生活のあれこれ 41 ごみについてのまとめ

神明台処分地のそばを散歩したことから、ごみ処理方法の驚異的な時代の変化のまっただ中を生きてきたのだと改めて思いました。

 

ところで「ごみ」という言葉はどこからきたのだろうと、今まで気にしていなかったことが気になりました。

意味

ゴミとは、物のくず、不要になった廃棄物。汚い屑。

語源

ゴミは、主に農家で「木の葉」を表した言葉で、各地の方言にも「木の葉」を指す言葉として残る。(中略)

ゴミが「塵(ちり)」や「土ぼこり」の意味になったのは近世以降で、不要物であるため、その頃から「取るに足りないもの」「役に立たないもの」の意味でも「ゴミ」の語は使われ始めた。

(「語源由来辞典」)

「木の葉」から「塵(ちり)」「土ぼこり」が不要のものになって、現代の「ごみ」になったのですね。

 

1960年代ごろの幼児の記憶だと、これに「生ごみ」と「雑紙」ぐらいでたまにプラスティックが含まれるぐらい現代に比べればまだまだごみの少ない時代でしたが、人口が急増してゴミ処分も追いつかなくなっていた頃だったのでしょう。

 

Wikipediaの「ごみ」を読むと、さらに資源としての価値やごみと情報、ごみと所有権と、単にその指す内容の変化だけでなくごみの存在自体が複雑になった時代だったのだと改めて思い返しました。

さらに「ゴミ」というカタカナ表記は差別的なニュアンスにもなるとか。

 

ブログを始めて12年ほどで、いつの間にか「ごみ」について書いたものが溜まってきたのも、こうした時代を頭の中で整理したかったからだとつながりました。

ちりも積もれば山、でしょうか。

 

<2012年>

カラスの巣作り

<2013年>

頑丈なカプセルの内と外

ものを持たない暮らしとの葛藤

<2014年>

ものの片付け方

掃除は誰のため?ーpublicという概念ー

大量に出る医療廃棄物

物がなければゴミもない

<2016年>

高齢者のゴミ捨て

夜は軽く、家で料理をしない

ごみの最終処分地だった「夢の島」

<2017年>

赤ちゃんのお尻ふきと紙おむつ

<2018年>

野菜や果物の保存

90年代のダイオキシン問題の頃

最後は海へ

<2019年>

「村八分訴訟」

村八分

環境に配慮するという意識

東京ごみ戦争歴史みらい館

「反対期成同盟」

土はゴミではない

使い捨てカップの飲み物

<2020年>

道路のごみ問題と道の駅

なぜ「エコ」に胡散臭さを感じてしまうのか

築いてきたものが簡単に壊される

雨は大量のゴミを海に流す

使用済み紙おむつの処理

<2021年>

なかなかペーパーレスにはならない

ゴミ置き場がなく飛ばされるゴミもないトヨタの街

しょぼさの理由

他の人の生活を知らない

境川の都県境を行ったり来たり(都県境のごみ収集)

なぜレジ袋がターゲットになったのか

ごみの捨て方をどのように習慣にしているのだろう

公共の場に家庭ごみを捨てる人

<2022年>

「野心的なマイルストーン」と便乗値上げ

琵琶湖西岸から北陸を通って帰宅(大雨の後の災害ごみ)

<2023年>

ごみ収集がストップしないありがたさ

不燃物が宝物に

<2024年>

新幹線の車窓から見える温水プール

池谷の神明台処分地

「写真で見る横浜市ごみ回収の歴史」

 

 

 

「生活のあれこれ」まとめはこちら

 

行間を読む 203 「写真で見る横浜市ごみ回収の歴史」

新幹線の車窓から見える森のすぐ向こうに神明台処分場があることを知らないまま通過していたことに、またやり残した宿題が溜まっていく気持ちです。

自分が生きてきた時代とは、あるいはその少し前の時代とはどんな時代だったのだろう、と。

 

広大な処分場跡地は芝生が広がったまるで遺跡のような場所でしたが、立ち入り禁止のようでした。

神明台処分地は、閉鎖された以降も最終処分場の「廃止の技術上の基準」を満たすまで、横浜市による管理が続く。基準を満たした跡地の一部(第二次埋め立てエリア:1976年3月〜1980年6月)は神明台スポーツ施設としての地域住民を中心に暫定開放されているが、敷地の大部分は技術上の基準を満たしていないため、跡地利用が進められないのが現状である。

Wikipedia、「泉区横浜市)」「現代」)

 

急激に人口が増え、ゴミが増えたその処理に半世紀も時が止まっているかのような場所を安全な場所にするために、日々管理してくださっているようです。

 

 

*「開港以来、横浜市の発展の歴史はゴミ処理と環境問題との戦いの歴史でもある」*

 

神明台処分場で検索したら、「月刊リサイクルデザイン 2015年6月号」(横浜市資源リサイクル事業協同組合)の「写真で見る横浜市ごみ回収の歴史」が公開されていました。

 

覚書のために書き写しておこうと思います。

明治維新以来、今日まで日本の経済は発展を続け、人々の生活は豊かになりました。進歩を続けてきた日本の近代化の中で、忘れてはいけないのがごみとの戦いです。生活が豊かになれば自ずと廃棄物も増えていきます。そこで今回は横浜市資源循環局のご協力をいただき、横浜市の清掃事業に関する資料を基に、ごみ回収に関する貴重な写真とごみ回収の歴史をご紹介します。

 

開港以来、横浜市の発展の歴史はゴミ処理と環境問題との戦いの歴史でもある

 

居留地の外国人から不衛生と訴えられる

 横浜が開港したのは、今から156年前の1859年(安政6年)のことです。外国人居留地が設けられ、邦人居留地と区分けされます。当時の日本人は衛生観念に乏しく、低地や湿地、沼地などにごみを投棄して不衛生でした。居留地に住む外国人は、自分たちへの影響を恐れ、各国の領事は奉行に改善を申し入れます。そこで、1862年に名主が回状を出し、清掃方法を細かく決め、罰則を決めました。各戸にごみ箱を設置し、回収を請け負った人たちが肩荷にして運搬したそうです。

