気持ちの問題 66 しょぼさの理由

マイバッグがあふれている街の風景に気が滅入り、しょぼさを感じるのは何故なのかと、ここ数ヶ月考えていたのですが、少し前に見たニュースからもしかするとこれかもしれないと思いつきました。

 

どこかの小学校で新聞紙からマイバッグを作って人にあげることを、良いニュースとして伝えていました。

映像では、子どもたちが何も敷いていない床に直接新聞紙を置いて袋に折り、持ち手を別に折ってホチキスで止めて作っていました。

 

わぁと叫びたくなりました。

電車の中とかで荷物を床におく人がなかなかいなくならないのは、床は不潔という医療的な意味での「不潔」が伝わらない理由ですね。

 

「ごめんね。せっかく作ってくれたけれど、日頃の買い物の重さに耐えられそうにないから」、とだけ言って辞退しましょうか。

 

 

*手作りは正義*

 

新型コロナウイルスが広がってからも手作りマスクとか手作りビニールエプロンとか、しばしば子どもたちが作ったことが美談としてニュースになりました。

 

当初の医療物品が足りない時期になんとかしたいという気持ちはわかるのですが、マスクひとつとってもそれは正確な基本的な知識が必要で、善意だけでは危険なものにもなるというあたりが理解されにくいのかもしれませんね。

 

もし、子どもたちが「手作りのマスクを作ります」「手作りのバッグをつくります」と思い立ったとしたら、「自分で使うのに留めておいた方が良さそう」ということを説明した方が良さそうですね。

 

*便利さに抵抗することが正義*

 

プラスティックバッグ一枚を見ても、良質で均一の製品が安価で供給されているとつくづく思います。

あるいは野菜や果物の保存袋など、本当に夢のような製品もあります。

どのような方達がこの開発に携わり、どんな試行錯誤があったのか、その歴史を知らないままにきてしまいました。

 

ところで、80年代から90年代初頭に都内では炭カル入りのゴミ袋に変更になりました。

それまではどんなゴミ袋でもよかったですし、中身の見えない黒っぽいビニール製が好まれていたと記憶しています。

ところが、行政側からこのゴミ袋しか回収しないという方向性になりました。

 

高い割には破れやすくて二重にしなければならなかったり、何より強制されることに最初は抵抗がありました。

それでも協力できたのは、公害も減り、生活環境も改善されることを実感していましたし、いつかゴミ焼却場の機能が向上していくだろうという期待もありました。

ですから「住民参加」できたのだと思い返しています。

そしていつからか、どのようなプラスティックバッグでも環境負荷が少なく焼却できるようになり、いつの間にかゴミ袋を購入しなくても済むようになったのでした。

 

マイバッグ運動に感じるしょぼさの理由、それは便利さに抵抗することが正義で、ここぞとばかり手作り感、自分の工夫をアピールした製品がでる。

一つの製品にもリスクマネージメントが徹底され始めている専門性への理解が片手落ちになっているとも言えるかもしれません。

「住民参加」だけはしているような雰囲気ですね。

 

 

なんだか、自然なお産とか医療に頼らないとか、既視感がありますね。

同じ方向を求めていたつもりが、全く違う方向にならないといいですけれど。

 

 

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10年ひとむかし 82 エコバッグが溢れる街の風景の一年

昨年7月1日にレジ袋が有料になって、だいぶ慣れて私の生活パターンができました。

十数年前から常にひとつは持っているマイバッグを二つにしてスーパーでの買い物はそれを使用、それ以外のコンビニや服、本などの雑貨を購入するときはレジ袋を購入します。

1円とか3円を支払うのはなんだか嫌だけれど、徹底してレジ袋も購入することにしています。

 

実際にはさらに市販のプラスティックバッグを購入し、これで3R(リデュース、リユース、リサイクル)の呼びかけに応じて変えてきた生活習慣にだいたい合ったプラスティックバッグの枚数になります。

 

やはりプラスティックバッグは日常生活に不可欠である。

確証できた一年間でした。

あとは適切に廃棄することを守ることですね。

 

