散歩をする 378 中川源流から葛西用水路へ

7月下旬の九州三泊四日の記録がようやく3ヶ月半遅れで終わりましたが、6月中旬に訪ねたこの記録がまだだったことに気づきました。

散歩の日程のメモと、散歩の途中で綴ったiPhoneのメモをプリントアウトしてホッチキスで止めているのですが、紛れていたのか、九州の散歩の記録を早く書きたくて焦ったのか、なぜブログへの記録が終わっていなかったのか記憶にありません。

 

さて、地図を眺めていて葛西用水路が目に入るようになったのは、2016年ごろから都内の公園や川を散歩するようになり水元公園に行ってみようと思った頃だったと思います。大きな公園の西側に中川が蛇行していて、そのさらに西にまっすぐな水路が流れていて「葛西用水」だと知りました。

葛西といえば葛西臨海公園のある江戸川区を思い浮かべるのですが、地図でたどってみると足立区のあたりで忽然となくなっていました。

どこからくる水なのだろうと地図を眺めましたが、あちこちで川を何本も越える複雑さのためいつも途中で見失ってしまうのでした。

 

そうこうしているうちに次第に関東平野の川へと関心が広がり、1990年代初頭に知った利根大堰を訪ねてみました。見沼代用水・武蔵水路そして埼玉用水路の3つの大きな水路に分水され、埼玉用水は東へと直角に曲がって数キロほど流れると東武東上線を超えたすぐのところで利根川右岸に近づき、そこから「葛西用水路」となっていました。

ああここが取水口だったのだとまた用水路をたどってみたのですが、あまりに複雑でいまだに埼玉県の途中で見失ってしまいます。

 

羽生駅から歩いて行けそうな場所です。いつか行ってみようと計画ノートにありました。

 

 

*羽生へ*

 

6月中旬、その日の記録を見ると午後1時ごろに家を出ていますから、おそらく日が長くなったこの時期だったので突然行ってみようと思いたったようです。

湘南新宿ライン宇都宮行きのグリーン車に乗り、また車窓の散歩です。車窓からは濃い青紫の紫陽花や白の夏の草花が見えますが、名前がわかりません。これからは草花の名前も記録に残したいものです。

 

荒川をこえ、東大宮駅の手前に見沼代用水西縁と芝川が見えました。つぎに見沼代用水東縁と綾瀬川を過ぎると、蓮田駅の手前で半年前に見沼代用水東縁を背に水田を眺めながらおにぎりを食べたベンチが見えました。

この車窓の風景から伊奈忠治と見沼溜井の歴史を思い浮かべられるようにになりましたが、もっともっと歩きたい場所が出てきますね。

 

水田地帯が少なくなり畑の多い小高い場所に入ると白岡駅でした。東北新幹線の高架橋が近づいて久喜駅に到着し、ここで東武東上線館林行きに乗りかえました。途中、「かす駅」かと思ったら「かぞ駅」でした。加須(かぞ)市だったとは。遠出をすると正しい地名を覚える機会になります。

 

「羽生」は「はにゅう」「はぶ」の読み方があるようですが、地形を表す「羽」からきたのかと思ったら、Wikipediaの羽生市の由来によると「埴輪」からのようです。

 

*中川「源流」を訪ねる*

 

初めて訪ねる羽生駅周辺ですが、行く前に地図を眺めていたら葛西用水路と中川が交差していて、中川が突然始まっている場所がありました。

ほんのひと月前にも歩いた中川ですが、そういえば源流はどこか知りませんでした。

 

Wikipedia中川の地理にこう書かれていました。

埼玉県羽生市街地の住宅地の中に、水源を発する。

本当に「源流」のようですから、ここをみてみたいと思いました。

 

羽生駅から数百メートルの市街地ですが、案外と道が複雑でGPSにたよりながら歩きました。昔の水路の暗渠を道路にしたのでしょうか、交差点に微妙に高低差があったり、緩やかに道が曲がっています。

南東からの県道129号線が急に北へと曲がる手前の交差点から突然と暗渠が始まっています。この下に「中川の源流」があることが不思議ですが、しばらく歩くと羽生南小学校の横から開渠になって本当に川が流れていました。幅3mほどでしょうか、コンクリート三面ばりの中川上流が300mほど続いていました。

 

その先に小高い土手が交差するようにあり、中川の水は一旦、土手のどこかへ消えていきました。

宮田落(農業用排水路)が葛西用水を伏せ越しで潜った吐口(羽生市東7丁目7-6地先)に起点を示す石標がある。

Wikipedia「中川」「地理」)

 

水のそばを散歩していると伏せ越に驚かされます。見沼代用水は江戸時代に造られた掛け樋から伏越にしたようですが、いつ頃から誰がどのようにこの技術を生み出したのでしょう。

しばらくその中川がマジックのように消える場所を覗き込みました。

 

