散歩をする 383 亀山から鈴鹿川沿いに伊賀上野へ、木津川沿いに奈良へ

9時22分亀山行きの列車に乗りました。4両ですが通勤通学時間が終わったためかガラガラです。

四日市駅辺りは工場地帯で、「塩浜」という地名のようです。また空がこんなに青いとはという歌が頭の中に浮かびました。

 

原田駅を過ぎると、その名の通り鈴鹿川に沿った河川敷や堤防が見えます。灰色の瓦屋根の落ち着いた街並みと黄金色の稲穂と、ほんとうに美しい風景です。

関西本線に乗りたかった理由に、この鈴鹿川沿いを走ることもありました。

3年半前に南紀の風景を見るための乗った特急でこの鈴鹿川を渡ったはずですが、当時はまだ今ほどメモをしていなかったので細かい記憶が残っていません。もう一度この川を見てみたいと思っていました。

 

Wikipedia鈴鹿川の概要を読むと、その歴史の長さにかなわないなあと思いました。

川の名前は大海人皇子が東国へ向かう途中、洪水難渋しているところに駅路鈴をつけた鹿が現れ、その背に乗って川を渡ったという伝説から付けられたとされる。

 

鈴鹿川ぞいに*

 

鈴鹿川はゆったりと流れて、対岸にも灰色の瓦屋根の落ち着いた集落の風景が見えました。

 

無人駅で下車する人がいると、車掌さんが外を走って改札をされます。

そうだった、昨年長良川河口堰を訪ねるのにJR長島駅で下車した時にも、一人下車した私のために車掌さんが外で待っていて慌てて走ったことを思いだました。

なんでもIT化という夢のようなことばかりが語られるけれど、まだまだ現実の生活はこういう人の手による業務がたくさんあるし、優劣つけ難く必要なことも多いのではないかと思いながら車掌さんの働きぶりを見ていました。

 

沿線の水田が黄金色で、コンバインに乗って稲刈り風景があちこちに見えます。そのそばで、やはりたくさんの白鷺がいました。

今年も無事に稲刈りができた。各地を散歩するようになって、感無量の思いになる風景です。

 

鈴鹿川沿いはすぐに山間部に入るのかと思っていたら想像以上に広々とした平地が続き、加佐登駅のあたりで少し高台になりました。駅の目の前には電柱の工場があり、コンクリート製の電柱が積まれていました。加佐登の由来を検索してもわからなかったのですが、加佐登駅は1892年には関西鉄道として開業しているようです。どんな街の歴史があるのだろうと、積まれてる電柱を眺めました。

 

次の井田川駅のあたりで、安楽川、椋川そして鈴鹿川が合流する場所があり、その名も「川合」という地名があるようです。どの川もそして遠くの山なみも美しく、水田地帯の風景に惹き込まれていきました。少し線路が上りになり、堤防が近づいて9時52分に亀山駅に到着しました。

 

亀山駅から加茂へ*

 

亀山駅で10時14分の関西本線加茂行きにのりました。地図では三重県京都府は隣接しているのですが、こうして1本の電車で1時間20分で京都に入るのがちょっと不思議な感じです。

ちなみに駅の表示も関西本線でした。

 

ここからは一両のワンマンカーになりました。8月下旬の平日でしたが、案外乗客は多く満員だったので、また最後尾の特等席で立って行くことにしました。

黄金色の稲がまるで菜の花のように見えます。少し川幅が細くなった鈴鹿川沿いに緩やかにのぼっていくと、次の関駅の前にはひまわり畑がありました。一人下車した20代ぐらいの女性がその道を歩いていくのが、まるで絵画のようでした。

 

 

ここから川が蛇行しながら山あいに入っていきます。どこまでも美しい鈴鹿川の風景です。

小さな沢が流れ込んでいるのも見えました。

少し風景が開けると川沿いに水田と落ち着いた街並みが見えました。鈴鹿川だと思ったら本流は関駅から1kmほど西のところで分かれていて、こちらは支流の加太(かぶと)川でした。

 

ここから次の柘植駅まで地図ではトンネルのように見える場所でしたが、実際にはほとんどがそれほど高くない山あいを抜けていき、少しだけトンネル部分があっただけでした。

そのトンネルを抜けると小さな流れから溜池があるのが見え、そのさきにまた水田地帯があります。

地図で確認すると、大杣(おおそま)池、鴉(からす)山池、馬場谷池で、その先に柘植川が西へと流れ、伊賀上野駅の先で他の川と合流して木津川になり、さらに巨椋池(おぐらいけ)の先で宇治川、桂川と合流して淀川になって大阪湾へと流れ込みます。