 

*エコバッグは重い*

 

十数年前から購入し始めたマイバッグは食品などを詰め込んでもしっかりしていて、洗濯にも耐えられて、そしてジッパーで閉めることができます。

「ジッパーで閉められること」は大事で、小学生の頃に習った「李下に冠を正さず」という言葉がなぜか心に残り続けていて、お店に入る前にはバッグが開いていないか今でも気になります。

 

そして、ここも大事なのですが、服装の雰囲気を壊さないことです。

 

それらの条件を満たすマイバッグはおよそ2000円から3000円しましたが、幸い、今でも気に入ったメーカーが販売し続けてくれているので、手元に常に何枚か予備があります。

 

では、そのマイバッグを数枚持って歩いたらレジ袋は不要になるかというと、1枚はそれほどでもないのですが、2枚3枚となるとけっこうな重さとかさばりになります。

ですから今も、プラスティックバッグを予備として入れています。軽くて丈夫であることは本当に便利で、こうした製品の質を向上させて作り続けてくださった方々に感謝しかありません。

 

 

*しょぼく感じる最近の街の風景*

 

この一年、環境省マイバッグ持参推進のためか、遠出をしても、観光客とおぼしき人たちもお土産をマイバッグに入れている姿をよく見ます。

街でも様々な形や色とりどりのマイバッグにあふれています。

 

あくまでも私の気持ちの問題なのですが、ちょっとくたびれたマイバッグをいくつも持って歩く姿に気が滅入るようになりました。

遠出した観光地でも見かけるようになり、非日常の旅先でも生活感が漂うというか。

ちょっと奮発していい服や物を買っても、生活臭のあるマイバッグに入れられていると、その楽しさも半減するのではないかと、今まで街にあふれていた紙袋やお店のプラスティックバッグもあれはあれで意味があったとさえ感じるようになりました。

 

そして、着ている服に不似合いなデザインや色合いがあふれて、もったいないなと感じるのです。

その日の服に合わせたエコバッグまでは考えないですからね。

 

 

自分で野菜やら日用品やらを買って持って歩くこともなく、マイバッグを持たなくても済むような「生活」の人にはわからないかもしれないですね。

 

 

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食べるということ 77 ヒトが呑まれるもの

お酒は好きですがこの夏は飲まなくなったもう一つの理由に、この1年半ほど、酒に呑まれるヒトが目につくようになったということがあります。

 

6月の遠出で、ここなら大丈夫そうと思って入ったお店で、次々にお客さんが入ってきて昼間にビールを飲んで盛り上がり始めたのは、一軒だけではありませんでした。

どこも、「お酒を提供している店」ではそんな感じです。

 

何人と一緒だろうと、お酒を静かに飲めれば、この感染症と共存しながらなんとか飲食店もお店を回せたかもしれないのですけれど。

 

今まで、お酒への依存というとアルコール依存症を思い浮かべていましたが、そこまで病的でなくても、「静かに飲むことができない」「感染症のリスクよりは、路上でも飲んでしゃべりたくなる」ヒトが出てくることに、お酒に対して少々嫌気がさしたという感じです。

 

 

*酒もタバコも呑まれていくもの*

 

昨年4月から都内では原則屋内禁煙になり、飲食店でタバコの煙に悩まされることがなくなることにホッとしつつ、「屋内が禁止されれば、屋外で吸う人がかえって増えるのでは」と心配していました。

 

時期を同じくして新型コロナウイルスの感染拡大で、むしろ人の流れが減り、あるいはお店が閉まっていたので、しばらくは屋外でのタバコの煙も減りました。

さらに喫煙の習慣がある人は新型コロナウイルス感染で重症化しやすいということもあきらかになりました。

また、喫煙所での感染の可能性も伝えられていました。

もしかすると、これで喫煙者がだいぶ減るかなとちょっと期待しました。

 