土手のような場所に登ると、いよいよ葛西用水です。

 

 

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利根大堰と見沼代用水・武蔵水路葛西用水路の記事のまとめはこちら

 

 

 

 

 

 

 

 

 

散歩をする 377 西小倉から小倉へ

1時間ほどの散歩でしたが、久留米の歴史を感じることが出来ました。

 

4ヶ月前の散歩もいよいよ最後の記録です。

11時10分のJR鹿児島本線快速小倉行きに乗りました。残念ながらロングシートでしたが、乗客が少なかったので車窓が額縁のようになって風景が見えました。

滔々と流れる筑後川を渡りました。右岸は久留米市内とは違って水田地帯が広がっていました。

筑後川を読むと、この鉄橋から下流へ2.5kmぐらいのところにある筑後大堰が筑後川中流下流の境界のようです。

昨年筑後川下流のデ・レイケ導流堤の見える場所を歩きましたが、この両岸のクリークももっと歩きたいし上流・中流も訪ねてみたいですね。

 

博多の市街地を抜けずっと住宅街の風景になり、眠くなりました。周囲のみなさんも眠そうです。

東郷駅の手前から宗像市にかけて水田地帯が増えて、赤間駅のあたりでは早稲でしょうか、稲穂が出ている風景に目が覚めました。山あいのような場所に忽然と棚田があります。

このあたりから寝過ごさないようにと思っていたのは、遠賀(おんが)川の下流を通過するからでした。昨年はこの数キロ上流を新幹線で通過し、遠賀川周辺の美しい水田地帯に惹きつけられたのでした。「水巻」という地名にも惹かれて散歩の計画も作ったのですが、今回は車窓の散歩です。

 

切り通しを通過し、折尾駅ではたくさん乗車してきました。運河のような洞海湾に沿って工業地帯になり、それまでの水田地帯とは全く違う風景です。この洞海湾も歩いてみたいものです。

黒崎駅のあたりでは湾の対岸の小高い場所まで住宅が建っているのが見えました。

しだいに工業地帯の小倉に近づいてきた雰囲気をそこかしこに感じます。

 

今回は、西小倉駅で下車しました。

 

西小倉駅から小倉城へ*

 

4月下旬に山口の開作を訪ねたあと小倉に立ち寄り紫川と神獄(かんたけ)川の合流部をみて満足したのですが、そこに建つ小倉城の美しさとその堀の水はどこからくるのだろうとまたいつか歩いてみたいと思っていました。

 

現在残っている堀を訪ねるのであれば、西小倉駅の方が近そうです。案外と早く、この夢が実現したのでした。

 

西小倉駅から南西へ150mほど歩くと堀がありました。

小倉城大門跡」の説明板があり、幕末期の「小倉藩士屋敷絵図」に私が知りたかったことが描かれていました。

その地図によると現在の堀の外側にもう一つ東西に堀があり、現在の地図と合わせると国道199号線と重なるようです。

神獄川との合流部は堀や水路が流れ込んでいて、紫川の河口は今よりも広く複雑な形をしています。

1年前には海城という言葉を知らなかったのですが、今回の散歩では大分の府内城、熊本の八代城そして小倉城と、期せずして3つの海城を訪ねました。

 

美しい小倉城の石垣と堀を眺め、紫川と神獄川の合流するあたりのゆったりした水辺を歩き、今回もまた水の歴史を知る充実した旅であったことの感謝をこめ、そして旦過市場の復興も祈るために瑜伽神社を訪ねました。

 

懐かしい小倉駅に到着した時には夏の快晴の空になり、線状降水帯とともに移動した4日間の散歩が終わりました。

いえいえ、また帰りの新幹線の車窓の風景に集中する4時間23分が残っています。日が落ちても夜景を眺め続けますからね。

 

その3週間ほど後に、旦過市場の二度目の火災のニュースが伝えられたのでした。

 

 

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落ち着いた街 26 静かな雑踏

渋谷の「ハロウィン」のお祭り騒ぎは「8年前にSNSでの呼びかけでどこからともなく集まったのが始まり」だとテレビで説明していました。

当時はまだごく僅かな目立ちたい人だけで周囲はなんとなく引いて見ていて、じきにブームは終わるだろうぐらいの記憶です。

 

そのうちに注目され、それを見にくる人も増えはじめたのはこちらの記事に書いたこの頃でしたか。

先日のハロウィンでは帰宅途中の電車に仮装をした人がたくさんいましたが、私は日常と非日常が混乱した気分になったのと、堂々と非日常になりきれる人との感覚の差に戸惑って下を向いていたのでした。

やはりスマホの出現が大きいかもしれませんね。一瞬で写真や映像を全世界へと伝えて注目されるのですから。

 