 

あのトンネルが続くかと思ったそれほど高地でもない山あいのあたりが、一級河川鈴鹿川一級河川淀川水系分水嶺のようです。

 

柘植駅のそばには白百合が咲いていました。結構な人が下車したのは、ここから草津線で琵琶湖方面へ向かうのでしょうか。

美しい映画のセットのような街並みがあちこちにあり、柘植川は河合川と合流して佐那具駅の前を流れ、一瞬たりとも見逃したくないような風景が続きます。

 

伊賀上野駅のあたりではそれまで真っ青な夏空でしたが、突然の雷雨になりました。

このあたりからまた蛇行した川沿いに月ヶ瀬口駅のあたりを緩やかに下りながら通過し、開けた場所に出ると「大河原」でした。

沈下橋が見え、また山あいに入ると棚田も見えました。堰もあり、途中下車したくなる風景です。

いきを呑むような木津川の美しい流れに見入っていると市街地に入り、11時34分に加茂駅に到着。鈴鹿川から木津川へ、満足の車窓の散歩でした。

 

加茂駅で大和路線に乗り換え、「大和路」という路線名だけでも奈良へ向かうのだという喜びが湧いてくるのでした。

 

2年ぶりの奈良、そしていよいよツルボの場所へと向かいます。

 

 

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行間を読む 172 いつの時代の東海道か

今回、関西本線に乗ってみようと思ったのはチケットを一筆書きにするというこだわりもあったのですが、もう一つ別の理由もありました。

 

地図を眺めていると、JR亀山駅から鈴鹿山脈を越えるとそこから滋賀県にも京都府にも行けるし、さらに近鉄線を利用すれば奈良県桜井にも行けます。

いつもの名古屋から岐阜、滋賀県を通って京都・奈良方面というルート以外にこんなにも道があるのだと不思議な気持ちになる区間でした。

 

ところが、地図をたどると名古屋から亀山駅までは「関西本線」と表示されているのに、亀山駅から柘植駅伊賀上野駅、木津までは「関西線」になっていて、ここで混乱していました。

関西本線とはいったいどの区間を指すのだろうと。

Wikipedia関西本線を読むと、「愛知県名古屋市中村区の名古屋駅から亀山駅奈良駅を経て大阪府大阪市浪速区JR難波駅に至る」と書かれてはいるのですが、そのすぐ下に「関西線(名古屋地区)(名古屋ー亀山駅間)」「大和路線(加茂駅ーJR難波駅間)」とも書かれていて、関西本線と関西線が地図とは異なっていてまたまた混乱します。

 

また関西線柘植駅からは滋賀方面へと草津線がありますが、2年前に草津線水口駅に降りた時にかつて東海道水口宿があったことを知りました。「東海道も桑名あたりまでは思い浮かべられるが、そこから京都までの道を知らなさすぎた」ので、土地勘がないだけでなく私の中の「東海道」の認識がまたこの辺りの路線図を覚えるのに混乱する理由かもしれません。

 

私が思い浮かべる「東海道」は現在の東海道本線東海道新幹線のルートで、江戸時代の東海道五十三次とはどうもずれてしまうようです。

 

「道(みち)としての東海道」を読むと、律令時代に設けられた時点では、「畿内から常陸国国府へ至り、常陸国からは、陸奥国東山道)への連絡道が設けられ、より北へ向かうことができた」とあるので、江戸時代の東海道五十三次とも違うものだったのですね。

東海道は、当初は東山道に比べると必ずしも通行は容易ではなかった。これは、多数の大河川の下流揖斐川長良川木曽川天竜川・大井川・安倍川・富士川相模川多摩川利根川・太日川など)および東京湾香取海を渡って上総国へ向かった(武蔵国東海道に属さなかったため同国を経由しなかった)。

10世紀以降に、渡河の仕組みが整備され、東海道が活発になったと考えられている。

 

香取海だった時代、そして江戸幕府による利根川東遷事業よりも前の時代は上記の川もほとんどがおそらく河道も定まらない暴れ川で、道ひとつ定めることがどんなに大変だったことでしょうか。

現代の「東海道」は新幹線で2時間で京都に到着することは、ほんとすごいですねえ。

 

ということで、三重県のあたりで私の中の路線図がもやもやになるのは、その行間にあまりにも長い道の歴史がありすぎて混乱しているのではないかと思っています。

 

 

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散歩をする 382 関西本線で四日市へ

奈良へ向かうのに、今回は名古屋から関西線で木津に向かい、京都から北陸を通過する一筆書きの乗車券にしてみました。

 