私は駅までの近道で飲食店が軒を連ねている場所を通るのですが、最近、店の前に灰皿をおくお店が増えました。

あるいは店内で食べて外で一服するヒトが、道に向かってフーッと煙を吐いていることがしばしばあります。

屋外に設置された喫煙所も、ヒトが密集しています。

また、煙が出ない加熱式たばこの出現で、たばこを手に隠すように持って歩きながらあるいは自転車に乗りながら吸っているヒトも見かけるようになりました。

 

道を歩いていて不意打ちにタバコの匂いがマスクに着くと、しばらくその匂いが付着して息苦しくなります。

 

 

あえて健康に害がありそうなことをしてしまい、ほかの人の存在も目に入らなくなる。

「ヒトがお酒やタバコに呑まれる」一面が、際立った1年半でした。

COVID-19は本当にさまざまな面をあぶり出す不思議なウイルスですね。

 

 

ぼちぼちと緊急事態宣言が終わる頃になると、また反動で行動することが繰り返されるのでしょうか。

何にしても「のまれる」ような嗜好が、この感染症でも大敵のようですね。

 

仕事で日頃接しているヒトの新生児を見ながら、どの年代からこの「呑まれる」ものへと変化していくのだろう。

呑まれるヒトと呑まれないヒトの差はどこから出てくるのだろう。そんなことが気になっています。

 

 

 

 

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落ち着いた街 16 お酒を適度に楽しむ

この夏は気づいたら2ヶ月ほどお酒を飲んでいませんでした。

今までは夜勤の日以外はだいたい350mlのビールや酎ハイを飲んでいましたし、特に夏日の気温を越えると、夕方になれば「飲みたーい!」という感じでした。

もっと飲んでもほとんど酔わないのですが、最近では最初の美味しさで十分になってきました。

 

その私が、今までの人生で飲まない最長記録を達成しました。

なぜ飲みたいと思わなくなったのか思い返してみると、炭酸水を飲んでいたらなんだか満足して、どうせアルコールが入ったものを飲んでもそんなに酔わないならこれでいいじゃないという感じになったこともあります。

 

ただし、家では味わえない外でのお酒の楽しさに、生ビールがあります。

以前なら、仕事の帰りとか散歩の途中で生ビールをグビリと飲むことがありました。

昨年2月以来、なんとなく、ワイワイと混み合っているお店は危険そうと限られた情報の中で判断したことが、的中していきました。

友人との「奇跡の再会」も無期延期のままです。

 

そしてしだいに、飲食店の営業に規制がかかるようになりました。

この大変な中頑張っている飲食店に感謝ですし、見慣れた街の風景からまた一店と看板が降ろされていくのをみると、飲食店や関連した業界の方たちはこれからどうされるのだろうと心配です。

 

*お酒、適度に楽しむことが難しいもの*

 

ただ、夜八時になるとひっそりとする街や駅周辺に、ちょっとホッとしていることもあります。

酔っ払いや吐物を避けて駅周辺を歩くことが、激減しました。数年前は「東京オリンピックでマナー向上」を期待していたのですが、まさかの新型コロナウイルスによる自粛での変化でした。

 

思い返せば40年ほど前、都内で女性が飲みに行くお店が増えてきた頃も、まだ大きな声ではしゃぐ人はそれほどいなかった記憶です。その後、女性も男性も大きな声で喋り笑う場面が増えて、飲食店や居酒屋に入ると隣の人たちに負けない大きな声を出さないと会話ができなくなり、飲みに行った翌朝は声が枯れてしまうこともありました。

 

静かにお酒を飲み、料理を楽しむということができにくくなりました。

 

あるいは一気飲みや、酔っ払うことがお酒の飲み方になり、90年代に入ると総合病院の救急外来に、夜中や朝方に急性アルコール中毒で搬送される人が増えました。

1986年に救急搬送の業務が明文化されてから、数年ぐらいですね。

 

あの頃、実家があった地域にたまに帰ると夜八時になるとほとんどのお店が閉まって静かで、今の自粛の雰囲気と重なります。

若い頃は何時までも飲める都内の街がいいと思っていたのですが、最近はむしろ、このまま静かな夜の街が続くといいなと思い始めました。

酔っ払いのいない街は、本当に落ち着いています。

 