 1868年(明治元年)当時の人口は2万8千人で、横浜ではごみ清掃、下水などの浚渫、道路や橋の清掃なども実施するようになりました。外国人居留地は政府が下水道の敷設、道路清掃などを行いましたが、風習の違いもあって、外国人による清掃対策も行われたそうです。当時は、街路、下水道などから毎日ごみを回収し、集められたごみは沖合に海中投棄していたそうです。

 

「ごみは沖合に海中投棄」

いやはや、「水辺はゴミや生活排水を処理する施設に近い感覚」が改まるのにさらに一世紀はかかりましたね。

 

 

ごみ回収・処理が横浜市の義務となる

 明治22年(1889年)に横浜市に市制が施行されます。人口は11万6千人に増加していました。この頃はごみの回収は各戸が料金を払ってごみ運搬人を雇い、処理を行っていました。回収されたごみは依然として池沼などの埋め立てに利用していました。しかし、明治33年(1900年)に「汚物清掃法」が公布され、汚物の清掃、処理が横浜市に義務付けられます。これにより、ごみの収集・処理は横浜市の仕事となったのです。ただし、実際には民間に下請けされ、相変わらず池沼などの埋立という名目の投棄が続けられていました。

 その後、ごみの埋立投棄は消毒施設などもなく、衛生上よくないと問題化し、地元市民や市議会、行政による議論が繰り返され、最終的に焼却処分にするという結論が出ます。ところが、焼却の施設建設が反対運動などで進まず、消毒散布を行いながら、この後も長く埋立投棄を続けることになります。

 

埋立地不足に陥るが焼却施設が建設できない

 大正3年(1914年)に第1時世界大戦が勃発すると、経済が活況となり、ごみの排出量が増加しますが、一方でごみ処理を行う人員が転業してしまい、次第に人手不足に陥ってきます。そのため、大正6年(1917年)に横浜市内の衛生組合長179人を集めて塵芥処理協議会を開催しますが、民間事業者の人手不足は解消が容易ではないため、翌年からごみ処理は横浜市衛生課の直営とすることになりました。

 この頃は各戸に備えられたごみ箱から収集員がごみを収集して仮置場に集め、船で滝頭町地先などの海面埋立地に運搬し、処理していました。やがて、滝頭町地先海面埋立地の埋立が進み、次第にごみを処分する場所に余裕がなくなってきます。そこでごみの野天焼却に着手しますが、地域の反対ですぐに中止。当面は、千葉県下に輸送することで埋立処理量を大幅に減量したのです。

 大正12年(1923年)9月1日、関東大震災が発生。ごみ収集・処理作業に従事していた作業員のほとんどが罹災し、運搬車も焼失したり行方不明になってしまいます。道路の破損、倒壊家屋の残材などのほか、市内のいたるところにごみが投棄されており、ごみの収集・処理は困難を極めました。それまで人力だった運搬車を牛に引かせることで作業効率が向上しましたが、滝頭町地先海面埋立地がいよいよ完成間近となり、今後の処分に窮してしまいます。この時、大地震によるがれきを埋立に利用して作られたのが山下公園です。

 当時のごみ排出量は、1日200トンほどありました。すでに東京や大阪、神戸、京都、名古屋などの大都市では焼却場を建設して、焼却処理を行なっていましたが、6大都市の中で唯一、横浜市だけは住民の反対運動によって焼却施設の建設が実現できませんでした。

 

焼却場建設により焼却処理が本格化

 昭和2年(1927年)、ようやく滝頭町地先海面埋立地に焼却場「滝頭じんかい処理所」の建設が始まり、昭和6年(1931年)に完成しました。焼却炉12台、1日250トンの処理が可能で、排熱で発電を行うための発電機も備えていました。翌年には鶴見区矢向町に「鶴見じんかい処理所」、保土ヶ谷区星川町に「星川じんかい処理所」が建設され、ごみの焼却処理が本格化します。

 昭和20年(1945年)に第2次世界大戦が終戦を迎えますが、市内の大部分は灰塵と化していました。横浜市の住民は、世帯数17万6千戸から4万9千戸に減っていました。ごみの収集、運搬、市街地の清掃が昭和21年から再開されますが、3か所あった焼却処理所は、すべて使用不能となっていたため、埋立処理するしかありませんでした。磯子区杉田町、神奈川区出田町、鶴見区上末吉町など6か所に埋立処分所が設置され、投棄されました。

 昭和28年(1953年)、壊れていた鶴見、星川の焼却処理所が復旧し、再稼働します。さらに、人口増加によってごみ量が増加したため、新たに焼却処理場を新設し、全部で6か所の処理場体制となります。

 この頃のごみ回収は6日に1回で、ごみ箱から手車(籠車)やオート三輪で収集し、トラックに積み替えて埋立処分地や焼却処理所に運んでいました。昭和35年(1960年)になると、清潔な街づくりをめざし、街路からごみ箱をなくしてごみ集積場所を設置するようになります。週2~3回の回収を行う定時制収集方式となり、同時に、ふた付きの容器を使用するようになりました。

 

私の幼児の頃の東京のごみの記憶までの歴史ですね。1960年代、転勤先の地方では生ごみを森に捨てていました。

 

ごみ戦争で意識が高まりリサイクル活動へと進展

 昭和40年代になると高度成長期に入ります。物資が豊かになると同時に大量消費時代となり、家電や家具などを含む多様な廃棄物が増加し、廃棄物の不法投棄が問題化しました。昭和45年(1970年)に「廃棄物処理法」が公布されましたが、不法投棄は後を絶ちませんでした。やがて、さらなる人口増加と経済発展により、廃棄物の多様化と増大化が進み、行政の対応が追いついかなくなります。いわゆる「ごみ戦争」の始まりです。

 昭和48年(1973年)にオイルショックが起こり、各家庭が古紙をちり紙交換に出すようになり、ごみ中の古紙混入率が減少しますが、一方でごみの多様化が進み、プラスチック類の高熱による焼却炉の損傷と塩化ビニールによる有毒ガスの発生が公害として問題となります。