8月下旬、早朝すでに22度で猛暑日になりそうな暑さです。品川を6時に出発するのぞみでしたが、自由席に長い列ができていました。行動制限がなくなり、新幹線のホームも以前の雰囲気に近くなりました。

今日は晴れそうです。品川を出てからわずか5分で青く水面が輝く多摩川を通過しました。こんなに速いのに通勤途中で見かける新幹線は15秒以内の正確な運行なのだと、しんみりと感激しますね。

新横浜でまた多勢の方が乗車して満席に近くなりました。新型コロナが広がってからの新幹線での遠出では、一番の混雑でした。

 

沿線の水田は緑とうっすら黄緑色になった稲穂が一面に広がっています。本当に美しい風景ですね。

この次に新幹線の車窓から見るのは稲刈り後のひこばえの風景かと思っていたら、豊川を超えたあたりですでに稲刈りが終わった水田もあり、明治用水漏水後も田植えが行われていた矢作川右岸では無事に稲刈りが終わっていました。

定刻通り三河安城を通過し、7時27分名古屋駅につきました。

 

関西本線四日市へ*

 

名古屋では7時36分の関西本線亀山行きに乗って、加茂駅でJR大和路快速に乗りついで10時49分木津そして11時4分には奈良駅に到着する予定でした。

ところが亀山行きがなくて43分の四日市行きしかありません。それだと四日市駅で50分ほど亀山行きを待ち、奈良には12時4分到着になり、1時間も計画が遅れることになります。

事前に何度もパソコンで時刻検索をしたはずなのですが、理由はわかりません。

 

いつもなら分刻みの散歩のスケジュールですが、今日はツルボを眺めるだけなので計画を大きく変更することにしました。

 

そうだ、せっかくなので四日市駅周辺を歩いてみよう。3年半前に南紀を訪ねる途中でみた四日市の青い空が印象に残っていました。

半世紀以上前の小学生にとって四日市は大気汚染がひどいイメージで、「知らなかったよ、空がこんなに青いとは」の歌をいつも思い出す、同年代の子どもたちが喘息で大変だった記憶がある場所でした。

 

庄内川、新川、福田川と越えていくにつれて、昨年10月に長良川河口堰を訪ねた時に歩いた弥富のあたりまでの水田地帯の懐かしい風景になりました。

木曽川長良川そして揖斐川を越えると列車はぐいっと南へと向きを変え、桑名駅を超えたところで水量の多い川を渡りました。「員弁川(いなべがわ)」で、読み仮名が書かれていなかったら読めそうにありませんね。その上流にある「いなべ市」がひらがな表記なのも難読だからでしょうか。

 

このあたりから工場地帯と古い街並みが混在する風景になりました。

水田も残っていて、稲穂が重みで倒れ始めていました。鶏頭やダリアが咲き、ススキの穂が出て、柿が色づき始めていて8月下旬はやはり秋ですね。

車窓からはツルボは見つけられませんでしたが、奈良ではツルボが咲いているに違いないと確信するほど初秋の風景でした。

 

富田駅には太平洋セメントの工場が隣接していて、「炭酸カルシウム専用」と書かれた貨物が停車していました。

生活には欠かせないものなのにセメントについてもその歴史も知らないことばかりです。

 

四日市駅のすぐ手前に稲刈りが終わった小さな水田を見つけ、8時31分に到着しました。

 

*JR四日市駅周辺を歩く*

 

駅の東側は工場やその引き込み線があり、西側に出口がありました。

街路樹の涼しそうなまっすぐな大通りがあり、その真ん中が公園のようになっています。

市内の観光案内板を見ましたが、次の電車に乗るまでの50分で行けそうな場所ではないので、駅の周辺をふらりと歩いて見ました。

 

広いロータリーなので、信号を待って渡るだけでも数分ぐらいはかかりそうです。

 

スマホのマップでパン屋さんが掲載されていました。家を出たのが朝早く、すでにお腹が空いています。

その方向を目指しましたがお店らしき場所がなくて引き返そうとした時に、古い民家から人が出てきました。

もしかしてと訪ねたら、木造の懐かしい家屋がパン屋さんでした。

ハムマヨネーズ、りんごとカスタードに胡桃が入ったもの、おしゃれで美味しそうです。ついついシナモンロールも購入してしまいました。どれも200円でした。

これから昼食のために買いに来る人が多そうです。

70代ぐらいの方でしょうか、柔らかな物腰の女性でした。何時からパンを焼き始めているのでしょう。

 