たぶん、今までの30年から40年ほどが、かつてないほどヒトがお酒にのまれていた時代だったのだと、思い返しています。

 

感染症が終息してまた飲みに行く日がくるとしたら、座席の間隔が程よくあって、静かに飲み、静かに話をできるお店が増えるといいなと思っています。

水辺など、屋外で静かにぼーっと一人で飲めるお店が増えたら最高ですけれど。

 

きっと今の状況もまた、ヒトと酒の関係の竹の節なのかもしれませんね。

 

 

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水のあれこれ 193 炭酸水

ここ数年、炭酸水をよく飲むようになりました。

もともと炭酸飲料のしゅわしゅわとした感覚が好きなのですが、以前は甘いものしかなかったのでたまに飲む程度でした。

最近は無糖のものがさまざまなメーカーから比較的安価に販売されているので楽しいですし、食事中の飲み物としてもいいですね。

最初の頃は夏だけだったのが、通年、飲んでいます。

 

幼児のころはあのコカ・コーラの炭酸の刺激が強く感じて1本飲みきれなかったのに、強くなったものです。

最近では「強炭酸」を選んで購入することもあります。

 

無糖の炭酸水が販売されるまでは、炭酸というと甘い飲み物か、ハイボールのようなお酒とともに利用する特殊な水でしたが、こんなに身近な飲み物になるとは思いませんでした。

いつ頃から炭酸水だけを飲むようになったかと思い出そうとして、すでに記憶が曖昧になっています。

 

ということで、またいつものようにWikipedia炭酸水を読んでみました。

重曹から造られたものが「ソーダ水」と呼ばれたことは、子ども心になんとなく記憶がありました。

 

 

*炭酸水の「歴史」より*

 

十八世紀の頃の様子が書かれていました。

1769年、イングランド人のジョセフ・プリーストリーは、イングランドのリーズにある醸造所で、ビールの大桶の上に水の入ったボウルを吊るしておくと水に二酸化炭素が溶け込むことを発見し、炭酸水を発明した。

発見したことはすごいですし、その恩恵にあずかっているのですが、「ビールの発酵槽を覆っている空気は'fized air'と呼ばれ、そこにネズミを吊るしておくと死ぬことが知られている。プリーストリーはそのようにして出来た水が美味しいことに気づき、冷たく爽やかな飲み物として友人らに提供した」という点と、1972年に「チョークに硫酸をたらして二酸化炭素ガスを発生させ、そのガスをボウルの中の水に攪拌して溶かし込む方法」を読むと、相当リスクが高く失敗も多かったのではないかと、その行間にちょっとヒヤリとしますね。

 

天然の炭酸水から人工的に大量生産されたイメージだったのですが、飲むのも命がけのような、それほどあのしゅわしゅわ感に魅了されたのでしょうか。

 

 

炭酸水が身近になり始めた頃に見かけたのがウィルキンソンだったので、外国製のものが日本に取り入れられたのだと思っていました。

1889年頃、日本に定住していたイギリス人のクリフォード・ウィルキンソンが狩猟の途中に、兵庫県有馬郡塩瀬村生瀨(現在の兵庫県西宮市塩瀬町生瀬)で天然の炭酸鉱泉を発見した。後に、ウィルキンソンのタンサンとして国内外の27地域で発売した。

以前、ブラタモリで有馬の炭酸せんべいを紹介していたこととつながりました。

 

それにしても、ぶくぶくと気泡が出ている水が湧いていても、ちょっと飲むのは怖そうです。

これもまた命がけで発見してくれたということでしょうか。

 

炭酸水を生み出す地球もまたすごいと、なんだか今年は炭酸水に感激しています。

 

 

そうそう、Wikipediaによれば日本で無糖の炭酸がブームになり始めたのは2006年から2009年ごろのようですね。

 

 

と、この記事の下書きは少し前に書いておいたのですが、その直後に、カップヌードル味の炭酸が発売されるというニュースがありました。はたしてそのお味は如何に。

 

 

 

 