 ごみ戦争、公害問題を通じて、市民の環境意識が高まり、この頃からごみの減量化の促進、リサイクルシステムの確立に取り組むようになります。横浜市は、昭和53年(1978年)に「私たちの町は私たちの手できれいに」を目標に町の美化・浄化運動を展開。翌年には「さわやか運動」として、ごみ収集日に合わせた地域清掃活動やごみ集積場所の美化促進などを推進していきます。

 こうして町の美化、ごみの減量、資源リサイクルは、市民活動として定着。その後の横浜G30プラン、ヨコハマ3R夢(スリム)プランの成功、資源集団回収による古紙回収100%達成へと続き、現在に至るのです。

 

まさにごみ処理の方法が驚異的に変化する時代を目の当たりにして生きてきたのだと、添付されていた写真に子どものころの記憶が重なりました。

 

 

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散歩をする 498 泉が湧き、狭い川瀬の小谷がある地を歩く

食べきれなかった揚げ春巻きを持ち帰りにしてもらいいったい私は今どこにいるのだろうと混乱したまま店を出て歩き始めると、東へと坂道を登る途中にお寺があり我にかえった感じです。

そうそう、この散歩はここから新幹線の線路沿いに歩く散歩で、今私は現代の日本にいるのでした。

 

坂道をのぼり切ったところは見渡す限りの畑地になりました。車窓から見えた畑はここかなと思いましたがあまり記憶にない風景ですし、一向に新幹線の気配がありません。それもそのはず、畑の北側が切り通しになってそこを通過しているようです。車窓では見えませんね。

台地を切り拓いたところを通過しているようです。

 

しばらく下から聞こえる走行音に沿って畑地の道を歩くと、第二和泉跨線橋という環状4号線との交差点があり、そこを越えると下り坂になって小さな川を越えました。北側を新幹線が通過していくのが見えました。和泉川のようですが、次回は見落とさないようにしたいものです。

 

 

*阿久和川*

 

川を渡るとすぐに上り坂で、神社のすぐ先の道を北へと曲がると古くからの住宅も残る一角があり、その道の先に新幹線の高架橋が見えました。

ぼーっと新幹線が通るのを眺めていると、細い道なのにけっこうトラックが通ります。牛舎もありました。どんな地域の歴史があるのでしょう。

手前を右へと曲がると、住宅が途切れたところにまた台地の上のような草むらが続き、ここは同じぐらいの高さで新幹線が通過していくのが見えました。

 

その先に団地と小学校があり、「阿久和」という珍しい地名です。また小さな牛舎がありました。

ここから両側が森と公園になっている急な下り坂になり、小さな水路のような川をこえると遊水池があり、その先が急な上り坂です。

 

北側を新幹線が通過して行きました。地図で確認すると、新幹線の線路の北側200mほどのところにある熊野神社のあたりから水色の線が始まっています。Macの地図では川の名前がわからないのですが、ここから南へ流れてJR戸塚駅の近くで柏尾川に合流する阿久和川であれば水源はさらに北側の長屋門公園で、数百メートルの暗渠区間がありそして大きな遊水池が作られるくらいですからたびたび洪水が起きた川でしょうか。

 

*「池の谷」へ*

 

阿久和川を渡るとその左岸はまた見上げるような坂道です。

下を向きながらのぼり切ると、また台地の上のひらけた感じかと想像していたら少し違いました。

尾根のような場所で、すぐ先に穴のように低い場所があります。ここが地図では灰色に描かれている「池の谷」でどんな場所なのか以前から気になっていました。

 

地図に「神明台処分地スポーツ施設」あり、ゴミの最終処分場だとわかったのは中学生の頃にその名前をニュースで耳にした記憶があったからでしょうか。

1973年10月から第一次埋め立てが開始され、以降2011年3月末までの第7次埋め立てを以って終了した。約40年に渡る埋め立て期間は全国最長である。埋め立てが始まった1973年当時、いずみ野線は開通しておらず住宅も殆ど無い状況で、一部の地主が所有する広大な里山と農地しかなかった。所謂、陸の孤島で土地の利用価値は非常に低く、最終処分場として好都合の場所であった。

Wikipedia、「泉区横浜市)」、「現代」)

1970年代、全国の都市部でのゴミ問題が大きくなり埋め立てから焼却への転換期の軋轢もまた大きい時代でした。

 

陸の孤島」の北西100mほどのところに新幹線が通っています。なぜ今までこの場所に気づかなかったのだろうと不思議だったのですが、実際に歩いてみてわかりました。弧を描くように通る処分場の北西部の道は尾根のように高い場所で、新幹線の通る地域へとまた斜面になっていて高い木々がありましたから、おそらく車窓からは森のように見えたのでは無いかと思います。

こんな近くを通っていたのですね。

ちなみに埋め立てられた現在もすり鉢状でだいぶ低く見えるのですが、かつてはもっと深い谷だったのでしょうか。

 

 

南万騎が原駅へ*

 

あちこち寄り道していたら日没が近くなってきました。二俣川駅までは無理そうなので、南万騎が原(みなみまきがはら)駅に向かうことにしました。最終処分場の端から駅までわずか数百メートルと思ったら、急な坂道を下り、そしてまた急な坂道を上ると車道の下をくぐって駅側に出るという高低差のある場所でした。

わずか100mほどのところを新幹線が通っているというのに、小高い場所に遮られて気配も感じません。こんな場所を通過していたのですね。

 

あと少しで南万騎が原駅というところで大きな池がありました。相鉄線所有の遊水池のようです。その向こうに少しだけ新幹線の高架橋が見えて、下りが夕陽に輝きながら通過して行きました。小高い場所のように見えるここに遊水池が必要とされるのはなぜなのでしょう。

 

いやあ、それにしてもわずか7kmほどでしたが、アップダウンの多い散歩でした。

 

そしてようやく到着した南万騎が原駅も谷の底に線路が通っているような場所で、とてもこのあたりの地形は覚えられそうにありませんね。

 

 

泉区瀬谷区

 

今回の散歩大和市から泉区瀬谷区をまたいであるきましたが、泉区瀬谷区という区名から湧水が多そう、谷が多そうというイメージでした。

 

