。

しかもイヤホンが耳に突き刺されていますから、おそらくかなり周囲とは断絶された世界かと想像しています。

 

どうぞコケませんようにと思いながら、でも周りのこととも見ずに歩いている姿スマートフォンの操作はやめてと注意のアナウンスが耳に入らない姿にちょっとイライラしながら追い越します。

 

自分がコケたり、周りに戸惑いや危害を与える可能性とかは感じないのかなと、ちょっと不思議です。

きっと世の中にはこれで何か失敗した人もいるのだと思いますが、なかなかその教訓が生かされていないのかもしれませんね。

 

10年前に比べると大きな荷物を持って歩く人が増えた印象です。

バックパックキャリーカートを持って歩く人の風景も、もう日常になりました。

電車内ではバックパックを前に抱える人も増えたのですが、相変わらず背負ったまま行動する人もいます。

電車内やエスカレーターで、このバックパックで押し飛ばされることの頻度が増えました。

だいたい週に1〜2回は遭遇します。こういうときにも足首の感覚の変化か、ちょっと当たっただけで吹き飛ばされそうになることがあります。

私に当たった人は、きっと人の靴を踏んだことにも気づかないのと同じかもしれませんね。

 

先日はとうとう、エスカレーターでキャリーバックから手を離しっぱなしで乗っている人を見ました。

エスカレーターの将棋倒しの事故の原因で、手を離していたためにキャリーバッグが転げ落ちた動画を観た記憶があります。

ですからキャリーバックを持って乗る人のそばにはできるだけ近づかないか、手でちゃんと持っているか気になっています。

ほんとうに手を離して乗る人がいるのだと驚きでした。

 

危険な話は意識していれば耳に入ってくると思うのですが、この危険と大丈夫の差はどこからくるのか、それが変わるのはどういう状況なのか、人の行動を観察する毎日です。

 

 

「客観的のあれこれ」まとめはこちら

失敗とかリスクの記事のまとめはこちら

 

 

 

 

 

 

反動から中庸へ  11 本質に戻るまで30年ほどかかるのかもしれない

2014年に初めてとかえこさんからコメントをいただいた時には、私は産科診療所で勤務するようになって10年ほどたった頃でした。

周産期医療の集約化が進んで、それまで分娩を取り扱う「近くの総合病院」が激減し、周産期センターか診療所か、そして近い将来にはすべての分娩は周産期センターで日帰り入院で受けて、診療所は妊婦健診だけになるかと思うような勢いで変化していたように感じました。

 

最近、近隣では、総合病院でも分娩再開する施設や新たに開業する産科診療所もぼちぼちあって、一次施設から三次施設までうまく地域の分娩を担っている方向性のような印象です。まだまだ綱渡状態なのだとは思いますが。

出産後24時間、帝王切開でも48時間で退院するような早期退院推進の雰囲気にブレーキがかかったのかなと、ちょっと安堵しています。

まあ、また医療費は孫の世代への借金という雰囲気が少しでも強まれば、どうなることやらですが。

 

 

*最近の若い世代の方々*

 

前置きが長くなりましたが、2014年ごろ、私が勤務していた産科診療所では、「卒後数年」ぐらいのスタッフはほとんどいませんでした。

最近では、卒後数年どころか「卒後2〜3年」で産科診療所勤務を希望する人が増えてきた印象です。

私の感覚では、病院で異常分娩など経験を積んでから産科診療所へなのですが、時代が変化していることを感じることのひとつです。

集約化によって、次々と新卒が入る周産期センターには長くいられないという事情でしょうか。

 

久しぶりに「卒後数年」という世代の方々と接して、助産師だけで!という雰囲気で教育を受けたことをあまり感じることがありません。

これは意外でした。

1980年代から90年代の「卒後数年」を思い返すとなんだかもっと自信に満ちていたので、最初は自信がないのか、大丈夫かと思いました。

粛々と分娩介助して不安があれば医師に相談するし、「これがいいらしいです」と鵜呑みにしてすぐにケアに取り入れたりしない。

なんとかベルトも、なんとか式マッサージとかさまざまな民間資格も耳にしなくなってきました。

私の周辺だけかもしれませんが。

 

かつて粛々と臨床経験を積んでいる人たちのことを公の場で腰砕けと貶め、「助産師だけですべての責任を負う」ことを目標にしている声が強い世界や、それに伴って民間資格を取ることが勉強熱心のように思われた時代があったことが嘘のようです。

 

 

お産は終わってみないと正常かどうかわからない、出産は母子二人の救命救急にいつでもなりうるという分娩(出産)の本質に立ち返るまで30年かかったのだと、あの反動に揺れた時代を思い返しています。

 

 

「反動から中庸へ」まとめはこちら

 