1980年代には竹の子族もいましたが、限られた場所での仮装で終わると着替えて雑踏に紛れていたのに、今は仮想の世界が街中に溢れていてさらに異次元の格好をしたような人がそばに立っていることも珍しくなくなりました。「好みの問題」なので規制にはなじまない問題だと理解するようにしてはいましたが、何か不安になる変化です。

列車内の事件があったことで、今年は仮装したままの格好で列車に乗ることを控えるように呼びかけられていました。

 

*大混雑でも静かな秩序がある*

 

通勤や日常生活で利用している渋谷ですが、最近、またコロナ以前に近い混雑ですね。

さらに渋谷川の河岸段丘が数日でなくなるほどの大規模な再開発中で、工事にともなって駅周辺の経路が大きく変更することがあるのですが、数日もかからないで新しいルートに慣れていき、粛々と変化に対応した人の流れができています。

 

テレビで渋谷の映像を見ると無秩序な群衆による雑踏のように見えるのですが、そこには生活する人もたくさん歩いているので、私はむしろ静かな雑踏だなと感じています。

 

10代終わりの頃から渋谷の街を歩くのが好きだったのですが、少し大人に背伸びできる街であり、それが生活の一部でもあった。そんな感じでしょうか。

 

*危険な雑踏へ*

 

ところがあの「ハロウィン」のあたりから、雰囲気が変わった印象があります。

あのスクランブル交差点のあたりで大騒ぎすることが社会に認められたかのように錯覚する人が出てきたことに驚いています。

そしてそれを見るために出かける人がいる。

そのためにたくさんの警察官や警備員が動員されて、商店街の方々やボランティアが後片付けをしている様子が報道されるようになりました。

雑踏警備には国家資格までできたとニュースで伝えていました。

 

異常な人混みと非日常の感覚が生活の場に入り込むようになって、大きなイベントがある日は渋谷を通らないルートを考えるようになりました。

熱狂する人たちというのは怖いですからね。

最近満員電車が復活して人と密着しながら乗ることは嫌だなと思うのに、そしてさらに他の国で大事故があった直後なのに、自らあのぎゅうぎゅうの状況に飛び込んでいくのはなぜだろう。

自分は大丈夫という思い込みでしょうか。

 

 

昔の限られた地域のお祭りごとと違って、どこからどれくらいの人が集まるかも予測できない時代ですから、警備の問題よりは熱狂しやすい側の問題を考えた方がよいのではないかと思えてきました。

 

ほんの60年ほど前までは周囲に水田や畑も残っていたことを考えると、不思議な街ですね。

その前は牧場もあった渋谷でした。

ほんの数十年で多くの人が粛々と歩く雑踏が出現し、今はその秩序の揺らぎの時期なのでしょうか。

 

 

 

 

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散歩をする 376 久留米を歩く

西鉄天神線の車窓からのクリークの風景に圧倒され、大善寺駅手前あたりから少し高台になり都市部の風景に変わりました。

西鉄久留米駅で下車し、JR久留米駅からまた鹿児島本線で小倉へと向かう予定です。

 

地図では西鉄久留米駅とJR久留米駅は1.5kmぐらい離れていますが、歩けないほどではなさそうに見えました。

その間に水路が描かれているのでそれに沿ってJR久留米駅に行き、筑後川がつの字に曲がったところにある久留米城まで足を伸ばしてみようと、計画はどんどんと膨らみました。

西鉄久留米駅で下車した時には蒸し暑く、雨がポツポツ降ってきたのでバスに乗ることにしましたが、バスでも10分以上かかる距離だったので歩かなくて正解でした。

 

とても久留米城までは行けそうにもないので、JR久留米駅周辺をぶらりと歩くことにしました。

「久留米を歩く」、タイトルはちょっと大げさですね。

 

*「ゴム産業発祥の地」*

 

駅東口に出てみると「直径約4m・重さ5tのタイヤ」という大きな「建設・鉱山車両用タイヤ」が駅前広場にかざられていました。

久留米から世界へ ゴム産業発祥の地

 

日本のゴム産業の発展と技術革新に貢献

 久留米市は、ゴム産業を中心に栄え、現在も多くの関連企業が立地しています。その代には、久留米市を発祥の地とするムーンスターアサヒシューズブリヂストンなどの企業があり、それら企業は日本のゴム産業の発展と技術革新に貢献してきました。

 

久留米市でのゴム産業の始まり

 1873年明治6年)、倉田雲平は半物と軽視されていた足袋の製造に注目し、「つちやたび」(現在は「ムーンスター」)を創業した。1892年(明治25年)、石橋徳次郎が創業した立物屋「志まや」を石橋重太郎・正二郎兄弟が継承、石橋兄弟は足袋専業に踏み切り、足袋を均一価格で販売するなど当時としては斬新なアイデアで成長し、1918年(大正7年)に「日本足袋(現在は「アサヒシューズ」)を設立した。