横浜市の南西部に位置し、相模野台地と呼ばれる関東ローム層に覆われた比較的平坦な台地の一部で、区の西側を境川と和泉川が南北に流れ、北側を阿久和川、東側を宇田川(村岡川)が流れている。台地の辺縁には湧水が分布する。

Wikipedia泉区横浜市)」「地理」)

 

区域は大和市との境界である境川に沿って南北に細く5つの川が流れている。

Wikipedia瀬谷区」「地理」)

 

まさに「南北に細く流れる5つの川」が作り出した地形を歩いたようでした。

ちなみに「瀬谷」の由来は「狭い川瀬の小谷がある土地に由来」(同)もあるようです。

 

相模原(あるいは相模野)台地の辺縁部の複雑な地形を、新幹線はまっすぐ通っていることがわかりました。

 

 

 

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食べるということ 96 大和の牛肉のフォーと揚げ春巻き

小田急高座渋谷駅に12時58分につきました。

ここで「たかざ」だと思い込んでいたのですが、「こうざしぶや」と読むことに初めて気づきました。前回この駅を利用したときにはぼっとしていたのか気づきませんでした。

ちなみに古くは「たかくらぐん」とも読んだとあり、7世紀まで遡って記録があるようです。

 

さて、まずは駅前の広場に行き駅周辺地図を眺めて納得しました。小田急線と交差する100mほどの区間がトンネルになって東海道新幹線は地下を通っていました。高架橋で交差していなかったのは、境川と引地川に挟まれた尾根のような場所を小田急線が通っているからかもしれません。

この地図にも「歴史と自然のふれあいコース」「大和ゆとりの森コース」というその地域のウォーキングコースが描かれていました。いつか歩いてみたいものです。

 

まず西側のトンネル口を見て、「新幹線のトンネルの上」を歩き、東側のトンネル口も見て満足しました。100mほどなので、あの愛知用水大高トンネルのようにほんと、「あっ」というまに通過して気づきそうにないですね。

 

*散歩のスタートはランチから*

 

駅周辺は川にはさまれた尾根の上のわずかな平地という感じで、国道467号線を渡って境川方向へ向かうとすぐに下り坂になりました。

 

坂の途中の林と竹藪の中に、地図で見つけた下和田区の左馬神社とケヤキがありました。文字がかすれてしまった案内板に「屋敷林」と読めるように、このあたりはそばを新幹線が通過しているのが信じられないような昔の雰囲気がありました。

じきに境川のそばに長細く県営団地が広がる風景になり、川を渡るときに300mほど上流を新幹線が通過していきました。冬の真っ青な青空に白と青線の車体が本当に美しいですね。

 

川の反対側にも県営団地が続き、その敷地が途切れるあたりで境川左岸の段丘へと急な上り坂が見えました。

その手前を右手に入ったところにあるお店が最初の目的地です。

散歩の途中や終わりに「ランチする」のが夢ですが、今回はスタートからのランチです。

 

12月下旬、この日はプールの年内最終営業日で、まずはひと泳ぎしてそのあと散歩をする計画にしたのもお腹を空かせてこのランチを食べるためでした。

 

 

*牛肉のフォーと揚げ春巻き*

 

お店はすぐにわかったのですが、営業中かどうかよくわかりません。いつもならそれでひるんでやめてしまうところですが、今日はここが目的ですから思い切って入ってみました。

 

数人のお客さんとお店の人も混じって、宴会でもしているかのようににぎやかに食事中でした。ベトナム語だというのはわかりました。

突然の闖入者になりしばらく観察されている静けさがありましたが、どうやら営業中のようです。

 

ずーっと夢見ていた難民キャンブの屋台や難民の方々の家に呼ばれて食べたベトナム料理の味が再現される期待が高まってきました。

90年代ごろからは日本でもベトナム料理の本格的なお店が増えてベトナム料理を食べることはできるのですが、私が求めている「あの味」にはなかなか出会いません。

 

目の前に大量の生野菜が盛られた上に大きな揚げ春巻きがど〜んと運ばれてきて、次にあつあつのスープの上に生のもやしとハーブがこれまたあふれんばかりにのった牛肉のフォーが来ました。

ああ、これだ。気取ってなくて、野菜や肉がこれでもかというぐらいにのっていて、みんなでわいわいとした雰囲気で食べる料理。

 

隣りに若い男性が座りました。3世ぐらいの世代かなと思っていると、「そんなに食べられるのですか?」と普通に日本語で話しかけられました。

想像より多くてびっくりしたと答えると、笑っていました。

あまりあれこれ詮索するような会話もぶしつけかと思い、ベトナムからか尋ねるとカンボジア出身だとのこと。

インドシナ難民として定住した方の3世ぐらいでしょうか、それともそれよりあと、研修生やらのシステムで来日して働いている方でしょうか。

40年ほどのこうした国々との関係も、思えば遠くへ来たものですね。

 

日本人のこれくらいの若い世代の人だと、知らない「おばさん」になんて絶対に話しかけないでしょうけれど、なんだかこの相手との気さくな「溝のなさ」も懐かしくなったのでした。

 

ベトナム語が飛び交いカンボジアの青年がそばに座って食べていて、山盛りの料理が出てくる。これこそが本場インドシナ難民キャンプのあの味だと満足してお店を出ました。

お店を出るとそこは日本の風景だったので、一瞬、いつのどこにいるのか混乱するような感覚に陥りました。

 

 

そして団地の中を歩き始めると、同じ味のようでやはり先ほどのは「大和の本場ベトナム料理」だったのだと思い直しました。

40年ほどこの団地で暮らしながら、日本の生活に慣れていかなければいけないさまざまな葛藤のなかで変わらないようにしていった料理だったのですからね。

 

 

 

 

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あわせて「難民についてのあれこれ」のまとめもどうぞ。

 

 

散歩をする 497 高座渋谷から40年ほどの記憶の空白を感じながら歩く

昨年10月下旬にJR相模原線倉見駅から新幹線の線路沿いに歩き始めた散歩ですが、年内に武蔵小杉から倉見までの区間を歩き切りたくなりました。

多摩川から相模川のあいだですね。無謀なようですが、何回かに分ければなんとか歩けそうです。

 