予定していた列車がなくて急遽立ち寄った四日市でしたが、このお店やその周辺の雰囲気を感じることができただけで満足しました。

 

ちなみにJR四日市駅の西1kmほどのところに近鉄四日市駅があり、そこが旧東海道の賑わいが残る地域のようです。

1890年に現JR四日市駅関西鉄道の開業に伴って開業し、大正時代の1913~1922年に近鉄の駅ができたようです。

 

お天気にも恵まれ青空が広がる美しい四日市の空と目の前の工場地帯を眺めながら、ホームのベンチでパンをいただきました。

半世紀前にこういうパン屋さんが街なかに増えた時代を思い出す、懐かしい味でした。

 

 

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散歩をする 381 ツルボを探しに一筆書きで西へ

今年は11月に入っても20度を超える日があってまだどこかでツルボが咲いているのではないかと期待してしまいそうですが、秋がどんどんと深まってきました。

8月下旬にツルボが咲いている場所を訪ねて西へと向かったのですが、3か月遅れでようやくその記録を書き始めます。

 

昨年8月に緊急事態宣言解除が延期になって涙をのんで諦めた計画を実行しました。開花期間が8月から10月と幅広く、その地域でいつ咲くのかも情報がないのですが、8月下旬ならなんとか見ることができるだろうと思って出かけましたが、まさかの1本も見ることができないという惨敗の結果でした。

 

その場所は奈良県にあります。

 

一昨年7月に、琵琶湖から流れる水が大阪湾に流れ込む淀川放水路を訪ね、奈良へ出て大和川、猿沢池や荒池を歩き、木曽三川の中流域を訪ねました。

その時に奈良盆地に溜池が多いのはいにしえより水に乏しい土地柄であることを知り、いつかこの溜池を回ってみようと思っていました。

 

ツルボを見て、溜池を回ってそこからの水路と水田地帯に稲穂が輝く風景を見てみようという計画です。

 

京都経由で奈良に行くのではなく、せっかくだから四日市から関西本線で奈良へと行ってみよう。せっかくならそのまま欲張って琵琶湖西岸から北陸本線で金沢へ出て北陸新幹線で戻るという一筆書き乗車券にしてみようと思いつきました。

 

久しぶりの琵琶湖や北陸の風景を見たいということもありましたが、今年は8月3日から4日にかけて東北から北陸にかけて「経験したことがない大雨」で各地に大きな被害が出て、2年前に北陸本線に乗ったときに印象に残った今庄のあたりでの洪水のために北陸本線が運休になりました。8月11日に北陸本線は復旧しましたが、周囲の住宅は土砂が流れ込んだため厳しい状況がニュースで伝えられていました。

 

いにしへから水が足りずに困窮し、水が多ければ災害になり、植物の開花の予想ひとつとっても人は無力なものだと思う一泊二日の散歩でした。

しばらく「ツルボを探しに西へ」向かった記録が続きます。

 

 

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小金がまわる 28 搾り取られているような気がする

今まではどんな状況にある人も見捨てないというこの国への信頼感がありました。

「国」とは象徴的な「愛国心」とか政府のイデオロギーのことではなく、行政のことだけでもなく、問題に対して失敗を活かしてより良い社会へと変わろうという社会の雰囲気という感じでしょうか。

あるいは短期的な経済的繁栄だけでなく、長期的により多くの人に普遍的な幸福がもたらされるような方向性という感じです。

 

ところが、最近、なんだかその信頼感が怪しくなってきました。

いつの間にか搾り取られているような気がするからです。

私にとって搾取という言葉は軍事政権とか独裁政権あるいは経済力が違う世界をまず思い出すのでふだんの会話では強過ぎる表現だったのですが、最近はひしひしとわが身に迫ってくる感じがあります。

 

 

*日常の「搾り取られてる感」*

 

消費税が導入されてからはかつての所得税の2倍に相当するような税金を払っていて、国の税収が過去最高というニュースまであるのに、年金は先送りされ健康保険料増額と希望が失われるような話題ばかりなのはなぜなのでしょう。

 

未曾有の感染症で仕事を失ったり給与が減る人が全体のどれくらいいるかわからないのですが、絶対必需品のマスクの購入とその消費税も大きな出費になっています。

さらに物価高に加えて、加工食品類がひと回りもふた回りも小さくなったので出費の痛手は今までの中で一番大きく感じます。

食品や日用必需品を一時的でもいいので非課税にしたり、外食などを軽減税率の対象にするだけでも実質的な補助になって、もう少し社会全体に希望を与えるのではないかと思いますね。