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水のあれこれ 192 倉敷川

早朝の倉敷美観地区を歩こう と思いついたもうひとつの理由に、倉敷川を見ることがありました。

倉敷美観地区というと大原美術館とその前の河畔の柳がイメージにありますが、それが倉敷川です。

 

ほんの数年前までは、倉敷川について知っていることといえばそれくらいでした。

ブラタモリの「倉敷」の回で、この倉敷川が米の運搬などに使われる運河であったことを知りました。

地図では、大原美術館から北西へ30mほどのところで水色の線が無くなっています。

その時は「ああ、だから忽然と水色の線がないのか」と思いました。

 

しだいに岡山平野の干拓地が気になるようになって、この倉敷川をたどると児島湾の干拓地へと続いていることがわかりました。

ですから、6月下旬に児島湾干拓地を訪ねた時にも、タクシーの運転手さんに「千両街道を通って、倉敷川を渡って・・・」と説明したのですが、運転手さんは「倉敷川?」という反応でした。

倉敷川の上流が、あの大原美術館の前の川で」と、私の方がちょっと得意に説明したのでした。

 

ところが、説明したものの「倉敷川大原美術館の前からは暗渠になっているのだろうか」と気になり、それを確認したくなり翌朝歩いてみました。

倉敷川の「始まり」の場所には亀遊亭というレストランがあり、倉敷川の先は細い水路がその庭園へと続いているようでした。

 

その先はどこが水源なのでしょうか。

 

*「源流を持たない汐入川」*

 

Wikipedia倉敷川には、「水源 倉敷市本町」とあります。

大原美術館と亀遊亭は倉敷市中央町ですから、「倉敷市本町」はどこだろうと探すと、東側の駒形山のふもとのあたりのようです。

 

「概要」に倉敷川の歴史が書かれていました。

かつて倉敷は高梁川河口の干潟に面した港町であったが、江戸時代から周辺の新田開発により内陸の街になっていった。やがて新田開発により埋め立てられた干潟の僅かな残りの部分が入り江となり、海の潮の干潮にあわせて船が行き来する運河として機能し始めたのが倉敷川の始まりと云われている。

 

「汐入川」「舟入川」または「前神川」とも呼ばれ、昭和30年代初めまで舟による物資輸送が盛んに行われ、荷物を積み降ろす船溜りが美観地区より下流の入船橋付近にあった。しかし1959年(昭和34年)児島湾締切堤防が作られ、倉敷川は運河としての機能が失われ、一時期、市民の生活から離れた存在になった。また、川西町を通る倉敷用水を結んでいた新川が埋め立てられたことも追い討ちになり、源流を持たない汐入川であったため水質も悪化していった。

 

干拓地によって広がった場所には、源流を持たない川というものがあるのですね。

 

私が大原美術館に連れていってもらった頃は、水質が悪化し始めた時代だったようです。

 

 

*母の記憶の中の倉敷川を訪ねる*

 

もうひとつ、母の記憶を訪ねることも理由でした。

 

新型コロナウイルス感染拡大で母との面会ができなくなって1年半ほどになりますが、その最後の面会では母の記憶の場所をいろいろと話してくれました。まるで、今のうちに話しておかなければとも思えるようなタイミングでした。

 

その中に、倉敷川に母が落ちた話もありました。

母は高校時代に倉敷川のそばを自転車で通学していて、ある日、倉敷川に転落してずぶ濡れになったことがあったそうです。当時、美観地区のあたりに大きな材木屋さんがあって、そのお店の人が引き上げてくれて、制服が乾くように手伝ってくれたそうです。

終戦から数年ぐらいの頃でしょうか。

児島湾締切堤防ができる前、この辺りが運河だった頃はどんな風景だったのでしょうか。

 

私には美観地区の河畔のイメージしかないので、どうやったら倉敷川に落ちるのだろうとその時には笑って聞き流していたのですが、少しずつ倉敷川の歴史とともにその風景がつながってきました。

 

 

 