小さな川でつくられた渓谷のような斜面にぎっしりと住宅が立ち並ぶ場所が何度か続き、そのあとは急に人里離れたような畑地や森林になり、しばらくすると平地に水田や工場、そして自動車道の高架橋が見えてあっという間に相模川を渡ります。のぞみに乗ると次の停車駅は名古屋ですから、目にも止まらぬはやさで風景が後方へと流れていく感じです。

 

で、いよいよ最後の区間高座渋谷から鶴ヶ峰駅のあたりまでです。

 

2019年に境川遊水池を訪ねたので境川小田急江ノ島線の沿線の風景の記憶がなんとなくありますが、高座渋谷駅倉見駅から歩いたときに途中時間切れでバスに乗って到着してそのまま小田急線に乗ったので、駅周辺を歩いたことがありません。

小田急線と東海道新幹線が交差する場所ですが、そういえば高架橋がなかったような。

曖昧な記憶が気になり、ここを散歩のスタートとすることにしました。

 

境川も新幹線の車窓から見えているはずなのに、どの川なのか記憶がありません。

よく見ると、団地が川沿いに続いています。あの1960年代ごろからコンクリートの防水堤のような役割を持った団地でしょうか。

 

 

*ここがあの定住のための最初の団地だった*

 

 

新幹線がすぐそばを通るのであればむしろ水害の心配は少ないかもしれないと思いながら地図を拡大してそのあたりを眺めていて、あっと気づきました。

 

パッと見ただけで二つもベトナム料理店があります。

 

1975年に初めて日本に難民が「上陸」して長崎の大村難民レセプションセンターに「収容」されたあと、ようやく1980年に定住のための施設がつくられたのですが、そのうちのひとつ「大和」はここだったのだ、と。

 

1980年代初めにインドシナ難民問題に関心が出て、80年代半ばにはフィリピンにあるインドシナ難民キャンプで2年間ほど働いたというのに、恥ずかしながら日本に定住した方々が住んでいる「大和」はどこなのか正確に知らないまま過ぎてしまいました。

小田急線の大和駅はもう少し北側なので、そのどこかという程度でした。

 

1980年以来、どれだけの新幹線がこの団地の間を通過していったのだろう。

日本に初めて難民として定住した方々が生活しているそばを、私自身40年ほど気づかずに何度も通過していたことに忸怩たる思いが募ってきました。

 

そういう意味でも、ここを散歩のスタートとすることにしました。

日が短い12月下旬ですから歩ききれないかもしれませんが、相鉄線二俣川駅まで相模原台地多摩丘陵を流れる小さな川がつくりだす場所を歩いてみることにしましょう。

 

40年前に定住するためにここに住んだ方は、どんな風景の変化を見てこられたのでしょうか。

 

 

 

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新幹線の車窓から見えた場所を歩いた記録のまとめはこちら

あわせて難民についてのあれこれもどうぞ。

 

生活のあれこれ 40 言い得て妙「トナラー」

最近、なんだかグイグイと近づかれることが増えたと感じています。

 

スーパーでレジを待っている間にも背中のすぐそばまで気配があるほど列の間を狭められたり、二人で使うぐらいの幅の替え台でも他の人が終わるまで待てずに間にぐいっと入られることもしばしば。

プールの更衣室もガラガラなのに、なぜかすぐ隣のロッカーを使い始める人がまたちょっと増えた感じです。

あるいは電車内に数人しかいないのに、私ともう一人の間にあえて座ってくるのはなんなのだろうと。

 

で、だいたいそういう人は物や体がぶつかっても無言なので、温厚な私(!)でもその無神経さにちょっとイライラしてしまいます。

 

少し前までは人との距離を自然とあけるようになって、大変だった未曾有の感染症の中でもこれは良い習慣になって、社会のマナーとして定着しそうと喜んだのも束の間という感じですね。

 

最近、こういう人を「トナラー」と呼ぶことを初めて知ったのですが、最近のなんでも名前をつけて分類してしまう風潮もなんなのですが、これは言い得て妙だし結構ほかの人も感じていたのだとわかりました。

 

 

まだ一応、足元のマークやロッカーも注意書きが残っているのに、まるでそれどころかコロナでさえないことになってしまったかのか、あるいは反動の開放感から来るのかと思っていました。

ところが検索すると新型コロナの最盛期とでもいうのでしょうか、その頃からすでにその話題があって定義まであったのですね。

トナラー

人のすぐ隣(となり)に位置取る人。たとえば駐車場や、電車や映画館やサウナの座席、などで、他の場所がいくらでも空いているのに、わざわざ人のすぐ隣に来る人。「トナラー」という表現はもっぱら隣に来られる側(先客)の立場から「不快、苛立つ、迷惑だ」という意味・ニュアンスを込めて用いられる。

(「weblio辞典」「実用日本語表現辞典、2021年8月17日更新」)

 

「人のそばにいると安心」とか、たしかに「距離を空けられると、なんだか避けられているようで嫌だ」と感じていた人も身近にいるので、なかなか気持ちは難しいですね。

 

「人の嫌がることをしたい」「他人のことが見えていない」という人もいるらしいので、その場合は相手を変えようとしても無理なので、そっとこちらが引くしかないですね。

 

ということで先日、さっそくガラガラの電車内で隣に座られたので、そっと移動しました。

これを「瞬間移動」というらしいですけれど。

 

この30〜40年ほど人の行動や心理についてさまざまな言説が出てくるけれど、行き過ぎた「自分は大事」「自分はすばらしい」から、他人の存在を感じていないような大人が増えた失敗を繰り返さないようにするあたりが根本的な原因ではないか、これも「失われた30年」だと漠然と感じますね。

 

 

「生活のあれこれ」まとめはこちら

新型コロナ感染拡大についての記事のまとめはこちら

 

 

水のあれこれ 347 帷子川分水路

神奈川県内の川というと多摩川鶴見川境川相模川、酒匂川そして早川と思い浮かぶ大きな川がある中で、帷子川はさてどこだろうと思われるかもしれませんね。

 