 1923年(大正12年)に「日本足袋」と「つちやたび」は底にゴムを貼った地下足袋の販売を開始し大きく飛躍。両社はゴム製造業へ移行する。その後、ゴム靴の生産や海外への輸出を始め、その成長は目覚ましいものであった。

 1930年(昭和5年)、「日本足袋」は自動車用タイヤの試作に成功。翌年、石橋正二郎久留米市に「ブリッジストンタイヤ(現在は「ブリヂストン」)」を創立し、その直後より自動車用タイヤの輸出を開始した。

 足袋から地下足袋、ゴム靴そしてタイヤの生産とゴム産業は拡大を続け、久留米市の中心産業となった。

 

「足袋から地下足袋、ゴム靴そしてタイヤの生産」

目の前にある巨大なタイヤを前に、この一世紀は本当に驚異的に変化する時代だったのだと理解できました。

 

ブリヂストン」は「石橋」を英語にした日本の会社だというトリビアは、半世紀前の小学生でも知っていました。

そして当時の子どもたちは月星シューズ(ムーンスター)やアサヒシューズを履いていたのでした。

 

一度行ってみたいと思った久留米でしたが、この駅前の説明とタイヤを見ただけでもきた甲斐がありました。

 

JR久留米駅にはブリヂストンの工場が隣接しているのですが、Wikipedia久留米駅を読むと最初はこの辺りが街の中心だったようです。

 

 

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運動のあれこれ 47 取り戻せないことをためらわない運動

大牟田では1469年に「燃える石」が発見されたという一文に、子どもの頃から当たり前に使っていた「石炭」という言葉はいつ頃からひろまったのだろうと不思議な感覚に陥りました。

さすがWikipediaですね。日本では、一般的に石炭(せきたん)と呼ばれるようになったのは、明治初年に西欧の採炭技術が入って、特にドイツ語Steinkohleを和訳したものとされるとすぐに見つかりました。

 

明治5年には新橋ー横浜間で石炭による蒸気機関車が走るようになり、1960年代終わりごろに通った小学校では石炭ストーブが使われていたのですが、そのあたりから石油やガスへと驚異的に変化する時代でした。

 

当時は小学生でも炭鉱での事故や労働の大変さはニュースや本で知る機会がたくさんありましたが、久しぶりに三池炭鉱の歴史を読むと愕然としました。

1963年11月9日 三川鉱炭じん爆発事故で458人死亡、一酸化炭素中毒患者839人。

私が幼児の頃で、まだまだ日本の家庭は冬は寒くお湯を沸かすのも部屋を温めるのも大変な時代で、工業化によってゆたかで便利になることを心待ちにするような社会だったでしょうか。

 

それがかなって私が意気揚々と海外へと出かけていた頃、「1984年1月18日 有明坑内火災事故により83人死亡、一酸化炭素中毒患者16人」とありましたが、大きな事故なのに記憶にないのです。

日常の生活からは姿を消しましたが、電気も工業もまだまだ石炭の恩恵を受けていたはずの時代なのに社会から存在感が薄れていく時代だったのかもしれません。

 

 

*どうやったら「自分には手も足も出ない問題」であると認識できるのか*

 

石炭の回想と、今日のタイトル、意味が分からないですね。

 

先日、海外で油絵に食べ物をかけて化石燃料に反対する「活動家」というニュースがありました。

リアリティを感じない「活動家」の出現のこの風潮はなんだろう。

若気の至りではすまないほど、過激な行動や発言に向かうのはなぜなのだろう。

 

たぶん社会の中のちっぽけな自分が、自分の存在感を見出す満足感を得らえるあたりかもしれませんね。

どの時代にも繰り返されてきたと自分を振り返って赤面するのですが、40年ほど前はまた伝える手段が手で刷った印刷物ぐらいしかなかったのに、現代では一瞬で世界中に知れ渡るので、注目されることに中毒のようになってしまうのでしょうか。

 

まだ10代の「活動家」が、自身の安全で便利で快適な生活が長い歴史の中で多くの犠牲や苦労のもとで築かれたかが身に沁みる年代になった時、どうやって広げてしまった運動の責任を取れるでしょうか。

 

「知識としては知っていても手も足も出ないことがある」というのはやはり失敗しないと気づかないのかもしれませんが、もう少しこの失敗がうまく伝わるといいのですけれど。

若い世代のこれからの大事な時間のためにも。

 

 

 

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行間を読む 170 大牟田と三池干拓

大牟田駅鹿児島本線を下車し、西鉄天神線に乗るまで少し駅の周辺を歩きました。

ロータリー周辺はレンガの歩道で落ち着いた雰囲気です。

世界遺産のまち 大牟田へようこそ 明治日本の産業革命遺産 三池炭鉱関連資産」と表示がありました。

 