記録のあれこれ 96 とかえこさんのコメントを読み返す

先日の「科学的根拠から考える 助産の本質」?にとかえこさんからコメントをいただきました。

ふぃっしゅさん、ご無沙汰しております。ふぃっしゅさんのお考えにはいろいろと助けられました。久しぶりの助産とはのご更新、興味深く拝読しました。本、まだ読んでいませんが、見てみます。ふぃっしゅさんが思想から解放されるまで20年間、どのように考えてこられたのか、お話ししたいです..。 

ありがとうございます。

 

とかえこさんから初めてコメントをいただいたのはたしか数年前、助産学生でいらっしゃった時でした。

もう一度、当時からのいただいたコメントを読み返してからお答えしようと思いました。

最近、はてなブログの編集方式がまた変化したのか、過去のコメントをハンドルネームから検索する機能がなくなってしまい、ほかの方からのコメントもいちから全て再び読む機会になりました。

コメントをいただいた時には、その行間にあるもっと違う何かや大事な言葉が見えていなかったかもしれないと思えてきました。

すべてのコメントにもう一度返信するとしたらどんな風に答えるだろう、そんなことをいろいろと考えました。

 

さて、とかえこさんからいただいたコメントをすべてプリントアウトして、もう一度読みました。全然ペーパーレスじゃあないですね。

 

最初は、「何か答えを書かなければ」とそれらしい文章を考えていたのですが、あらためて読み直していて、帝王切開術後の合併症にいただいたコメントの以下の部分で「あっ」と思いました。

「事実をどう表現するか」これに関してはすごく課題が大きいと思います。問題のひとつは、「自分が体験したことを事実だと思うこと」が根底にあると思うからです。「私の場合はこうだったよ」という体験談は、一人一人にとっても大切なものですが、それが事実と思うことは見る目を歪めるばかりでなく、人を傷つけることにもなります。こと育児に関してはそういう「口コミ」が多く、それが代替療法を簡単に受け入れる素地になっているのではないかと思っています。事実を地道に表現して行くこと、取り組んでいきたいと思います。

 

とかえこさんが助産師の新卒1年目の時にいただいたコメントです。

最近ではさまざまな経緯を経て、医療資格をとられる方も多いので、当時とかえこさんが何歳で、どのような経験からこの表現をされたのかはわからないのですが、私が個人的体験談という言葉に行き着いたのが半世紀ほど生きた頃ですから、おそらくこの言葉がいま社会の中で「本質」として浸透して来たのではないかと思います。

 

このコメントへの返信で、こんなことを書いていました。

「事実」とは何かを考えただけで、またいろいろなことが思い浮かんでくるのですが、看護の中では「事実を記録する」場面がとても大事なのでそのうちに何か書いてみたいなとは思っていました。いつのことになるかわかりませんが。

 

ブログを始めてしばらくした頃からなんとなく「事実とは」「記録とは」という言葉が霧の中にあったものが、このコメントをいただいた翌年から、「事実とは何か」や「記録のあれこれ」というタイトルにつながったのかもしれません。

 

そして、ちっともペーパーレスじゃあないですが、こうして過去のコメントを読むことができるのもはてなブログさんが膨大な記事とコメントの記録を管理してくださっているからだと、それもすごいことだと思いました。

 

「思想から解放された」理由は、とかえこさんのコメントをはじめ、もしかしたらこうしてたくさんの「思考」に触れて刺激を受けることができる時代に入ったからかもしれませんね。

とかえこさんへのお返事としては、漠然すぎるかもしれませんが。

 

もうちょっと続きます。

 

 

 

上記以外で、とかえこさんからいただいたコメントのある記事はこちら。

助産師の世界と妄想 14   何言ってるんだろう?

アドバンス助産師とは 1   「正常なお産は助産師だけで」教

アドバンス助産師とは 5   「ALL JAPAN」の取り組みとは何か

 

 

「記録のあれこれ」まとめはこちら

 

行間を読む 105 「道に歴史あり」

美山通りの街路樹が整備された理由はなんだったのだろうと気になっています。

街路樹というと、緑の少ない都市部の景観のためというイメージで、しかも落ち葉が大変と反対されることもありますから、こんなに山が近くにある場所に立派な欅が植えられていることは意表を突かれました。

 

欅の大きさから考えると、少なくとも10数年以上は経っているように見えました。

 

検索してみましたが、美山通りの歴史のようなものはまだなさそうです。

東京都道61号山田宮の前線の「歴史」は、通行止のことだけ書かれていました。

・2017年(平成29年)

 ・10月23日ー台風21号による土砂災害により通行止めとなる、

 ・11月9日ー上記土砂災害通行どめの代替路措置として圏央道八王子IC↔︎あき

  る野IC間のみの利用車両無料措置を開始する(都道復旧までの間)。

 

 

2017年の台風21号は平成29年台風21号よると、「1991年以降の台風で初めて超大型の状態で上陸した」というのに、すでに記憶がありません。

「被害」を読むとここ2~3年で訪ねた場所が多く含まれていて、今ならまるで自分のことのように心配になります。

この美山通りのニュースも記憶にありませんでした。

 

*地図で美山通りをたどる*

 