 

直接の税金や社会保険だけでなく、日常的に搾り取られることも増えました。レジ袋の流れは当初の目的とは違うのではないでしょうか。

最初はたしか環境に優しいものであれば消費者には負担がない制度だったはずなのに、いつの間にか素材が改良されたレジ袋だけでなく紙製の袋まで3円とか10円とかかかるようになりました。

しかも価格と品質がバラバラです。

 

銀行の手数料がどんどんと増えて、利子は年間でも十何円なのに手数料だけ搾り取られているのは、銀行に預金することのペナルティのようですね。

その預金を投資へと向けさせて、年金まで政府から投資を勧められる世の中になりました。失敗しても個人の責任ですけれど。

 

 

*搾り取ったものを使うのは誰なのだろう*

 

情報がお金になる時代になって、存在を証明するのにポイントがつくなんて驚きの話になったと思ったら、議論を飛ばして義務化という強権的な方向になりました。

やはり「うまい話」はないですね。

 

スマートフォーンができてたかだか十数年、すごく便利で進化していき日常生活では必需品になりましたが、さまざまなトラブルに対してのリスク分散がまだまだ必要なのに、その大元の通信会社などが潰れた時にはどうなるのだろうとか不安があるのに、一気にスマホでなんでも手続きという方向に進むのはリスクがあり過ぎるように思えるのですけれど。

さらに、日常不可欠の通信機器を持つための高額の費用と通信料金は個人持ちですからね。せめて軽減税率の対象になってもおかしくないと思いますが。

そして電話と最低限のメールだけしか使わない人でも、スマホを持たざるを得ない社会になりました。

 

社会全体に給与が抑えられていて、物価やら日常生活を維持する費用や社会保険料がどんどんと増えていくのに、なんだか元気なのが「ポイント会社」のような気がしますね。

給与が右肩上がりだった時代、正規雇用が当然で社会保険への信頼があった時代、そして銀行の利子がそれなりにあって将来の生活設計もたてられた時代には、ポイントなんてしょぼい話だったのですけれど。

 

あちこちからうまい話で搾り取られているような、そしてあくまでも妄想ですが、国の手法があのような団体と似ているような気がしてきました。

 

「搾取」とは、「階級社会で、生産手段の所有者が生産手段を持たない直接生産者を必要とする労働時間以上に働かせ、そこから発生する剰余労働の生産物を無償で取得すること」

この場合、「生産手段」というよりも政治経済的手段でしょうか。

 

日々、搾り取られ日常生活を牛耳られという感じですね、いやはや。

 

 

 

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行間を読む 171 「われわれは〇〇がなくても生きていけるが、△がなければ生きていけない」

もし玉川上水が失敗していたら今頃武蔵野台地はどうなっていただろうと思いながら武蔵野台地について書いた記事を読み返しましたが、その中の引用に「われわれは石油がなくても生きていけるが、水がなければ生きていけない」という一文がありました。

 

「東京湧水 せせらぎ散歩」からの引用です。

2017年頃にこの本を書店で見つけて、目の前が開けるように都内の水の流れを追い始めました。水源から河口まで歩いてみようと思ったきっかけにもなっています。

 

もし20代の頃にこの箇所を読んだら、きっと「そうだ石油がなくても生きることができのに」とかなり過激な方向へと向かったかもしれません。

実際に、東南アジアやアフリカで少しサバイバル的な生活を経験したことで、豊かさとか貧困とかへの罪悪感からいろいろなことを試したぐらいですからね。

東南アジアへ行くにも石油がなければ行けなかったことには、目をつぶっていました。

 

この本を手にして読んだのは50代半ばで、湧水のある場所の地形や水質調査、そして繰り返し正確に湧水量を観察し測定したデーターに基づいていることが印象に残りました。

「われわれは石油がなくても生きていけるが」の箇所は、「水がなければ生きていけない」の強調のためだとさらっと読み流すことができました。

「程度の問題」というあたりでしょうか。

 

 

1937年(昭和10)年生まれの著者の年代であれば、今からは考えられないような物が少ない時代の経験があることでしょう。その後の驚異的な変化がどれだけ化石燃料に依存する時代に入ったかを身をもって体験された世代とも言えます。

さらに、自分の証明でさえ、通信技術が常時必要になるかもしれない時代ですから、もはや「石油がなくても、電気がなくても生きていける」とは言えない時代になってきました。

 