久しぶりにこの川の名前を見ると、まず読み方を忘れていました。「かたびらがわ」で、二級河川でありながらこんな重要な場所に流れ込むのかと驚いたのが、2019年に横浜水道記念館を訪ね、日本初の水道道沿いに歩いたときでした。

西横浜駅のそばを線路に並行して流れ、横浜駅のそばで海に出ます。

小さな川ですが溢れたら河口周辺の横浜中心部が大変だろうな、という印象でした。

 

 

*「もともとは蛇行の激しい暴れ川」*

 

あの時にWikipediaの「帷子川」を読んでいたのですが、今回はあの時の上星川駅より一駅しか違わないのに西谷駅の周辺を歩いて「治水」の説明がよくわかりました。

 

もともとは蛇行の激しい暴れ川で水害の多い川であったが、大戦以前は耕地の灌漑等を目的に利用されており、治水事業としては本格的な改修は行われていなかったが、水害を機に、川の直線化や護岸工事など大規模な改修が進められ、西谷から横浜駅付近に流す約7.5kmにわたる地下分水路や、鶴ヶ峰付近の帷子川親水緑道などの親水公園、川辺公園などが造られた。

 

「水害を機に」、いつのどんな水害だったのか。脚注にリンクされている「帷子川水系の紹介」(神奈川県横浜川崎治水事務所)に書かれていました。

 

昭和20年代まで帷子川は、耕地のかんがい等を目的に利用されており、治水事業として、本格的な改修は行われていませんでした。帷子川は、昭和33年の台風22号で床上浸水2,851戸、床下浸水1,803戸の大きな被害を受けたことを契機に、堤防を高くしたり、川底を低くしたり、護岸の補強等を行うことによって、本格的な河川の改修工事を行ってきました。

「昭和33年の台風22号」とはあの狩野川(かのがわ)台風のことでした。

 

*帷子川分水路*

 

新幹線の高架橋から上流に250mほどにある水門と堰は「1982年度(昭和56年度)〜1996年度(平成8年度):地下トンネルと帷子川分水路が整備される」(Wikipedia)によるものだったようで、「帷子川水系の紹介」に詳細がありました。

 

抜本的な治水対策ー帷子川分水路ー

 

流域の急速な市街化に伴い、雨水の浸透量が低下し、短時間のうちに雨水が集中して河川に流出するようになり、沿川の住宅地や商店街等は幾度となく水害に見舞われました。

しかし、治水対策を講じていくために、川を拡幅することは、沿川の密集状況からも非常に困難です。そこで、河川の途中から新たな河道を掘削して、洪水の一部を直接海に放流する「分水路」を整備することになりました。

 

分水路の名称は帷子川分水路といい、横浜市との協調事業として建設し、平成9年に完成しました。

帷子川分水路のルートは、帷子川中流部の横浜市旭区白根一丁目から地下トンネルを経て、横浜駅北側の旧派新田間川を利用し、横浜港までです。

地上からトンネルまでの深さは、最深部で約60m、平均約30mとなっています。これは、トンネルが通る丘陵地帯の標高が30mから70mと高低差があるためです。

 

あの水門は、横浜駅近くまで続くトンネルだったようです。

それでも、2004年(平成16年)の台風22号では横浜駅西口駅付近で帷子川の水が溢れて周囲が浸水したようですから、治水の対策には終わりがないですね。

 

分水路の水が流れ込むWikipediaの新田間川(あらたまがわ)を読むと、その名の通り「江戸時代に新田の開発が行われた際に、石橋川とともに用水路として整備された」と書かれています。

興味が尽きないですね。

 

新田開発の用水路が現代では治水のための分水路に使われ、安全な市街地と安全な鉄道や交通網を守っているのですから、驚異的な変化にまた気が遠くなるのでした。

 

 

*おまけ*

 

帷子川の読み方はすぐ忘れてしまうのですが、初めてこの川沿いを歩いた日のことはイートインでの消費税が10%になった日だと思い出すのですから、恨みは根深いものですね。

それでもまだ政治家の世界のカラクリや闇がよく見えていない頃でした。

 

 

 

「水のあれこれ」まとめはこちら

 

散歩をする 496 羽沢から分水嶺を越えて帷子川へ

新幹線の高架橋をくぐるといよいよ羽沢(はざわ)で、地図ではきれいな半円形の地域です。

車窓から見た記憶がある脳神経外科病院が見えました。その前に中華料理屋さんがあり、むしょうにお腹が空いてきてふらりと入ってしまいました。窓側の席に座ったところ新幹線が通過していくのが見えて、新幹線をながめながら食べることと「ランチする」という二つの夢がかないました。

 

美味しいご飯に満足して歩き始めましたが、12月下旬で日が暮れるのが早いですから先を急ぎましょう。残念ですが、羽沢地区の半円形の内側に見える鳥山川の水源のあたりを見届ける時間がなくなりました。

 

また新幹線の高架橋をくぐると、「見よ右左」と「新大阪 東京」と矢印が書かれた標識がありました。作業をする方々にとっては大事な方向なのですね、きっと。

 

*山を越えて、帷子川の流れる地域へ*

 

しばらく小高い場所を新幹線の高架橋に沿って歩くと、途中、高齢者施設があってその先でトンネルになりました。上に温室があります。そのトンネルの上のあたりを歩くと、両側が谷のようになって街があるのが見えました。北西が「西谷」駅のある地域で、南東が羽沢や保土ヶ谷でしょうか。

尾根のような場所にも住宅が建ち並んでいて、谷の反対側の斜面もぎっしりと家が建っています。

 

西谷の方向に川が見えます。そこまで急な下り坂を降りていく途中で富士山がくっきりと見えました。

小さな流れは帷子川(かたびらがわ)の支流で、まるで渓谷のような急峻な地形で川に近づくまで急な石段を降りる必要がありました。もう膝がガクガクですが、駅の方から買い物を終えて家に帰るために登っていく人とすれ違いました。

すごいですね。車窓から見えた崖っぷちに立つような住宅地では、毎日こうして上り下りしている生活なのですね。

 