三池炭鉱の名前も子どもの頃から耳にしていましたが、昨年佐賀を訪ねるために有明海周辺を地図で眺めるようになって、初めて大牟田市とつながりました。

石炭産業科学館もあり興味深いですが、今回は残念ながら炭鉱の歴史を知るための時間が取れませんでした。

 

大牟田「牟田」は干拓の意味をあらわす言葉と知って、ますます歩いてみたいものです。

どんな歴史があったのでしょうか。

 

 

*「三池炭鉱」より*

 

九州農政局の「有明海東部地区の歴史」では、柳川の干拓の歴史に続いて「三池炭鉱」についての説明があります。

 有明海東部地区の三池工区は、現在では干拓地で盛んに農業が行われていますが、つい数年前までは、石炭の採掘が行われていました。

 

「つい数年前までは」というこの説明が何年に書かれたものかわからないのですが、1997年に閉山したようです。

 一時は全国の石炭の4分の1の採掘量をほこった、日本最大の炭鉱「三池炭鉱」。その歴史は、1469年、現在の大牟田市大浦町付近で「燃える石」が発見されたことがはじまりとされています。炭鉱の歴史は明治、大正、昭和と続き1997年に閉山するまで地域経済基盤として重要な役割を果たしていました。

 三池炭鉱は、炭層が有明海側に傾斜した形でのびています。そのため、時代を重ねるごとに抗口が海へ海へと移り変わっていきました。当時の街を支えた四山杭・三川杭・有明杭・三池杭などは有明海海底350~450m付近の炭層を採掘したといいます。

 エネルギーとしての「石油」の台頭により石炭の需要はなくなり、三池炭鉱はついに閉山に至ります。後に残された資源は農地だけとなりました。

(強調は引用者による)

 

なぜ「九州農政局」の説明で「三池炭鉱」なのかとその意味が最初わからなかったのですが、この浅い炭層が理由だったのですね。

山の奥の方に炭鉱があるものだとばかり思っていました。

 

そういえばどの資料だったか思い出せないのですが、大牟田干拓地では炭鉱の影響で澪筋が埋まったような話を読んだ記憶があります。

それだけ干拓地に近い場所だという意味だったのかもしれませんね。

 

*三池干拓

 

さらに「昭和の干拓事業」で「三池干拓」の説明が書かれていました。

 三池干拓は、明治の中期頃から干拓計画がしばしば進められたものの実現には至らなかった地区です。戦後の食糧増産政策によって農林省の直轄事業となり、矢部川から堂面川までの地先541haが干陸されました。昭和27年に着工したこの事業では、昭代工区、大和工区同様、有明粘土と言われる超軟弱地盤上に堤防が築造され、昭和42年12月に完成しています。

 

地図では「昭和開(しょうわびらき)」のあたりでしょうか。

クリークとは違いまっすぐな水路とまっすぐな住宅地で、航空写真で見ると水田地帯のようです。

目の前は有明海で、おそらく水田越しに雲仙岳も見えることでしょう。

 

炭鉱の街から激変した昭和の時代、さらに減反政策の時代へ、この地域にはどのような生活の変化があったことでしょうか。

 

 

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米のあれこれ 45 牟田

大牟田駅で西鉄に乗り換えたのは、大牟田から柳川までの干拓地をみるためでした。

 

昨年、念願の佐賀のクリークを訪ねて歩くことができました。この複雑な水路と水田地帯を知ることができたのは、自由に拡大したり縮小し、地球上のどこまでも見ることができる地図のおかげでした。

 

この時に佐賀駅から福岡県柳川まで行く路線バスがあることを知り、いつか筑後川左岸側の柳川のクリークも歩いてみたいと思っていました。

ここも地図を拡大すると鳥肌が立ちそうなほど水路が入り組み、そして航空写真に切り替えると今でも水田地帯であることがわかります。

柳川の水路というと観光で有名ですが、私は水田のそばを歩いてみたいと思っていました。

 

今回は三泊四日と今までで最長のスケジュールでしたが、大分から熊本までの計画を詰め込んだので、柳川のあたりを歩くことは無理そうです。

計画の段階で、「やつしろ干拓の歴史〜わが田は緑なり〜」の「干拓の地名など」に目が止まりました。

 八代平野干拓地にはめずらしい地名がたくさん残っています。そのどれもが、昔は海の近くにあったという意味で干拓した土地という意味などからつけられています。たとえば‥。

古賀

これは、もともと海であった所が「陸(「クガ」という)」になった所で、「クガ」が変化して「コガ」と呼ばれるようになったのです。(古賀浜町、古賀上町、古賀出町など)

牟田

「ムタ」には、湿地(ジメジメして水分が多い土地)を意味しています。新しい、古いをあらわす「新牟田」、位置をあらわす「中牟田」、広さをあらわす「太牟田」、そこに生えていた植物(アシ、ヨシ)をあらわす「葭(よし)牟田」などの数多くの牟田の地名がつけられたのです。