この一文をどう捉えるか、額面通り受け取ってしまわないことも大事だなと思いながら、そうだこれが数学的な思考とも言えるのかとおぼろげながら見えてきました。

まあ、相変わらず頭がごちゃごちゃしているので、「真」が見えてこないのですけれど。

 

 

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記憶についてのあれこれ 174 玉川上水沿いの幻の家

5月に玉川上水と羽村市郷土博物館を訪ねた散歩のメモを見つけ、またしばしここ三十数年来の玉川上水についての回想にふけっていました。

 

とりわけ、この場所の記憶が鮮明にあります。

交通量の多い喧騒の中の橋交差点から西側へと入り、中央高速の下をしばらく歩くと、鬱蒼とした木々の中を流れる玉川上水があります。

土手も脇の道も土のままなので、雨の後はぬかるんで大変そうでしたが、一歩踏み込んだらまるでタイムマシンで江戸時代に行ってしまったかのような風景がしばらく続いていました。

 

1990年代、そこにとてもおしゃれな家がありました。平家建てで、周囲がこの森のような場所に囲まれていました。

当時、私の知人の知り合いがそのあたりに住んでいました。

そばに中央高速が通っているのが信じられないほど、風で木々がサワサワという音と玉川上水の水音だけの世界になるのです。

 

「知人の知り合い」の方なので私は全く関係がなかったのですが、ある日そのおしゃれな家に一緒にお邪魔させていただいたことがあります。家の持ち主は不在でしたが、息子さんか娘さんが知人と同世代だったようです。

「松居さんの家」と聞いたような気がしていました。

 

和風の家でいながらモダンな作りが印象に残っています。

何よりもあの玉川上水のそばの森の中の一軒家のように感じる雰囲気がとても素敵でした。

 

11月4日、福音館書店の松居直(ただし)氏の訃報がニュースにありました。

突然、私のその記憶と家主が誰だったかがつながりました。この方のご自宅だったのでした。当時から「直(なお)」さんという女性だと勘違いしたままになっていました。

 

あの素敵な家は無くなってしまったのだろうかと思ったら、どこかに移築されているようです。

 

 

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散歩をする 380 玉川上水から羽村市郷土博物館へ

6月の散歩の記録どころか、まだ記録が終わっていない5月の散歩のメモも出てきました。

 

津軽平野の農地の歴史に圧倒されたその帰路で、明治用水頭首工漏水のニュースを知りました。

祈るしかないのですが、なんだか気持ちが落ち着かない中、そうだ今の水への関心や散歩の原点だった玉川上水を訪ねようと思いついて出かけた日の記録です。

 

最初に玉川上水を知ったのは1980年代後半、清流復活事業で整備されて間もない頃で、まるで「森の中を流れるような小川」が都内にあることに驚いたのでした。江戸へ水を運び途中の武蔵野の大地を潤すという江戸時代に造られた水路が保存されていることを知り、少しずつそばを歩くようになりました。

2017年ごろには、現在の暗渠部分を含めてほぼ全域を歩いたのですが、いつも「次の機会に」と見送ってきたのが羽村市郷土博物館でした。

 

そうだ、博物館を訪ねてそのあと羽村堰を眺めよう。

五月晴れの日に出かけました。

 

*お寺坂*

 

JR羽村駅から多摩川に向かって歩くと、都道29号を渡った先からは川へ向かって急な下り坂になります。

その途中に「馬の水飲み場跡」があって、いつも素通りしていましたが今回は説明板も読んでみました。以前からここには説明板があった記憶があるのですが、3年ほど前に新しいものになったようです。

馬の水飲み場とお寺坂

 ここは、豊な湧き水を利用した馬の水飲み場があります。坂の下に住む農家の人たちは、畑がハケ(段丘崖・だんきゅうがい)の上にあったので、この坂を登るのに大変苦労し、肥料や農作物の運搬は、荷車を引く馬に頼っていました。このため急な坂を登った途中に水飲み場を作り、馬をいたわりました。

 この坂は近くに禅林寺があるので、「お寺坂」と呼ばれ、明治時代の中頃までは荷車がやっと通れるほどの道幅でした。

 平成31年3月   羽村市教育委員会

 

たしかに初めて羽村堰を訪ねた時、この急な坂に膝がガクガクした覚えがあります。

武蔵野台地のハケの上と下にはなかなか大変な地形に阻まれていた時代もそう遠い時代ではなかったことを思い出しました。

 