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落ち着いた街 15 早朝の倉敷美観地区を歩く

倉敷に泊まったその夜に、またホテルの窓を叩きつけるような雨が降りました。

今まで梅雨時に岡山に来たことがなかったので、こんなに降るなんて初めての経験で、しばらく窓の外の雨を眺めていました。

 

翌朝はお天気になりましたが、また湿度が高そうです。

朝7時過ぎの列車に乗る予定でしたが、その前に歩いてみたいと思う場所があり、6時過ぎにホテルを出発しました。

2018年に久しぶりに倉敷を訪れた時に、美観地区で夕食をとった時には人通りが少なく、なんだか半世紀以上前の祖父母の家の周辺を歩いているような懐かしさを感じました。

そうだ、早朝の倉敷美観地区を歩いてみようと思いついたのでした。

 

倉敷駅の南側に、阿智神社のある駒形山へ向かって昔からの長いアーケード街があります。

駒形山の手前で美観地区の道へと分かれる場所があり、北側へ進むと祖父母の家があった方向で、南側が美観地区への道でした。

半世紀ほど前は、駅から数分も歩くとじきに水田地帯が広がっていた記憶があります。田んぼにはさまれた、舗装されていない白っぽい土の道を十数分ほど歩くと祖父母の家がありました。

 

このアーケード街のあたりは、さまざまな記憶が呼び起こされて郷愁にかられる道です。

 

たまに駅方面に向かう人に会うぐらいで、早朝は静かでした。

美観地区に入ってもほとんど人とすれ違うこともなく、シンとした道を歩きました。

 

ふと良い香りを感じたのは、あの大川と同じ木の香りです。

家の「におい」の記憶は、3歳ごろに転居した当時、最新の鉄筋コンクリート製の真新しい団地の建物で、それ以外の木造の家屋の記憶はあまりありませんでした。

倉敷の祖父母の家には納屋や小さな離れがあり、なんとも良い香りがしていた記憶がこの木の香りだったのかもしれません。

道を歩いているだけで、古い美観地区の家々から香ってきました。

 

早朝の大原美術館倉敷川の前も、昼間とは違って静かです。

 

美観地区の中の小さな路地に入ってみました。

表側だけ保存しているのだろうと思っていたのですが、小さな路地を歩いても昔の造りで、人が生活をしている気配も感じられるものでした。

半世紀前に歩いているかのような錯覚に陥ったのでした。

90年ほどの時をかけた保存の歴史によって残されているのだと、圧倒されました。

そして「街並みの保存」というのは、生活も守られているとでもいうのでしょうか。

 

 

一世紀後の街並みという長い目でものごとをとらえることができたのは、どのような経験や考え方によるものなのでしょうか。

 

 

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シュールな光景 23 東京という「地方局」

2004年ごろまでテレビのない生活だったのは、高校生ごろから活字中毒で本などを読む時間が多かったからですが、細かい字を見るのがだんだん辛くなってきた時期に競泳観戦にはまり始めてとうとうテレビを購入しました。

あんがい、静かでいい番組もあるのだと散歩の番組などを見るようになりました。

 

思い返すと、子どもの頃からうるさい環境が苦手だったので、テレビの中の音や色彩や人の声がこれでもかと迫ってくる感じは好きではなかったのだと思います。

さらに年々、大勢の人が大きな口をあけて、ワイワイと喋ってにぎやかな番組も増えたことも理由かもしれません。

良いか悪いかではなく、これは好きか嫌いかの問題ですね。

 

録画できるようになってからは、自分の好みで取捨選択して観ることができるので助かります。

また私自身はBS/CSには加入していないのですが、チャンネルが増えて選択が増えたこともすごい変化ですね。

 

 

*東京という地域を別の方向からみる機会*

 

 

遠出をするとその地域の番組やニュースを観るのが楽しみになりました。

ふだんは都道府県単位でしか知ることができない天気予報もこういう分け方があるのかと知ったり、寒冷地仕様のエアコンのCMとか、生活に密着した情報を知ることができておもしろいですね。

 

印象としては、スタジオのデザインも落ち着いた色彩でアナウンサーや出演者も静かに話していますし、うわあと叫びたくなるようなCMはほとんどありません。

 