「ワリ」には、干拓地を区切ること(地割り)を意味します。たとえば「郡築一番割」「大井手東割」など八代平野干拓地のあちこちには町名や字名として数多く残っています。

 

「牟田」も干拓地に由来していた地名と知り、大牟田のあたりを地図で眺めました。

大島、小浜町、天領町、高砂町といった南側の地名のある場所から、「新開町」「昭和開」といった地名が見つかります。そのまま地形が思い浮かべられそうですね。

 

そして山側を走るJR鹿児島線から分かれて西鉄天神線に沿ってみていくと、矢部川を渡ったあたりからほとんどクリークのような場所になり「牟田口」「古賀」「八丁牟田」といった地名がありました。

車窓からこの地域を見るだけでもいいと、大牟田駅西鉄線に乗り換える計画にしたのでした。

 

跨線橋から大牟田駅周辺の平地が一望できました。

9時24分発の特急福岡行きに乗り、ロングシートなので座らずに立って車窓を眺めることにしました。

大牟田駅を出てじきに左手に島だったような小さな山を越えると、そこからはただただ水路と水田の世界になりました。

線路のすぐそばまで曲がった水路が近づいては離れ、ところどころ幹線水路や排水路のような水路が見えるのですが日本各地の整然とした水田地帯や棚田ともまた違う水田風景です。

地図ではあんなに複雑に入り組んだり曲がったりしているのに、それすらもやはり整然としています。

 

今はりっぱな地面のはずですが、なんだかフワッと漂う浮島のようにも見えてきます。

 

九州農政局の「有明海東部地区の歴史」にこんな説明がありました。

水の都、柳川

 

 「50年に一干拓」と言われた有明海干拓有明海東部地区の事業地域である柳川には籠(こもり)・搦(からみ)・開(ひらき)・新開など独特の地名が残っており、盛んに干拓が行われたことを今に伝えています。堤防に囲まれたひとまとまりの水田が魚鱗のように並んで次々と海に向かって付け足されていきました。

 そうして出来上がったウロコ状に広がる干拓地。そのほとんどは、極端な低湿地です。

 満潮時、海面より低くなる干拓地。一度大雨が降れば平野全体が水浸しになってしまいます。人々はいたるところに溝を掘り、地面を高く盛り上げて排水を図りました。これらの柳川の街に張り巡らされた水路網はクリークと呼ばれます。クリークは満潮時に海水により押し上げられた淡水を取水する淡水(あお)取水の際にも利用されました。つまり、クリークは単なる川ではなく貯水機能を有するいわばため池のような役割を果たしていたのです。

 16世紀の終わりごろ、柳川一帯を治めた田中吉政は海岸に20kmにも及ぶ堤防を造成し、総延長470kmというこのクリーク網を整備しました。また、クリーク網全体で水制御を図るため、何千にものぼる樋管、樋門などでクリークの水量を調節し、壮大なシステムを築きました。柳川で行われたこうした徹底的な治水利水工事によって、平野全体に及ぶ水体系の基礎が築かれたのです。

 

車窓には息を呑むような水路の風景が続き、メモには「水路、すごい」「特急からでもはっきり見える」「小舟が通りそうな水路」だけ書き残していました。

 

 

西の方に佐賀県の山並みが見えました。

千数百年をかけて作られた有明海沿岸の平野の風景にただただ圧倒されました。

 

 

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散歩をする 375 熊本から大牟田へ

ただひたすら周防灘から有明海までの干拓地を訪ねる遠出もいよいよ最終日になりました。

4時に目が覚めると熊本はまだ真っ暗でした。

お天気はとテレビをつけると熊本や佐賀のあたりにまだ雨雲が残っていて、今回の散歩は初日を除いてはぱらついたり身の危険を感じるような雨だったり、最後まで雨雲を追いかけ雨雲とすれ違う散歩になりそうです。

ニュースでは、都内の小児科が厳しい状況になっていることを伝えていました。7月中旬でも第7波は確実に来そうな雰囲気ですから、また妊産婦さんの感染が増えることが予測される、こちらもまた嫌な雲行きです。

 

8時1分発の鹿児島本線鳥栖行きに乗りました。最後尾に乗ったのですが満員でした。後ろ2両は長洲行きで途中で切り離されることに気づき、途中で慌てて前の車両に移ったところガラガラでゆったりと座って車窓を眺められました。

 

熊本駅を出るとじきに山あいの水田地帯に入り、田んぼの除草作業をしている方々がいました。

水田には数センチぐらいに伸びた稲が並んでいます。畦道に黄色のマツヨイグサが咲き、蝉が鳴いているのが窓越しに聞こえました。少し郊外に出ただけで整然と広がる美しい日本の風景ですね。

西側の山の方にはまた黒い雨雲が接近しているのが見えました。

 

坪井川菊池川分水嶺

 