ようやく谷の底のわずかな平地に出て相鉄線の踏切を渡り、商店街を抜けて帷子川に出ました。右岸側はまたすぐに崖です。

蛇行する川に沿って歩くと、また新幹線の走行音が聞こえてきました。

先ほどのトンネルから出てきた新幹線は、この先の帷子川を通過していきます。その高架橋の手前に右岸からの小さな支流が合流していましたが、ここもまた渓谷の趣です。

 

高架橋をくぐって北側へと出ると、少し開けた感じになって右手に公園が見えてきました。

田原橋公園に東屋があるので、そのベンチに腰掛けるとちょうどいい具合に新幹線の高架橋が見える場所です。その真下に赤い鳥居があるのも見えました。

しばらく何本か新幹線をながめました。E席に座ったらこの東屋とベンチを見逃さないようにしたいものです。

 

*帷子川の旧河道から放水路と水門へ*

 

田原橋公園には小さな池と水路があって、山に沿って遊歩道やベンチが整備されていました。

地図で見つけた時に、帷子川の旧河道を利用したのだろうと想像した通りです。

高架橋を超えた時に「開けた場所に出た」という感じも、このあたりがかつては帷子川が蛇行しながら広がった土地だったからかもしれません。

そんなことを考えながら相鉄線の高架橋を超えて帷子川ぞいにしばらく歩くと、地図で気になっていた堰のように幅が広く水色で描かれた場所が見えてきました。

 

周囲は遊歩道やベンチが整備されていて、北側には地図ではわからなかった大きな水門があります。

横浜治水事務所の表示はあるのですが、どのような機能があるのかはわかりませんでした。

新幹線の高架橋から上流へ250mほどのところです。

 

このあたりからまた渓谷のような場所の両岸に、家が建っています。

右岸がわを歩いていると山側へとまた公園の入り口があり、林の中の小さな流れに沿った遊歩道が鶴ヶ峰駅まで帷子川親水公園が整備されていました。

 

現在の帷子川はこの旧河道よりもかなり低い場所に流れがあるのですが、かつては一旦洪水が起きれば被害が大きかったのでしょうか。

もう少し上流まで歩いてみたかったのですが、ここで日が暮れてしまったので今回はあきらめました。

 

帷子川親水公園から鶴ヶ峰駅までは、両側がまるで要塞のようにコンクリートで固められた住宅地の間の勾配のきつい坂道を登りました。

かつては帷子川の流れがぶつかりながら渓谷へと削っていった跡かのような場所でした。

 

 

羽沢地区の鳥山川は西から東へ流れて鶴見川へと合流するのですが、わずか数百メートル西側では水の流れは帷子川へと流れこむので、あのあたりが分水嶺になるようです。

鶴見川の氾濫原から帷子川の渓谷のような流れを、一気に新幹線が通過していくのですからなんだか圧倒されますね。

 

そしておそらく1960年代は家と畑がまばらにある地域だったと思われるのに、今は山肌にぎっしりと家が立ち並ぶ風景でたくさんの人が生活をしているのですから、浦島太郎の気分になるのも仕方がないですね。

 

気になっていた新横浜駅から西谷駅のあたりまでの車窓の風景を、少しだけ歩くことができました。

 

 

*おまけ*

 

今回の散歩のもう一つの目的に、相鉄線が乗り入れているJR湘南新宿ラインに乗ってみることがありました。

 

西谷駅を出るとすぐに地下へ入り、羽沢のJR貨物ターミナルのあたりで一旦地上に出るとまた地下に入りました。

GPSも追いつかないのでだいぶ深い場所を通っているようです。生麦駅の手前で地上に出たあと鶴見駅新川崎駅など主要な駅も通過して大きく迂回しながら武蔵小杉駅まで約17分間も止まらないことも初めて知りました。

 

武蔵小杉駅の手前で新幹線の高架橋が近づき武蔵小杉駅で停車、並走する区間に入って夕闇迫る多摩川を渡って散歩が終わりました。

なんだかすごいですね。

 

 

 

「散歩をする」まとめはこちら

新幹線の車窓から見えた場所を歩いた記録はこちら

水のあれこれ 346 鳥山川沿いに水源の羽沢へ

川と関わり合いの深い「羽」の地名ですが、横浜市の羽沢(はざわ)のあたりは湾曲した地形の北側に細い水色の線が描かれています。たどると途中でいくつか川合があり、しだいに川幅が広がって最後は新横浜駅の北側を流れて鶴見川に合流しています。

ところが、MaciPhoneの地図では川の名前がありません。まずは新横浜駅から新幹線を眺めながら、この水色の線をたどることにしました。

 

横浜駅まで新横浜ラインができたので、乗ってみることにしました。日吉までは東急東横線と同じなので見慣れた風景ですが、日吉の先から地下に入ると鶴見川の下を深く潜るのか耳の閉塞感が出て、GPSも追いつかなくなりました。

横浜駅直前でGPSが追いつき、下車すると地下4階でした。

 

いつか歩いてみたいと思っていた新幹線の車窓から見える新横浜駅南側の崖線(がいせん)が目の前に見えますが、線路の反対側の鶴見川の氾濫原にできた新しい都市とはまったく違う風景です。

そして崖っぷちに立つ家が、20年ほど前に比べてだいぶ増えました。

 

 

*鳥山川からの水路*

 

横浜駅の篠原口に出ると、ホームに次々と新幹線が入ってくるのが見えます。広島行きのアナウンスが流れていました。乗ってしまいたくなるのをこらえて歩き始めました。

 

車窓からも見えていた竹藪と崖のそばに来ました。

12月下旬、真っ青な冬空に竹の緑とサワサワという音がなんとも美しい場所です。手前に小さな水路があるようです。のぞき込むときれいな水が流れ、芹のような水草が青々と生えていました。

水の流れは西から東へ向かっていますから、かつてはこのあたりに田んぼがあったのでしょうか。

 

水路を眺めながら歩くと新幹線の高架橋にはさまれた場所にずっと続いていて、その崖側の細い敷地に家や陶芸のお店やお蕎麦屋さんがありました。そばの桜の木が令和6年に伐採されることになったという案内が貼ってありました。

真上を新幹線が通過していく近さなので、走行音しか聞こえません。きっとこの街並みは車窓からも見えないことでしょう。

高架橋のところどころ途切れたところで見える反対側は、マンションやビルが立ち並んだまっすぐの区画で別世界のようです。

 