自宅ではBS放送を観ることができないので、旅先のホテルではここぞとばかりBS番組を観ています。

早朝に放送していたNHKの「日本縦断こころ旅」を、2019年ごろに初めて旅先で観ました。

生活の場を散歩しているような、落ち着いた番組ですね。

BSに加入しようかと気持ちが揺らぎましたが、これ以上の通信費は生活を圧迫するので、遠出をした時の楽しみにとっています。ただ最近は放送時間が少し遅くなり、出発しなければいけない時間と重なって涙をのんでいます。

 

もう一つはワールドニュースです。

6月下旬に観たニュースでは、とある国のワクチン接種会場で、医療スタッフが高齢の方を鼻であしらうように対応している映像が映りました。

 

ニュースとしては「ワクチン接種が進み始めた」という内容だったと思うのですが、その向こうにある社会の変化のゆっくりさに、立ち止まってしまう感覚でした。

というのも、1980年代に東南アジアで働いていた時の風景と同じだったからです。

日本でもまだ接遇という言葉も考え方もない時代でしたが、ここまで患者さんへの対応は怖くはなかったので、あの頃は世界の社会階層のある社会に驚いたのでした。

ワールドニュースの映像を時々見ることで、40年ほどの時間を考え直すきっかけにもなります。

 

 

そして「キー局」からの放送に変えてみると、一瞬、別世界に見えるような感覚に陥ります。

特に政治の話題になると、国政の話ですら「東京の地方の話題」に感じてしまう、なんだか現実味のない世界を見ているようになっていく、そんな感じです。

 

 

なぜそういう感覚になるのか、まだよくわからないのですが。

これも「Think glovally  act locally」の葛藤のひとつかもしれませんね。

 

 

 

 

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落ち着いた街 14 「災害はつらいが、むしろ竹の節のようなもの」

遠出の散歩で楽しみのひとつは、その地域のローカルニュースや番組を観ることです。

 

倉敷のホテルで テレビを観ていたら、ちょうどNHK岡山局が真備町の復興について放送していました。

当時は「50年に一度」と言われていましたが、穏やかな気候の倉敷では100年に一度といえるのではないかと思われた平成30年7月豪雨(2018年)でした。

 

番組の中でも、水害といえば「昭和47年高梁川流域で大きな被害(1972年)」と「昭和57年の台風(1982年)」があったが、「晴れの国岡山」だというような話がありました。

 

すごいと思ったのは、真備町では国土交通省による復興ツアーが行われ、改修された場所などを住民に説明する機会があったことです。被災されたその地域の住民でもどこがどのように守られているのか、「知らなかった」ことが伝えられていました。

生活再建の大変な真っ只中だからこそ、そういう機会があると日頃恩恵を受けているインフラやその維持管理について知らなかったことが実感されるのかもしれません。

 

真備町よりもう少し中流側にある矢掛町は、小田川が蛇行している場所にあります。

昔宿場町だったこの地域では小田川の氾濫に悩まされ、水番所や水見やぐらがあったことが番組では紹介されていました。

 

過去から現在へ、言葉で表現することは難しい災害の記憶が伝えられている番組でした。

 

 

*「災害はつらいが、むしろ竹の節のようなもの」*

 

番組の中で、30代から40代ぐらいの方でしょうか、「災害はつらいけれど、むしろ竹の節のようなもの」とインタビューに答えていらっしゃいました。

 

その年代で50年に一度とか100年に一度をまったく実感できなかった私と比べて、どこからこの言葉が出てくるのだろうと驚きながらすぐにメモをしたのでした。

 

今の災害とも言える新型コロナウイルスの広がりも、ヒトの生活のあらゆる面があぶりだされ問い直される、まさに竹の節のようなものだと思えてきました。

 

その地域の災害の記録その地域の経験が引き継がれているから、若い世代の方達からこうした言葉が出てくるのかもしれませんね。

 

 

 

 