植木駅を過ぎると田原坂駅の間で鹿児島本線が北西から北へと向きを変えるのですが、高低差もなさそうな水田地帯に見えたそのあたりは地図を見直すと分水嶺だったようです。

あの分水界泣き別れ邑知潟の分水嶺、そして水分かれのような、言われてみないと気づかない地形です。

 

井芹川熊本駅の西側を山沿いに流れながら坪井川と合流して有明海へと流れ込むのですが、河口では白川に挟まれた場所に干拓地があり、もし土砂降りの雨でなければ訪ねてみようと思っていました。

 

井芹川の上流の細い流れの数百メートル北側からやはり細い水色の線が北へと描かれていて、しだいに太く木葉(このは)川になるようです。

蛇行しながら流れる木葉川の上を鹿児島本線を何度か越えるので、車窓からその美しい流れが見えました。

鹿児島本線九州新幹線が交差するところで木葉川は新幹線の高架橋の方へ流れが変わり、新玉名駅の手前で菊池川に合流するようです。

 

川と離れてしばらくすると車窓から美しい集落と水田が見えて「南坂門田」とメモをしたのですが、地図を見直してもどこだか見つけられません。何を見てメモした地名だったのか。

記録があっても記憶をたどるのは難しいですね。

 

その美しい集落を通過してしばらくすると菊池川の橋梁を渡りましたが、途中下車したくなるような美しい石積みの堤防が見えました。

「いつかまた」の計画がまた増えてしまいました。

 

大牟田駅へ*

 

途中からいつの間にか満員になっていた前方車両でしたが、玉名駅でたくさん下車していきました。

どんな街で、どんな仕事をされているのでしょう。

 

ここから大野下まで台地のような場所を通過し、海側には自然堤防のような場所に家々があるのが見えました。それに挟まれた場所に水田地帯が広がっています。

鹿児島駅を出る頃に西側の山に見えていた雨雲はどこかへ行って、快晴になりました。

 

残念ながら山頂付近には雲がかかっていましたが、雲仙の麓が見えました。美しい姿ですね。

8時39分に長洲駅に到着し、後方車両の切り離しと貨物列車の通過待ちで8分ほど停車しましたが、雲仙を眺めることができました。

発車すると海岸が近づき、堤防の間に有明海が見えました。

南荒尾駅の近くに「荒尾干潟」の表示が見えました。

荒尾駅を過ぎると干拓地のような場所が広がり、昔は島だったと思われる小高い山がみえ、大牟田駅に到着しました。

 

切符は小倉までのJRの連続切符ですが、大牟田駅で下車してここからは西鉄線に乗り換える予定です。

 

 

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行間を読む 169 「球磨川水系緊急治水対策プロジェクト」

引堤を検索しているときに、「球磨川水系緊急治水対策プロジェクト」(令和3年1月29日、球磨川流域治水協議会)という資料を見つけました。

 

◯令和2年7月豪雨により甚大な被害が発生したことを踏まえ、球磨川においては、国、県、市町村が連携し、被災した箇所で、河道掘削、堤防整備、輪中堤・宅地かさ上げ、遊水地等の取り組みを集中的に実施することにより、令和2年7月豪雨と同規模の洪水に対して、越水による氾濫防止(人吉市区間等)、家屋の浸水防止(中流部)など、流域における浸水被害の軽減を図る。

◯令和3年出水期に向けて、浸水被害箇所等の堆積土砂の撤去やタイムラインの改善等を緊急的に実施する。

 

あの甚大な水害の調査や対応が半年以内にまとめられ、さらに次の「出水期」に向けて準備がされていたことを知りました。

 

 

 

*短期・中期・長期計画*

 

さらに、2029年(令和11)ごろまでの対応が3段階に分けらている説明がありました。

 

【令和3年度出水期まで】可能な限りの堆積土砂の撤去及び堤防決壊箇所の本復旧を実施する

 

【第一段階】堆積土砂の撤去、災害復旧工事を進めるとともに上下流バランスを考慮の上、河道掘削を最大限実施し堆砂を図る。輪中堤・宅地かさ上げをまちづくり等と連携して完成させる。また、遊水地、引堤等に必要な用地確保に着手。県区間においては放水路整備や河道掘削等を推進。流水型ダム、市房ダム再開発の調査・検討に着手し進捗を図る。

 

【第二段階】早期に遊水地(本川)を完成。河道掘削[拡幅部](人吉地区)、引堤、県区間堤防整備、遊水地(支川)等の完成。引き続き流水型ダム、市房ダム再開発の進捗を図る。

 

大きな災害のニュースがあるとしばらくはその地域がどうなったのだろうとニュースを追っているのですが、しだいに耳にしなくなるとその後の状況を想像することも少なくなります。

生活を維持するための見通しを立てるために災害の復旧過程のどの段階なのかを知ることは大事だと、東日本大震災を経験して思うようになりました。

 