コンクリート三面張りの水路ですが、美しい水に惹きつけられながら歩いていると暗渠になり住宅地が広がりました。静かに何本も新幹線が通過していきます。おそらく新幹線が通ってしばらくして開発された地域ですね。

その先の切り通しの県道12号線を渡ると先ほどの水路が開渠になって、山に沿うように高架橋の下を反対側へとつながっています。切り通しの山の上には墓地がありました。

その先に橋があり国土交通省の「とりやま川」という表示板があり、地図ではわからなかった川名です。

 

鳥山川

神奈川県横浜市神奈川区羽沢付近に源を発し北東に流れる。横浜市港北区新横浜付近、新横浜公園東側を流れて大豆戸町鶴見川に合流する。途中で砂田川(すなだかわ)が合流する。

Wikipedia、「鳥山川」「地理」)

 

この川から新横浜駅の崖の近くまでの水路に取水されていたようです。

距離にすると新横浜駅からちょうど1kmで、新幹線があっという間に加速して過ぎてしまうあたりでしょうか。

 

*鳥山川沿いに羽沢へ*

 

先ほどの橋は砂田橋で、県道13号と新横浜通りが合流して大きな鳥山東交差点があります。その先にこの鳥山川に西の鴨居町の方からもう一本川が合流するのが砂田川でしょうか。

「砂田」、どんな経緯でつけられた川の名前でしょう。

水がどんどん染み込んでしまう地質だったのでしょうか。

 

この交差点から鳥山川本流に沿って羽沢まで歩くために、いったん新横浜通りへ曲がり新幹線の線路から離れました。

途中の「山王森公園」へと急な上り坂を下を向いて歩くと、そこからは道路の反対側のなだらかな斜面にぎっしりと家が立ち並ぶ様子が見えました。

こちら側は県営団地の小高い場所のゆったりとした敷地で、てっぺんにすり鉢状に公園が造られています。

この山裾に沿って鳥山川が流れていて、そこへ降りる石段がありました。

目の前をまた新幹線が通過していきます。次に乗ったら、この石段を見逃さないようにしたいものです。

 

膝がガクガクする勾配の石段を降りて、鳥山川沿いに出ました。

水音と時々新幹線の走行音が聞こえるのどかな川沿いの道を歩くと、しだいに左手は崖のように高くなり、その間を蛇行しながら流れる場所になりました。

右手は平地で住宅が建ち、その向こうに新幹線が通過していきます。

尾根のような斜面に家が立ち並ぶ風景に圧倒されていましたが、その裾野にはこんな急な流れがあってそのそばを安全に新幹線が通っていたことに初めて思い至りました。

 

このあたりまでくると新幹線も相当加速されるのか、そばでは通過する速さを目で追えないくらいです。

 

蛇行した鳥山川に沿って高架橋の下を反対側に出ると「八反橋」があり、その先に新幹線の高架橋のさらに上を県道13号の高架橋が交差する、近未来的な場所がありました。

「八反橋」、どんな名前の由来や歴史があるのだろうと思いながら歩いていると、いつも車窓から見て気になっていた建物が見えました。

 

日本味噌株式会社というのですね。1885年(明治18)創業だそうですが、ここに工場ができたのが1961年(昭和36)のようですから、目の前の新幹線の高架橋ができ始めていたころでしょうか。

 

ようやくそばを歩くことができたと満足しながら、鳥山川に沿って歩くとJRの羽沢貨物ターミナルの敷地が見えてきました。

三枚町の交差点の手前で鳥山川は暗渠になり、親水公園がありました。

 

その先に新幹線の高架橋、相鉄線の高架橋、そして県道13号と入り乱れた交差点があり、いよいよ反対側が羽沢です。

新幹線高架橋の真下に赤い小さな鳥居がありましたが、これはさすがに車窓からは見えない風景ですね。

 

新横浜から鳥山川に沿って歩き、いよいよその水源の羽沢に入りました。

 

 

 

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散歩をする 495 多摩丘陵のへりの羽とか谷とか峰を歩く

都内から神奈県の鶴見川まで、新幹線の車窓から見えた場所をだいぶ歩きました。

 

次はいつか神奈川県内の新幹線沿いを制覇しようと目論んでいるのですが、西部にはトンネルばかりの難所がありますからね。どうなることでしょう。

 

 

*羽沢はどんな場所なのだろう*

 

今回歩いてみようという場所が気になったのは、2019年に「タモリ倶楽部」で、相鉄線がJR乗り入れを可能したのは羽沢駅に貨物ターミナルがあるからということを知ったのがきっかけでした。

地図で見ると、たしかにその近くに小さな川が西から東へと緩やかに蛇行している場所に羽のような場所がありました。一見、水とは無関係そうな「羽」という漢字に川沿いに出っ張った地域を表すという意味があることを知ってから、「羽」がつく地名には惹きつけられています。

 

新幹線の北側に見える羽のような場所はどんなところでしょう。

羽沢(はざわ)から新幹線と相鉄線が交差する西谷駅までは、地図では少し小高い場所を歩くように見えます。

そして帷子川(かたびらがわ)に沿ってほそながく西谷の街が続き、西谷駅の北側には帷子川の旧河道らしき場所と堰のような場所が描かれています。

 

そして帷子川の右岸側はまた小高くなっているようで、そこに相鉄線鶴ヶ峰駅があります。

新幹線の車窓から見えたあのあたりかなと想像したのですが、自信はありません。

一瞬で過ぎますからね。

 

 

おおよその地形の凹凸は想像できましたが、そこは地理や地形ではなんと表現するのでしょうか。

ジオテック株式会社の「神奈川県の地形・地盤」を見ると、多摩丘陵の南に境川の平地がぐいっと食い込んだような場所の台地のへりのような場所でしょうか。

 

 

とりあえず歩けそうな場所から攻めていくことにしようと、12月中旬に出かけました。

昨年の散歩の記録が4ヶ月遅れになり、今年1月から3月までの遠出の記録がどんどんと溜まっていますから、こちらも急がなければ。

 

 

 

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