いつもはその急な坂道を道なりに西へと歩いて羽村堰へと行くのですが、今回は禅林寺の前で東へと曲がってみました。

ところどころ羽村市教育委員会の説明板がありました。

羽村銀行跡

 羽村銀行は明治32年(1899)羽東3丁目374番地に創立されたもので、当初は、専務取締役島田六助宅の土蔵を改造した事務所でした。養蚕の発達にともない、製糸家など大口の資金の必要性と共に生まれたもので、一般農家への融資はわずかでした。昭和2年(1927)武陽(ぶよう)銀行羽村支店となり建物も禅林寺門前に新築移転、昭和17年(1942)には日本昼夜銀行羽村支店、翌18年安田銀行羽村支店に変わり、昭和26年(1951)埼玉銀行福生支店と合併し、その後、建物は地域金融の役割を終え、取り壊されました。

 

小さな説明板からたくさんのことを知るこができる街です。

 

 

多摩川を渡り郷土博物館へ*

 

蔵が残る住宅地をゆるやかに下ると、玉川上水が見えてきました。昭和44年に造られた玉川上水にかかるコンクリート製の頑丈な橋を渡り、今回初めて、多摩川にかかる歩行者と自転車専用の橋を渡りました。

羽村堰から200~300m下流にかかる橋の下は、川幅10mぐらいの細々とした多摩川の流れでした。

相当量の多摩川の水が人喰い川と呼ばれた玉川上水へ取水され、東村山浄水場を通して都内の水道に使われているようです。

 

橋の欄干に、「遡上してくるアユや放流アユを守るため、カワウを追い払うことにより、健全な河川生態系の再生を目指します」という「関東広域カワウ一斉追い払い」というポスターがかかっていました。

かつては絶滅の危機にあったカワウですが、難しいですね。

 

多摩川右岸の堤防の上から青空に映える川面を眺めながら歩きました。どこからかウグイスの鳴き声も聞こえます。日差しは初夏ですが、川風のおかげで涼しく感じました。

 

住宅地を抜けると、郷土博物館がありました。

玉川上水の詳細な資料が展示されていて、これが一冊の本になっていたら絶対に買って帰ろうと思ったのですがなさそうです。

 

玉川上水が1654年に完成し、翌1655年には野火止用水ができて、18世紀に入ると武蔵野新田開発が行われたようですが、もし玉川上水が失敗に終わっていたら江戸や武蔵野台地はどうなっていたでしょう。

現代の東京もなかったかもしれませんね。

 

羽村堰を眺めながら、お昼ご飯のおにぎりを食べました。

こうして好きな時にお米を食べられ、見たい場所をすぐに訪ねられる。

私が生きているのは夢か幻か、なんだかよくわからない気持ちになりました。

 

 

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散歩をする 379 埼玉用水と葛西用水路取水口跡へ

東谷分水工から目的の葛西親水公園までは、葛西用水路に沿ってあと2.5kmぐらいでしょうか。

柵があっても水路の上端近くまで滔々とながれている水路は、足がすくみそうな迫力があります。

ずーっと遊歩道が整備されていて、疲れれば用水路の水面を眺めるようにベンチもありました。

 

葛西用水路

 

 この用水路は、徳川幕府が力を注いだ新田開発に必要な用水を利根川から取水するため万治三年(一六六〇年)関東郡代伊奈備前守忠克によって開かれたもので、羽生市から東京都葛飾区に及ぶ水田約一万ヘクタールのかんがいが行われていた。用水路の特色は、中下流において自然の河川を堰止めて造られた「溜井(ためい)」と組み合わせて、水の有効利用を図るように工夫されていることである。

 その後、幾度かの改修を重ね、昭和四十三年には取水口が利根大堰に統合され、埼玉用水路を通しての取水がなされている。現在は、埼玉県の東部地域の水田約七千ヘクタールのかんがいに使用されており、取水量は最大毎秒二十五トンで、利根川の代表的な用水路である。

  昭和五十五年三月      埼玉県

 

小学校や周囲の住宅地、子育て地蔵や神社、そしてあちこちに分水のための小さな水門があります。利根川に近づくにつれてしだいに水田や畑も増えてきました。

こういう道は歩いても疲れないものですね。

 

少し北東へと用水路が曲がったあたりから、大きな水音が聞こえ始めました。

西の方から埼玉用水が合流している場所でした。

葛西用水路は道を隔てた利根川の堤防のそばの葛西親水公園に続いていて、そこに煉瓦造りの旧取水口がありました。

 

元圦り(もといり)の設置と葛西用水の起源

 