以前はこういう資料も目が滑ってあまり頭に入ってこなかったのですが、水のそばを歩くようになってから「このように守られてきたのか」と目に入る言葉が増えました。

 

 

*「3つの柱」*

 

プロジェクトの概要に「3つの柱」が書かれていました。

①氾濫をできるだけ防ぐ・減らすための対策

②被害対象を減少させるための対策

③被害の軽減、早期復旧・復興のための対策

 

一見、味気ない表現ですが、たとえば自分の仕事では「母子ともに安全に分娩が終了する」が究極の目標であるように、本質的なことというのは味気ない表現になりやすいものかもしれません。

ところが人の耳目を惹くようなさまざまな価値観や、一見魅力的なプロパガンダに翻弄されると本質を見失い本質に立ちかえるまで遠回りをすることになる

なかなかこういう失敗というのは理解されにくいものかもしれませんね。

 

毎年あちこちで自然災害が起き、その予測不可能な理不尽な現実に地道に対応している方々が今日も各地で働いている。

なんだかすごいことだとしみじみと感じながら、この資料を読みました。

 

 

 

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落ち着いた街 25 政治家の満足のために存在しているのではない

あちこちを訪ねて、その時代やその地域が葛藤しながら築いてきた歴史にいろいろと思うことが増えました。

 

路面電車の延伸計画で書いたように、社会が急激に変化している時に何を選択するかという判断は本当に大変そうです。

住民の声を聞き、同じ目標に向かって結束していくような社会の雰囲気がつくられているのでしょうか。

半世紀とか、一世紀とか時間をかけたものが続いているようなそんな印象を受ける街でした。

 

そしてそういう街には、社会のためにと自分の人生を投げ打って取り組んだ人の話が引き継がれていることも散歩をして初めて知りました。

児島湾干拓の藤田伝三郎とか生本伝九郎日本赤十字の佐野常民小野田セメントと笠井家西津軽の伊藤藤吉あるいは熊本の干拓を進めた鹿子木(かなこぎ)量平・謙之助親子など、名を成すことではなくその地域のために尽くした人たちとそれを支えた多くの人がいたことが記録されているのでした。

 

経済的な発展だけでなく、「われわれは人類である」と気づき、普遍性のあるものを求める時代になったのがこの一世紀ほどだったのかもしれません。

 

そして時代の変化の中で賛成と反対の議論をまとめ、利害を調整し、将来へと必要なことをつくっていくのが政治だと、つい最近まで思っていました。

 

 

*「是非をいちいち国民に聞いて進めるものではない」*

 

ところがマイナカード推進について「是非をいちいち国民に聞いて進めるものではない」というニュースがありました。

マイナンバーカードの活用の是非をいちいち国民に聞いて進めるものではない。次の世代への責任としてやり切る。反対があってもやり切ることが大事だ」

 

 「どちらが国の財政にとっていいのか。どちらが本当の意味で個人情報をきっちり守れるのか、どちらが透明なのか、公平性を担保できるのか、これらは考えると当たり前のことだ」と、マイナンバーカードの意義を説明した。

 どんな政策にも反対意見はあるとし、テレビ地上波のデジタル化やETC導入の際の例を挙げ、「ETCは多くの人にとって社会インフラの1つとなった。今でもどうしてもETCが嫌な人は、高くなるが現金で払える」とした

 同じようにマイナンバーカードについても、反対意見が必ずあるが、次世代の社会インフラとして普及を進めることが重要だとした。平井氏はデジタル庁創設を提言した自民党のデジタル社会推進本部の本部長を務めている。

(「マイナカード推進、『是非をいちいち国民に聞いて進めるものではない』平井卓也初代デジタル大臣」ITmediaNEWS、2022年10月27日)

(強調は引用者による)

 

「国の財政のため」が最優先なのでしょうか。

私は自分の証明には何が最適なのかを考え続けていたので、そもそも方向が違うのです。

 

そしてETCのように必要ないならあるいは納得しないのであればつくらない選択がマイナカードにもあったはずなのに、マイナカードもマイナンバーもなくても情報を共有している現実があるのに、なぜ健康保険証と一本化したカードに有無を言わさずにすることがなぜ政治家に許されるのかは納得ができないものですね。

 

それにしても辞任した大臣がすぐに党の新型コロナ対策本部長になったり、つい最近まで目が泳いでいた方達が急に強気なのはなぜでしょうか。

次世代への責任として「その団体と関係を持たない」のはなぜなのか何がいけなかったからなのかの説明をずっと待っているのに、申し訳ないですが関与しているとされた政治家の皆さんはまるで寄生虫に脳をコントールされて自滅していく虫の行動のように見えてきました。妄想だといいのですけれど。

 

一蓮托生はごめん被りたいものですが、なんだか落ち着かない世の中ですね。

 

 

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