それにしても、ふと思いついた計画を強行したのは、この番組を観なさいという啓示だったのかもしれません。

最近、偶然が神がかって感じるようになりました。

 

 

 

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散歩をする 330 旭川下流を歩く

午前中に児島湾干拓資料室児島湾の干拓地を歩いただけでも、岡山平野の歴史に圧倒され、充実した時間でした。

藤田神社を出て、岡山駅行きのバスに乗った時には真っ青な夏空でしたが、駅に着く手前で突然土砂降りになりました。

陽が差してはいるので、すぐにやみそうな雨です。ちょうどお腹が空いたので、お昼ご飯を食べてから、次の目的地を訪ねることにしました。

 

予想通り雨はやみまた青空になりましたが、先ほどとはうってかわって湿度が高くなり、少し歩いただけでも汗が引かない暑さになりました。今回は気分と疲れ具合で決める行き当たりばったりの散歩ですが、やはり出かけてみようとローズレッド色の車体の津山線に乗りました。

 

岡山駅の次の法界院駅で下車し、目指すのは西川用水の取水口で、以前からその近くにある岡山市水道記念館も訪ねたかったのですが、残念ながら現在改築工事中でした。

旭川沿いに後楽園のあたりまで、途中市電に乗り、訪ねてみようという計画でした。

 

 

*西川用水に沿って歩く*

 

法界院駅で降りましたが、湿度の高い蒸し暑さです。

歩き出して数十メートルで無理そうとなり、200mほど東にある天許神社から西川用水沿いに歩き、一旦、旭川を越えて西川原駅から岡山へ戻り、そのまま宿泊予定の倉敷駅まで行くことにしました。

 

天許神社の少し手前から家のそばに水路が流れていました。西川用水からの分水でしょうか。

水路を見ると、なんだか元気が出てきました。

小高い場所まで石段があり、その上に神社があるようですが、「スズメバチ注意」とあったので登るのはやめました。

 

その石段の入り口に「神宮寺山古墳」の説明がありました。

神宮寺山古墳は全長約150メートル、後円部径約70メートル、高さ約13メートルの大型の前方後円墳である。旭川が運ぶ土砂によってできた平野にあり、墳丘は大部分が盛土によって築かれている。後円部三段、前方部二段の段築で、葺石(ふきいし)が施され、埴輪が建てられていた。

中心埋葬は天許(あまはかり)神社が建つ後円部の頂部にある。竪穴式石室のものとみられる蓋石が観察されるほか、さらに別の埋葬施設があった可能性も指摘されている。随伴して副葬品を入れるための小石室があり、鍬・鎌などの鉄製農具、斧・鋸・ヤリガンナ・ノミなどの工具、刀・剣などの武器といった大量の鉄製品が出土している。

西暦四世紀後半から五世紀初めに築かれた吉備地方を代表する古墳で、旭川下流の稔り豊かな平野を統治した大首長の墓と考えられる。

 

「あまはかり」神社と読むのですね。検索しても詳しいことは見つけられませんでした。

 

この天許神社から南へとゆったりと用水路が流れていました。

対岸の家からは、用水路に向けて階段があります。

新幹線の南側の車窓から、旭川を超えたすぐのところに西川緑道公園に続く用水路が見えるのですが、北側はこんな感じでまだ生活の中に残っていることがわかりました。

 

このあと旭川にかかる大きな橋を渡りました。

車の交通量の多い道ですが、その向こうに新幹線が並走しているので何本も山陽新幹線を見ることができ、暑かったのですがなんとか歩き切ることができました。

静かで、ヒューっとかすかに音がし始めると、その姿が現れます。

 

いつも岡山駅に到着する直前に旭川を渡る時にはワクワクしているのですが、実際に歩いて街の雰囲気を知ることができました。

 

西川原駅から赤穂線に乗ってまた旭川を越え、岡山駅で快速福山行きに乗り換えて、懐かしい倉敷に到着しました。

旭川、美しい川です。

 

またまたタイトルの壮大な計画をほとんど断念した初日でしたが、明日はあのローズレッドの津山線に乗って旭川中流域の風景です。

 

 

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