 江戸時代初期、利根川の流れを変える工事により、埼玉東部は水害が減りましたが、その代わり、水源の川の水量も減り、農業用水が足りなくなりました。

そこで万治(まんじ)三(一六六〇)年、当地に元圦りが設置され、利根川の水を取り入れた幸手(さって)用水が開かれました。これが葛西用水の起源となりました。

*後に幸手用水とつながる瓦曽根溜井(かわらそねためい)の成立(慶長十九(一六一四))を起源とする説もあります。

 

葛西用水の開通/名前の由来

 

 葛西用水は、葛西(今の東京都葛飾区・江戸川区)にいたる下の領(後の村にあたる)に、農業用水や生活用水を供給するために造られたものです。それで「葛西」の名がついたわけです。

幸手領用水終点の琵琶溜井から葛西にいたる古利根川に流す水量が増やされ、葛西用水が開通したのは享保四(一七一九)年のこと。十か領十三万石余りの水田をかんがいする、関東一の大用水の誕生でした。

 

「元圦り」という用語も初めて知りました。

あちこちにある説明板を読むたびに、また知らないことが増えていきますね。

 

2018年に利根大堰を訪ねた時に埼玉用水を知りましたが、どの地域に水を送っているのかまでは頭に入りませんでした。

実際に葛西用水へと流れ込む場所を見て初めて理解できました。ただその埼玉用水はまだまだその先の利根川堤防沿いに弧を描くように続いて、右岸地域の水田を潤しているようです。

 

利根川の堤防に上ると、ゆったりと流れる利根川と広々とした平野が広がっています。

 

江戸時代からの利根川からの取水の歴史に圧倒されながらコミュニティバス羽生駅へと戻る途中に、麦秋で黄色い畑と田植え直後の水田が見え、真っ赤な立葵が咲いていました。

 

電車に乗り換えて途中電車内に吹き込むほどの雷雨が突然始まり、そしてあっという間にまた晴れ間になりました。

関東平野は広いですね。

 

 

 

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水のあれこれ 269 葛西用水路と東谷(ひがしや)分水工

中川と垂直に交わる土手の上に登るとそこにはまっすぐ流れる葛西用水路がありました。

 

水面は穏やかですが、足がすくみそうな水量が流れていました。柵があるのですが、それがなければ引き込まれるように水の中へと落ちてしまいそうな流れです。

途中に水深標があり、水面まで1.8mほどでしょうか。水路の上端は遊歩道と同じ高さで約2m20~30cmほどのようですから、ほぼ満水のような流れです。

 

そばにはベンチで水路を眺められるように遊歩道が整備されていて、なんとも心落ち着く場所です。

ただ、大雨の時にはこの水が両側の低い住宅地に越水しないのだろうかと思いながら歩いていると、途中でポンプ場と水門がありました。

対岸に説明板があるようなので迂回してみました。

 

葛西用水路(東谷分水工)

 

葛西用水路は、埼玉北・中部から南東部にわたる約8,000haの農地に農業用水を供給する用水路で、その起源は江戸時代にまでさかのぼります。

当時、葛西領(現在の東京都葛飾区付近)の農業用水を補うために、水源を利根川へ求めて水路を北へ掘り進んだことから、葛西用水路と名付けられました。利根川へ掘り進む際には上流の羽生郡(主に現在の羽生市付近)を通過するため、従来より上流の羽生領と下流部の葛西領等との公平な水配分が課題となっていました。

このため、平成4-13年度に行われた利根中央用水事業では、この東谷分水工で水路を二つに分け、向かって左側を分水路(上流部で水を分ける水路)、右側を本線水路(下流部へ確実に水を送る水路)とすることで、上下流に公平に水を配分することが可能となりました。

この分水工の構造的な特徴は、市街地であることから防音構造となっていることや、左側の分水路を昔からの景観に配慮して地下水路(暗渠)としたことです。

独立行政法人水資源機構 利根導水総合事務所

 

(強調は引用者による)

 

江戸時代からの公平に水を分配するための工夫が、平成に入っても続いていたということですね。

しかも当時は家もないような場所が現在では細い路地を隔てて住宅街になっていますから、時代の変化に合わせての対応も求められますね。

 

雨風にさらされた説明板の前で圧倒されました。

 

ハッとしたのが、「水源を求めて水路を北へ掘り進んだ」という箇所でした。

下流から水源へという方向で掘り進むこともあるのですね。これまでさんざん用水路を見てきたのに、川の方から水が流れる方向へ掘り進むものだと思い込んでいました。

そしてあの見沼代用水も関東平野に水が滞ることがない長大な水路を掘るために、55mにつき約9cmの傾斜で掘り進んだという江戸時代の測量技術を思い出しました。

 

 

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