地図を眺めるのが好きなのに、運転しないので道をなかなか覚えられません。

 

Macの地図は、道路を中心にした「マップ」と鉄道を中心にした「交通機関」そして航空写真の3種類に切り替えられるのですが、運転することがないので常時「交通機関」の地図になっています。

「〇〇街道」とか「国道何号線」といっても、ほとんど思い浮かばないのです。

 

この美山通りの街路樹が気になって、久しぶりに「マップ」に切り替えてたどってみました。

 

 

武蔵野御陵を過ぎてすぐの宮の前交差点から美山通りが始まり、圏央道美山町を過ぎて秋川街道の上川橋交差点で一旦終わります。

そして秋川街道を300mほど西へ行くと、途中から今度は山田通りになってこの都道61号線が日の出町まで続いています。

八王子霊園を訪ねたあとは八王子駅に出て、そこから武蔵五日市駅までバスに乗りました。このルートだと、浅川の支流のひとつ、川口川沿いを通ります。その途中で、秋川街道を通ったので、この美山通りから山田通りに変わる区間も通過していたのでした。

 

この沿線の歴史はどのような感じだったのでしょうか。なぜここに道が造られたのでしょう。

なぜ途中、秋川街道を間に入れて異なる道路名で続くのでしょう。

どれだけの人がこの道をつくるのに関わったのでしょう。

そして美山通りのあの街路樹にも、どのような歴史があったのでしょうか。

興味が尽きません。

 

羽村で見つけた道に歴史ありという言葉を思い出しました。

 

散歩にはほんと終わりがないですね。

 

 

「行間を読む」まとめはこちら

水のあれこれ 166 浅川の支流を訪ねる

八王子霊園を訪ねたあとは、高尾駅とは反対方向へと歩きました。

目指すのは、北浅川の支流である山入川沿いです。

 

以前、JR八王子駅から京王八王子駅まで歩いた時に、途中で急にがくんと道が下がる場所がありました。すでに散歩を始めていた時期で、「浅川の河岸段丘に違いない」とぴんときました。

多摩川右岸になると私の頭の中の地図は怪しくなるのですが、浅川の名前は1990年代初めの頃から知っていました。

ただ、散歩でも歩いた区間もありましたが、いまだにどこをどう流れているのかはあやふやなままです。

 

今回、八王子霊園周辺を地図で眺めていたら、たとえは悪いのですがまるで小さな川が末梢の小静脈のように分岐しているのをみて、その複雑そうな地形をみてみたいと思いました。

そしてその源流はどこなのだろうと、それぞれの小さな流れを追っていくうちに、北浅川の支流の山入川に目が止まりました。ちょうど「霊園正面」を通過し、美山町へと向かうバス路線が山入川のそばを走るようです。

 

どんな街と山や川の風景があるのだろう。

航空写真で見ると、日原川上流の採掘場のような場所も見えます。

東京に半世紀以上生きてきたのに、ほんと、狭い範囲の人の暮らししか知らないものです。

どんな風景と歴史があるのか、訪ねてみたくなりました。

 

 

*北浅川へ*

 

八王子霊園を出て、北へと緩やかな下り坂を歩き始めるとじきに小さな川があります。

この周辺はその名も「川町」で、何川なのかわからないのですが、小さな川に沿って民家とお寺と墓地がありました。

対岸はぐんと上り坂になり、その途中に「タウン入り口」バス停があって、90年代ごろの開発でしょうか、住宅地が広がっていました。

 

整然と並んだ住宅のそばにトンネルがあり、山の反対側へと出ました。

ちょっと息を飲むような予想を超えた街があり、川へと下り坂になっていました。

美山通りという都道だそうで、その両側に大きな欅の街路樹が植えられています。欅の根元付近には別の低木の街路樹と黄色い鮮やかな水仙の花が植えられていて、手入れが行き届いていました。

その通りを中心にして、落ち着いた街が広がっています。

もっとも低い場所に大きな橋がかかり、それが北浅川でした。

その先で美山通りと陣馬街道が交差しています。

 

周囲は丘陵のような低い山に囲まれ、桜やコブシが咲き、家々の庭にも春の花が咲き始めていました。

バス停には、次々と高尾駅行きや八王子駅行きのバスが来ていて、乗る人もけっこういました。

八王子霊園の向こうは人気のない場所が広がっているのかと思っていたら、全く違った風景でした。

 

お彼岸の臨時バスダイヤと周辺の渋滞のために、予定していたバスがなかなか来なかったので、この日は山入川沿いを訪ねるのはあきらめて陣馬街道をバスで八王子へ戻ることにしました。

 

今回、地図をじっくり眺めて、浅川は中流で北浅川と南浅川、そしてもう一本名前がわからない川が合流していることを知りました。

それぞれの川沿いをいつかバスで訪ねてみよう。新たな計画ができました。

都内の川の8割ぐらいは上流から下流まで流れをたどったなんて豪語するのは、まだまだ早そうです。

 

 

 

「水のあれこれ」まとめはこちら